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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・グラッドストンVSディズレーリ その4 1875〜1898 最終回

1874年に発足した第2次ディズレーリ内閣時代は、
表面上は引き続きイギリスの黄金時代だった。
1877年の露土戦争後の1878年のベルリン会議で、
領土的野心を燃やすロシアをうまく抑えこみ、ロシアにドイツへの
不満を抱かせることに成功したことは前回述べた。
その前年の1875年、破産しかかったエジプト副王が所有のスエズ運河株をフランスに売るという情報を、ディズレーリは掴む。
そこでロスチャイルドにお金を融資してもらい、その全株を購入。
イギリスはスエズ運河の最大株主になった
以降、財政破綻したエジプトは、債権国のイギリスの保護国化していく。

1876年にはヴィクトリア女王の希望で、彼女をインド皇帝として戴冠させる。
この時、なんでイギリス皇帝を名乗らなかったかだが、
イギリス人の中では「皇帝」という称号は評判が悪く、
ナポレオン1世や3世、メキシコ皇帝マクシミリアンなど、
その末路を考えると、「皇帝は不吉」ということがあったようだ。

1878年、ベルリン会議の年には、第2次アフガン戦争が起きる。
これは政府の方針ではなく、インド総督リットンがロシアを
牽制するために独断でアフガンに侵攻してしまい、後に引けなくなったため。
最終的に勝ったイギリスは、アフガンの王を言うことを聞く新王にすげ替えた。

南アフリカでは、1877年にボーア人(オランダ系)の
トランスヴァール共和国を強引にケープ植民地に併合。
しかしトランスヴァール国民の多くは納得せず、
のちに独立戦争を起こすことになる。
トランスヴァール共和国を取り囲むような形であったのが、
ズールー族の国だった。ズールー族の反発は高まったが、
ディズレーリはすぐにことを構えようとは思わなかった。
アフガン戦争やベルリン会議で忙しかったからだ。
しかし英国の現地のトップがまたも功名心にかられ、
1878年12月に勝手にズールー族に最後通牒を送りつけ、
そして1879年1月に開戦してしまった。

最初のイサンドルワナの戦いでは、槍と盾しかないが士気が高いズールー族がイギリス軍を打ち破った。
この出来事は逆にイギリス国民に「報復を!」と戦争の遂行を求めることになってしまった。
ディズレーリら政府は、まんまと戦争に引きずり込まれてしまったのだ。
政府はズールー族と交渉の用意があり、ズールー族の土地の併合を禁じたが、イギリスの新しい司令官が来る前に更迭された司令官がズールー族を攻めて、今度は大勝利を収めた。
こうしてズールーランドもイギリス植民地に併合された。
英国の死者1700人、ズールー族1万500人。

一方、1876年ごろから不況の波が欧州に押し寄せていた。
それまでの好調をよそに失業率が上がり、農業も不作が続いた。
保護貿易か自由貿易かで保守党が割れている間、
自由党のグラッドストンは各地で遊説をして巻き返しを図っていた。アフガン戦争やズールー戦争の不手際も、グラッドストンの非難するところだった。
1880年の総選挙で、保守党は100議席近くを自由党に奪われて敗北し、第二次グラッドストン内閣が発足することになる。
ヴィクトリア女王は、お気に入りのディズレーリが
去ることを悲しんだという(女王はグラッドストンが嫌いだった)。

1880年発足の第2次グラッドストン内閣はさらに選挙法の改正を進め、1884年の第3次選挙法改正でほぼすべての成人男子にまで選挙権が拡大された。
外交では、ディズレーリ時代の戦争を批判していたグラッドストンは(と言ってもディズレーリが進んでというより、強硬な現地政府に引きずり込まれたのだが)、1880年にはアフガニスタンを保護国化するものの軍隊を引き上げる(内政にはノータッチ。ロシアの味方をしなければそれでいい)。
南アフリカでは、併合したトランスヴァール共和国が独立を求めて戦争を始めると(第1次ボーア戦争)、グラッドストンは反対派を抑えて、トランスヴァール共和国の再独立を認める

しかし1881年にエジプトで起きたオラービー革命(立憲革命を求めた軍人)は別だった。
本来は、自由主義者のグラッドストンはエジプトを制圧するつもりはなく、新政権を認めようとしたが、革命が過激化して英国人が虐殺されると、戦争になるしかなかった。
結局は鎮圧してエジプトをイギリス単独の統治下に置く。

それが済んだと思ったら、今度は1882年にはスーダンでマフディー(救世主)を名乗るムハンマド・アフマドの乱が勃発。
しかしグラッドストンは戦う気はなく、国民に人気の高いゴードン将軍をエジプト軍撤退のために送り込むだけにする。
しかしハルツームに送り込まれたゴードンは戦う気満々で、援軍を求めるために自ら包囲されたように見えた。
国民や女王から「ゴードンを救え!」と声が高まり、ついにグラッドストンは折れて援軍を送るが、間に合わずゴードンはマフディー軍に殺されていた
世論はゴードンを見殺しにしたグラッドストンを非難するが、グラッドストンは復讐の軍を送ることはなく、スーダンを放棄した。

こうした植民地帝国主義に反対するグラッドストンの主張は今でこそ正しく感じられるが、この帝国主義の放棄は1882年の段階では、逆に世界に混乱をもたらすものになってしまった。
「イギリスは弱腰」と見たドイツとフランスが揃って海外植民地を作り出したからだ。
1884年のビスマルク主導のベルリン会議では、アフリカを列強で分割することが決まる。
そしてここから10年あまりで、残った世界の土地は太平洋の島に至るまで、あっという間にヨーロッパの国々に分割されてしまう。

一方、ディズレーリは1880年に首相を辞任した後、自分をモデルにした小説を発表
1881年3月22日、帰宅途中で雨にぬれたことから風邪をひき、
それが元で4月19日に帰らぬ人になる。76歳。突然の死だった。
ヴィクリトア女王は葬儀に参列したかったが、
当時のイギリスでは君主が臣民の葬儀に出席することは禁じられていたため、それは叶わなかった。
グラッドストンは、政策面では対立していたものの、その人格を讃える演説を行った。

「帝国主義」を始めた人物としてディズレーリは教科書に出てくるが、彼自身はもともとは小英国主義で、積極的な植民地主義者ではなかった。
しかし彼は信念の人問より、国民の意向を組み上げるタイプの政治家だった。
1868年からイギリス国民は安定を求めて保守化し、収入はともかく志向が中産化していった。
また、労働者層も完全に帝国主義を求めていた
他国の人々の自由より、自分たちの雇用の方が大事だったのだ。

そしてディズレーリの時代は、ちょうどイギリスが世界一の大帝国のピークを降りかけている頃だった。
1870年代から、世界の工場としての地位はアメリカに、
重化学工業もまもなくドイツに抜かれ、世界のあちこちではロシアがイギリスの勢力範囲に進出しようとしていた。
超大国の時代が過ぎようとしているからこそ、人々はより強気な外交を求めたのだ。

キリスト教的な理想主義者グラッドストン、
ユダヤ人だがイギリス国教会教徒で現実主義者だったディズレーリ。
有数の金持ちで一流大学を首席で卒業したグラッドストン、
作家の息子で借金まみれで選挙も何回も落選したディズレーリ。
グラッドストンは23歳で国会議員になったが、
ディズレーリは33歳だった。
対照的な二人だったが、変革期のイギリスを引っ張っていった偉大な政治家だろう。

グラッドストンはのちにアイルランド自治法案に力を尽くしたがかなわず、またドイツの脅威が迫る中、海軍増強に反対するなどして「平和ボケ老人」として国民の人気を失っていく。
64年の議員生活を送り、1894年に引退した。
亡くなったのは1898年5月19日。88歳だった。
ヴィクトリア女王はグラッドストンが嫌いだっため、弔辞を求められたが拒否している。■
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by mahaera | 2016-07-13 11:51 | 世界史 | Comments(0)
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