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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・1929年、そして大恐慌が始まった

子供に教えている世界史・1929年、そして大恐慌が始まった

意外に息子は世界史の中での経済の話が好きらしい。
むしろ政治の話が続くと堅苦しいようだ。
ということで、今回の世界恐慌については面白く聞いていた。

1929年10月24日、ウォール街でGMの株価が下がると、
USスティールの株価が下がった。
それにつられて、他の企業の株価も次々と下がっていった。
「暗黒の木曜日」だ。
第一次世界大戦が終わると、
アメリカは世界一の債務国から債権国へ変わっていた。
1920年代、産業が順調に伸びているアメリカに投資しようと、
世界中から資本が集まった。
株価はどんどん上がり、額面、実力以上の金額になっていく。
余計にどんどんお金が集まってきた企業はどうするか。
社員の給料も上げるが、さらにそのお金で
どんどん生産を上げていく。
つまりどの企業も、過剰生産状態に。
実際は品物はたいして売れていないのに(儲かっていないのに)、
株価だけはどんどん上がっていった。
1980年代後半の日本を知っている人は、
「ああ、あん時の日本だ」と感じるだろうか。

それに対する予兆はなかった訳ではない。
まず、1920年代に入りヨーロッパが徐々に復興していくと、
アメリカの農業や工業が次第に不振になっていった。
欧州に輸出していた農産物が売れなくなり、
農業の機械化により労働者が解雇され、
干ばつや砂嵐により不作が続き、中西部の農民は土地を捨て、
西へと向かった。スタインベックの『怒りの葡萄』だ。
欧州、とりわけドイツの工業の復興は、
アメリカ商品の輸出の減少につながった。
そして第一次世界大戦中に欧州の工業が停滞した間、
アジア諸国の工業、特に日本、中国、インドの民族資本が
飛躍的に伸びた。
アメリカにとっては、安価な労働力を持つこれらの国の商品は
脅威で、アメリカの商品はさらに売れなくなっていった。
アメリカ国内では、上記の理由で農民・労働者の購買力が下がり、また品物も国外でも売れなくなって、商品がダブついていた。

大恐慌が起こると、アメリカでは町に失業者が溢れ、
企業が倒産し、銀行も支払いができなくなった。
物価は下がり続け、32年までに工業生産は37%下落。
銀行の破産は4500社、失業者は33年には1500万人に、
労働者の給料も時給25セントから10セントへと半額以下に。
各地で農民の暴動が起きた。

このアメリカの恐慌は、すぐに世界中に広まった。
世界中の資本家はアメリカから資本を引き上げる。
アメリカも世界各国への投資や資本を引き上げる。
まず、欧州で一番打撃を受けたのは、アメリカの資本の投下で復興が順調に進んでいたドイツ、オーストリアだ。
たちまち両国の経済は行き詰まり、
今度は英仏への賠償金が返せなくなる。
英仏も賠償金がもらえなくなるから、今度は戦争中にアメリカに借りていたお金が返せなくなる。つまり一周してしまったわけ。
1931年にフーヴァー大統領は、関係国で賠償や戦債の支払を1年間猶予する「フーヴァーモラトリアム」を行うが、
これはあまり効果はなかった。
また、アメリカへ一次産品を輸出していたラテンアメリカ諸国も、それが売れなくなったから、生産過剰になり、不況が訪れた。

アメリカはさらに自国産業などを守るために、
外国からの輸入品に40%の高関税をかける法律を制定するが、
これも裏目に出て、かえって状況を悪くしてしまった。
だって他国も同様に、
「俺たちもアメリカ商品に高関税をかけるよ」ってなるからね。
さらにアメリカ商品も売れなくなる。
こうして大恐慌の1929年からたった4年で、
世界貿易は1/4に縮小してしまう。
「自分だけは助かりたい」と、どの国も思った結果だった。

長くなるので、次回は、各国がその世界恐慌にどうやって対処したか。って、さらに悪くなって、第二次世界大戦へまっしぐら。
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# by mahaera | 2016-09-22 19:48 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・1920年代のアメリカの繁栄

第一次世界大戦後、欧州は没落し、
アメリカは世界一の債権国になっていた。

孤立主義を捨てて第一次世界大戦に参戦したアメリカ。
大統領は民主党のウィルソン。
参戦の理由には、英仏に貸した戦債の取りっぱぐれがないようにという財界の思惑があった。
が、そんな理由では国民は納得しない。
「民主主義を守れ!」というスローガンが必要だった。
また、ウィルソン自身も本気でそう信じていたようだ。
二度と戦争が起きないように国際連盟を提唱し、
「ウィルソンの十四か条」で民族自決や秘密外交の禁止を訴え、
戦後の賠償もいらないとドイツに言うくらい。
彼はまた「新自由主義」を唱えて、国内では女性参政権を認め、
労働者保護立法も作る。
これは悪名高いが、「禁酒法」もこの頃だ。
しかし、戦争が終わる頃には、国民は戦争に参加したことを悔やみ、心はもう保守へ動いていた。

アメリカの参戦は1918年と大戦末期だが、
終戦までの10か月間で戦死者は10万人以上。
アメリカ人は、「なんでアメリカと関係ないヨーロッパの戦いに首を突っ込んだの?」と後悔するようになっていた。
で、戦争が終われば、結局は英仏にいいように会議を主導されている(経済はアメリカが上だが、外交は百戦錬磨の英仏が上だ)。
もう、欧州の問題には関わり合いたくないと。
ヴェルサイユ条約の批准には共和党が反対し、
結局は上院でも否決される。
政権は民主党だが、議会の多数派は共和党。
今のオバマ政権のように行政と立法がねじれてしまっては、
いくらいい政策でも通らない。
ヴェルサイユ条約には国際連盟への加盟が含まれていたので、
国際連盟は言い出しっぺのアメリカが加盟しないという、
最初から締まらないスタートになってしまった。

1921年、次の政権は共和党のハーディングに。
以降、クーリッジ、フーヴァーと共和党政権が続く。
共和党は民主党と反対の政策をとる。
貿易に関しては、ウィルソンの「関税撤廃による貿易の活発化」から「高関税にして国内産業を育成」へ。
そして国内経済に関しては「自由放任主義」へ。
それを支えたのは、アメリカの空前の繁栄だ。
世界の金融の中心は、ロンドンのシティからアメリカのウォール街に移る。

そして1920年代のアメリカは世界の工場だった。
1929年には工業生産は世界の42%を占め、
ソ連を含む全欧州の額を超えた。
車の組み立てに始まったベルトコンベア式の大量生産は、
あらゆる製品に応用され、家電が街にあふれる。
世界の車の半分はアメリカで作られていた。

1929年には、全米の家庭の7割に電気が普及。
これは電化製品の普及につながり、アメリカの家庭の4分の1に洗濯機が、7割にアイロンがあったという。
製品が溢れても、それを買うお金は? 心配は無用。
この時代にチェーンストアのシステムが広がり、本店が大量に買い付けて支店に流してコストを抑えるようになった。
そしてセルフサービスのスーパーマーケットも生まれる。
こうして商品の価格を抑えることができるようになった。
もっと高い品には、月賦払いのシステムが導入されるようになる。
1930年にはアメリカでは5人に一人が車を持っていた。
製造業が繁栄すれば、そこに働く人手もいる。

工場が多いのは北部だったが、人手不足になり、この時期、南部の黒人が北部のニューヨーク、シカゴ、デトロイトに移住する。
1919年に発布された禁酒法の影響で、ニューオリンズなどで仕事がなくなった黒人ミュージシャンが北部に移住し、
ジャズやブルースが白人にも広まったのもこの時期だ。
ラジオと蓄音機の普及がそれと連動した。
ジャズは1920年代を代表する娯楽となり、
この時期を「ジャズエイジ」と呼ぶこともある。
それまで白人音楽と黒人音楽は別々の世界のものだったが、
1924年にはガーシュウィンが「ラプソディ・イン・ブルー」で
ジャズをクラシックに取り入れた。
今じゃ古典だが、当時としては最先端のミクスチャー。
黒人ではルイ・アームストロングなどのスターが生まれた。
ラジオは家で楽しめる娯楽だが、外で楽しむ娯楽の代表は映画だった。
主流は音声がないサイレント映画だったが、ハリウッドでは次々に大作映画が作られ、チャップリンに代表されるスターが生まれた。
今ではおなじみの野球やフットボールといったプロスポーツが、
国民の熱狂を集めた。
ベーブルースが野球のスターになったのもこのころだ。
金持ちの為のものではない「大衆娯楽文化」というものが、
世界に影響を与えた。

しかし繁栄の裏には影もあった。
保守主義は排外主義にもつながる。
荒れた欧州、特に東欧からの移民が増えたのはこの時期。
急激に増えたアングロサクソン以外のイタリア系、ユダヤ系、ロシア系、東欧系は差別された。
1920年には、イタリア系移民のサッコ・ヴァンゼッティ事件も起きている。
白人以外はなおさらで、1924年の移民法ではアジア系移民が禁止。
1920年代は、1915年に復活したKKKの力が伸びた時代でもあった。
しかしアングロサクソンが脅威に思うほど、この時期、
アメリカの人種構成が変わりつつあったとも言える。

孤立主義と言っても、完全に世界に背をむけることはできない。
中南米諸国には権益を守るために、覇権国家としての暴力をふるい、アジアでは中国大陸に露骨に進出し始めている日本を牽制するために、1921年にワシントン会議を開く。
荒廃したドイツの産業を復興させるために、
1924年のドーズ案で大量の資本とドイツに投下。
強硬な英仏をなだめて、1929年のヤング案でドイツの賠償金の額を減らす。

この繁栄がずっと続くものだと、アメリカ人だけでなく、
世界の多くの人もそう考えていたろう。
欧州は復興し、日本だって普通選挙が実施された大正デモクラシーの時代だ。
しかし、1929年10月に世界を変える大事件がウォール街で起きる。
大恐慌だ。

続く
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# by mahaera | 2016-09-13 10:04 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・第一次世界大戦後の中国と日本

現在、何かと話題の多い日中関係だが、
今回は第一次世界大戦とその直後の日中の歴史、
つまりちょうど100年ぐらい前の話をまとめてみた。

第一次世界大戦は主に欧州で行われた。
アジアでは、せいぜいドイツ領が点在するぐらいだったが、
日英同盟のよしみで、1914年に日本は連合国側で参戦。
ドイツ領の青島を占領し、山東省のドイツ利権を奪う。
1915年には、悪名高い「21カ条の要求」を中国(北京の軍閥政権)に要求。
これはどさくさに紛れて日本に一方的に得する条約だったが、
欧米は欧州で手一杯だったから、アジア地域に構っている余裕はない。中国の軍閥政府はそれをのむしかなかった。
そして遅れて1917年に北京政府も連合国側で参戦。

第一次世界大戦中、欧米からの貿易量が激減したことは、
アジアに大きな影響を与えた。
なんといっても、一番得したのは日本だ。
欧州から来なくなった製品に代わり、
日本の工場製品が売れに売れた。
特に紡績関係は目覚ましく、イギリスに代わってインドに食い込み、戦後はそれが問題になったほどだ。
貿易黒字は、日露戦争の借金を穴埋めするのに多いに貢献した。
第一次世界大戦の日本軍による死者は100人程度ですんだ(ロシアと比べて何桁も違う)が、
ドイツが持っていた中国の利権や太平洋の島々を手に入れた。
日本とドイツとの戦いはすぐ終わったが、
今度はロシア革命が起き、欧米諸国とともにロシアに干渉し、
シベリア出兵を行う。
ここでも欧州で手いっぱいの欧米は、
日本をうまく使い、革命ロシアをけん制した。

1919年、戦争は終わり、パリ講和会議が開かれる。
中国の民衆はドイツが利権を持っていた山東省を
そのまま日本が引き継ぐのではないかと憤り、
北京大学の学生を中心に「五・四運動」が起きる。
「青島を返せ!」と。
孫文の立ち上げた中華民国は、軍閥によって骨抜きにされていたが、この頃には次の世代の民衆運動が生まれ始めていた。
中国も日本同様、第一次世界大戦中に欧米からの工業製品が入らなくなったので、国内の工業化が進み、民族資本が育っていた。
「都市労働者」という新しい層が中国にも生まれていたのだ。
もちろん共産主義も、当時一番新しい思想として広まっていた。
こうした民衆運動を見た孫文は、軍閥と提携して国をまとめるのではなく、民衆運動を盛り立てて国を統一しようと考えを改め、
1919年10月に「中国国民党」を設立。
その前の7月、欧米の脅威を受けていたソヴィエト・ロシアは、
孫文に接近。
信頼を得るために「カラハン宣言」を行う。
これはどういうことかというと、帝政ロシア時代に侵略によって得た領土と賠償金を中国に返却するというもの。
中国人は今まで列強にメタメタにされてきたので、
「ロシア、ありがとう!」と一気に親ソになる。
追い打ちをかけたのが、その1週間後に発表された
ヴェルサイユ条約だ。
そこでは「山東省のドイツ利権は日本が引き継ぐ」と宣言。
「何にも変わらないじゃないか!」と、
中国人が怒るのも無理はない。
敵は帝国主義だと。
こうしてソヴィエト・ロシアの共産主義と中国の民族主義が連携する方向へと向かう。

第一次世界大戦中、欧米は勝つために世界中の民族主義を煽ったが、戦争が終わると戦前の状態に戻すために、
今度はそれを沈静化させようとしていた。
しかし、一度火がついたものはそう簡単に消えるものではない。
インドでも、トルコでも反帝国主義の民族運動が盛んになった。
1919年には朝鮮の「三・一運動」、中国の「五・四運動」、
インドの「非暴力・不服従運動」が起きた。

高揚したアジアの民族運動を抑えるため、1921年、
今度はアメリカ主導でワシントン会議が開かれる。
この会議のもう一つの目的が、日本問題だった。
今まではソヴィエト・ロシアを抑えるために日本が必要だったが、もうソ連を抑えることは不可能となった。
そして日本は中国に進出しすぎた。
日本と連携する必要はなくなった米英は、バランスをとるために「山東省の旧ドイツ利権は中国に返還」するが、
中国側が要求した「治外法権の撤廃」「関税自主権の回復」
「外国軍の撤兵」は拒否する。
しかし日英同盟も破棄され、日本はイギリスの後ろ盾を失った。
また、各国で海軍軍縮条約が結ばれる。
日本の軍部はこれに大いに不満だったが、すでに戦争も終わり、
好景気も過ぎようとしていた。
軍備費が日本の国家財政を圧迫し始めていたので、
日本政府はむしろ歓迎したようだ。

さて戦争が終わった今、中国の民族運動の後押しをしてくれるのは、ソヴィエト・ロシアぐらいだった。
中国では1921年に中国共産党が結成され、
1924年に第一次国共合作が成立。
「敵は軍閥にあり」と国内統一に向けて動きだす。
この年、指導者養成学校である黄埔軍官学校が設立された。
校長に就任したのは蒋介石、そして副校長が周恩来だった。
時代はポスト第一次世界大戦に動き出していた。
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# by mahaera | 2016-09-12 08:54 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・第一次世界大戦後のインドとトルコ

息子と昨年の夏がトルコ、年末年始がインドへ旅行へ行ったので、
当然覚えて欲しいところなのだが、どうなんだろう。
映画『ガンジー』で、ネルーとジンナーぐらいは覚えたようだが。

第一次世界大戦は、欧州以外にはどのような影響を及ぼしたか。
まず、欧州は総力戦になったので、宗主国は植民地へ輸出する余裕がなくなり、逆に植民地からの輸入に頼るようなった。
また、モノだけでなく「兵士」という人的資源も、植民地に頼る。
植民地が経済的にも宗主国から脱するきっかけになったのだ。
今回は、インドとトルコを中心にまとめてみた。

インドとイギリスの貿易は、ドイツの攻撃によりたびたび中断し、
また、イギリスもインドへの輸出品を作る余裕がなくなったため、
インドへは日本など東アジアからの輸入が増えた。
実際、この時期の日本は、紡績産業が大きく伸び、
イギリスに代わってインドへ多くの線織物製品を輸出していた。
また、イギリスは戦争遂行のために、現地に多くの産業を促したため、インドの民族資本もこのころに大きく発展する。
インドは第一次世界大戦前が始まると、
自動的にイギリス側に立って参戦。
多くのインド兵が欧州に渡り、多大な犠牲を払ったため、
その代償として自治を求めるようになった。
デリーにある「インド門」は、この大戦のインド人の戦没者の記念碑で、壁面には1万3500人の名前が刻まれている。

さて1917年、インドの協力が欲しいイギリスは
戦後にインドに暫時自治権を与えていくと約束したが、
戦争が終わった1919年にはそれを反故にし、
裁判抜きの投獄ができる悪名高い「ローラット法」を制定する。
この法律に反対する運動が各地で起きたが、
アムリトサルで集会に集まった人への無差別発砲事件があり、
1000人以上が死傷するという「アムリトサル虐殺事件」が起きる。
これらを受けて、翌1920年にはガンディーの指導する
非暴力・不服従運動が国民会議派とムスリム連盟の協力のもとに展開して盛り上がるのだが、民衆の暴力が過熱したことをガンディーが嫌い、運動は一旦停止し、沈滞期へと向かう。
運動がまた活発化するのは、1927年にサイモン委員会が設置された時だ。
インドの自治を検討するこの委員会に一人もインド人が参加していないことに国民会議派は抗議し、
以降、自治ではなく「完全独立」に方針を転換したのだ。
国民会議派の議長はネルー。
一方、1930年にはガンディーは「塩の行進」を展開。
イギリスはこうした運動を懐柔しようと円卓会議を開催した後、
1935年には「新インド統治法」を制定。
これによりビルマがインド帝国から分離され、
州政府の単位では自治権が認められるようになった。
しかし外交や軍事などの国政は、相変わらずイギリスが握り続けていた。

一方、敗戦国となったトルコは解体の危機に瀕していた。
1918年には小アジア南部に連合軍が上陸し占拠、
翌1919年にはギリシアがイズミルに侵攻。
連合国と結んだ「セーブル条約」では、
アルメニアとクルディスタンの独立も視野に入っていた。
トルコの領土は、現在のものの1/3ぐらいになりそうだった。
これに反抗して、ケマル・パシャはイスタンブル政府を見限り
アンカラに政府を作り、1920年イスタンブル政府との戦いも含む祖国解放戦争に突入。
1920年、ギリシア軍を破り、翌年、イズミルを奪回。
こうした戦いの中でケマルは指導力を発揮し、英仏と交渉して
イスタンブル政府が結んだセーブル条約を破棄させて、
1923年、新たに「ローザンヌ条約」を結ぶことに成功。
領土の縮小はあったが、長年の治外法権を撤廃し、
関税自主権も獲得。
一方、スルタン制、カリフ制を廃止して国家の世俗化へ。
数百年にわたって繁栄したオスマン朝の最期は、
なんともひっそりしたものだった。
1923年には共和国樹立宣言をし、
今に続くトルコ共和国が発足する。
カリスマ的な人気があったケマルがいたからこそ、
多くの改革が短期間で実施された。
チャドルの廃止、女性参政権、太陽暦の採用、
文字をアラビア文字からローマ字へ変更などなど。
落ちるところまで落ちたトルコの衰退も、
ここで歯止めがかかったわけだ。

一方、カリフ制の廃止はインドの独立運動にも影響を及ぼした。
インドのムスリム運動は、第一次世界大戦中はカリフ制を擁護するため、国民会議派と提携した(トルコは枢軸国側だったので反英運動に協力)。
しかし、肝心のトルコが敗戦後にカリフ制を廃止したので目標を失い、以降は反英から「親英・反ヒンドゥー」に舵を切っていく。
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# by mahaera | 2016-09-05 10:41 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ



第一次世界大戦が終わった。
1919年1月からパリで行われた講和会議により、
6月にドイツと連合国の間に「ヴェルサイユ条約」が結ばれ、
これ以降「ヴェルサイユ体制」の時代が続く。
試験にはよく出る問題だよ、息子!

ヴェルサイユ条約は簡潔に言えば、領土問題、軍備問題、そして賠償金に関する条約だ。
まず、今、現在、私たちが見慣れているヨーロッパの地図は、
このヴェルサイユ条約によってほぼ確定したと言っていい。
特に東欧。
なんたって、北からフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビアと新たに8か国が誕生したんだから。
また、ドイツはアルザス・ロレーヌ地方をフランスに返し、
すべての海外植民地を取り上げられた。
アフリカはタンザニア、ナミビア、トーゴ、カメルーン。
グアムを除く北太平洋のドイツ領の島々は、
日本の委任統治領になる。
軍備は制限されたが、廃止にはならず。
ただし潜水艦の保有は禁止。

賠償金額が確定したのは、1921年のロンドン会議。
そこで決まった額は、1320億金マルクという現在のお金に直すと1000兆円という膨大な額なだった。
アメリカは賠償金はいらないと反対したものの、
国民の約10%が死傷し、ドイツに恨みを持つフランスに押し切られてしまう。
賠償金の半分はフランスの取り分、
そして中立だったのに侵犯されたベルギーが8%。
この2か国はドイツ憎し。

アメリカ大統領のウィルソンはある意味理想主義者で、
過酷な賠償を求めると新たな紛争の火種が生まれると思っていた。
しかし彼が提唱した「国際連盟」もアメリカの議会で否決され、
肝心のアメリカが参加しないという
閉まらない結果に終わってしまう。
また、彼が提唱した「民族自決」も適用されたのはヨーロッパだけで、アジアやアフリカでは、結局は戦勝国が領土を奪って山分けするという結果に。

さて、そうは言っても、戦争が終わると、アメリカは世界一の債務国から債権国に変わっていた。
それまでアメリカの工業化や鉄道などのインフラ整備は、
ヨーロッパの投資に支えられて進んでいたが、
戦争が終わってみれば英仏はアメリカからの借金地獄。
英仏はそれを返すために、ドイツに莫大な賠償金を押し付けたのだ。
せっかく革命を起こして民主的な共和国ができたドイツだが、
スタート時点からその借金に苦しめられる。
戦争であらゆる産業がメタメタになっているので、
すぐに返せるわけないよね。
そこでドイツは戦勝国に支払い猶予を要求するが、
これに怒ったフランスはやはり恨みを持つベルギーを誘い、
1923年にドイツの工業地帯ルール地方を占領。
ドイツ政府は、それに対抗するために、
ストライキやサボタージュを呼びかける。
結果、どうなったか。
外国にも売る工業生産品のラインがストップ、
ルールは炭田もあったので石炭をイギリスから買わなくてはならなくなり、さらにお金が外に出る。
また、新たにできたドイツ(ワイマール共和国)は、
当時世界で最も民主的な憲法や法律を持っていたことが裏目に出て、社会福祉に必要なお金(復員兵士の年金、失業保険など)も財政を圧迫。
有名な超インフレを引き起こした。
なんたって1年でドイツマルクの価値は、
1兆分の1に下がってしまったんだから。
よく写真で見る、ザックいっぱいのお金でパン一個買う、というやつだ。
さて、ドイツが金を払えないと、英仏もアメリカに借りているお金を返せない。
悪循環の堂々巡りだ。
それをどうやって解決したか。それはまた次回。

一方、ドイツ以外の同盟国も1919年から20年にかけて、
連合国と次々と講和条約を結んだ。
一番領土が縮小したのはオーストリアで、国そのものが解体され、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、ポーランドの一部、ハンガリーが独立し、
南チロルがイタリアに割譲され、領土は戦前の1/4になった。
トルコもセーブル条約で“ほぼ解体”の運命だったが、
条約に反対したムスタファ・ケマルの活躍により、
条約は破棄される。その結果、現在のトルコ領内のアルメニア人とクルド人は独立できなかったけれど。。。
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# by mahaera | 2016-09-04 10:42 | 世界史 | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・番外編『トラ!トラ!トラ!』

世界史の副教材として休憩時間に見ている映画。
今回は1970年の日米合作映画『トラ!トラ!トラ!』だ。
往年の名作なので、テレビでも何回も放映し、
年配の方は見ていらっしゃる方は多いと思う。
これは1941年12月7日の日本軍による真珠湾奇襲を描いたもので、
作られた1970年がベトナム戦争の最中だと思うと、
かなり日米に「公平」に描かれたものだと思う。
日本側は日本が、アメリカ側はアメリカ側でそれぞれ監督を立てて別々に撮影したことにより、2001年の『パールハーバー』のような珍妙な日本も出てこない。
なんでこの映画を見せたかと思うと、やはり子供にはイデオロギーや陰謀論に関係なく、あの戦争の始まりを知ってほしいからだ。

日本は日米開戦に向けて周到な準備をしていたが、
アメリカ側の組織はまだ戦時体制になっておらず、
いくらでも察知するチャンスはあったのに、
緊張感に欠け、情報を逃してしまった。
真珠湾攻撃は、アメリカが知ってはいたが自国を参戦に導くためにあえてハワイに伝えなかったという「陰謀論」が有名だが、実際には日本軍の接近を知るには幾つものソースがあったので、そのすべてに陰謀が働いていたことはありえない。
「まさか、ハワイが攻撃されることはないだろう」という、
異常事態にそれを否定してしまうという人の心理が、
アメリカ政府や軍全体に及んでいた。
つまり、「ひとりひとりのミス(油断)が重なって」というのが、
本作のように正しい視点だと思う。

また、日本側の宣戦布告が遅れたのも陰謀ではなく、
作戦事態がもともと余裕がないギリギリのものだったので、
すべてが順調にいった場合に伝わることが前提だった。
緊急性がわからない外交官が1、2時間遅れただけで
破綻するような机上の空論のようなものだった。
(わかっていれば送別会なんてやっていない)
また、真珠湾攻撃は日本側には大戦果だったが、
当初の目標である空母が一隻もいなかったので、
本当は大失敗だったとも言える。

日本では大ヒットしたこの映画だが、
アメリカでは興行的には惨敗だった。
理由はアメリカがメタメタにされて終わるからだ。
そして、奇襲を察知できなかったのは「アメリカ側が無能だったから」、と感じられる内容なので、
見終わった後はアメリカ人は怒り心頭だったのだろう。
その反省を踏まえて、2001年の『パールハーバー』では、
ドゥリトル爆撃隊が復讐で日本本土に爆撃するのがクライマックスになっている。
最後には一矢報いないと、映画的にはスカッとしないわけだ。

子供が驚いたのは、CG登場以前の特撮。
特に、“本物の”戦闘機が大挙して飛ぶシーンには、「これはすごい」と言っていた。
今じゃ、手前以外はCGだしね。あと、低空飛行。
当時のアメリカの飛行名人たちが雇われて、撮影に臨んだという。
片足着陸とか、実写で実際に撮影している。
CGだと何を見ても驚かないが、
本物はやはり迫力が違うと感じたようだ。
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# by mahaera | 2016-09-03 10:29 | 映画のはなし | Trackback | Comments(0)

子供に教えている世界史・1920年代のヨーロッパ

第一次世界大戦後のヨーロッパ。
途方も無い賠償額を押し付けられた敗戦国ドイツは、
その後、超インフレが進み、1923年にはドイツマルクの価値は1兆分の1に下がってしまった。
戦勝国は、卵を産むニワトリを殺しかけていたのだ。
ドイツが潰れたら、英仏は賠償金を取れない。
賠償金が取れなかったら、英仏は戦争中にアメリカに借りた金も返せない。
しかしドイツもいつまでたっても経済は回復せず苦しい生活だ。
 
そこでドイツは土地を担保にした紙幣のレンテンマルクを発行。
またサボタージュも止めて諸外国に賠償義務を守ることを約束。
それがうまくいき、インフレも収まり、国際的な信用も回復する。
そしてアメリカも積極的にドイツを援助し、
結果的にアメリカにお金が戻るようにした。
1924年のアメリカの提案による「ドーズ案」では、支払期間の延長、そしてドイツの産業に対してアメリカ資本の投下を決める。
つまりアメリカがお金を出してドイツの産業が復興すれば、
ドイツが英仏に賠償金を返すことができ、
それがまたアメリカに返済されるという流れができる。
アメリカが出したお金がぐるりと回ってまたアメリカに帰ってくる訳だ。
この賠償金も1929年にはさらに「ヤング案」により、

1320億金マルクから358億マルクに引き下げられ、
大恐慌後の1932年には30億マルクまで減額に。
最初からそうしておけばいいのに!
 
その間、1922年にはドイツとソ連は国交を回復。
この時点で共産党のソ連を各国とも脅威に感じていたので、
国交を持っている国はわずか。
英仏にいじめられているドイツは、
同じく敵視されて困っているソ連と国交を結ぶ。
これにイギリスはまずいと思った。
いつまでも冷たく接していてはとね。
そこでイギリスも1924年にソ連と国交回復。
同年中にイタリア、フランスもソ連承認。
シベリアに進駐していた日本も1925年にソ連を承認。
一方アメリカは遅く、1933年にようやくソ連を承認した。
 
さてイギリスでは、第一次世界大中に第4回選挙法改正があり、
初めて女性参政権が認められた。
総力戦の最中に男性労働者が兵士に取られたので、
女性の社会進出が進み、イギリスはもはや女性の力を無視できなくなったのだ。
ただし、この時はまだ選挙権は男性21歳以上、女性は30歳以上と年齢に差があった。
しかし1928年の第5回選挙法改正で、21歳以上の男女に普通選挙権が与えられる。
ようやくここで選挙権の男女平等が達成されたのだ。
ちなみに女性の選挙権は、ドイツでは1919年、アメリカでは1920年、意外にもフランスは1944年と遅かった。
 
その他の1920年代の欧州のトピックスとしては、

1919年からアイルランドの独立戦争が始まり、

1922年に独立が達成されたこと。
ただし、アイルランドはその後、内戦に突入してしまう。
また、イタリアでは1922年に早くもファシズム政権が成立。
ムッソリーニが地主やバチカン、都市の中産階級の援助を受けて共産党や労働運動を潰し、1926年にはファシスト党以外の政党を禁止する。
第一次世界大戦が終わったばかりなのに、
早くもファシズムが欧州で力を持つようになった。
このファシズムはできたばかりの東欧諸国にも広がっていった。
東欧でもともと議会制民主主義の下地があったのは、
工業国で中産市民が育っていたチェコスロバキアだけで、
あとは農民、地主、軍人、教会からなる国がほとんど。
ポーランド、ハンガリーなどは独裁体制に変わっていく。
 
ソ連では1922年にレーニンが死去。
そのあとは激しい党内闘争があり、負けたトロッキーは1929年にソ連を追放され、スターリンがNo.1の地位につく。
あー、スターリンの大粛清時代だよ。
読めば読むほど気が重いところ。
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# by mahaera | 2016-09-02 11:44 | 世界史 | Trackback | Comments(0)