1作目、2作目と、ダメだダメだと思いつつ、公開終了近いというので、『20世紀少年・最終章』をレイトで観にいく。
今までの『20世紀少年』シリーズの評価は、僕の中では1作目が40点、2作目が50点ぐらい。でも邦画の中ではマイナス点のものもあるので、そんなにひどくはないかも(笑)。
しかし毎連載最後に次に引っ張るため盛上げる浦沢マンガをそのままダラダラ追っていく作りは、映画にすると失格。最後の盛上げどころが盛り上がらなくなってしまうのだ。ハリーポッターシリーズなんかがそうで、幕の内弁当みたいに盛り込みすぎ。途中でハリーたちが何を追っているのか、何が謎なのか、敵って誰だっけ?という感じになってしまう。
で、この『20世紀少年』も、そんな意味では映画というよりテレビシリーズ向け。原作に忠実なのがいけないというのではない。長編を映画にする場合、そのメッセージやニュアンスをバラして、一度再構築しないと映画としては成り立たない。そのいい例としては『ロード・オブ・ザ・リング』があげられる。あれは原作そのままではないが、原作ファンも納得できるように、構成を再構築している。他のところに出てきたセリフを転用していても、世界観や登場人物の性格に沿っているので違和感ない。
さて、この『20世紀少年』シリーズだが、映画にするにはいらない要素が多すぎる。原作者としてはどのキャラクターにも愛着があり、切りたくないのはわかるが、そこは「映画は映画」でバッサリして欲しかった。あとは出だしは身近なところから始まるのだが、話がどんどん大きくなっていくにつれてリアリティ(映画の中での)がなくなっていき、「ともだち」が世界大統領になるのも説得力がない。「世界」というスケール感がないのだ。
もともと、「ともだち」の世界観は、自分の住んでいた町と小学校時代の知り合いに左右されるレベルなので、「世界征服」といっても広がりがない。そこから脱却しないと、実際に世界征服なんかできないわけで(統治するには莫大なエネルギーが必要)、そこはあくまで小学生レベル。まあ、設定が「小学生が世界を征服したら」ということなので仕方がないのだが、ちょっとリアリティを感じさせる色付けが欲しかった。
まあ、これから見る人もいると思うがネタバレします(以下、見ていない人は見ないでね)
「ともだち」の正体は? というのがこのシリーズの大きな謎だが、その「犯人探し」に関して浦沢直樹はあまり意味がないと思っていたのでないか。というのもそれは「意外な人物」ではなく、「存在感がなく、みんなが記憶から忘れていた人」だったのだから。つまり自分の記憶にないような存在感のない人だったら誰でも良かったと思う。しかしそれじゃ物語は引っ張れないので、その謎を随所に見せて引っ張っていった結果、長い原作連載中にあちこちに矛盾や、後から付け足した感が出てきてしまった。原作は、僕は途中までしか読んでいないが、掲示板などを見ると「ともだち」の正体の説明は、映画とはニュアンスが異なるらしい。
で、その存在感のない少年が、クラスの人気者のケンジに対して嫉妬と憎しみを抱いたことから、世界征服と人類大虐殺へと向かうのだが、そのスケール感たるや、すべてのことが小学校のクラスと町内に収まる範囲。やっぱり小学生の考えることなのだ。でもこれは「浦沢直樹が小学生レベル」ということではない。「小学生レベルのまま、巨大な力を持ってしまったら」という発想で物語を作り続けていたわけで、それは承知の上。それを読者にもわかりやすくするために、「よげんの書」という小学生が書いたものを持ち出しているのだ。あれがなければ物語を読んでいる人たちは、「何か幼稚だな」と感じてしまうからだ。
たぶん、当初はオウム真理教によるテロや、世紀末への不安を感じる風潮から始まった物語だと思うのだが、連載途中で「新興宗教の危機」も風化し、テーマを軌道修正していったのだろう。
で、僕はこの映画を観終わったあと、この映画の世界すべてはケンジの妄想じゃないかと考えた。それも中学生ぐらいの。ケンジの成長は、ロックに夢中になって学校でTレックスをかけたぐらいで止まっている。そう思うと、この物語に「セックス」がほとんどないのも納得。「男女の恋愛」や、「大人の生き方」もない。マンガだからといってしまえば身もフタもないが、意識的に避けていのだろう。
中学生のケンジが、「20th Century Boy」を校内放送で流したあの日、帰りに車にはねられて昏睡状態になり、その中で見た夢。それがこの作品だと。
まあ、それも僕の妄想ですが。しかし映画のラストのロックコンサート。僕はちっとも盛り上がらなかったゾ。