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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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グレアム・グリーンの 『情事の終わり』 を読む

タイに行く前から読み始めていたが、取材で読むのを一時中断していたグレアム・グリーンの『情事の終わり』を読み終わる。

グレアム・グリーンは1940~60代にかけて英国で人気を得ていた流行作家で、その多くの作品が映画化されている。
『第三の男』がもっとも有名なものだが、あれは映画用の原作を依頼されて書いたものだ(脚本も)。
映画化作品には『堕ちた偶像』、『愛の落日(おとなしいアメリカ人)』などがあるが、この『情事の終わり』も、『ことの終わり』として映画化されている。

この小説を読もうと思ったのは、もちろん映画化の『ことの終わり』を観て、気に入っていたからだ。
『ことの終わり』の監督はアイルランド出身のニール・ジョーダン。
『ブレイブ・ワン』のような駄作も作るが、『モナリザ』、『クライング・ゲーム』、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』、『プルートで朝食』のような僕のお気に入りの作品も多い。
主人公の作家には、才能はあるが独善的な男の役を演じさせたらうまいレイフ・ファインズ。
その愛人には、ジュリアン・ムーア。

舞台は第2次世界大戦中から戦後にかけてのロンドン。
主人公の流行作家モーリス(グレアム・グリーン自身がモデル)は、高級官僚の生活を取材中、知り合った官僚の妻サラを好きになり、不倫の関係になる。
空爆が続くロンドンで、2人は深く愛し合い、密会を重ねるが、ある日を境に、サラはもう彼に会わないと言い出す。
彼女も自分を愛していると思っていたモーリスは怒り、そして誰か他に男がいるのかと激しく嫉妬する。
そして会わないまま2年がたち、戦争も終わる。
ある夜、モーリスは公園にたたずんでいる彼女の夫を見かける。
彼女の夫は、自分の妻にはほかに好きな人がいるのではないかと打ち明ける。
モーリスは嫉妬し、探偵をやとって、サラの行動を探る。
そして彼女の日記を手に入れ、ことの真相を知る。
サラはモーリスと別れたあとも、彼をずっと心から愛し続けていたのだ。
しかし、空襲のあった夜、ある事件がきっかけで、彼にもう会わないことにしていたのだ。
モーリスはまた自分とつきあうようにサラに言うが、彼女は拒む。
そして数週間後、彼女は病気で帰らぬ人となる…。

おおよその筋は原作も映画も同じだが、語り口は異なる。
小説はほとんどが、彼の独白。そして残りがサラの日記の抜粋から。
つまりすべてのできごとが、主人公である作家を通して語られているのだ。


以下、ネタバレ注意。映画を観る予定の方は、みたあとに。


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なぜ、彼女はもう彼に会わないことにしたのか。
空襲のあった夜、爆風を受けたモーリスは意識を失う。それをみたサラは神に祈る。
「神様、もしあの人の命を助けてくれるなら、私はもう二度と愛するあの人にあえなくてもいいです」
偶然か、祈るサラのもとへ意識を取り戻したモーリスが戻ってくる。
その姿を見たサラは自分の願いが聞き届けられたと信じ、悲しい気持ちになる。
彼が無事だということは、もう彼に会ってはいけないということなのだと。

「苦しいときの神頼み」という言葉があるが、われわれも大変な事態に陥ったときに、神様についお願いしてしまう。そして「もし叶えてくれなら、何々をやめてもいい」と交換条件を出したりもする。
別にふだんから信心深いわけでもないのにだ。
また、それは神を試す行為であるのかもしれない。
望みがかなったら神の存在を信じ、かなわなかったら「やっぱり神様なんていないや」と。
サラは、モーリスが意識を取り戻したことを「奇跡」だとすぐには思わないが、かといって約束を破ることもできない。信心深くもないし、ふだんは神を特に信じてもいないサラだが、「偶然」とも言い切る自信もないからだ。

自信のないまま、彼女は無心論者の説教を何度も聴きに行く。
「神などいない」とわかれば、愛するモーリスに自信を持って会えるからだ。
しかし、「神などいない」という説教を聞けば聞くほど、彼女はそれを否定したくなる。

日記を読んだモーリスは、彼女に無理やり会い、「神なんていない。これから2人で暮らそう」と打ち明けるが、彼女はそれを拒否する。
数週間後、彼女は病に臥し、帰らぬ人になる。
いまやモーリスの嫉妬の相手は「神」になる。彼女を奪った神を憎む。
しかし、そんな彼の前に「小さな奇跡」が。
彼は動揺する。自分の無神論がぐらついていく。

映画と小説の大きな違いは、映画でははっきりと「奇跡」として描いているところが、小説では単なる「偶然」に取れるように描いていることだろう。これは無神論者の主人公の独白なので、そうならざるを得ない。
映画では「奇跡」という大きな出来事も、小説ではさらっと書かれている。だが、わざとさらっと書いている(主人公は奇跡と思っていないので当然だ)のであって、映画はそれをわかりやすく表現したと思えばいい。

恋愛サスペンス映画かと思ってみていたら、最後の十数分で「宗教映画」になったという意外性。
同時期に観た傑作『奇跡の海』もそうだった。
伏線はあったが、最後の数分まで、これが「奇跡」=「神の存在」の映画だとは、まったく思っても観なかった。
ここでいう「宗教映画」とは「キリスト教映画」というのではなく、もっと普遍的な「偉大なる者の存在」を感じさせるという意味だ。
だからこの『奇跡の海』も、また『ことの終わり』も、宗教を持たない僕にとって、キリストの伝記映画よりも、ずっと神について考えさせてくれる映画だった。

実際、「奇跡」と「偶然」はほぼ同じことだ。
ある日、ちょっとしたことで電車に乗り遅れ、その電車が大事故を起こしたら。
事故で隣の席の人が死んだのに、自分だけ助かったら。。
人は考えるはずだ。生死を分けたものはなんだったのかと。
そしてもっともらしい説明をつけられても、納得はいかないだろう。

同じことでも偶然には、神の意思が感じられない。
数年前に、五千人近い死者を出したインドネシアの地震の取材に行ったと。
その時、生き残った人たちの中には、宗教的な体験を口にするものもいた。
別にそれまで彼らがとくに信心深かったわけではない。
しかし隣の家の者、あるいは同じ家にいた自分の家族が死んだのに、なぜ自分が助かることが出来たのか。
そんなのは誰も説明できない。
そして地震から数日たち、ふと神に感謝している自分に気づいたと彼らは言った。

この『情事の終わり』では、主人公の恋人サラがそうだ。
彼が意識を取り戻したときよりも、それをきっかけに、日々、「神の存在」を感じる気持ちが強くなっていく。
主人公は単なる偶然だという。
映画の最後のほうで、もうひとつの「奇跡」が示されるが、小説ではやはりそれはさらっと描かれている。ただ、主人公の信念がぐらついていくことを案じさせているのみだ。
正直言って、小説でははっきりしない分、物足りなかったが、まあそれはそれでいいのだろう。
訳が古いので、多少読みにくいが、重量感のある小説だった。
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by mahaera | 2009-10-09 14:58 | 読書の部屋 | Comments(0)
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