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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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トークイベント「行ってみたあれからのヨーロッパ」森優子 に参加

11月25日は自分主催のトークイベントだったが、
11月26日は下北沢のダーウィンルームで行われた
森優子さんのトークイベントに行く。
今年の夏、大学生の娘さんと欧州を旅して感じた、
“いまの”欧州の空気を伝えるというものだ。

国民や人によって、EUや難民問題に関しての考え方の違いがある。
森さんの絶妙の話術で、3時間という長丁場だったが、
飽きることなく、興味を持って聞くことができた。
同じトークイベントでも、森さんらしくきっちり作り込んであって、
前夜の準備の苦労がしのばれる。

受験生の息子を「勉強だから」と連れて行く。
一昨年、自分が行った国も含まれているので、
興味を持って見ていたようだが、役に立つか
どうかわかるのは10年後ぐらいだろうな(笑)

ダーウィンルームも満席の盛況。
ただ、おとといの自分主催のトークイベントと比べて、
あきらかに客層が違っていて面白かった(笑)
 森さん、お疲れ様でした!
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# by mahaera | 2016-11-30 15:55 | 仕事のはなし | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史 〜アメリカの暗躍と第三世界の結集(1951〜1955年)

軍人が大統領になるってどんなことだろう。
この時代、アメリカではもと将軍のアイゼンハワーが大統領になったが、軍隊の文民統制ができていたのかと思うと、微妙だ。
アイゼンハワーの次も、軍人出身大統領が生まれていたら、
アメリカは軍国主義に突き進んだのだろうか。
そうなれば、現在、私たちはきっとこの世にいないだろう。
(核戦争が起きて、人類の大半は滅んでいたはずだから)

1953年、スターリンの死で、ソ連はフルシチョフを中心とする
集団指導体制となった。
この指導者達は、すぐにではないが、
徐々にそれまでの西側社会と対立する姿勢を和らげていく。
いわゆる「雪どけ」だ。
しかし、アイゼンハワー政権はこれをソ連の「弱さ」とみなし、
より強硬的な姿勢を強めていく。これが「封じ込め政策」だ。
当時のアメリカの国務長官はダレスで、強力な反共主義者だった。
戦争をチラつかせながら押し通すその方針は、
しばしば「瀬戸際外交」と呼ばれた。

1953年7月 朝鮮戦争が休戦

1954年7月 ジュネーヴ休戦協定が成立し、
  フランスはベトナムから去る
  東南アジア条約機構結成(反共軍事同盟で米英仏にオーストラリ ア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンが参加)
 警察予備隊が、自衛隊になる

1955年 中東条約機構(バグダード条約機構)結成。
    中東諸国を中心とした反共同盟だ
この年、オーストリアが永世中立国として独立。
  ジュネーヴで米英仏ソの代表が集まり、巨頭会談が開かれる。
 アジア=アフリカ会議(バンドン会議)開催

こうした中も、アメリカの核配備は続いていた。
核兵器の海外配備を進めていったのだ。
グアム、沖縄、欧州、、。
1958年までには3000発の核兵器が欧州に配備された。
アイゼンハワー就任時は1000発程度だった核兵器は、退任時には2万2000発まで増えていた。

他の国の情勢を見てみよう。
1948年の第一次中東戦争の結果、イスラエルが独立し、
パレスチナ難民問題が生じていた。
アメリカがイスラエルを援助した結果、
近隣のアラブ諸国はソ連寄りになっていった。
1951年にはエジプト=イギリス同盟が破棄され、
イギリスはスエズ運河から撤退。
国王はイギリスの後ろ盾を失い、ナセルを中心とした軍人達によって1952年に王政が打倒され、エジプト革命が起きる。

この時期、イランで危機が起きる。
産油国イランの石油は、アングロ=イラニアンという英国の会社が収入の84%をとっていた。
中東全体の石油の40%を算出するイラン。
その莫大な利益から来る税金はイギリスに収めていたので、
イランの人々から石油産業の国有化の要求が高まり、
イランで人気があった首相モサデグはそれをイギリスに突きつけた。

戦後、イギリスの労働党政権は、自国の石炭や電力などのエネルギー関連会社を国有化したばかりだった。
しかしその後の1951年、イギリスは政権交代で植民地政策に強硬なチャーチルが返り咲き、軍事活動も辞さない態度をとった。
当初、この地域が不安定になることを恐れたアメリカのトルーマン政権は(イランはソ連と国境を接しているのだ)、
イギリスに譲歩を進めた。

しかしイギリスはイランを海上封鎖し、
石油メジャーは各国に「イランの石油を買うな」と圧力をかける。
タンカーが来たら、イギリス海軍が撃沈するというのだ。
イランは窮地に陥ったが、そこにタンカーを送ったのが、
日本の出光興産だった。
1953年、日章丸は浅瀬や機雷を突破し、日本に石油を持ちかえった。
これが「日章丸事件」だ(「海賊と呼ばれた男」のモデル)。
日本政府はイギリスの圧力を受けたが、アメリカの黙認(イギリスの石油独占を阻止するいい機会だった)、世論の支持もあり、アングロ=イラニアンは提訴を取り下げ、出光は裁判に勝利した。

しかしアメリカは、イランにソ連の影響が及ぶことを恐れた(モサデグ首相は共産主義者ではなかったが)。
そこで日章丸事件のあと、CIAの工作員が豊富な資金で
軍人にクーデターを起こさせる。
モサデグは逮捕され、獄死。
追放されていたパフレビー国王が戻り、アメリカの傀儡政権が誕生し、イギリスが持っていた石油権益をアメリカに譲り渡す。

イランでのCIAの工作が成功したアメリカが、
次に狙いを定めたのはグアテマラだった。
1950年、独裁政権から国民に人気のあるグスマン政権に代わる。
グスマンは国民の支持を背景に、国土の1/5を所有している
アメリカのフルーツ会社の土地を接収し、貧農に分配する
という社会改革を取ろうとする。
グスマンも共産主義者ではなかったが、
「将来、ソ連に接近する可能性がある」として、
1954年6月にCIAが訓練した傭兵がニカラグアやホンジュラスから侵攻、アメリカ空軍もそれを支援した。
グスマン政権の代わりにアメリカの傀儡政権が樹立される。
フルーツ会社の権益の代わりにファシズム的な政治が
その後30年続き、その間、10万人以上の国民が殺された。
このクーデター時にグアテマラシティにいたチェ・ゲバラは、
グスマン政権が倒れるのを目の前で見て、「革命を守るためには武力が必要」と思い知ったという。

ベトナムでは、フランス軍の軍事費の8割を負担していたアメリカだが、1954年5月ディエン・ビエンフーでフランス軍が敗北する。
そのあとのジュネーヴ休戦協定で、1956年7月に南北統一選挙が行われることになったが、アメリカは当然守るつもりはなかった。
アイゼンハワー大統領が専門家に聞いたところ、
「国民の80%がホーチミンを選ぶ」と答えたからだ。

1955年、アメリカの後押しで南ベトナムでは、
人気のないバオ・ダイ皇帝に代わり、ゴ・ディン・ジエムが大統領の座に就く(得票率98%だが不正選挙だった)。
ジエムは、「反共産主義」を売りにしていたが、
実際は単なる独裁者だった。
ジエムは政権につくと自分に反対する者を弾圧し、
数千人を虐殺した。

1954年2月末には、アメリカは広島原爆の1000倍の破壊力を持つ
という水素爆弾の実験をマーシャル諸島で行う。
このとき、日本の漁船である第五福竜丸が死の灰を浴び、
汚染されたマグロと共に帰国。
操業していたのはアメリカが指定した危険海域の外だったが、
爆発が予測の2倍の規模だったことや、
風向きが変わったことで被害は広範囲に上った。
死の灰を浴びた乗組員たちは次々に倒れ、
久保山愛吉さんが亡くなった。
汚染マグロは大量廃棄され、築地市場では場内の地中に埋められた。
この事件は世界中にショックを与え、
とくに日本で大規模な反核運動が起きた。
11月には映画『ゴジラ』も公開される。
今の私たちには想像がつきにくいが、
反核運動が高まっていた時期に製作されたのだ。
日本の反核運動が「反米運動」になることを恐れたアメリカは、以降は「原子力の平和利用キャンペーン」に多額の資金をつぎ込んだ。

ソ連の「平和共存路線」にアメリカは応じなかったが、
その影響は独立したばかりの第三世界のアジア・アフリカ諸国に
結束を促す。
米ソの対立にまきこまれずに、別の道を探すのだ。
1954年、インドのネルーらの呼びかけで、
南アジア5か国はコロンボに集まり、「インドシナ休戦、水爆実験禁止、民族自決、中国の国連加盟支持」を訴える。
6月、周恩来=ネルー会談が行われ、
「領土主権の相互尊重・対外不侵略・内政不干渉・平等互恵・平和的共存」の「平和五原則」を発表。
この流れは、1955年にインドネシアのバンドンに29か国が集まった「アジア=アフリカ会議(バンドン会議)」でピークに達する。
参加者にはネルー首相、周恩来首相、ナセル大統領、
スカルノ大統領、ホーチミン、ガーナのエンクルマという世界史を作った錚々たる顔ぶれで、「平和十原則」を発表。

米ソの超大国の争いに対抗するこの運動の流れは、
1960年代初めまで続く。

つづく
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# by mahaera | 2016-11-29 12:00 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

◆松岡宏大×前原利行 トークイベント◆たびカフェ 「みんなが買わないインドのすばらしいモノ」終了!

11/23金に吉祥寺クワランカカフェで行いました
◆松岡宏大×前原利行 トークイベント◆たびカフェKICHIJOJI Vol.4
「みんなが買わないインドのすばらしいモノ」

おかげさまで、大盛況で終了しました。
まさか満席になるとは思いませんでした。
来ていただいた方に、この場を借りてお礼を申し上げます。

編集・ライターの松岡さん、前から知ってはいたものの、
こんな感じで関わることになるとは(笑) 

持ってきたいただいたものは、誠文堂新光社の「日米会話手帳」、
コルカタのリクシャーのベル、デリーで見つけた木彫りの箱、
ダッカのリクシャーアート、植民地時代の貯金箱などなど。

モノから見えてくる、当時の文化や時代背景、人々の考え方、
いろいろな考察ができて、僕も非常に面白かったです。
わざと打ち合わせしなかったので、素直に突っ込むことができました(笑)

お客さんの反応もよく、助かりました!

 次回は、未定ですが、12/24じゃ来ないですよね(笑) また告知しますね! 
 来ていただいた方、本当にありがとうございました!
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# by mahaera | 2016-11-28 16:28 | 仕事のはなし | Trackback | Comments(0)

最新映画レビュー『聖の青春』 真面目に丁寧に描いてるが、心には響かず

聖の青春

2016年/日本
監督:森義隆
出演:松山ケンイチ、東出昌太、リリーフランキー、染谷将太、竹下景子
配給:KADOKAWA
公開:11月19日より全国で公開中



テレビをあまり見ないので知らないが、公開前にずいぶんと松山ケンイチがテレビに出ていて、この役のために体型を変えた話をしていたらしい。日本のクリスチャン・ベールか。

さて、映画は若くして亡くなった天才棋士・村山聖の最後の数年を追ったもの。
幼少より深刻な持病があった主人公・聖は、自分の未来があまり長くないことを知っており、すべてを将棋に打ち込んだ。軸となるのは、名人・羽生との対局だ。
ぶくっと太って、将棋以外の趣味は麻雀と少女漫画。
吉野家の牛丼を愛する、イケてない青年・聖に対し、名人・羽生はスマートさが漂い、しかもアイドルと結婚もする。
聖にとって羽生は倒さなければならない相手だが、同時に憧れの存在でもあり、屈折した愛の対象かもしれない。
「将棋」を除けば、すべてが聖と対照的だし、共通するものはない。もし、聖に持病がなければ、「こうなりたい」と思う相手かもしれないし、聖が諦めざるをえなかった「人間としての幸せ」もすべて羽生は持っている。
つまり聖が将棋の達人でなければ、そんな羽生と出会うこともなかったろう。
とはいえ、聖が羽生に対する気持ちは、憎しみや妬みにはいかず、むしろ自分が見ているものを相手も見ているという同志としての連帯感、さらにプラトニックな愛情も感じさせる。
ただ、映画は実話を丁寧になぞろうとしたのか、なんとなく中途半端な出来で、いろいろなエピソードがとくにうまく噛み合っているわけではない。

後半に差し掛かったところで、聖と羽生が宴会を抜け出してふたりで酒を飲むシーンが映画としては重要で、だからこそラストの対局につながるはずなんだが、あまり効果的に繋がっていない。
いいシーンなんだが、セリフに頼りすぎかな。

事実と違っても、映画として何かテーマを伝えたいのなら、エピソードを語る以上の仕掛けが欲しかったな。
将棋の対局を見せるのは、映像的にはどうしても地味なのだから。

その点、やはり地味だったが、チェスの対局をクライマックスにしたエドワード・ズウィック監督の『完全なるチェックメイト』は、よくできていたと思う。
似た者同士の対決でも、セリフで彼らがどんな性格なんて説明してなかったしね。
★★
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# by mahaera | 2016-11-27 10:31 | 映画のはなし | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・冷戦の時代 〜スターリンの死とマッカーシズム(1950〜1954年)

子供に教えている世界史・冷戦の時代
〜スターリンの死とマッカーシズム(1950〜1954年)

1953年3月5日、ついにスターリンが死んだ。

国内では大粛清、海外では人命を無視した人海戦術と、多大な人間の犠牲を払った“ヒトラーをしのぐ20世紀最大の極悪人”との評価もあるが、生まれたばかりの共産国家を存続させ、
世界の超大国にのしあげた功績もある。
非常に猜疑心の強い人で、
晩年にはそれは病的なほどになった。

3月1日、スターリンは幹部のペリヤやフルシチョフらと打ち合わせをしたあと寝室に戻り、そこで脳卒中で倒れた。
翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンが現れなかったが、
周りは眠りを妨げられたとスターリンが怒ることを怖れたため、倒れているスターリンが発見されたのは午後になった。
幹部たちが呼ばれたが、医者も呼ばずに寝かせるだけど、
みな適切な処置をとることはしなかった。
というのも、スターリンはそれまで幹部たちを何度も粛清しており、また次の粛清が噂されていたので、誰もがスターリンはこのまま死んでくれる方がいいと内心思っていたのだ。

第17回党大会に出席した中央委員140人中、
生き残れたのはたった15人。
ロシア革命の古参の革命家や優勝な将軍たちは、
彼の時代にほぼ全員粛清されていた。
また、粛清を実行したNKVD(公安、のちのKGB)も例外ではなかった。
トップが代わると、NKVDでさえ、
前任者やその息がかかったものは軒並み粛清された。
粛清で死んだソ連人はおよそ300万人。
また、強制移住や政策の失敗による飢饉で
1000万人ほどが死んだ。

スターリンにより「共産主義=個人独裁ファシズム」という
悪しき前例が確立し、またそれが「粛清」を生み、
「共産主義」を恐れる人々が増えたことは確かだ。
とはいえ、スターリンがいなければ
ソ連はドイツに降伏していたろう。
そうなれば連合国はドイツに勝つこともなかったろう。

スターリンの死により、ソ連のトップはそれまでの個人独裁体制から集団指導制へ変わる。
共産党の代表がフルシチョフ第一書記長、官僚組織の代表がマレンコフ首相、軍人の代表がブルガーニン。
この三人がソ連を切り盛りする、
いわゆる「トロイカ体制」に移行する。
これがその後、「雪どけ」を生む。

一方、アメリカでは大統領はトルーマンから、
第二次世界大戦の英雄アイゼンハワーに変わっていた。
20年ぶりの共和党政権で、しかも久しぶりの軍人出身の大統領で、第二次世界大戦の勝利から国全体に軍人を盛り上げる動きもあったのだろう(ジョン・ウエインが活躍するような戦争映画もたくさん作られた)。
アイゼンハワーは、トルーマンの「封じ込め」政策が甘いとし、いわゆる「巻返し」政策を取り、冷戦は続行されていく。

戦後のアメリカは空前の景気で、世界一、豊かな国だった。
アメリカの繁栄は、大衆消費社会によって支えられていた。
戦争によって抑えられていた消費支出の拡大、
ベビーブームによる人口増加、新しい技術による新製品‥。
世界中の投資が集まり、その集まった金をIMFや世界銀行の設置などでドルを世界中にばらまき、
自由貿易世界は一気に広がっていた。

一方、戦後一気に下がった軍事予算だが、
そのマネーをバックに次第に上がり、
1950年に朝鮮戦争が始まると、
戦時の7割にまで増額されている。
軍需産業は国内でトップランクの産業になっていたのだ。
政府は「通常兵力を増やすよりも核武装の方が安上がり」という、軍部と軍需産業体の意見を聞き入れ、
戦術核やミサイルを発注する。

冷戦が確実となった1947年、アメリカでは労働組合活動を制限するタフト=ハーレー法が制定される。
つまりストライキを取り締まる法律だ。
ルーズベルトの政策(ニューディール)を受け継いだトルーマンは拒否権を発動したが、好景気に支えられた議会が2/3以上の賛成をし、押し切られてしまう。
豊かになった中産市民は保守化し、
もはや労働者に連帯を感じなくなっていった。
同年、アメリカ中央情報局(CIA)とペンタゴン(国防総省)も設置。
「国家安全保障会議」が設置され、安全保障は大統領・副大統領・国務長官・国防長官(ここまでは政府)に、統合参謀本部議長(軍人のトップ)とCIA長官が顧問として加わるというシステムができる。
同じ1947年、アメリカはアメリカ大陸を“共産主義から守るため”、「リオ協定」で反共軍事同盟を結成。
これが翌1948年の「米州機構(OAS)」に。
しかし、のちにラテンアメリカ諸国のいくつかはアメリカに反旗を翻す。

アメリカ国内では1947年から非米活動委員会が設置され、「赤狩り」が活発化した。
戦後まもなくは、ソ連のイメージは同盟国として良かったにもかかわらず、このころから一気に「共産党=ソ連=反米」となり、多くの共産党員が社会から追放された。
赤狩りはハリウッドにも及び、議会への召喚や証言を拒否した10人の映画関係者は、業界から追放された(ハリウッド・テン)。
その中には僕が何度も取り上げている脚本家のダルトン・トランボもいる。
ハリウッドの中には進んで“共産主義者”たちを告発する俳優(ロナルド・レーガン、ジョン・ウエイン)、仲間を裏切り告発する回った側(監督のエリア・カザン、ウォルト・ディズニー)、赤狩りに反対運動を続ける俳優(ハンフリー・ボガード、グレゴリー・ペック、カーク・ダグラス)に分かれ、それぞれに深い傷跡を残した。
「ユダヤ人に共産主義者が多い」というイメージから、ユダヤ人差別も横行した。
ハリウッドのスタジオのトップの多くはユダヤ人だったため、身の潔白を証明するためにも、赤狩りに協力を強いられた。
チャップリンも“容共的”とアメリカから追放される。
『殺人狂時代』で戦争を批判したことが原因という。
(ちなみにチャップリンはイギリス人)

この赤狩りのピークが、「マッカーシズム」だ。
1950年、共和党の上院議員のマッカーシーが、
「国務省(日本で言えば外務省)にいる205人の共産主義者のリストを持っている」と発表。
当時、次々とソ連のスパイが検挙されていたたため(ローゼンバーグ事件など)、マッカーシーのアジテーションは国民の多くの支持を集めた。
そのリストの人数はコロコロ変わったが、
密告が横行し自白が強要され、アメリカ社会は分断した。
マッカーシーの真の目的は、共産党員やスパイの排除ではなく、国内のリベラル派の排除だった。
それを危惧する共和党員もいたが、彼の人気に乗って選挙で共和党が勝ち、アイゼンハワーが大統領に選ばれたので、
誰もマッカーシーを止めることができなかった。
FBIのフーバー長官も強烈な反共主義者で、
多くの人々(議員や大統領まで)の個人情報を握り、
反対する者にはそれをちらつかせた。
アメリカの共産党運動は壊滅し、この時期リベラルは衰退。
「反米」的とみなされた人は共産党員に限らず、公民権運動家、同性愛者も同樣とみなされた。

1949年のソ連の核実験を受け、
アメリカ人はソ連の核攻撃に怯えるようになっていった。
それに対抗するため戦術核の数を増やしていって、
1950年代半ばに備蓄数を300発まで増やしていった。
空軍では、東京大空襲の指揮をとった悪名高いカーチス・ルメイ将軍(戦後、佐藤内閣から勲章ももらっている)がトップになり、「ソ連と戦争が始まれば、70都市に133発の原爆を落とし、270万人を殺す」計画を立てていた。

1952年、アメリカは初の水素爆弾の実験を
マーシャル諸島で行う。
しかし、このアメリカの優位も1953年8月にソ連が
カザフスタンで水素爆弾を爆発させてすぐに取り返される。
アイゼンハワーは大統領になると、
次第に核保有を支持するようになった。
つまり核を通常兵器として使用するということだ。
朝鮮戦争でも、再び核の使用が検討された。
アメリカは軍国主義の道を歩みつつあったのだ。
1950年代、アメリカはイギリスから帝国主義を引き継ぎ、
「アメリカ帝国」を築く。
それには、まず国民に恐怖心を与え、
多様な価値観を排除することが必要だった。
ナチスドイツだって国民に経済的繁栄をもたらし、
支持されていた。他国民やマイノリティの犠牲の上に。

荒れ狂ったマッカーシズムだが、
1953年からスパイ探しの追求先を陸軍に向けたことから、1954年にその反撃(聴問会)を受ける。
マッカーシーは人間そのものにも問題があり、
政治家としても小物で、今までそれを利用していた政府や軍部にもお荷物になってきた。
またジャーナリストのマローによる、
マッカーシーに異議を唱えるCBSドキュメントの放映もあり、支持率は急落していった。
ヒステリックになっていた国民も、
それが何年も続けば冷めていく。
行き過ぎた魔女狩りは、自浄作用によりいったん収まるが、
冷戦は激しくなっていった。
(冷戦終了後、公表されたKGBの資料により、実際に政府の中枢部にソ連のスパイがいたことは明らかになっている)
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# by mahaera | 2016-11-25 09:41 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

松岡宏大×前原利行トークイベント 「みんなが買わないインドのすばらしいモノ」

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松岡宏大×前原利行トークイベント
「みんなが買わないインドのすばらしいモノ」 たびカフェKichijoji

いよいよ数日後に迫ってきたトークイベント。
インド好きな人、インドは何度も行っている人、インドには特に興味ない人もいらっしゃい!
観光名所の話ではなく、「こんなもの価値があるのか!」と突っ込んでください(笑)
「地球の歩き方Arucoインド」「地球の歩き方バングラデシュ」などを担当している編集者の松岡くんが、旅先で集めたお宝を披露。僕も見たことがないので、楽しみです。

11.25現在、満席になりました。ありがとうございました


 吉祥寺の井の頭公園近くという場所で、その道の達人による海外を歩いた生の情報やエピソードが聞けるトークイベント「たびカフェ」。ご近所にお茶を飲みに来る感覚で来ていただき、気軽なトークに加わっていただければ幸いです。
 第4回目は「みんなが買わないインドのすばらしいモノ」。
長年、ガイドブックを中心に、世界各地を旅しているライター・編集者の松岡宏大さんをメインスピーカーにお呼びします。インドやバングラデシュでは会いますが、日本で会うことはまれな彼。そのたびに彼がその旅で手に入れた「お宝」を見せられるのですが、それが「ふつうコレ買ってこないだろ」というツッコミ甲斐がある品々。だって古代の土器やリクシャーアート、サドゥのバッグですからね(笑)。
 今回はそんなアンティークな品々を見ながら、モノから透けて見えてくるインドの文化や暮らしを語ります。話を聞いたあと「もしかしたらコレはすごく価値のあるモノなのでないか」と勘違いしてくれたら(?)、幸いです。
 ぜひ、遊びに来て下さい!

●松岡宏大(編集者・カメラマン )
1990年代から旅行関連の雑誌・書籍などで活動。『地球の歩き方』では、南アジア、アフリカ、中東など、みんながあまり行かないエリアの取材・編集を担当。とはいえ一番得意とするフィールドはインド。気がつけば25年の付き合いとなる。
近著に『持ち帰りたいインド』(誠文堂新光社、2016年5月発行)がある。

●前原利行(旅行ライター)
旅行会社勤務後、旅行ライターに転身。現在は「地球の歩き方」シリーズなどのガイドブックや、紀行文などのライティングや編集に関わっている。

■日時:11月25日(金)19:30~21:00(開場19:00)
■参加費:チャージ1000円+ドリンク代(600円)
■会場:クワランカ・カフェ(吉祥寺)
■申込:着席定員は25名です。※定員になり次第締め切らせていただきます。
お席を確保いたしますので、事前の予約をおすすめします(多数の場合は先着順になります)。e-mailで、お申し込みください。その際、参加人数と連絡先を明記ください。またこのFB欄でも受け付けますが、その際は念のため、「参加します!」という書き込みもいただけると安心です。
    e-mail :mahaera@hotmail.com    
■会場問合せ先:クワランカ・カフェ(月、木曜定休)
      TEL 080-5658-3476  http://qwalunca.com/
      東京都武蔵野市吉祥寺南町1丁目8-11 弥生ビル3F 
■主催:クワランカ・カフェ/前原利行
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# by mahaera | 2016-11-25 06:09 | 仕事のはなし | Trackback | Comments(0)

2016.11.23渋谷NOBのライブ終了

昨日の渋谷NOBでのライブ。
メインバンドの「四つ巴」のオープニングアクトということで、
25分のライブだったが、結構楽しかった。
いや、ホントはリハが直前2時間しかなかったので、
ライブが近づいてくると大失敗をしないかと、かなりU2な感じだった。
メンバーも半分は、当日の朝、初めましてって感じだし(笑)

「もし〇〇がダメだったら」と何通りも考えたけど、
まあ、だったらちゃんとリハしろよってことだけど、
そもそもリハが出来るくらいなら、別なことやったしね。

初のクリックに合わせてのバンド演奏だけど、
ドラムの大西さんがうまいので、ほっとする。本人はハラハラしてたかもしれないけれど。
松永くんも事前の仕込みからありがとう。
で、機会を設けてくれた斉藤さんと店長の小林涼さんにも感謝。
30年前から知っているけれど、一緒に演奏するのは、ほぼ初めてだったし。

そろそろユニット名決めなきゃ。
残念ながら写真撮るの忘れていた(笑)
次は12/11(日)に小田急相模原のBar "R.A.B."です。
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# by mahaera | 2016-11-24 14:40 | ぼくの音楽・バンド活動 | Trackback | Comments(0)