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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・冷戦の時代 〜スターリンの死とマッカーシズム(1950〜1954年)

子供に教えている世界史・冷戦の時代
〜スターリンの死とマッカーシズム(1950〜1954年)

1953年3月5日、ついにスターリンが死んだ。

国内では大粛清、海外では人命を無視した人海戦術と、多大な人間の犠牲を払った“ヒトラーをしのぐ20世紀最大の極悪人”との評価もあるが、生まれたばかりの共産国家を存続させ、
世界の超大国にのしあげた功績もある。
非常に猜疑心の強い人で、
晩年にはそれは病的なほどになった。

3月1日、スターリンは幹部のペリヤやフルシチョフらと打ち合わせをしたあと寝室に戻り、そこで脳卒中で倒れた。
翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンが現れなかったが、
周りは眠りを妨げられたとスターリンが怒ることを怖れたため、倒れているスターリンが発見されたのは午後になった。
幹部たちが呼ばれたが、医者も呼ばずに寝かせるだけど、
みな適切な処置をとることはしなかった。
というのも、スターリンはそれまで幹部たちを何度も粛清しており、また次の粛清が噂されていたので、誰もがスターリンはこのまま死んでくれる方がいいと内心思っていたのだ。

第17回党大会に出席した中央委員140人中、
生き残れたのはたった15人。
ロシア革命の古参の革命家や優勝な将軍たちは、
彼の時代にほぼ全員粛清されていた。
また、粛清を実行したNKVD(公安、のちのKGB)も例外ではなかった。
トップが代わると、NKVDでさえ、
前任者やその息がかかったものは軒並み粛清された。
粛清で死んだソ連人はおよそ300万人。
また、強制移住や政策の失敗による飢饉で
1000万人ほどが死んだ。

スターリンにより「共産主義=個人独裁ファシズム」という
悪しき前例が確立し、またそれが「粛清」を生み、
「共産主義」を恐れる人々が増えたことは確かだ。
とはいえ、スターリンがいなければ
ソ連はドイツに降伏していたろう。
そうなれば連合国はドイツに勝つこともなかったろう。

スターリンの死により、ソ連のトップはそれまでの個人独裁体制から集団指導制へ変わる。
共産党の代表がフルシチョフ第一書記長、官僚組織の代表がマレンコフ首相、軍人の代表がブルガーニン。
この三人がソ連を切り盛りする、
いわゆる「トロイカ体制」に移行する。
これがその後、「雪どけ」を生む。

一方、アメリカでは大統領はトルーマンから、
第二次世界大戦の英雄アイゼンハワーに変わっていた。
20年ぶりの共和党政権で、しかも久しぶりの軍人出身の大統領で、第二次世界大戦の勝利から国全体に軍人を盛り上げる動きもあったのだろう(ジョン・ウエインが活躍するような戦争映画もたくさん作られた)。
アイゼンハワーは、トルーマンの「封じ込め」政策が甘いとし、いわゆる「巻返し」政策を取り、冷戦は続行されていく。

戦後のアメリカは空前の景気で、世界一、豊かな国だった。
アメリカの繁栄は、大衆消費社会によって支えられていた。
戦争によって抑えられていた消費支出の拡大、
ベビーブームによる人口増加、新しい技術による新製品‥。
世界中の投資が集まり、その集まった金をIMFや世界銀行の設置などでドルを世界中にばらまき、
自由貿易世界は一気に広がっていた。

一方、戦後一気に下がった軍事予算だが、
そのマネーをバックに次第に上がり、
1950年に朝鮮戦争が始まると、
戦時の7割にまで増額されている。
軍需産業は国内でトップランクの産業になっていたのだ。
政府は「通常兵力を増やすよりも核武装の方が安上がり」という、軍部と軍需産業体の意見を聞き入れ、
戦術核やミサイルを発注する。

冷戦が確実となった1947年、アメリカでは労働組合活動を制限するタフト=ハーレー法が制定される。
つまりストライキを取り締まる法律だ。
ルーズベルトの政策(ニューディール)を受け継いだトルーマンは拒否権を発動したが、好景気に支えられた議会が2/3以上の賛成をし、押し切られてしまう。
豊かになった中産市民は保守化し、
もはや労働者に連帯を感じなくなっていった。
同年、アメリカ中央情報局(CIA)とペンタゴン(国防総省)も設置。
「国家安全保障会議」が設置され、安全保障は大統領・副大統領・国務長官・国防長官(ここまでは政府)に、統合参謀本部議長(軍人のトップ)とCIA長官が顧問として加わるというシステムができる。
同じ1947年、アメリカはアメリカ大陸を“共産主義から守るため”、「リオ協定」で反共軍事同盟を結成。
これが翌1948年の「米州機構(OAS)」に。
しかし、のちにラテンアメリカ諸国のいくつかはアメリカに反旗を翻す。

アメリカ国内では1947年から非米活動委員会が設置され、「赤狩り」が活発化した。
戦後まもなくは、ソ連のイメージは同盟国として良かったにもかかわらず、このころから一気に「共産党=ソ連=反米」となり、多くの共産党員が社会から追放された。
赤狩りはハリウッドにも及び、議会への召喚や証言を拒否した10人の映画関係者は、業界から追放された(ハリウッド・テン)。
その中には僕が何度も取り上げている脚本家のダルトン・トランボもいる。
ハリウッドの中には進んで“共産主義者”たちを告発する俳優(ロナルド・レーガン、ジョン・ウエイン)、仲間を裏切り告発する回った側(監督のエリア・カザン、ウォルト・ディズニー)、赤狩りに反対運動を続ける俳優(ハンフリー・ボガード、グレゴリー・ペック、カーク・ダグラス)に分かれ、それぞれに深い傷跡を残した。
「ユダヤ人に共産主義者が多い」というイメージから、ユダヤ人差別も横行した。
ハリウッドのスタジオのトップの多くはユダヤ人だったため、身の潔白を証明するためにも、赤狩りに協力を強いられた。
チャップリンも“容共的”とアメリカから追放される。
『殺人狂時代』で戦争を批判したことが原因という。
(ちなみにチャップリンはイギリス人)

この赤狩りのピークが、「マッカーシズム」だ。
1950年、共和党の上院議員のマッカーシーが、
「国務省(日本で言えば外務省)にいる205人の共産主義者のリストを持っている」と発表。
当時、次々とソ連のスパイが検挙されていたたため(ローゼンバーグ事件など)、マッカーシーのアジテーションは国民の多くの支持を集めた。
そのリストの人数はコロコロ変わったが、
密告が横行し自白が強要され、アメリカ社会は分断した。
マッカーシーの真の目的は、共産党員やスパイの排除ではなく、国内のリベラル派の排除だった。
それを危惧する共和党員もいたが、彼の人気に乗って選挙で共和党が勝ち、アイゼンハワーが大統領に選ばれたので、
誰もマッカーシーを止めることができなかった。
FBIのフーバー長官も強烈な反共主義者で、
多くの人々(議員や大統領まで)の個人情報を握り、
反対する者にはそれをちらつかせた。
アメリカの共産党運動は壊滅し、この時期リベラルは衰退。
「反米」的とみなされた人は共産党員に限らず、公民権運動家、同性愛者も同樣とみなされた。

1949年のソ連の核実験を受け、
アメリカ人はソ連の核攻撃に怯えるようになっていった。
それに対抗するため戦術核の数を増やしていって、
1950年代半ばに備蓄数を300発まで増やしていった。
空軍では、東京大空襲の指揮をとった悪名高いカーチス・ルメイ将軍(戦後、佐藤内閣から勲章ももらっている)がトップになり、「ソ連と戦争が始まれば、70都市に133発の原爆を落とし、270万人を殺す」計画を立てていた。

1952年、アメリカは初の水素爆弾の実験を
マーシャル諸島で行う。
しかし、このアメリカの優位も1953年8月にソ連が
カザフスタンで水素爆弾を爆発させてすぐに取り返される。
アイゼンハワーは大統領になると、
次第に核保有を支持するようになった。
つまり核を通常兵器として使用するということだ。
朝鮮戦争でも、再び核の使用が検討された。
アメリカは軍国主義の道を歩みつつあったのだ。
1950年代、アメリカはイギリスから帝国主義を引き継ぎ、
「アメリカ帝国」を築く。
それには、まず国民に恐怖心を与え、
多様な価値観を排除することが必要だった。
ナチスドイツだって国民に経済的繁栄をもたらし、
支持されていた。他国民やマイノリティの犠牲の上に。

荒れ狂ったマッカーシズムだが、
1953年からスパイ探しの追求先を陸軍に向けたことから、1954年にその反撃(聴問会)を受ける。
マッカーシーは人間そのものにも問題があり、
政治家としても小物で、今までそれを利用していた政府や軍部にもお荷物になってきた。
またジャーナリストのマローによる、
マッカーシーに異議を唱えるCBSドキュメントの放映もあり、支持率は急落していった。
ヒステリックになっていた国民も、
それが何年も続けば冷めていく。
行き過ぎた魔女狩りは、自浄作用によりいったん収まるが、
冷戦は激しくなっていった。
(冷戦終了後、公表されたKGBの資料により、実際に政府の中枢部にソ連のスパイがいたことは明らかになっている)
by mahaera | 2016-11-25 09:41 | 世界史 | Comments(0)
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