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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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カテゴリ:世界史( 69 )

子供に教えている世界史・番外編  「三権分立の再学習」

ここ数日、トランプ政権が出した、特定の国の人間の
入国差し止めの大統領令に対し、連邦裁判所が違憲とした
判決がニュースになっているが、これは日本に住む私たちが
日ごろ気にしていない「三権分立」が果たされている
事例として、子供にはいい勉強になると思う。


「三権分立」は私たちが小学校高学年で習う、
社会の基本中の基本だが、大人でもあまり理解していない
人が多いことは、ヤフコメをみてもよくわかる。

「大統領令にさからうなんて三権分立ができていない」と書き込む人が少ないからだ。

そもそも人の歴史において「三権分立」を憲法に最初に
定めたのはアメリカ合衆国であり、紆余曲折があっても、
それは未だに守られている。
おさらいすると、三権とは、司法、行政、立法であり、
司法は裁判所、行政は内閣(アメリカではホワイトハウス)、
立法は議会だ。

アメリカは独立時、これらに別々の力を与えることで、
中央政府の力を弱くした。
つまり王や独裁者が出現する芽を積むためだ。

アメリカでトランプ政権が生まれたとき、閣僚の人事で
議員がいないことに疑問を持った人はいないだろうか。

アメリカはこの三権が本当に分立しているので、
閣僚には議員が入れない。
大統領も議員でないから、議会で投票できない。
ここが日本と異なるところで、日本の閣僚はほぼ議員だから、
内閣で決めた政策に投票もできる。

これは日本の議会政治がイギリスを模範としたためで、
イギリスは選挙で第1党となった党が内閣を作るという、
責任内閣制をとっている。
したがって大統領はおらずトップは首相で、
国民は首相を直接選ぶことはできない。
日本も同じだ。

アメリカはそうではないから、第1党ではない政党の
大統領が生まれることがある。
そうなると大統領が出した法令を、議会が承認しないことがある
古くは大統領のウィルソンが提唱した国際連盟に、
アメリカが加入しなかったのも議会で否決されたからだ。

次に、大統領が出した政令を、
裁判所が「違憲」とする場合がある

これも世界史では、大恐慌の際にローズベルトの出した法案を裁判所が違憲としたケースが出てくる。
たとえば「全国産業復興法」は、作り過ぎを正すため企業に生産調整を依頼したり、失業者が多いのでひとりあたりの労働時間を減らしてその分雇用を増やすなどの政策だった。
これは国民の多数が賛成したが、裁判所は違憲判決を出した。

このように、裁判所は単に時流に合わせて
憲法を拡大解釈はしない。
頭が堅いところはあるのだが、時流に合わせすぎて憲法をコロコロと拡大解釈するのも、政府のいいなりになってしまう。
実際、アメリカでは日本以上に裁判所の力が強い。
政府が裁判所に圧力をかけると、司法権の侵害として逆効果になることもあるのだ。
それはまた、三権分立がうまくなされているということだ。

正直、民主主義や議会制度は面倒臭いところがある
僕のFB友達でも日本のトランプ支持者たちもおり、
彼らはもっと世の中を単純にして、
一刀両断的な政治を求めている。
次から次へと大統領令を出して、政策を実行しようとする行動力を評価しているのだ。
しかし、民主主義や議会制度は面倒くさいからこそ、
国民の感情にすぐに振り回されないようになっている。
極端に走る前にブレーキがかかる。
これはこれで、ファシズムや専制政治を止められなかった先人の知恵が盛り込まれているのだ。

あとは映画のように、世の中にはわかりやすい悪などいない
アメリカ人の半分は誰が悪者かわかりやすくしてくれるために
トランプを選んだのだろうが、そんなに世の中は簡単じゃない
そして多数決は民主主義のキモではない
もう一度、三権分立を歴史から再学習しよう。
なんのために分立しているの?と。
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by mahaera | 2017-02-07 01:44 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜 アルジェリアの独立とフランス第5共和制(1954〜1962年)

さて、フランスがディエン・ビエン・フーの戦いで、
ヴェトミンに敗北した1954年、アルジェリアではアラブ人による「民族解放戦線(FLN)」が結成され、
フランスからの独立闘争が始まる。

なぜ、アルジェリアは他のアフリカ諸国と違い、
すんなりと独立できなかったか。
他のアフリカ諸国は欧米人にとって原料提供地、
あるいは市場だったが、アルジェリアは1800年代から
多くのフランス人が入植し、「コロン」と呼ばれる
現地生まれのフランス人が大土地私有をしていた。
つまり、彼らはそこが故郷であり、
引き上げることもできなかったのだ。
コロンの数は約100万人おり、本国フランスにも政治的な影響力を持っていた。

FLNのゲリラ活動やテロ活動を取り締まる、
フランス政府の負担は増大していった。
そこでフランスはアルジェリアのイスラム教徒にも
フランス市民権を与えることで、
アラブ人の独立運動を手打ちにしようとしたが、
これにはコロンたちが反発する。
アルジェリアでの自分たちの絶対的優位が崩れるからだ。
アパルトヘイト時代の南アフリカのようなもので、
コロンたちは自分たちの特権を保持するため、
段階的な改革さえ認めなかった。
そこでコロンたちは軍部を動かして、
フランスのコルシカ島でクーデターさえ起こそうとする。

フランス本国でも独立容認派と阻止派が対立していた。
そこで登場したのが第二次世界大戦の英雄ド=ゴール将軍だ。
コロンたちと軍部、右翼らに支援されて
ド=ゴールは政界に復帰する。
ただし条件付きで。
それは憲法を改正して、大統領に強力な権限を与えるものだった。
1958年、フランスで憲法改正が行われ、
大統領権限を強化した第五共和政が生まれる。
国民投票でド=ゴールが支持されたのは、
この時期のフランスは常に軍部の反乱の危機にあったからだ。

ところが、ド=ゴールは大統領になると、
自分を支援したコロンや右翼たちの期待を裏切って、
アルジェリアの独立を認める方向に向かう。
彼はもうこれは時代の流れだと理解していたのだ。
1960年、1961年とアルジェではコロンや将軍達による反乱が起き、これを鎮圧したド=ゴールだが、
彼自身も何度か右翼による暗殺の危機にあう。
映画にもなった小説『ジャッカルの日』は、
このド=ゴール暗殺を題材にしたフィクションだ。
未読、未見の方はぜひ。

1962年、アルジェリアはエヴィアン協定によりついに独立。
この独立戦争の死者は100万人とも言われている。
また100万人と呼ばれるコロンたちは、最後まで独立に反対していたたため、フランスへ移住するしかなかった。
他のアフリカにあるフランス植民地は、大部分が平和的に独立したので、独立後もフランスとの関係を維持するところが多かった。

この時代、ド=ゴールは米の冷戦構造に組み込まれない、
第三の「極」を作る独自路線を目指した。
1960年にはアルジェリアのサハラ砂漠で核実験も行い、
アメリカの影響力が強いイギリスのEEC加盟も阻止している。

文化面では、フランスでは映画の新しい流れ、
ヌーヴェルヴァーグが始まっていた。
トリュフォーの『大人は判ってくれない』、
ゴダールの『勝手にしやがれ』はともに1959年に公開された。
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by mahaera | 2017-01-13 08:38 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史 〜アフリカ諸国の独立(1955〜1967年)

米ソ冷戦の緊張と緩和が続いている中、
戦前はそのほとんどが欧米の植民地だったアフリカ諸国が、一斉に独立していく。
まず、民族や宗教などが比較的同質でまとまりやすい
北アフリカ諸国から。
戦後最初に独立した国はリビアで、1951年に王国として(1969年に軍部がクーデターを起こしカダフィがトップに)独立。
1956年にはチュニジア、モロッコ、スーダンが独立する。

サハラ以南のブラックアフリカ最初の独立は、
ガーナ共和国で1957年のこと。
初代首相は独立を指揮したエンクルマ。
翌1958年にはフランスからギニアが独立。
初代首相はセク・トゥーレ。

1960年は一挙に17の国が独立を果たしたため、
この年を「アフリカの年」ともいう。
「パン・アフリカニズム」が盛り上がり、ケニヤが独立した1963年には、アジスアベバで「アフリカ独立諸国首脳会議」が開かれ、「アフリカ統一機構(OAU)」が発足。

彼らは植民地主義を根絶することを目標にしたが、
その前途は多難だった。
というのも、欧米諸国は政治的な独立認めたものの、
経済的な支配(新植民地主義)は続けてたからだ。
また、アフリカ諸国は米ソ、ついで中国などの超大国が
それぞれ自分の陣営に引き込もうとする場となり、
腐敗や独裁がはびこった。

まず1960年にコンゴ動乱が起きる。
ベルギー領だったコンゴは、独立直後、
鉱物資源が豊富なシャバ州だけがベルギーや英仏の後押しを受けてさらに独立を果たそうとする。
中央政府は米ソや国連に助けを求め、国連軍の派遣が決定。
しかし中央政府のルムンバに対し、米CIAやベルギーが裏で画策して軍部にクーデターを起こさせて、ルムンバを謀殺。
紛争は深刻になり、最終的にはモブツが大統領になる。

また、時代は少し降るが、ナイジェリアでは部族対立から1967年にビアフラの内戦が起きる。
独立を宣言したビアフラ共和国に対し、
このときはイギリスが石油の利権のためにナイジェリア連邦政府を支援(のちにアメリカ、ソ連も加わる)。
包囲されたビアフラでは
150万人もの人々が飢餓で死んだという。
このとき報道されたビアフラの飢餓の様子は、
世界中にショックを与えた。
僕もこのとき、小学低学年だったが、
新聞でやせ細った子どもの写真を見て驚いた記憶がある。
1970年、ビアフラ共和国は降伏し、
ナイジェリアに再併合された。

これらアフリカ諸国は、独立時には高い経済成長をしたものの、次第に景気は長い低迷期に入っていくことになる。
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by mahaera | 2017-01-11 23:46 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜 「大躍進」の失敗と中ソ対立(1958〜1963年)

戦後成立した中華人民共和国は、
1956年に「百花斉放・百家争鳴」を提唱し、
知識人に国家を批判してもらい国づくりに役立てようとするが、批判の量が半端じゃなく(笑)、
毛沢東が逆ギレして知識人の弾圧を始める(反右派闘争)。
そして1958年には、第二次五カ年計画が始まる。
自称「大躍進」(笑)。
農業の集団化、そして工業生産の増産を進め、数年で米英を追い超すというのが目標だが、これは大失敗する。
市場原理を無視して、ただひたすら増産のノルマを課したため、人々は水増し報告をしたからだ。

経済というものは、売り手と買い手がいて成り立つ。
当時の共産党の指導者たちはそれを知らずに、
とにかくたくさん物を作れば国が富むと考えていた。
特に力を入れたのは製鉄の分野。
原料の鉄鉱石不足のため、農具などを溶かしクズ鉄を作り、そこから製鉄をさせようとした。
農民が手作業で作った鉄は使い物にならず、精算された1000万トンのうちの6割が使い物にならなかった。
つまり冷静に考えると、製品を分解してゴミを作ることに、多大な労力を使っているようなものだった。
製鉄に使う木炭の調達のため、中国全土で伐採が進み、
水害をもたらした。
また、「ハエ、カ、ネズミ、スズメ」の「四害」の駆除を奨励したが、スズメの駆除はイナゴやウンカなどの害虫を増やすこととなり、生態系のバランスを崩し、のちに大量のスズメをソ連から輸入することになった。
人間、知識は必要だ。

この間、中国指導部とソ連の対立が、
表面化していくことになる。
「平和共存路線」を目指し、アメリカ訪問をしたフルシチョフは、毛沢東には裏切り者に思えた。
「いまさら、アメリカなどの帝国主義者と平和なんてしゃらくさい」ということだ。
1957年に毛沢東はモスクワで
「戦争が起こったら、世界の人口の半分はなくなってもいいが、共産主義は資本主義に打ち勝つだろう」とスピーチし、会場をドン引きさせた。
そんな人間だから、自国民がいくら死のうと気にはかけなかったのだろう。

1955年のバンドン会議の、
あの「平和十原則」の雰囲気は早くも消えかかっていた。
毛沢東は「戦争は不可避である」とし、
次々にミサイル実験を行った。
中国の軍備強化に不安を抱いたソ連は、
1960年に中国から技術者を引き上げる。
もし、中国が戦争を始めてしまったら、
ソ連も世界戦争に引き込まれてしまうからだ。
1961年には、共産党大会でアルバニアを批判したソ連に対して中国が擁護し、ソ連を批判して代表団は途中で帰国してしまう。

また中国とインドの関係も冷え込んでいた。
きっかけは1959年のチベット動乱だ。
数万人の死者が出たラサ蜂起があり、
ダライ・ラマ14世はインドへ亡命する。
この事件でチベットにおける中国軍による虐殺と圧政が始まり、100万人余りが亡くなったといわれる。
その後、1962年のキューバ危機の最中に中国とインドの間に双方合計で戦死者2000名という大きな中印国境紛争が起き、両国の間の関係は冷え込んでいく。
ちなみにこの時、ソ連はインドのほうに武器援助を行った。

国内では大躍進とともに3年連続の飢饉が起きていた。
大躍進の失敗の死者は2000万人以上。
1959年、毛沢東は失敗を認め、国家主席を辞任。
代わりに主席になったのは劉少奇だ。
彼は故郷を視察した時にその疲弊ぶりに衝撃を受けたという。
1962年の大会で劉少奇は
「今回の大災害は天災が三分、人災が七分」
と政策の失敗を認めた。
劉少奇を支えたのは、市場経済を取り入れた鄧小平だった。
「調整政策」では、集団化もほどほどにして、農民一人一人がやる気を出すように、余剰生産物の自由販売を認める。
これはうまく成功して、徐々に国力は回復していった。

一方、中ソ対立は、このころには西側諸国にもわかるようになっていた。
米ソが“地獄を見た”1962年のキューバ危機の結果に対しても、中国はソ連を公然と「敗北主義」と批判。
毛沢東はフルシチョフを
「エセ共産主義者」と呼ぶようになる。

1964年10月、中国はゴビ砂漠で初の核実験に成功。
同月フルシチョフが失脚するも、ソ連との関係は改善せず、以降はほぼ断絶状態に。
以降、中ソ対立は近年まで続くことになる。
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by mahaera | 2017-01-09 09:28 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜キューバ危機・後編(1962年)

10月27日 暗黒の土曜日 つづき

カリブ海では潜水艦内でアルヒーポフが、
他の二人を何とか説得して、
核魚雷の発射をやめさせることに成功していた。

アルヒーポフは前年1961年に起きた、
ソ連の原子力潜水艦K-19の原子炉事故のとき、
同艦に同乗していた。
この事故は、北大西洋で潜水艦の原子炉冷却システムが故障し、無線も使えなくなり孤立無縁になったできごとだ。
修理中に8人の修理班は致死量の10倍の放射線を浴び、
1週間以内に死ぬという悲劇が起きた。
そのときの副艦長がアルヒーポフだった。
この事件はのちにハリソン・フォード主演で、
『K-19』としてハリウッド映画化もされた。
アルヒーポフ役にはリーアム・ニーソン。

アルヒーポフは外界と遮断された緊急事態に陥った時をすでに経験していたので、冷戦な判断が下せたのだろう。
K-19事件のアルヒーポフの行動と名声は当然ながら
みな知っていたので、他の二人は説得されて
結局発射を止め、潜水艦は浮上して封鎖線から立ち去った。
彼がいなかったら世界はどうなっていたろう。

この日、さらにキューバにあるソ連の核ミサイル発射台が、グアンタナモの米軍基地から24kmの地点に移されていた。
アメリカは知らなかったが、実はこの時点でキューバには核ミサイルは持ち込まれていた。

この夜6時、兄の命を受けたロバート・ケネディは
ソ連公使とキューバにはまだ核がないという前提で交渉し、トルコからのミサイル撤去は密約であり、
ソ連が公表しないのが条件とした。
そして、この状態が長引けば、
戦争は望んでいないにもかかわらず
「事態は制御不能となり、軍部がケネディを大統領から
引き摺り下ろす可能性(軍事クーデター)がある」
ことも告げた。
2002年になり、国防長官のマクナマラは、
キューバに核がすでにあったことを知って絶句した。
事態は彼らが思っていた以上の危険な綱渡りだったのだ。

フルシチョフからの返事を待ちながら、アメリカでは人類史上、もっとも危険が高まった夜が終わろうとしていた。
ケネディは
「子供たちが死んでしまうくらいなら、その子達が共産主義者になった方がマシだ」
と知り合いに語った。

交渉が不調に終わった場合の空爆の開始は、
10月30日火曜日と決められた。

10月28日 日曜日
朝、フルシチョフはケネディとカストロからの書簡を受け取った。
ケネディからは前述の戦争回避と制御不能の懸念を、
カストロからはアメリカの核攻撃の要請だった。
フルシチョフはカストロの書簡に怒り、
前日の各方面でのアクシデントも含め、
すでに事態が制御不能状態に陥りつつあるのを知った。
モスクワから放送で、フルシチョフは
ミサイル撤去を公表した。
ワシントンは朝で、閣僚や国民は
最悪の事態が回避されたことに安堵した。
軍部を除けば。
軍部は相変わらず、ソ連は嘘つきとして
空爆と侵攻の実施を進言した。
ルメイは「我々は負けたのです! 今からでも奴らを叩きのめしましょう!」と言った。
一方、カストロも事前の連絡なしのミサイル撤去の発表に怒った。

ルメイ空軍参謀総長らによるキューバ侵攻計画は、
まったくの的外れであることが、冷戦終了後にわかった。
たとえば、キューバにあるミサイルのうち、アメリカが場所をわかって攻撃できたのは33基で、核弾頭は一つも発見できていなかった。
実際は42基で、核弾頭は150発もあった。
また海上には核ミサイルを積んだ船が何隻もあったし、キューバ軍の兵士も10万人と見積もっていたが、実際は27万人、ソ連部隊は1万人ではなく4万3000人もいた。
もしこのときにキューバへのミサイル基地攻撃が行われていたら、キューバから攻撃を逃れた10基の核ミサイルがアメリカ本土を襲い、核戦争が起こっていた確率が高い。
日本でも沖縄では水爆搭載機が臨戦態勢を取っていたが、
その攻撃先はソ連ではなく中国だった。
そうなれば日本も否応なく世界大戦に巻き込まれたろう。

アメリカにとって不可解だったのは、
ソ連がすでに核兵器をキューバに持ち込んでいることを
公表しないことだった。
もし公表していれば、そもそも空爆は計画しなかったろう。核ミサイルは発射されることでなく、
あることで抑止効果があるからだ。

ともあれ、戦争は回避された。
当初は怒りに駆られていたケネディとフルシチョフも、
事態が進むにつれてキューバ危機が制御不能になっていき、「地獄を見た」のだ。
また、双方の文民政府が、軍部のクーデターや独断専行を
ともに回避できたことは大きい。
たとえば、満州事変などの軍部の独断専行により日中戦争に引きずりこまれた日本。
これといった方向性もなく、なし崩し的に始まってしまった第一次世界大戦がいい例だ。
ともに将軍たちが威勢のいいことを言って始めたが、
将軍たちは戦争の終わらせ方を知らなかった。

地獄を見た2人は、この後はデタントの方向に向かう。
ホットラインが米ソ首脳の間に引かれ、
部分的核実験禁止条約を結ぶ。
しかし、米ソ間の歩みよりは、フランスと中国の離反を招き、それぞれが東西両陣営から離れていく。
そしてフルシチョフは、キューバ危機の譲歩が響き、
2年後には失脚。
ケネディもダラスで凶弾に倒れる。
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by mahaera | 2017-01-04 10:39 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜キューバ危機・中編(1962年)

つづき

10月24日水曜
キューバへの海上封鎖が始まる。
フルシチョフはソ連からの貨物船のほとんどを
Uターンさせることにした。
もしアメリカ軍の臨検を受けた場合、突発的なできごとで、戦争が始まってしまうことを恐れたためだ。

10月25日木曜
国連の安全保障理事会で、
アメリカの国連大使がソ連の国連大使に
「ミサイルは存在しない」と言わせた後で、
偵察写真を見せる。
この駆け引きでソ連が隠していたことを世界に知らしめた。

10月26日金曜
封鎖線での最初の乗船臨検開始。
このときは何事もなく通過させる。
しかしキューバでのミサイル建設は続けられていた。
一方、アメリカ軍はデフコンを3から2に上げた。
ソ連の主要都市をいつでも核攻撃できる爆撃機が、
空中給油を行いながら常に上空を飛び続けた。
もちろん日本にあるアメリカ軍基地も、
戦闘準備態勢に入った。
そしてソ連がそれに気づくように、
わざと暗号文を使わないようにした。
アメリカでは、国民が食料品の買い込みにスーパーに殺到。

一方、フルシチョフは秘密裏に書簡を公式に1通、
非公式に1通ケネディに届けた。
それは「もしアメリカがキューバに侵攻しないと確約するなら、撤去に応じる」という取引の提案だった。

10月27日
のちに「暗黒の土曜日」と呼ばれる、
人類史上もっとも危険な瞬間が訪れる。
ワシントンのソ連大使館では、
朝から職員が書類を焼却しはじめた。
フルシチョフはアメリカが何もしないことにより自信を持ちはじめ、前日の書簡にプラスして、トルコにあるアメリカのミサイル撤去を求める内容をラジオで放送する。
この時代には、トルコにあるミサイルは旧型で、
アメリカにとってはあまり意味がないものだった。
しかし撤去に応じるとソ連に屈したように見え、
同盟国の信頼を失うのではないかとケネディは考えた。

昼頃、カリブ海では、キューバに向かう船籍を護衛しているソ連の4基の潜水艦に向けて、海軍が爆雷を投下した。

冷戦後の2002年に判明したことだが、
この4基の潜水艦は核魚雷を搭載していた。
そして、攻撃されたら核魚雷を発射する権限も持っていた。
少し前から通信は遮断され、潜水艦内では米ソが戦争に入ったのかもわからなくなっていた。
攻撃を受けた潜水艦内はパニックになり、
艦長は核魚雷の発射命令を出す。

艦長はすでに米ソが開戦したと判断したのだ。
しかし、核魚雷の発射には、
同じ権限を持つ他の2人の同意がなければならない。
政治将校は賛成したが、もう1人の副艦長であるアルヒーポフは同意を拒み、ふたりを説得しはじめた。

おなじ昼頃、アメリカのU2偵察機が
キューバ上空で撃墜される。
これでソ連の核ミサイルが、発射台に備え付けられたかどうがわからなくなった。
すぐさまミサイル基地を破壊することがエクスコムで決まったが、ケネディはそれを拒否した。
不用意な攻撃が、戦争を誘発するかもしれないと。
しかし撃墜により、参謀本部は一気に空爆と侵攻準備に入る。25万人の兵士が動員される。

カストロはキューバが侵攻される前に、
ソ連がアメリカを核攻撃するように要請した。

その中で、ケネディはフルシチョフから別な手紙を受け取る。
それは「キューバへの不侵攻とトルコのミサイル撤去を求めるもの」だったが、前回の私的な雰囲気のものと違い堅苦しいもので、軍事クーデターでフルシチョフが失脚した可能性も浮かんだ。
ケネディはトルコを失うことを恐れ、
ミサイルの相殺撤去の取引を拒む。

さらに運が悪いことに、同じ頃、アラスカ飛行中のU2偵察機が機器の故障で、ソ連領空内を侵犯してしまう。
何とか引き返したが、両軍共に戦闘態勢に入っているときに、爆撃機と誤認されかねないことは、ヒヤヒヤものだった。

続く
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by mahaera | 2017-01-03 15:49 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜キューバ危機・前編(1962年)

1962年10月14日にキューバ上空をU2偵察機が飛行。
翌15日、そのときに撮った写真をワシントンの国家写真解析センターが解析すると、アメリカ本土を射程内とする中距離弾道ミサイルとその基地が発見される。
翌16日、その写真と解析がホワイトハウスに届けられた。
これが核戦争の脅威が世界を覆った「13日間」の幕開けだ。
すぐさまホワイトハウスに閣僚や要人15人を集め、
「エクスコム(国家安全保障会議執行委員会)」が設けられ、
最初の3日間は昼夜を問わずに会議が進められた。

キューバへのミサイル配備と、
そして多くのソ連人軍事顧問団(貨物船の船底に隠れていた)の派遣に、CIAもそれまで気づかなかった。
そしてケネディはソ連の真意を測りかねていた。
というのも、この段階でソ連が持つICBMはまだ10基ほどに対して
アメリカは2000基、ソ連が500発ほどの核弾頭に対し、
アメリカは2万発ほど、
さらにアメリカは原子力潜水艦や爆撃機を常に飛ばしていて、
軍事衝突が起きてもソ連が勝てる見込みはなかった。
さらにトルコや西ヨーロッパなどのソ連の近接地域にアメリカは
ミサイル基地を配置して、
いつでもソ連を攻撃できるようにしていた。
それに比べてソ連は、アメリカの主要部を攻撃できる位置に
ミサイル基地を持っていない。

ケネディがいう

「なぜだろう。今回のキューバへのミサイル配備は、我々がトルコにかなりの数のミサイル配備をするのと同じだ。それは危険な話だ」

バンディ補佐官が答えた。
「大統領。すでにそういうことを我々がしているということですよ」。

つまりソ連は常にアメリカの核攻撃の脅威を感じていたことに、
アメリカは気づいていなかった。
むしろ自分が脅威を受けている被害者だと思っていたのだうろ。
そこでアメリカの先制攻撃を恐れるフルシチョフは、
賭けに出たのだ。

エクスコムでは、統合参謀本部(軍)が主張する空爆推進派と、
ケネディやマクナマラ国防長官が主張する海上封鎖派に
意見が分かれた。
当時は11月の中間選挙の前で、ケネディは応援の遊説を取りやめると怪しまれるとの閣僚の意見に沿い、
昼間は各地の遊説を続けながら早朝に会議を続けていた。
統合参謀本部のルメイはキューバへの先制攻撃を主張した。
たぶん、攻撃してもソ連は何の反応も示さないというのだ。
ケネディは強気の軍の意見を聞いた後、補佐官に
「官僚というものは、何でも自分に都合よく解釈できる。それに従っていたら、地上に生き残るものは誰もいなくなる」
とこぼした。

10月20日土曜
空爆の前に海上封鎖という段階を踏む方向へケネディは舵を切る。
いきなりの空爆では、フルシチョフも後に引けなくなる。
まずは封鎖して、フルシチョフの選択の余地を残すことにし、
「封鎖」も好戦的な表現であるとして
「隔離」という言葉を使うことにした。
ルメイはケネディを弱腰として怒り狂った。
ケネディは、キューバ問題はその前に起きたベルリン危機にリンクしていると考えていた。
つまりアメリカがキューバを攻撃すれば、
報復としてソ連はすぐさま西ベルリンを占領してしまうだろうと。
その結果、キューバ問題に忍耐を持たなかったアメリカに対して、
西ヨーロッパの友好国はアメリカを見放すだろうと考えたのだ。

10月22日月曜
ケネディが夜にテレビ演説を行うということを知ったモスクワは、
アメリカがキューバのミサイル配備を知ったと推測し、
緊張に包まれる。
フルシチョフは幹部を緊急招集し、
数日以内にカリブ海で戦争が行われるかもしれないと説明した。
アメリカ側は日中にイギリスやフランス、
西ドイツらの首相に状況説明する。
午後7時、ケネディはテレビでアメリカ国民に、
ソ連によってキューバにミサイルが持ち込まれたことを告げ、
「海上隔離」を行うことを発表した。
アメリカ国民は、核戦争が現実に近づいていることを知った。
アメリカでは軍の警戒レベルは5段階の真ん中のデフコン3となり、180隻の海軍軍艦がカリブ海に配置され、
戦略爆撃機のうち1/8が常に上空に待機する体制となった。
万が一、アメリカが全滅しても報復できるようにだ。

しかしそこで報復しても、何の意味があるのだろう。
同日、モスクワでアメリカに情報を提供していた
スパイのペンコフスキーが逮捕され、アメリカは情報源を失う。

(つづく)
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by mahaera | 2016-12-31 18:13 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史 〜ベルリンの壁建設と核戦争の脅威(1961年)

1961年4月の「ビッグス湾事件」失敗の2ヶ月後の6月、
ケネディはウィーンでフルシチョフと会談する。
フルシチョフは、敵意ある態度で
この若い大統領にのぞんだ。
フルシチョフは当時、ベルリン問題で頭を抱えていた。
この時までに274万人が東ドイツから西ドイツに流入し、
また西ベルリンに西側の軍隊が駐留し続けていることも
問題だった。

また、西ドイツの再軍備も恐れていた。
なにしろ、ロシアは20世紀に入ってから
二度もドイツに侵攻されているのだ。
西ドイツの首相アデナウアーは、東西対立を利用して米英を引き込み、ドイツの統一を考えていた。
東ドイツも、ソ連を後ろ盾に東西ドイツの遮断を
フルシチョフに求めていた。
しかし米英はドイツのためにソ連と戦争をする気はなかったし、ソ連もそれは同様だった。

ウィーン会談は、フルシチョフが求めた
「西ベルリンからの西側軍隊の撤退」
をケネディが撥ねつけたことで、物別れに終わる。
フルシチョフは、難民の流出と東ドイツ経済の崩壊を止めるため、世界中の批判を覚悟でベルリンの壁建設を決める。

8月、西ベルリンに流入する難民は週1万人に達していた。
東ドイツの崩壊を防ぐため、12日の夜から13日にかけて国境は有刺鉄線で閉鎖され、壁が建設され始めた。
西側諸国は何も手を打たなかった。
それ以上の進展(戦争)は、もう後戻りできなくなる可能性が強かったのだ。
ケネディは
「最善の策ではないが、戦争より壁のほうがましだ」
と側近にこぼした。
ケネディは核ミサイルの発射ボタンを押す、
人類最初でおそらく最期になるかもしれない大統領になりたくなかったのだ。
しかしソ連は強気に出て、しばらく停止していた核実験を開始する。

アメリカ軍統合参謀本部は、
核戦争の開始を1963年の後半を予定していた。
この時期になれば、ボタンひとつでソ連を全滅させるミサイルが一斉に発射できる準備が整うのだ。
「アメリカ国民は2週間核シェルターの中で暮らす必要がある」と聞いたケネディは、報告の途中で席を立って戻らなかったという。

1961年の夏のアメリカは、家庭用核シェルターの是非について、「もし隣人がシェルターに助けを求めてきたら銃撃する用意もしないと」ということが真剣に論議されていた。
ただし、実際には買う人は少なかったという。
もし核戦争が起きて、隣人が全部死んだら、自分だけ生き残っても仕方がないと考える人が多かったからだ。

アメリカの軍備は、
「ソ連が軍事的に有利な核ミサイルを持っている」という「ミサイルギャップ」論により進んでいたが、
ケネディは大統領に就任するとマクナマラ国防長官にそれを確認させる。
すると驚くべきことに(大統領も知らなかったが)、
実際にはアメリカのICBM(大陸各弾道弾)保有数は45基で
ソ連の4基の10倍以上も上回っていた。
潜水艦搭載、近隣諸国の基地からのものを入れると、
この時点でアメリカは2万5000発の核兵器を所有していたが、ソ連はその10分の1しかなかった。
ミサイルギャップは存在しなかったのだ。

ケネディはミサイルギャップの解消を訴えて当選したので、
それを隠そうしたが、政治経験の浅い(フォードの社長から引き抜かれた)マクナマラ国防長官は就任早々、
それをマスコミにしゃべってしまった。
これは失態で、マクナマラはクビを覚悟したという。
軍はさらなる軍備費増強を求めていたからだ。
この時点では、兵器産業はアメリカいちの産業で、
それを阻むのは大統領でさえ難しかったろう。

戦略空軍司令官のパワー大将は
「戦争が終わった時点でアメリカ人が2人、ロシア人が1人残っていればアメリカの勝ちだ」と述べた。
そして軍はキューバ侵攻の準備を始め、侵攻のきっかけ(ハイジャック、テロなどのやらせ)を探り始める。

一方ベトナムでは、独裁のゴディン・ジェム政権を打倒するために、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成。
以降は農村部でゲリラ活動が始まっており、
ケネディはこれにも対処しなくてはならなかった。
ジエムはどうしようもない独裁者で、国民の信頼はゼロ。
さらにアメリカによる民主化要求をはねのけた。
しかしケネディによってベトナムに派遣された副大統領のジョンソン(のちに大統領)は、ジエムを
「東洋のチャーチル」と褒め上げ、
アメリカの軍事顧問団の派遣が700人から1961年末には約3000人に、1963年末には1万6000人に増強される。
こうしてベトナムへの直接軍事介入の道が開けていく。

そして1962年10月、核戦争の脅威がピークに達する13日間が訪れる。
ここで人類が滅亡していたかもしれない。
それが「キューバ危機」だ。
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by mahaera | 2016-12-29 11:06 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜 ケネディ政権の誕生とビッグス湾事件(1961年)

1960年前後ぐらいまでの世界は、
米ソの冷戦構造の上に成り立っていた。
このあたりは、スピルバーグの映画
『ブリッジ・オブ・スパイ』や、デ・ニーロが監督した『グッド・シェパード』がいいサブテキストになるだろう。
アメリカ政府の中枢には多くのソ連のスパイが入り込んでいたのは、本当のことで、
冷戦終了後に公開されたロシアの資料でそれは確認された。

1959年9月にはソ連首相のフルシチョフが訪米し、
アイゼンハワー大統領と会談し、一時的には雪解けムードも漂ったが、翌年の1960年5月1日にアメリカのU2偵察機が
ソ連上空で撃墜される事件が起きて、それも吹き飛んだ。
それまでもアメリカは何度も領空侵犯をして
ソ連の偵察飛行を続けていた。
パイロットのパワーズは脱出して命は助かったが、自殺はせず、スパイ容疑を認めた(当時、米軍は自殺用の毒薬を配っていた。つまり軍人としては認めないということだ)。
アイゼンハワーは当初しらを切ったが、自白のニュースを聞いて「安全保障上当然のこと」と開き直った。
この事件により、パリで行われていたサミットは流れ、
フルシチョフはアメリカに謝罪を求めた。

余談だが、パワーズとアメリカで収監されていたスパイの
捕虜交換は、翌1962年にベルリンの橋の上で行われ、
これが映画『ブリッジ・オブ・スパイ』のクライマックスになっている。
また、ロックバンドU2のボーカルBONOは
U2撃墜事件の直後の1960年5月10日に生まれている。

1961年1月20日、アメリカの新大統領にケネディが就任。
就任時の年齢は43歳。
今に至るまでカトリックとしては唯一のアメリカ大統領だ。
当時、アメリカ社会は第三次世界大戦の恐怖と、
高まる公民権運動の波で揺れていた。
戦後生まれのティーネイジャーは新しい風を求め、
音楽もロックンロールやフォークソングに人気が
集まっていたころだ。
ケネディ内閣は副大統領にリンドン・ジョンソン、
国務長官にラスク、国防長官にフォード社長のマクナマラ、司法長官に弟のロバートを配し、
「ニューフロンティア政策」を掲げた。
ケネディは人種差別法の撤廃、
経済再建(戦後の好景気は終わりに近づいていた)、
アポロ計画(スプートニクショックからの立ち直り)など、国内でも多くの政策に取り掛かったが、就任早々、
外交問題で失敗をする。
それがキューバの「ビッグス湾事件」だ。

1959年にカストロらによってキューバ革命が成功する。
アメリカはすぐにカストロ政権を承認するが、訪米したカストロを避けてアイゼンハワーはゴルフに行ってしまった。
カストロは当初、民主主義的な政権を目指していたが、
アメリカのフルーツ会社の所有する土地を小作人に
分配するなどの農地改革や、米国企業の接収などが、
アメリカの反発を生む。
1961年にはアメリカはキューバと国交断絶をし、
キューバは社会主義宣言を出してソ連寄りの姿勢を務めた。
ビッグス湾事件は、前大統領アイゼンハワー時代にニクソンによって進められていた、キューバ人亡命グループによるキューバ侵攻作戦だ。
CIAが立案したが、作戦は粗雑で、情報も事前に漏れていた。

CIAはこのころ、世界各地で民主的だったり社会主義的だったりする政権を転覆させる秘密工作を行っていた。
1961年1月17日にはコンゴの初代首相ルムンバの暗殺を成功させ、ファシストのモブツのクーデターも成功させている。

さて、ケネディはこのCIA立案の侵攻計画を当初疑問視するが、ダレスCIA長官が
「キューバ亡命軍が上陸すれば、民衆は歓呼の声で迎えるだろう」と太鼓判を押したのでGOを出す。
ケネディはまだ経験が浅く、
参謀本部も押した計画を信じた。
ところが上陸したキューバ亡命軍を迎えたのは民衆ではなく、キューバ軍だった。
民衆の蜂起はなかったのだ。
軍は空爆を進言したが、
ケネディはこれ以上の拡大をやめた。
作戦は完全に失敗。
そのため亡命キューバ人グループは、
ケネディを恨むようになる。

この事件は世界中でアメリカの失墜を呼んだ。
また、ケネディも就任早々、
CIAや軍事顧問団への不信を持つようになる。
CIA長官のダレスは解任され、参謀総長らの首をすげ替えた。
しかし軍の圧力はケネディ政権時代には、常に続けられた。
軍は早く世界戦争をしたがっていたのだ。
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by mahaera | 2016-12-27 12:10 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜ラテンアメリカ諸国の動勢(〜1960年)

子供に教えている世界史〜ラテンアメリカ諸国の動勢(〜1960年)

さて、目を久しぶりにラテンアメリカに向けよう。

ブラジルでは、戦前にファシズムの影響を受けたヴァルガスが
1937年に独裁体制を築く。
彼は第二次世界大戦時には連合国側につき、工業化を推し進める。
1945年にクーデターで失脚するが、国民の人気は高く、
1950年に行われたブラジル初の民主的選挙で大統領に選出。
福祉政策など大衆の支持を基盤にし、右派から左派に転じた彼の政策は「ポピュリズム」を代表するものだった。
ヴァルガスはソフトな独裁者だったが、政権末期には
支持を得るために共産党に近づいたことがアメリカの怒りを買い、独裁政治を糾弾される。
そしてヴァルガスは退陣要求が強まる中、
1954年にピストル自殺を遂げている。
以降の大統領は開発に失敗し、1964年にアメリカが支持する
軍人のブランコ将軍がクーデターを起こし、
親米反共の軍事独裁政権を発足させる。

お隣のアルゼンチンは、戦前に親独のペロンが実権を握り、
中立国でありながら枢軸国寄りの姿勢をとり、
アメリカの非難を浴びた(のちに形ばかりの連合国での参戦)。
アルゼンチンを始め、南米には多くのドイツ系移民がおり、
戦後は多くのナチの戦犯をかくまったことでも知られている。
戦後まもなくの1945年10月、アメリカの後押しで軍事クーデターが起こり、ペロンは拘束される。
しかしペロンを支持する民衆は多く、また、妻のエバ・ペロン(エビータ)がラジオで国民にペロンの釈放を訴えたことから、
クーデターは失敗し、ペロンは解放された。
マドンナがエビータを演じたミュージカル映画『エビータ』は
ここがクライマックスになっている。

ペロンは翌1946年に大統領に当選。
当時のアルゼンチンは、牛肉の輸出も好調で
南米有数の富裕国だった。
ペロンの支持基盤もヴァルガス同様に民衆で、
労働組合の保護や賃上げを認めたり、アメリカやイギリス系の企業を国有化したりなど、資本家の反発を買うものも多かった。
一方、反対者を強制収容所に送るなど独裁的でもあり、
「ポピュリズムに支えられたファシズム」ともいえる。
しかし経済の好調に支えられたペロンも、
1949年にはアメリカやカナダといった食料輸出国のライバルの
増産や、1952年に国民に人気のあった妻エバの病死、
離婚法を認めたことからカトリックの支持を失うなどし、
1955年に軍事クーデターを起こされ、スペインに亡命する。

キューバでは1952年に軍事クーデターで政権を奪取した
バティスタが、独裁政治を行っていた。
バティスタ政権を支援していたのはアメリカで、
アメリカ企業やマフィア(バティスタはアメリカ亡命時代にカジノを経営して裏社会につながりがあった)が、
キューバの経済を牛耳るようになる。
これに対抗して革命運動を行ったのがカストロだ。

アメリカから貸与された最新の武器を持っていた
バティスタ政府軍だが、国民の支持を得られず、
カストロ兄弟やチェ・ゲバラらによる革命軍により打倒され、
1959年バティスタは亡命し、キューバ革命が成功する。

当初カストロは、アメリカとの協力を模索しており、
革命成功の4か月後にはワシントンD.C.を訪問し、
革命政権の承認を求めた。しかしアイゼンハワー大統領は
「ゴルフに行く」という理由で会いもせず、冷遇。
この当時、カストロは共産主義に影響は受けているものの、
自分を共産主義者とはまだ表明していなかった。
ソ連の援助は受けてはいたものの、できれば米ソの対立をうまく利用して、独立国家として認められたかったのだろう。
しかし、アメリカはそれを許さなかった。

カストロは帰国後、キューバの農地の7割を占めているといわれた
ユナイテッドフルーツ社関連の土地を接収して、
アメリカ企業の資産の凍結や国有化を推し進めた。
1960年にはソ連と粗糖と石油をバーターで取引し、
さらに武器の提供を受けることも約束。
アメリカとの対立が鮮明になる。
CIAはカストロの暗殺計画を立て始める。
10月には対キューバ輸出が禁止された。

こうした中、2期続いたアイゼンハワーは退任する。
次期大統領は、ニクソンとの選挙戦に勝った
ジョン・F・ケネディに決まった。
アイゼンハワーの退任演説は、軍産複合体がアメリカの歴史上、
かつてないほど力を持ち、自由や民主主義を脅かすことに警鐘を鳴らすという異例のものだった。
冷戦を推し進め、アメリカの国家予算の半分を軍事費に費やした
アイゼンハワーだったが、退任時になってようやく自分がしてきたことに冷静に向き合えるようになったのかもしれない。

ケネディが大統領になったとき、アメリカの軍事力は、
大統領でさえコントロールの効かないものになっていた。
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by mahaera | 2016-12-19 18:36 | 世界史 | Comments(0)