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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

mahaera.exblog.jp

最新映画レビュー 『みかんの丘』 アブハジア紛争中、辺境の村にも戦争の波が押し寄せる

みかんの丘

Mandarinebi

2013年/エストニア、ジョージア


監督:ザザ・ウルシャゼ

出演:レムビット・ウルフサク、ギオルギ・ナカシゼ

配給:ハーク

公開:917日より岩波ホールにて(同時公開『とうもろこしの島』)

公式HPwww.iwanami-hall.com/contents/next/about.html


アブハジア紛争の中、辺境の村に残った老いたエストニア人

傷ついた敵同士がその家で暮らすうち、心を通わすようになるが…


●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部にあるアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。そして戦場から遠く離れた山地の小さな集落にも、戦火が迫りつつあった。移住したエストニア人たちが暮らしていたこのみかん農園が広がる集落だが、紛争のため住民の多くは帰国し、残ったのは二人の老人、イヴォとマルガスだけだった。

マルガスは実ったみかんの収穫が気になるが、イヴォはどこか上の空だ。ある日、彼らの家の前で戦闘が起き、イヴォは生き残った2人の兵士を自宅で介抱する。ひとりはアブハジアを支援するためにやってきたチェチェン人の傭兵アハメド、もうひとりはジョージアの若い兵士ニカだ。二人は快方に向かい、互いに相手への憎しみを抱きつつも、恩人のイヴォの家では決して殺し合わないことを約束した。しかし数日後、そこにアブハジアを支援するロシアの小隊がやってきた。


●レヴュー

仕事柄、ジョージアやアブハジアについては、知っている方かもしれないが、映画を見て原稿を書こうと調べ出すと、知らなかったことばかりだった。

まず、本作の主人公とも言えるイヴォはエストニア人だ。

バルト三国の一つとして知られるエストニアの人間がなぜアブハジアに?というところから始まるが、19世紀末から20世紀初頭に、エストニア人がバルト海沿岸から移住してきたという歴史があることに驚いた。

それもロシアがアブハジアを征服した際、イスラム教徒のアブハズ人たちの半数近くがオスマン朝に移住を余儀なくされ、その結果、ロシア帝国内の様々な民族が移り住むことになったという。

アブハズ人はジョージアの中では少数民族だが、その中にさらに少数民族が住んでいたのだ。


また、なぜチェチェン人のアハメドが義勇軍としてアブハジア側で戦っているかというと、アブハズ人はもともと北カフカス系の民族で、イスラム教徒が多かった(のちにキリスト教徒に転向したものもいたが)。

ということで、イスラム教徒が多数であるチェチェン人が義勇軍としてくるのだが、映画を見ると、実際にはロシアとの戦いで実戦を積んだ傭兵としてのスカウトされたようだ。


少数民族の中の少数民族であるアフハジアのエストニア人からすれば、今回の紛争に対しては冷ややかな目で見るしかなかったのかもしれない。

それに幾多の政変や戦争を見てきた老人にとってそれは一時的なものだが、大地の実りは毎年やってくるものなのだ。

そして戦争は、いつでも若者が死ぬことで続けられる

老人からすれば子供か孫のような兵士たちが、家の前で撃ち合い、死んでいく。

勝ち負けなどなんの意味もない。

将来があったはずの人間が無駄に死んでいくだけだ


怪我の治療を受けるうち、最初は横暴な振る舞いをしていたチェチェン人のアハメドだが、自分を助けてくれた老人シヴォに恩義を感じ、故郷にいる家族を養うために傭兵になっていることを告げる。

一方、ジョージア人の若者ニカは、劇団で役者を目指していたが、志願してここにやってきたことを告げる。

戦争が終わったら、また舞台に立ちたいという。

最初は共に憎しみを感じ、老人イヴォのために嫌々協力していた二人だが、イヴォの家で過ごすうち、お互いがそれぞれ家族もいる血の通った人間であることに気づいていく。


この町からも戦場からも離れた人がいない集落というのが、戦争という生々しい現実の中にありながら、次第に話が寓話的色彩を帯びていくのだが、僕はそこに小学生の頃に読んだ手塚治虫の反戦短編マンガや、小川未明の童話「野ばら」を思い出した。

国境に配置された老人と若者の兵士の話を覚えているだろうか。

映画は最後に大きな転換点を迎える。

「野ばら」と違って、戦争はこの地にもやってきたのだ。

それもあっという間に。

映画が終わった時、生き残ったものも、死んだものも、

いっとき幸せでいられた瞬間があったことを思い出す。

大義だろう、自己防衛だろう、自由だろう、いろいろあるだろうが、死んでいく人たちにも、それぞれの家族があり、人生がある、私たちと同じ人間であることを忘れてはいけない。

これは世界の「辺境」での物語だが、それは世界のどこにでも起きる(起きた)話なのだ。

★★★☆前原利行


■関連情報

2013年ワルシャワ国際映画祭最優秀監督賞、観客賞

2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート


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# by mahaera | 2016-08-26 11:01 | 映画のはなし | Trackback | Comments(0)

最新映画レビュー 『ソング・オブ・ラホール』 パキスタンの伝統音楽は世界に通用するのか!

ソング・オブ・ラホール
Song of Lahore

2015年/アメリカ

監督:シャルミーン・ウベード=チナーイ、アンディ・ショーケン
出演:サッチャル・ジャズ・アンサンブル、ジャズ・アット・リンカーン・センター・オーケストラ、ウィントン・マルサリス
配給:サンリス、ユーロスペース
公開:8月13日よりユーロスペースにて公開中
公式HP: senlis.co.jp/song-of-lahore/


20年ほど前にパキスタンのラホールに行ったことがある。
バックパッカーで世界を回っていた頃のこと。
当時はパッカーの間では「ラホールの泥棒宿」の話は有名で、
僕はちょこっと滞在しただけで、インドへすぐに国境を越えた。
惜しいことをした。

ラホールは今はパキスタンの都市だが、ムガル帝国時代はデリー、アグラと並ぶ帝国三大都市のひとつで、
英領インド時代にはパンジャーブ地方の中心都市だった。
インドとパキスタンが分離独立するまでは、かつての宮廷文化の名残で、ラホールには多くの楽士が住んでいたという。
パキスタン独立後も、映画産業の伸びとともに音楽家の需要は増えていた。
しかし、それが大きく変わったのは、近年の事。
イスラーム原理主義の浸透により、娯楽としての音楽は肩身が狭いものになっていった。

そんな風潮の中、危機に瀕している伝統音楽を救おうと、
一人の実業家が音楽家たちを集めて“サッチャル・ジャズ・アンサンブル”を結成。
古典楽器を使って「テイクファイブ」を演奏する彼らの姿がYouTubeで世界に流れ、
やがて彼らは、世界最高峰のジャズミュージシャンである
ウィントン・マルサリスからニューヨークに招かれる。
ウイントン率いるビッグバンドとの共演だ。
ニューヨークに着いてリハーサルを始めた彼ら。
しかしそこには、大きな壁が立ち塞がっていた。

最近はニュースで解説もよく流れるからご存知だと思うが、
イスラーム教には、多数派のスンナ派と少数派のシーア派がいる。
両者の教義の違いは自分で調べていただくとして、
シーア派が多いのはイランとイラクと知っている方はいると思うが、実はインド亜大陸にも少数だがシーア派の人たちがいる
例えばインドではラクナウの藩王はシーア派だったので、
町で一番盛大なモスクはシーア派の建築だし、
バングラデシュのダッカでも、シーア派のモスクがある。
サッチャル・ジャズ・アンサンブルの中でも、
おそらく最も実力のあるミュージシャンで
バーンスリー奏者のバーキル・アバースがカメラの前で、
人にわからないように防音の効いた部屋で、練習しなければならないことを語った時に、
音楽家という下に見られるカーストとというだけでなく、
さらに自分は少数派のシーア派で、パキスタンの中では
二重に肩身の狭い思いをしなければならないと語っていたのに、
驚いた。
パキスタンはイスラムなのでカーストはないのかという先入観があったが、調べてみると、身分制度はちゃんとあるらしい。これはイスラムというより、インド亜大陸の習慣なんだな。

さて、映画について。
前半の成功物語の部分は、苦労があってもそのあとに成功が
待っていることを知っているので、ちょっと気楽に見ていられるのだが、そんなこちらの気楽な気分を凍りつかせるのが、
ニューヨークに着いてからのリハーサルシーン。
半ば浮かれ気分で、観光さえ楽しんでいたメンバーたちだが、
ウイントンの楽団のリハーサルで、世界トップレベルのジャズメンたちの高い壁に当たり、
また、音楽の進め方の流儀の違いに戸惑う。
リハで曲のキーが変わり、サッチャルのミュージシャンが
対応できなくなってしまう
ところだ。
まちがいなく本作のハイライトとなる大ピンチ
もうあの時のメンバーたちの緊張の顔、そしてウイントンたちをまともに見られない気まずさ。

ちょうど僕のバンド仲間と試写に行ったのだが、見終わった後で、
「あのシーンは、自分も何度も夢で見てうなされたのと同じだよね」とお互いに言った。
楽器をやっている人の方がわかりやすいと思うのだが、
打楽器の人たちは、最初こそ戸惑うものの、
勝手がつかめれば、うまくビッグバンドに入り込める。
また、先に書いたバーンスリー奏者のバーキルは、単音楽器というのと、ビックバンドの人たちが微笑むほどうまいので、問題ない。
しかしシタールは、楽器の性質上、ドローンを鳴らしていることもあるので、
チューニングが難しいんだろう(シタールをしたことがないので詳しくはわからないが)。それでも不可能とわけではなく、やはりこのシタール奏者(YouTubeの人とは別人)のレベルが合わなかったのだろう。
いや、あれが自分だったら、本当に辛いなあ〜。

単なる感想になってしまったが、でも自分の親戚とか知り合いが、
出ているような親近感を持って見てしまうのだよ。最後には。
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# by mahaera | 2016-08-16 23:44 | 映画のはなし | Trackback | Comments(0)

2016.08.15ボゴール着。日本は終戦記念日だが、ここインドネシアでは

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日本は今日は終戦記念日だが、インドネシアでは明後日の8月17日が独立記念日なので、ここ一週間、小、中学生が行進の練習をしている姿を各地で見続けてきた。

8月15日、インドネシアの日本軍はほぼ無償で終戦を迎えた。それにより、インドネシア独立派は早急に独立宣言をする必要に迫られ、8月17日に独立を発表。そのあとは、当然ながらオランダ軍が上陸してくるはずなので、独立派は日本軍に武器の提供を求めた。

で、ネトウヨに限らないが、皆さん良く誤解しているのは、「日本軍はインドネシアの独立に協力した」という美談。多分テレビとかでやっている、インドネシア独立軍に加わった日本兵の話とかを見て、日本軍が組織的にしたと思っているのだろうが、それは間違い。軍隊というのは、会社も同じだが、縦が絶対の組織だ。敗戦と同時に日本軍は、連合軍の管理下に置かれた、ということは日本軍の管轄のトップが連合軍になったので、インドネシアで終戦を迎えた日本軍は、連合軍の命令に服従しなければならない立場だった。

終戦は8月だが、イギリス軍がジャカルタに上陸したのは9月、オランダ軍は10月で、日本軍は敗戦後も2か月以上にわたって広いインドネシアで治安を維持しなければならなかった。その隙をついて、各地で独立派が日本軍の武器を奪取しようと襲った。日本軍としては、連合軍が来るまで治安を維持しなければならない。そこで、各地で衝突が起きる。独立派としては、ここで武器を手に入れておかないと、弾圧されるのは目に見えている。おまけに日本軍は、武器の使用を禁止していた。日本軍は、連合軍と独立軍(インドネシア共和国軍)の板挟みになって、早くこの問題を手放したかった。連合軍の方も最初に来たイギリス軍は、オランダ領のインドネシアの独立問題に首を突っ込みたくなかったというのが本音だ。

10月に連合軍が進駐してくると、武器の引き渡しを求める独立派により各地で日本兵が殺される事件が起き、100名あまりが無抵抗のまま殺されてしまう。日本兵は、応戦してはならぬと厳命を受けていたからだ。

そうした中、10月12日に最大の武力衝突がスマランで起きた。インドネシア人による日本人や外国の民間人2000名の拉致を受けて、日本軍治安部隊が独立派と武力衝突した。5日間による戦いで、インドネシア側が1000人以上の死者、日本側は30人あまりが戦死、監禁中の一般人150人あまりが殺された。武器を持っている日本軍にかなうわけはなかった。しかし、こんな戦いに意味があったのだろうか。最終的には敗戦後、インドネシアの日本軍は、復員までに戦死・病死を含み1000人あまりが死んでいる。

日本軍が保有していた武器のうち、最終的に独立派に渡ったのは、2/3ぐらいだと言われている。日本兵からしたら、日本では終戦を迎えているのに、インドネシアでは準戦闘状態がさらに数ヶ月続いた、いや、それまで戦闘状態ではなかったのが、終戦により始まってしまったのだ。本音としては、武器をさっさと渡して引き上げたかったのだろう。できれば、連合軍よりインドネシア独立派に渡したかったのかもしれないが、軍隊という組織ではそれは命令違反なのだ。ということで、日本軍がインドネシア独立軍に協力した、ということはない。むしろ逆なのだ。

では独立軍に参加した日本兵はというと、脱走したり、復員命令に従わなかった日本兵だ。つまり、軍という組織からアウトした、脱走兵だ。なので彼らがしたことの評価は、本来ならばウヨクの人たちからすれば非難されるべきものなのだが、逆になんだか、「日本人は素晴らしい!」と手柄にしちゃっているのが、気持ち悪い。軍の命令に背いたんだから、愛国心をむしろ捨ててるんだから。そのぐらいの覚悟で、日本を捨てて、離脱したはず。むしろウヨクの方々が、愚直に命令に従って戦いたくもない独立派と戦って死んだ日本兵や、またはインドネシア人を殺したりした事件があったことを無視するのが、不自然。

別にどちらも、歴史の中で起きたコインの裏と表なのだが、片方ばかり日が当たり、それを自分の手柄にする風潮が嫌いだ。インドネシア人の手柄を奪うのもね。
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# by mahaera | 2016-08-15 23:42 | 海外でのはなし | Trackback | Comments(0)

2016.08.13 バンドンからチルボンに移動

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バンドンから列車でチルボンへ。

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仕事疲れか食べ過ぎか、下痢がひどくて昨日は夕食抜いたら、
ようやくお腹の調子が戻りました。今回は都市中心に回ってるので、
レストラン取材が多い。よって食べ過ぎで、
単なる屋台飯が食べたい!と何度思ったことか。

チルボンは海沿いの町なので、シーフード。
ということでカニを注文したのだが、とっても食べにくい。
カニと格闘しているうちに、満腹になってしまった。
これでビールがあればなあ。。
(チルボンはムスリムが多いのと田舎町なので、
ビールを置いている店がほとんどない)
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# by mahaera | 2016-08-14 11:39 | 海外でのはなし | Trackback | Comments(0)

2016.08.12 バンドゥンのブラガ通り

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おととい、飛行機でジャワ島の東端バニュワンギから
スラバヤ乗り継ぎで、西ジャワのバンドへ移動してきました。
ジャワ第3の都会なので、町中渋滞で嫌になります。

さて、ここのブラガ通りは、夜になると各店で生演奏が行われる
歓楽街(と言ってもタイのに比べると、ムスリムの国なのでかなり大人しい)。
毎夜、音楽を聴きに繰り出したいところなのだが、
そんな場所に来た時に限って、お腹の調子が悪い。
風邪かもしれぬと、初日は大人しく寝て、
昨夜ようやく、夜に外へ。

100メートルぐらいの間に、ライブ演奏がある店は8軒。
しかし、ほとんどが洋楽のカバー。
インドネシア歌謡が聞きたいところだけれど、
わざわざ町の中心部ではやっていないか。
最初の写真のように、ドラムはなく、カホンで代用しているグループが多い。
人気は、80年代MTV時代のポップス。
しかし中には、バリバリのハードロックの店もある(笑)

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いまだに「移民の歌」とか「BURN」とか。
客席にスカーフの女性がいたりするのも、
また酒じゃなくてコーヒーでハードロック鑑賞しているのも、
違和感があるが。まだお腹の調子が悪くて、
昨日は1軒ビールの小瓶1本ずつで退散しました。
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# by mahaera | 2016-08-14 11:34 | 海外でのはなし | Trackback | Comments(0)

2016.08.10 細い人、太い人 at バニュワンギ

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ガイドブックには絶対に掲載しないネタだが、
インドネシアの交通標識が気になっている。同じ町でも、
歩行者の形が太めの人と細めの人がいるのだ。
太めの人は、どう見ても人間というよりは、ゴリラのようにしか見えないのだが。。。


今朝は5時に起きて、バニュワンギからスラバヤ乗り継ぎでバンドンまで移動。
雨も降ってきたことだし、そろそろ限界。
夜遊びは明日にして、もう寝ないと、明日ダウンしてそう。
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# by mahaera | 2016-08-12 13:34 | 海外でのはなし | Trackback | Comments(0)

2016.08.09 インドネシアのバニュワンギから

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8月9日 バニュワンギにて

東京は炎天下らしいが、ここバニュワンギも炎天下。
それ、どこ?と思うだろうが、ジャワ島の東端の町で、
バリ島へのフェリーが出ているところといえば、なんとなくイメージが浮かぶだろうか。
「観光客が通り過ぎるだけじゃもったいない!」と思ったのか、
近年、バニュワンギ県が大々的に観光客誘致に乗り出している(らしい)。

 日本の旅行業関係者を招いてツアーを行ったりはしているが、
まだまだの状況。「歩き方」にも掲載していない。
そこで今回、僕が来て、町の見所や地図を作っているのだが、、、、。

そもそも街中に観光名所がない(笑)
ここに来る観光客の目的は、車で1時間ほどの山の中(上?)に
あるイジェン火口湖なのだが、それは素晴らしいので見る価値あり。
しかしそれ見てしまうと、特にやることがなくなる。
この火口湖へ行くツアーは、深夜1時発、戻りは8時ぐらいだから、前日にバニュワンギにいる必要がある。
深夜のツアーなので、急がない欧米人はたいてい2泊するが、
「町は見るところないよ」と口を揃えて言う。
バリの対岸なので、周りは海なのだが、町に近いところは大してきれいじゃない。
で、オススメのビーチというと、車で片道2、3時間かかるので、
ちょっと行ってこようということにはならない。

それでも観光案内所に行ったら、日本語を勉強していた
若い職員が2人もいるところに、日本への期待度が感じられた。
彼らも日本語が使えてうれしそうだったな。

さて、町なかの見所の、ブーム・ビーチへ歩いて行ってみるが、
地元の若者がバイクでやってきて、屋台でスナック食べたり、
お茶したりするところ。対岸にバリが見えるのだが、
黒砂のビーチはゴミが多く、まあ外国人がわざわざ来るところじゃない。
まあ、夕涼みに来るといったところか。

あとは道教寺院。これも現在、再築中で立派なのだが、
なんでわざわざ、という感もある。それでも、そこにいた
中国系の老人が話しかけてきて、こちらが簡単な中国語を話せると知って大喜び。頼まないのに、バイクでホテルに送ってくれたよ。

炎天下の中を歩いて地図作りしていたら、食欲がなく、
遅い昼はフライドチキンを買って部屋でビールを飲みながら食べ、昼寝をすることに。そもそも暑くて地元の人で歩いている人なんかいないよ。


一気にビールを飲んで、エアコンの効いた部屋でベッドに倒れ込み、1時間ほど寝た。で、夢を見た。
夢の中で僕は食事をしている。そこでもビールを飲んでいて、
酔っている。場所はインドネシアの食堂か。
気がつくと店の主人も意気投合しているらしい。彼も酔っている。
支払いの段になって、酔っているし、夢の中なので余計に計算ができない。
どうも料理2品とビールぐらいで、3つ足せばいいのだが(25+28+44ぐらいの計算)、夢の中で暗算ができない。店の主人も酔っているのか、何度やっても計算できない。
そこで見かねた主人の奥さんが出てきて、代わりに計算する。
計算はできたようだ。しかしその奥さんは、下一桁だけ教えて「いくらだったでしょう?」と、僕に答えさせようとする。あー、もう面倒だから、大きいお金を渡して、お釣りをくれと言う。
そこで目が覚めた。
 こういう夢、見ませんか? 
僕はたまに見るけれど(笑)
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# by mahaera | 2016-08-12 13:31 | 海外でのはなし | Trackback | Comments(0)