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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・グラッドストンVSディズレーリ その2 1850〜1867

日本の議会政治はイギリスをモデルにしたので、最大与党が内閣を作る責任内閣制だ。
だから強い権限を持つ大統領もいないし、立法と行政をする人が同じなので、きっちり三権分立になっていないところがある。
きっちり分けるなら、内閣に参加している人は立法に参加できないよう議員を辞めるべきなのだから。
さて、イギリスの議会政治の歴史を見ていると、いろいろ参考になるところが多い
今回も、19世紀後半の二大政治家、グラッドストンとディズレーリの対立を軸に話は進む。

1850年、再びディズレーリのいる保守党に政権が回ってくる。
人材不足で、脱退したグラッドストンに外務大臣の地位を与えることで呼び戻そうとしたが拒否される。
保守党は、いまだ保護貿易にこだわっていたからだ。
もう保護貿易は時代遅れであることは理解していたディズレーリだが、党内の保護貿易派をうまく抑えることができなかった。
そのためディズレーリの出した予算案は、自由貿易で損害を受けたとする地主を税制で優遇し、その分減った税収を所得税と家屋税で賄うという妥協的なものだった。
これをグラッドストンが論破し、ディズレーリ案は否決。
内閣は総辞職し、この最初の両者の戦いではグラッドストンが勝ち、庶民院のリーダー的存在になる。
しかし閣僚としては短命に終わったディズレーリも実力者として認知されるようになり、今度は野党第1党で攻撃的な人物として名をはせるようになる。
Wikiによれば、「野党第1党の使命は政府の法案になんでも反対することという現象を世界で初めて確立した者」と記されている。
一方、グラッドストンは新内閣で大蔵大臣になり、関税の多くを廃止するが所得税は増額せず、その分、相続税を導入することでまかなうという新予算案を提出。
これは地主に負担を強いるものの、幅広い支持を受けて予算案を通すことができた。

1853年、ロシアとトルコの間にクリミア戦争が起き、英仏は
ロシアの南下政策を抑えるために、トルコ側に立って参戦した。
しかし戦況は良くなく、野党のディズレーリが糾弾し、
グラッドストンのいた内閣は倒れる。
新たにできたホイッグ党のパーマストン内閣強硬な外交姿勢を打ち出した。
1856年にはパーマストン内閣は清に言いがかりをつけてアロー号戦争(第二次アヘン戦争)を起こす。
人道的見地からグラッドストンのいるピール派や、
ディズレーリの保守党も批判にまわるが、
戦争に勝っているパーマストン内閣は解散総選挙に出て圧勝してしまう。
今も昔も、戦時は与党が支持されるのだ。
ついでインドで起きた「インド大反乱」では、
反乱インド人の残虐行為が過度に喧伝され、
パーマストン内閣の強硬姿勢は支持される。

1858年、ようやくパーマストンの失策を見つけたディズレーリは内閣を総辞職に追い込み、1858年に保守党政権を成立させる。
それに対抗してグラッドストンのいるピール派はパーマストンのいるホイッグ党と合流して新たに「自由党」を結成
次の選挙に打ち勝つ。それまで散々非難していた敵と組み、
大蔵大臣になったグラッドストンは非難を浴びるが、
グラッドストンはかつて心を痛めたイタリア王国統一問題
パーマストンと意見があったからだと述べている。
イタリアが統一し、次にグラッドストンは関税の廃止に努める。
数百あった物品の関税を48品目までに減らすと、輸出は大いに伸び、イギリスの物価は下がっていった。
また、印刷物にかかっていた「紙税」も廃止
税収は一時的に減ったが、好景気で人々の所得が上がったので
やがて所得税収入が上がり、チャラになったという。

この自由党内閣は6年続いた。
その間ディズレーリは長い野党暮らしをすることになった。
この間、彼にとっていいことは、友人から巨額の財産を相続し、
借金を返済できたことだろう(笑)。
1866年、選挙法改正法案が出される。
これは選挙権をぐっと下に下げ、都市の熟練工にまで広げようとするものだった。
ただし、議会では次第に選挙権を下げていくことはきりがないという不安が広がっていた。
ディズレーリはその不安を捉えて、
「グラッドストンはすべての人に選挙権を与えようとしている」と煽る。
当時のイギリスでは、選挙権を与えていくと、
やがてフランスのように衆愚政治に陥り、ナポレオン3世のような独裁者現れるのではないかと恐れていたためだ。
こうして選挙法改正は挫折したが、激怒した国民は大規模なデモを起こし、グラッドストンは国民に英雄視され、家の前には激励の人々が1万人も訪れたという。

代わりに政権を担ったダービー内閣に、ディズレーリは再び大蔵大臣として参加。
そして彼主導で新たな選挙法改正案が出された。
当初、それはわずかしか有権者が増えないもので、グラッドストンに大批判を浴びる。
シンプルなグラッドストン案が出されるが、それも否決。
ディズレーリが出した改正案はさまざまな条件をつけた面倒なものであったが、これは他の急進派にも非難を浴びた。
そのため少しずつ妥協して修正するうちに、
最終的には「戸主であれば納税者でなくても選挙権あり」となり、
最低納税額を定めたグラッドストン案よりもむしろ有権者を増やすという珍妙なことになってしまった。
グラッドストンもこの件に関しては不思議がっていたが、
きっとディズレーリは法の中身より、法制化したのが自分や保守党という実績を残したかったのだろう。
Wikiによれば、「新有権者に向かって、『私があなたたちに選挙権を与えた』と言ったディズレーリに、新有権者たちは『ありがとう、ミスター・グラッドストン』とヤジを飛ばした」とある。
この改正で有権者は、一挙に倍に増えた。

1867年、グラッドストン、自由党党首に就任。58歳。
1868年、ダービー伯爵引退に伴い、ディズレーリが保守党内閣の首相に就任し、第1次ディズレーリ内閣成立。64歳
こうして両者とも各党のトップに立ち、政治家として脂の乗り切った時期になり、対決姿勢を強めることになる。

つづく
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by mahaera | 2016-07-10 15:57 | 世界史 | Comments(0)
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