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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・第一次世界大戦後の中国と日本

現在、何かと話題の多い日中関係だが、
今回は第一次世界大戦とその直後の日中の歴史、
つまりちょうど100年ぐらい前の話をまとめてみた。

第一次世界大戦は主に欧州で行われた。
アジアでは、せいぜいドイツ領が点在するぐらいだったが、
日英同盟のよしみで、1914年に日本は連合国側で参戦。
ドイツ領の青島を占領し、山東省のドイツ利権を奪う。
1915年には、悪名高い「21カ条の要求」を中国(北京の軍閥政権)に要求。
これはどさくさに紛れて日本に一方的に得する条約だったが、
欧米は欧州で手一杯だったから、アジア地域に構っている余裕はない。中国の軍閥政府はそれをのむしかなかった。
そして遅れて1917年に北京政府も連合国側で参戦。

第一次世界大戦中、欧米からの貿易量が激減したことは、
アジアに大きな影響を与えた。
なんといっても、一番得したのは日本だ。
欧州から来なくなった製品に代わり、
日本の工場製品が売れに売れた。
特に紡績関係は目覚ましく、イギリスに代わってインドに食い込み、戦後はそれが問題になったほどだ。
貿易黒字は、日露戦争の借金を穴埋めするのに多いに貢献した。
第一次世界大戦の日本軍による死者は100人程度ですんだ(ロシアと比べて何桁も違う)が、
ドイツが持っていた中国の利権や太平洋の島々を手に入れた。
日本とドイツとの戦いはすぐ終わったが、
今度はロシア革命が起き、欧米諸国とともにロシアに干渉し、
シベリア出兵を行う。
ここでも欧州で手いっぱいの欧米は、
日本をうまく使い、革命ロシアをけん制した。

1919年、戦争は終わり、パリ講和会議が開かれる。
中国の民衆はドイツが利権を持っていた山東省を
そのまま日本が引き継ぐのではないかと憤り、
北京大学の学生を中心に「五・四運動」が起きる。
「青島を返せ!」と。
孫文の立ち上げた中華民国は、軍閥によって骨抜きにされていたが、この頃には次の世代の民衆運動が生まれ始めていた。
中国も日本同様、第一次世界大戦中に欧米からの工業製品が入らなくなったので、国内の工業化が進み、民族資本が育っていた。
「都市労働者」という新しい層が中国にも生まれていたのだ。
もちろん共産主義も、当時一番新しい思想として広まっていた。
こうした民衆運動を見た孫文は、軍閥と提携して国をまとめるのではなく、民衆運動を盛り立てて国を統一しようと考えを改め、
1919年10月に「中国国民党」を設立。
その前の7月、欧米の脅威を受けていたソヴィエト・ロシアは、
孫文に接近。
信頼を得るために「カラハン宣言」を行う。
これはどういうことかというと、帝政ロシア時代に侵略によって得た領土と賠償金を中国に返却するというもの。
中国人は今まで列強にメタメタにされてきたので、
「ロシア、ありがとう!」と一気に親ソになる。
追い打ちをかけたのが、その1週間後に発表された
ヴェルサイユ条約だ。
そこでは「山東省のドイツ利権は日本が引き継ぐ」と宣言。
「何にも変わらないじゃないか!」と、
中国人が怒るのも無理はない。
敵は帝国主義だと。
こうしてソヴィエト・ロシアの共産主義と中国の民族主義が連携する方向へと向かう。

第一次世界大戦中、欧米は勝つために世界中の民族主義を煽ったが、戦争が終わると戦前の状態に戻すために、
今度はそれを沈静化させようとしていた。
しかし、一度火がついたものはそう簡単に消えるものではない。
インドでも、トルコでも反帝国主義の民族運動が盛んになった。
1919年には朝鮮の「三・一運動」、中国の「五・四運動」、
インドの「非暴力・不服従運動」が起きた。

高揚したアジアの民族運動を抑えるため、1921年、
今度はアメリカ主導でワシントン会議が開かれる。
この会議のもう一つの目的が、日本問題だった。
今まではソヴィエト・ロシアを抑えるために日本が必要だったが、もうソ連を抑えることは不可能となった。
そして日本は中国に進出しすぎた。
日本と連携する必要はなくなった米英は、バランスをとるために「山東省の旧ドイツ利権は中国に返還」するが、
中国側が要求した「治外法権の撤廃」「関税自主権の回復」
「外国軍の撤兵」は拒否する。
しかし日英同盟も破棄され、日本はイギリスの後ろ盾を失った。
また、各国で海軍軍縮条約が結ばれる。
日本の軍部はこれに大いに不満だったが、すでに戦争も終わり、
好景気も過ぎようとしていた。
軍備費が日本の国家財政を圧迫し始めていたので、
日本政府はむしろ歓迎したようだ。

さて戦争が終わった今、中国の民族運動の後押しをしてくれるのは、ソヴィエト・ロシアぐらいだった。
中国では1921年に中国共産党が結成され、
1924年に第一次国共合作が成立。
「敵は軍閥にあり」と国内統一に向けて動きだす。
この年、指導者養成学校である黄埔軍官学校が設立された。
校長に就任したのは蒋介石、そして副校長が周恩来だった。
時代はポスト第一次世界大戦に動き出していた。
by mahaera | 2016-09-12 08:54 | 世界史 | Comments(0)
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