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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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映画『十四歳』と『青い鳥』、『荒野のストレンジャー』など

昨夜、日本映画の『十四歳』をレンタルで見直した。
これは「群青いろ」というユニットを組んで自主映画を撮り続けている
ふたり組のうちの片方が脚本を書き、片方が監督と主演を兼ねた作品だ。
彼らの前作、『ある朝、スウプは』は、アパートに住む若いカップルのうち、
男性のほうが新興宗教にはまってしまうことから、
ふたりのバランスが崩れていく過程をおもに女性側から描いたもので、
緊張感溢れるすばらしい作品だった。
その作品がPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で賞を取り、スカラシップを受け、
これは最初から劇場用作品として撮られている。

ある郊外の中学校の十四歳のクラスを中心に、生徒たち、先生、
そしてかつて十四歳だった男たちのドラマが積み重ねられる。
そこで見たクラスの光景は、僕の十四歳の時は大きく違うが、「こうあったかもしれない」パラレルワールドだ。
いじめ、暴力、共感の無理強い、友だちへの軽視と依存、先生へのいじめ…。

ここには対照的な二人の教師が出てくる。
生徒たちに共感して近づこうとする女性教師は、ある行為から逆に生徒に恨まれ、
精神科に通院していることを皆の前で暴かれる。
アグレッシブでやや暴力的な男性教師は、生徒たちは一見、無気力に見えるが、その内に攻撃性を秘めていると言う。
生徒はたちは昔の自分と何の共通点もない他人であると割切る男性教師だが、
生徒と面と向き合うことができず、彼らの心の中に近づくことができない。

映画では、14歳の生徒たちの心の残酷さのさまざまな面を見せる。
いじめている時は、いじめられている人の気持ちなんて考えられない。
自分のことだけで精一杯だし、第一自分が何でそんなことをするのかも、客観的にわからない。
それまでそんな経験がないからだ。
人の気持ちが考えられるようになってくるのは、ずいぶんたってからだったと思う。
僕も中学ぐらいの時代に、先生の弱みを見つけ、集団でからかった経験がある。
2526歳の先生だった。
今から思えばきっと傷ついていたのだろうが、先生が傷ついているなんてまったく考えなかった。
むしろクラスメートたちとの連帯感で、気分が高揚していた。
この映画の生徒たちも、先生が「精神科に通院している」という弱みを見せた途端に、攻撃目標にする。
別にその先生が特に嫌いなわけではない。弱みを見せたからだ。
もうひとりの暴力的な男性教師が言っていたことが正しいのかもしれない。
彼もいつかそんな経験をしたのだろう。
しかし、そのため彼はどこかで生徒たちを恐れて、向かう会うことができない。

映画は終盤、感情を今まで封じ込めてきたサラリーマンの男が、
14歳の少年と真摯に向かい合うところで終わる。彼の決意は少年に通じたのだろうか。
そして彼も、その思いを忘れることなく、向かい続けられるのか。
いい作品なので、レンタル店の店頭から消えてなくなル前に、棚で見つけたら借りてみて欲しい。

ちなみにロケの一部は、僕の住んでいる小田急相模原のサウザンロードで行われていた。


11月29日から公開される日本映画で、重松清原作の『青い鳥』という映画を試写で見た。
これも十四歳がテーマになっている。
郊外の町。中学二年の三学期が始まる。
前の学期、クラスの生徒のひとりが「いじめ」による自殺未遂事件を起こしていた。
家がコンビニ店のその少年は「コンビニくん」とあだ名され、
生徒たちから店の品を持ってくることを要求され、それに応えていた。
しかしそれが続くことに耐えられず、自殺を図ったのだ。そして彼は転校した。
映画は新学期の初日、一人の臨時教師(阿部寛)が学校に着任するところから始まる。
彼は吃音だった。容赦なく笑う生徒たち。
そんな生徒たちに教師は、「忘れるなんて卑怯だな」と言い、いなくなった少年の机を教室に戻させる。
そして誰もいない机に向かって声をかける。「野口くん、おはよう」

生徒を挑発するようなその行為は、やがて生徒たちだけでなく、教師たちの間にも波紋を呼んでいく。
一刻も早く、事件を忘れさそうとする教師たち。
生徒たちに「原稿用紙五枚以上。教師たちが納得するまで何度も反省文を書かせる」という行為は、
はたして本当に、自殺に追いやったことの反省になるのか。
「みそぎ」を済ませれば、あとはすべて忘れて再出発できるのか。

生徒たちはここでもみな、罪の意識はあまりない。
自殺未遂をした生徒はいつもおどけていて、頼まれることがうれしそうに見えたためだ。
ひとりの生徒は、親友だった自分が最後にポテトチップを頼んだことが、
自殺への後押しをしたと悩んでいる。

長身で無口、事件が表面上終わったかに見えた場所にやってきて、
過去の事件を蒸し返し、人々の偽善を暴く。
そんなこの臨時教師の姿を見ていて、僕はクリント・イーストウッド主演の西部劇『荒野のストレンジャー』を思い浮かべた。
名前のない男がある町にやってくる。
その町では住民たちが、かつて保安官が無法者たちになぶり殺しにされるのを見過ごしていた。
名無しの男の存在は、町の人々の心を不安にさせる。反省する者もいるが、自分を正当化しようとする者もいる。
この『青い鳥』の臨時教師も、何も言わず、ただ毎日反復する行為が、
心にやましさを感じる人々に、過去に自分のしてきた行為を思い出させる。

意外だったのが、ふつうの映画なら、教師は過去に傷を負った生徒たちを癒していこうとするが、ここでは逆なことだ。
「自殺未遂をした少年にしたことは、一生忘れるな」と言うのだ。
人生においては、何も「なかったこと」にするなんでできない。
それを背負って生きていくしかない。それが「大人になること」と言い換えてもいい。
いじめられた人間は、一生そのことを忘れられないかもしれない。
ならばいじめた方も、そのことを忘れたりせず、その後悔や嫌な思いを一生背負っていくことで、償いになるのだ。
そしてそれは、二度と同じことをしないためへの糧でもある
吃音の教師は、言葉少ないが、ひとつひとつ言葉を選んで、生徒の心の叫びに真摯に向き合う。
反省を無理強いするのではなく、何をしたのか時間をかけて気づかせるのだ。
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by mahaera | 2008-11-11 16:22 | 映画のはなし | Comments(0)
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