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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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ゴジラはロックか

日本映画専門チャンネルのゴジラ特集をみた。
佐野史郎とみうらじゅんの対談で、
「ゴジラとロックは僕達の間では同義語ですけど、人にはわかりませんよね」
と二人が話していた。二人とも僕より35歳ぐらい上だと思うが、ふつうロックに熱を上げるよりゴジラに熱を上げる方が低い年齢なので、
彼らはロックを知った時に、ゴジラ的なものを感じたのだろう。
みうらじゅんは「ディランがロック」とも表明しているので、
「ゴジラ=ロック=ボブ・ディラン」と言うことになる。

前にも書いたが、僕がゴジラを初めて映画館で見たのは「南海の大決闘」。
みうらじゅんは、「南海の大決闘」までを映画館で見たが、「ゴジラの息子」は行かなかったといっている。
ゴジラが妙に人間臭くなってくるのが嫌だったからだ。
僕も「ゴジラ人間化」は子どもながらに、大人にバカにされているようで嫌だった。
新作のゴジラは人間ぽく、ときには愛嬌を振りまくが、テレビで放映しているゴジラは人類の敵。街を破壊しまくる。
子どもながらにそこにウルトラマンにはない、「反権力」を感じたのだろう。
ウルトラマンやウルトラセブンは、時には自分の使命に悩みながらも、人間を裏切ることはない。
そこに組織に属する会社員的な悲哀さえ感じたのだが、初期ゴジラは完全にアウトロー。
マカロニウエスタンの主人公ながら、ニヒルさもかねそなえていた。破壊するのに理由はない。
そこに権威的な建物があるからだ。
ゴジラの目的は人間抹殺ではなく、人間たちが作ったバビロンを破壊することだ。
人間はそれに対抗しようとするが、結局キングコングやモスラの力を借りなければ、ゴジラを追い払うことはできない。
ゴジラ映画を見て、人間ではなくゴジラに肩入れしていたのも、
子どもながらに大人世界が破壊されるのが、気分が良かったからだろう。

しかしキングギドラのような宇宙怪獣の襲来により、ゴジラも人間側に立っていく。
このあたりから、ゴジラ映画は急速に物足りなくなる。
反骨のロッカーが、観客のリクエストに応じ、手拍子をもとめたり、まあ媚を売るようになるのと似ている。
ライブ会場ではこちらもその場のノリで喜んだりするが、九段の坂を降りるころには、「あいつも歳とったなあ」と友達と話ている。
そんな感じだ。

うちの小学生の息子と風呂に入っていると(昭和ゴジラを全部通して見た後)、息子は「ゴジラも子どもができたから悪いことできなくなったんだよね」とぽつり。
昔は悪で慣らしたが、子どもができたら、その教育上、町を無闇に破壊するのはまずい。
ゴジラもそう思ったのか。
しかし、それはそれまでのオーディエンスにそっぽを向かれることでもあった。

ゴジラに大人社会への反逆を見出した子どもたちは、中学生になると、その代わりをロックに見つけた。
ロックとは音楽のジャンルと言うだけでなく、概念でもある。最初はキッスやクイーン、エアロスミス、ディープ・パープルがロックの代表だと思っていたが、それは見かけからロックに入っていったからで、のちに僕もボブ・ディランに傾倒する。でも、聞きはじめたころは「ディランがロック」とは気付いていなかった。「よくわからないもの」「アメリカの吉田拓郎」だった。

ロックは職業ではない。
ミック・ジャガーだって、「職業は?」と聞かれ、「ロックです」とは言わないだろう。
ボブ・ディランは初来日の時、「あなたはフォークの神様と言われていますが、どう思いますか?」と記者に聞かれ、「俺は人間で、ただのシンガーだ」と答えた。
ロックは「生き方」であり、スタイルだ。だが、人それぞれにロックがあり、それぞれのロックを持っている。
GLAYはロックか? じゃあIZAMは? 長渕剛も?

ロックは職業ではない。
本人にしてみればずっと同じことをやっているつもりでも、ロックがいつの間にかなくなっているかもしれない。
しかしそんなことは人に言われたくないだろう。
「もう、お前はロックじゃない!」
「じゃあ、お前はロックか!」
という不毛の会話が浮かぶ。

しかし良き家庭人となった昭和ゴジラは、幸せだったのかもしれない。
愛されつつ、引退していったのだから。
そしてロック魂を帯びたゴジラは、平成の温い世の中に再び活を入れにやってくる。
その時、活を入れられるのは、良き家庭人となったかつてのロック少年たちだった。。
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by mahaera | 2008-12-07 16:02 | 映画のはなし | Comments(0)
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