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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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カテゴリ:映画のはなし( 463 )

ゴジラはロックか

日本映画専門チャンネルのゴジラ特集をみた。
佐野史郎とみうらじゅんの対談で、
「ゴジラとロックは僕達の間では同義語ですけど、人にはわかりませんよね」
と二人が話していた。二人とも僕より35歳ぐらい上だと思うが、ふつうロックに熱を上げるよりゴジラに熱を上げる方が低い年齢なので、
彼らはロックを知った時に、ゴジラ的なものを感じたのだろう。
みうらじゅんは「ディランがロック」とも表明しているので、
「ゴジラ=ロック=ボブ・ディラン」と言うことになる。

前にも書いたが、僕がゴジラを初めて映画館で見たのは「南海の大決闘」。
みうらじゅんは、「南海の大決闘」までを映画館で見たが、「ゴジラの息子」は行かなかったといっている。
ゴジラが妙に人間臭くなってくるのが嫌だったからだ。
僕も「ゴジラ人間化」は子どもながらに、大人にバカにされているようで嫌だった。
新作のゴジラは人間ぽく、ときには愛嬌を振りまくが、テレビで放映しているゴジラは人類の敵。街を破壊しまくる。
子どもながらにそこにウルトラマンにはない、「反権力」を感じたのだろう。
ウルトラマンやウルトラセブンは、時には自分の使命に悩みながらも、人間を裏切ることはない。
そこに組織に属する会社員的な悲哀さえ感じたのだが、初期ゴジラは完全にアウトロー。
マカロニウエスタンの主人公ながら、ニヒルさもかねそなえていた。破壊するのに理由はない。
そこに権威的な建物があるからだ。
ゴジラの目的は人間抹殺ではなく、人間たちが作ったバビロンを破壊することだ。
人間はそれに対抗しようとするが、結局キングコングやモスラの力を借りなければ、ゴジラを追い払うことはできない。
ゴジラ映画を見て、人間ではなくゴジラに肩入れしていたのも、
子どもながらに大人世界が破壊されるのが、気分が良かったからだろう。

しかしキングギドラのような宇宙怪獣の襲来により、ゴジラも人間側に立っていく。
このあたりから、ゴジラ映画は急速に物足りなくなる。
反骨のロッカーが、観客のリクエストに応じ、手拍子をもとめたり、まあ媚を売るようになるのと似ている。
ライブ会場ではこちらもその場のノリで喜んだりするが、九段の坂を降りるころには、「あいつも歳とったなあ」と友達と話ている。
そんな感じだ。

うちの小学生の息子と風呂に入っていると(昭和ゴジラを全部通して見た後)、息子は「ゴジラも子どもができたから悪いことできなくなったんだよね」とぽつり。
昔は悪で慣らしたが、子どもができたら、その教育上、町を無闇に破壊するのはまずい。
ゴジラもそう思ったのか。
しかし、それはそれまでのオーディエンスにそっぽを向かれることでもあった。

ゴジラに大人社会への反逆を見出した子どもたちは、中学生になると、その代わりをロックに見つけた。
ロックとは音楽のジャンルと言うだけでなく、概念でもある。最初はキッスやクイーン、エアロスミス、ディープ・パープルがロックの代表だと思っていたが、それは見かけからロックに入っていったからで、のちに僕もボブ・ディランに傾倒する。でも、聞きはじめたころは「ディランがロック」とは気付いていなかった。「よくわからないもの」「アメリカの吉田拓郎」だった。

ロックは職業ではない。
ミック・ジャガーだって、「職業は?」と聞かれ、「ロックです」とは言わないだろう。
ボブ・ディランは初来日の時、「あなたはフォークの神様と言われていますが、どう思いますか?」と記者に聞かれ、「俺は人間で、ただのシンガーだ」と答えた。
ロックは「生き方」であり、スタイルだ。だが、人それぞれにロックがあり、それぞれのロックを持っている。
GLAYはロックか? じゃあIZAMは? 長渕剛も?

ロックは職業ではない。
本人にしてみればずっと同じことをやっているつもりでも、ロックがいつの間にかなくなっているかもしれない。
しかしそんなことは人に言われたくないだろう。
「もう、お前はロックじゃない!」
「じゃあ、お前はロックか!」
という不毛の会話が浮かぶ。

しかし良き家庭人となった昭和ゴジラは、幸せだったのかもしれない。
愛されつつ、引退していったのだから。
そしてロック魂を帯びたゴジラは、平成の温い世の中に再び活を入れにやってくる。
その時、活を入れられるのは、良き家庭人となったかつてのロック少年たちだった。。
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by mahaera | 2008-12-07 16:02 | 映画のはなし | Comments(0)

昭和ゴジラ・シリーズ

昭和30年代生まれの他の男子同様、子供のころ、僕はゴジラにハマっていた。
時は怪獣ブーム。テレビではウルトラマンやウルトラセブンが、怪獣を倒して活躍していたが、
映画館ではヒーローの代わりに怪獣たちが主役で暴れ回っていた。
子どもながらにマイナー好きな僕は大映のガメラを応援していたが、
やはり質・量ともに東宝のゴジラ・シリーズが勝っていることは、小学生でもわかっていた。

今回、ケーブルの日本映画専門チャンネルで、ゴジラ一挙放送というのをやっていて、子どもと一緒に何本か見直してみた。
ゴジラこの一本となれば、大人になった僕は初代ゴジラ登場の『ゴジラ(昭和29年)』をあげるが、当時の僕のお気に入りは、歴代の怪獣たちがほぼ勢ぞろいする『怪獣総進撃』だった。
リアルタイムで劇場で見たゴジラ映画は、たぶん『ゴジラ、エビラ、モスラ南海の大決闘』だったが、怪獣登場シーンが少なくて、いまひとつ。
その次に見たのが『ゴジラの息子』で、着ぐるみとは異なるカマキラスとクモンガの「吊りぐるみ」に胸ときめいたが、「ミニラ」という、女子どもに迎合するキャラが不愉快だった。自分も子どもだったが。

『怪獣総進撃』は、「単に怪獣たちがたくさん出てくる」というだけでなく、SFチックでスピーディなドラマ展開も好き。当時、ドラマが入った朝日ソノラマのソノシートを買い、セリフを丸暗記するほど聞いた。音楽がかっこ良く、いまもあのテーマを聞くと、胸ときめく。

ゴジラ・シリーズに幻滅したのは次の『ゴジラ、ミニラ、ガバラ、オール怪獣大進撃』。今までのフィルム使いまわしに、子どもながら映画業界の衰退を感じた。また「夢オチ」という禁じ手を、ゴジラでも使われた失望感。これもソノシートを買ったが、もはや『怪獣総進撃』ほどの興奮がなかった。僕も小学2年生に突入していた。

もはやゴジラともおさらばか、と思いながらも見にいった最後の作品は1971年の『ゴジラ対ヘドラ』。しかし予想に反して、この作品のインパクトは大きかった。これはもはやゴジラ映画ではなかった。「かえせ!地球」の主題歌、ゴーゴークラブを襲うヘドラ、ヘドロの中で泣く赤ちゃん、死んでいく雀荘のサラリーマンたち、光化学スモッグで倒れる子どもたち。夢の世界のゴジラが現実世界に降りてきたようなリアルな恐怖が、子供心に大きなインパクトを与え、いくつかのシーンはトラウマのように、大人になって鮮烈な映像となって思い出された。

たぶん、もう大人の世界をかいま見るような歳になっていたのだろう。
その時、僕は小学五年生。
その翌年、ガイガンなる怪獣がゴジラと対戦したが、もう映画館には行かなかった。テレビで胸ときめかせ、興奮して見るのは怪獣映画ではなく、『大脱走』とか『荒野の七人』。
ソノシートの代わりに、テープレコーダーで映画を録音し、マックイーンやブロンソンのセリフを僕は覚えていた。
ヒーローはゴジラやウルトラマンではなく、映画スターになっていたのだ。

そして最近、『ゴジラ対ガイガン』『ゴジラ対メガロ』『ゴジラ対メカゴジラ』などを見たが、完全に人間の味方になっているゴジラにはまったく魅力がなくなっていた。
荒ぶるロッカーが、歳とともにディナーショーが活動の主体になってしまったかのようなドサまわりぶり。
映画のスケール間も、まるでテレビのスペクトルマン並み。
でもこれは僕が大人になってしまったからか。いや、違うと思う。

来週からケーブルでは、平成ゴジラ特集をやる。
全部見たことがあるが、また見てみよう。
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by mahaera | 2008-11-30 16:04 | 映画のはなし | Comments(0)

タージマハルホテル炎上 ムンバイのテロ

タイが問題と書いたら、今度はインドで深刻な事件が起きてしまった。
現在ニュースで流れているが、場所はムンバイ。
今年の3月にも訪れ、一週間ほど滞在したエリアだ。

ムンバイへ行った方ならわかると思うが、今回事件の舞台のひとつとなったタージマハルホテル周辺は、ムンバイ有数の観光地で、安宿から高級まで多くのホテルがある。バックパッカーには便利なところで、20ドル程度の宿や外国人向けのレストラン、近くには博物館や名所のインド門もあり、ムンバイへ観光でやってくるものなら、必ず訪れるエリアだ。

初めてムンバイへ行ったのは5年ほど前。
インドには何度も行っていたが、なぜかこの町を訪れることはそれまでなかった。その時は取材だったので、ホテルは依頼先が手配してくれたが、その時に泊まったのが、今回テロの標的となったタージマハルホテルだった。

このホテルはムンバイのランドマークともいうべき建物だ。
このホテルを作ったのはインド最大の財閥ターターのご先祖。
19世紀末、資本家として成功していたターターだが、外国人の友人とあるホテルへ食事に出かけたところ、「ここは外国人専用でインド人はお断り」と言われる。
この屈辱を機に、ターターは世界に通用する、インド資本のホテルを建てようと決意。1903年にこのホテルは完成した。やがてこのホテルはインド民族主義のシンボルとして、しばしば引用されるようになる。

襲撃を受けたもうひとつの場所「レオポルド・カフェ」は、タージマハルホテルの裏側150mぐらいの所にある、外国人がよく利用しているレストランでだ。
このカフェは旅行者のたまり場で、ガイドブックには必ず載っている。
たぶんムンバイを訪れた旅行者なら一度は足を運んでいるだろう。
僕もここで何度も食事をしたりビールを飲んだりしており、この春にも行ったばかりだった。
そこにもテロリストは押し入り、イギリス人とアメリカ人を探していたようだ。テレビでは血に染まった床が映し出されていた。

ムンバイはインド最大の都市。
日本で言えば今回のテロは、帝国ホテルを襲い、銀座で銃撃戦を起こすようなものだ。インド政府がうまく収集しなければ、インドへ旅行したい人は減り、観光業はぐっと冷え込むだろう。
そして犠牲者の中に外国人はいるが、ほとんどはインド人だ。
無差別テロは誰でも憎むべきものだが、とくに僕のように観光に関わる仕事をしているものだと、怒りさえ覚える。
「観光」あるいは「旅行」は、他の国や地域の人々と、利害関係なく接することができる大切な場だ。旅先で多くの人々と出会うことで、その人も多くを知り、他の者に寛容になれる。
そんな手段だが、テロはそれを一気に潰す。そして関係ない人が殺される。たまたまそこを歩いていただけのような人たちが。

僕自身、この1月にまた取材でインドへ行く予定だったが、今回の事件の結果次第では仕事自体がなくなるかもしれない。でも、それでインドに行くのを止めようという雰囲気になれば、それこそテロリストの思う壷だ。
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by mahaera | 2008-11-27 16:07 | 映画のはなし | Comments(0)

海外TVドラマを観てますか? 「HEROESヒーローズ」と「LOST」

僕の知り合い以外に、このブログを読んでいる方はどんな方なんでしょう。
「つまらない!」でもいいから今度コメント下さいね。

さて、みなさんはいつも観ている海外TVドラマはありますか?
10年ほど前は、僕は「Xファイル」と「ER」を観てました。
「Xファイル」はたしかシーズン7ぐらいまではがんばって観ていたけど、
そのあたりで脱落。どんな終わり方をしたのかいまだにきになる。
「ER」はシーズン12までは熱狂的に観ていました。
しかしこれもだんだんレベルが下がってきて、シーズン4の初めぐらいで脱落。
ジョージ・クルーニーが番組から降りるぐらいでしょうか。

で、現在、我が家で続けて観ているのはというと、
「LOST」と「HEROESヒーローズ」です。
話を知らない方のために書くと、「LOST」は南のある島に不時着した飛行機の乗客たちが主人公。そこには得体の知れない怪物や、先住の謎の人々、地下に埋められたシェルターなど、すべてが謎だらけ。
しかも救援隊はこず、乗客たちは外敵と戦いながらも生きていかねばならないというストーリー。
島での生活だけで話が続くのかと言うと、登場人物たちのバックストーリーを各回1名ずつとりあげて探っていくので、大丈夫。
乗客たちはみないわくのある過去があったり、どこかでつながっていたことがわかっていく。
最初は「宇宙人オチ」とか「夢オチ」だったらどうしようかと思っていたら、それはなさそうで安心。これはAXNで現在シーズン4まで放送中で、
ほぼ追っかけてみています。意外な展開が、毎放映回のラストにあり。すぐに解決する事件でも、無理矢理引っ張って次回につなげる強引さは、どこか浦沢直樹の漫画に通じます。通してみると、よけいな話の回り道もたくさんあるんですが、何とか力ワザで押し切っています。
シーズン2の半ばからシーズン3の最初はちょっとダレますが、
今のところ、シーズン3の終わりからまたテンションをあげてきてます。
観てない人は、レンタルでまとめて観てみましょう。きっと止められなくなりますよ。

子どもと二人で観ているのが「HEROESヒーローズ」。
これは様々な超能力を持った人たち、それをコントロールしようとする謎の組織、超能力者たちを次々殺害してその力を自分のものにしようとする悪の超能力者などが入り乱れ、ニューヨークで起きる核爆発を防ごうとするもの。最初、超能力者たちはお互いの存在を知らず、バラバラだが、
やがてまとまっていく下りは、「里見八犬伝」のよう。
超能力者バトルは、子どもが観たいと願っているシーンだが、けっこう恐かったり、グロい所も。
超能力者たちには善人も悪人もいるが、とくにどっちでもない普通の人たちの方が多いというのが、リアル。このドラマに出ている日系人マシ・オカは来日して日本のバラエティーにも出ていたっけ。
これも誰が主役と言うのではなく、次から次へとエピソードがスピーティーに展開され、早く次が見たくなる。現在シーズン2が日本では放映済みだが、我が家ではようやくシーズン1を見終わったところ。
年末の一挙放送で、なんとか追いつきたい。

「24」はシーズン1で、「まあ、いいや」って感じで、後は見ていないし、「プリズン・ブレイク」はシーズン1の10話ぐらいでリタイア。
そう思うと、この「HEROESヒーローズ」と「LOST」は、まだまだ期待して見れそうだ。
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by mahaera | 2008-11-23 16:11 | 映画のはなし | Comments(0)

ファティ・アキンの映画『愛よりも強く』、そして新作『そして、私たちは愛に帰る』など

一般にはあまり有名ではないが、ドイツにファティ・アキンという監督がいる。
1973年生まれというから、今年35歳。
トルコ系移民の子供としてハンブルグに生まれた彼は、長編映画を7本撮っている。
そのうち3本がドキュメンタリーで4本が劇映画。日本では4本が劇場公開されている。
日本で公開された作品すべては、常に自分の出自であるドイツとトルコに関わるもので、
彼のアイデンティー探しの長い長い旅とも言える

僕が彼の作品を初めて観たのは『太陽に恋して』(00)という作品だ。
ドイツに住むトルコ系の若者が、偶然出会ったトルコ人女性に一目惚れし、
彼女を追って陸路イスタンブールへと向かう。
そしてその彼にやはり一目惚れしたドイツ人女性が彼を追う。
お互いに片思い同士の男女のロードムービーで、
途中通る10年ほど前のバルカン半島の国々の様子がユーモアたっぷりに描かれていた。
この作品については、以下のアドレスに原稿を書いたので、詳しくはそちらを参照してください。
http://www.ryokojin.co.jp/tabicine/in_july.html
傑作とか、名作というほどではないが、自分の旅とも重ね、楽しく見ることができた。
そしてロードムービーに託して、ドイツとトルコの間に横たわる問題を巧みに織り込んでいく手腕にも感心した。

この作品と同時に『愛よりも強く』(04)が日本公開されたがそっちは未見で、
昨年ぐらいに公開された音楽ドキュメンタリー『クロッシング・ザ・ブリッジサウンド・オブ・イスタンブール』も観そびれていた。

そして先日、この12月に公開される彼の新作『そして、私たちは愛に帰る』の試写を見て、「ああ、この人はドラマを作るのがうまい」と再確認。
見逃していた『愛よりも強く』をレンタルで借りて、ようやく観た。
以前、インドでドイツ人と仲良くなり、ドイツ映画について語り合ったことがある。
その時、ファティ・アキンの『太陽に恋して』の話をしたら、「『愛よりも強く』もきっと好きになるから絶対観て」と言われた。

『愛よりも強く』はハードな恋愛映画だ。
主人公は2人。どちらもドイツに住むトルコ系移民だ。
男は何らかの理由で愛していた妻を亡くし、自暴自棄になっている中年男。
女はしきたりから抜け出て、家を飛び出して思い切り好きなことをしたいと思っている若い女性。
ある日、ライブハウスの清掃係をしている中年男は、自殺を試み車を壁にぶつける。
しかし命は助かり、入院。そこでやはり手首を切って自殺未遂をしたその若い女に出会う。
女は彼がトルコ系だと知り、「自分と結婚してくれ」と頼み込む。
敬虔なイスラーム教徒であり、伝統を重んじる彼女の家庭では、結婚でもしない限り家を出ることは許されないし、
男とつきあったり、夜遊びもできない。そこで自分と偽装結婚して欲しいというのだ。
断る男だが、絶望した彼女が目の前で手首を切ると、再び彼女が自殺をしかねないと心配し、結婚を承諾する。

とりあえず一緒に住み始めた2人だが、日本映画と違ってラブコメのようにはならない。
若い女性は水を得た魚のように毎夜遊び歩き、男を見つけてはベッドを共にする。
中年男性にもベッドを共にする相手はいるが、そこには友情めいたものはあるが愛はない。
やがて男はひそかに若い女性を愛するようになり、自暴自棄だった生活に生きがいを見出していく。
ある夜、彼女が出かけたクラブへ彼女を追っていき、そこで彼女にちょっかいを出した男とケンカ。
数人の男たちに袋叩きに会ってしまう。
その夜、男は彼女を求めるが、女は拒否する。
「寝てしまったら私たちは本当の夫婦になってしまうでしょう」

しかし若い女も彼のことを愛し始めていた。
そのことを彼に打ち明けに行こうと、いつもの店へ向かう女。
ところがそこに悲劇が待っていた。
「お前の女房は、誰とでも寝る」と知り合いにののしられた中年男が、カッとなって相手を殺してしまったのだ。。。
刑務所に入る男。彼に愛を告げる女だがもう遅い。
名誉を重んじる家族の「制裁」を怖れた彼女は、親戚を頼ってイスタンブールへ。そして消息を絶つ。
月日が流れ、刑期を終えて出所した男は、彼女を探しにイスタンブールへと向かうが。。

ここにあるのは、理性では押さえられない激しい感情だ。
直情型の2人恋愛は、最初から悲劇へと向かいそうな予感を常に秘めている。
そして「家族の名誉」といいながら、世間体ばかり気にして、女性を一段低く見ているトルコ人共同体への批判。
そこから女性が抜け出るには大きなエネルギーが必要で、
この映画の主人公ぐらいエキセントリックな女性でなければ無理だったかもしれない。
彼女の激しい感情は、自暴自棄になっていた男の心をも動かしていくが、
それはまた傷つきたくないと閉ざしていた心をまたむき出しにして、傷つく世界へと戻っていくことだ。
愛がなければ嫉妬もないし、そこから男が人を殺めることもなかった。しかし男は愛を選ぶ。

紆余曲折あり、男と女は再会するが、そこには「時間の経過」という大きな壁があった。
余韻を残すエンディングもいい。
本作は04年のベルリン映画祭金熊賞(グランプリ)を受賞している。
緊張感溢れる映画だが、それをほぐすように、時おりイスタンブールでの伝統音楽の演奏が休憩音楽のように映し出される。
それがこの作品の寓話性を示しているようでもある。

いまならTUTAYAなどで借りられるので、興味があったら見て欲しい。
12月公開の『そして、私たちは愛に帰る』もなかなかの力作でおすすめだ。
こちらは「旅シネ」に僕のレビューを載せているので、そちらを読んで下さい。
http://www.ryokojin.co.jp/tabicine/edgeofheaven.html
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by mahaera | 2008-11-21 16:16 | 映画のはなし | Comments(0)

映画『十四歳』と『青い鳥』、『荒野のストレンジャー』など

昨夜、日本映画の『十四歳』をレンタルで見直した。
これは「群青いろ」というユニットを組んで自主映画を撮り続けている
ふたり組のうちの片方が脚本を書き、片方が監督と主演を兼ねた作品だ。
彼らの前作、『ある朝、スウプは』は、アパートに住む若いカップルのうち、
男性のほうが新興宗教にはまってしまうことから、
ふたりのバランスが崩れていく過程をおもに女性側から描いたもので、
緊張感溢れるすばらしい作品だった。
その作品がPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で賞を取り、スカラシップを受け、
これは最初から劇場用作品として撮られている。

ある郊外の中学校の十四歳のクラスを中心に、生徒たち、先生、
そしてかつて十四歳だった男たちのドラマが積み重ねられる。
そこで見たクラスの光景は、僕の十四歳の時は大きく違うが、「こうあったかもしれない」パラレルワールドだ。
いじめ、暴力、共感の無理強い、友だちへの軽視と依存、先生へのいじめ…。

ここには対照的な二人の教師が出てくる。
生徒たちに共感して近づこうとする女性教師は、ある行為から逆に生徒に恨まれ、
精神科に通院していることを皆の前で暴かれる。
アグレッシブでやや暴力的な男性教師は、生徒たちは一見、無気力に見えるが、その内に攻撃性を秘めていると言う。
生徒はたちは昔の自分と何の共通点もない他人であると割切る男性教師だが、
生徒と面と向き合うことができず、彼らの心の中に近づくことができない。

映画では、14歳の生徒たちの心の残酷さのさまざまな面を見せる。
いじめている時は、いじめられている人の気持ちなんて考えられない。
自分のことだけで精一杯だし、第一自分が何でそんなことをするのかも、客観的にわからない。
それまでそんな経験がないからだ。
人の気持ちが考えられるようになってくるのは、ずいぶんたってからだったと思う。
僕も中学ぐらいの時代に、先生の弱みを見つけ、集団でからかった経験がある。
2526歳の先生だった。
今から思えばきっと傷ついていたのだろうが、先生が傷ついているなんてまったく考えなかった。
むしろクラスメートたちとの連帯感で、気分が高揚していた。
この映画の生徒たちも、先生が「精神科に通院している」という弱みを見せた途端に、攻撃目標にする。
別にその先生が特に嫌いなわけではない。弱みを見せたからだ。
もうひとりの暴力的な男性教師が言っていたことが正しいのかもしれない。
彼もいつかそんな経験をしたのだろう。
しかし、そのため彼はどこかで生徒たちを恐れて、向かう会うことができない。

映画は終盤、感情を今まで封じ込めてきたサラリーマンの男が、
14歳の少年と真摯に向かい合うところで終わる。彼の決意は少年に通じたのだろうか。
そして彼も、その思いを忘れることなく、向かい続けられるのか。
いい作品なので、レンタル店の店頭から消えてなくなル前に、棚で見つけたら借りてみて欲しい。

ちなみにロケの一部は、僕の住んでいる小田急相模原のサウザンロードで行われていた。


11月29日から公開される日本映画で、重松清原作の『青い鳥』という映画を試写で見た。
これも十四歳がテーマになっている。
郊外の町。中学二年の三学期が始まる。
前の学期、クラスの生徒のひとりが「いじめ」による自殺未遂事件を起こしていた。
家がコンビニ店のその少年は「コンビニくん」とあだ名され、
生徒たちから店の品を持ってくることを要求され、それに応えていた。
しかしそれが続くことに耐えられず、自殺を図ったのだ。そして彼は転校した。
映画は新学期の初日、一人の臨時教師(阿部寛)が学校に着任するところから始まる。
彼は吃音だった。容赦なく笑う生徒たち。
そんな生徒たちに教師は、「忘れるなんて卑怯だな」と言い、いなくなった少年の机を教室に戻させる。
そして誰もいない机に向かって声をかける。「野口くん、おはよう」

生徒を挑発するようなその行為は、やがて生徒たちだけでなく、教師たちの間にも波紋を呼んでいく。
一刻も早く、事件を忘れさそうとする教師たち。
生徒たちに「原稿用紙五枚以上。教師たちが納得するまで何度も反省文を書かせる」という行為は、
はたして本当に、自殺に追いやったことの反省になるのか。
「みそぎ」を済ませれば、あとはすべて忘れて再出発できるのか。

生徒たちはここでもみな、罪の意識はあまりない。
自殺未遂をした生徒はいつもおどけていて、頼まれることがうれしそうに見えたためだ。
ひとりの生徒は、親友だった自分が最後にポテトチップを頼んだことが、
自殺への後押しをしたと悩んでいる。

長身で無口、事件が表面上終わったかに見えた場所にやってきて、
過去の事件を蒸し返し、人々の偽善を暴く。
そんなこの臨時教師の姿を見ていて、僕はクリント・イーストウッド主演の西部劇『荒野のストレンジャー』を思い浮かべた。
名前のない男がある町にやってくる。
その町では住民たちが、かつて保安官が無法者たちになぶり殺しにされるのを見過ごしていた。
名無しの男の存在は、町の人々の心を不安にさせる。反省する者もいるが、自分を正当化しようとする者もいる。
この『青い鳥』の臨時教師も、何も言わず、ただ毎日反復する行為が、
心にやましさを感じる人々に、過去に自分のしてきた行為を思い出させる。

意外だったのが、ふつうの映画なら、教師は過去に傷を負った生徒たちを癒していこうとするが、ここでは逆なことだ。
「自殺未遂をした少年にしたことは、一生忘れるな」と言うのだ。
人生においては、何も「なかったこと」にするなんでできない。
それを背負って生きていくしかない。それが「大人になること」と言い換えてもいい。
いじめられた人間は、一生そのことを忘れられないかもしれない。
ならばいじめた方も、そのことを忘れたりせず、その後悔や嫌な思いを一生背負っていくことで、償いになるのだ。
そしてそれは、二度と同じことをしないためへの糧でもある
吃音の教師は、言葉少ないが、ひとつひとつ言葉を選んで、生徒の心の叫びに真摯に向き合う。
反省を無理強いするのではなく、何をしたのか時間をかけて気づかせるのだ。
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by mahaera | 2008-11-11 16:22 | 映画のはなし | Comments(0)

ドキュメンタリー映画『悪魔とダニエル・ジョンストン』

前にも観たドキュメンタリー映画だが、昨日、レンタルでもう一度見直して面白かったのでここで紹介する。

ダニエル・ジョンストンはアメリカのシンガーソングライターだ。
僕もこの映画を観るまでまったく知らなかった。
生まれた年は1961年で僕と同じ。
キリスト教原理主義の家庭の末っ子として生まれた彼は、
小さいころから絵と音楽に熱中し、
八ミリカメラを手にすると自主映画も撮り始める。

小さい子供なら、何かに熱中している姿は微笑ましいが、
10代ともなればその姿はバランスを欠いているように周囲も思う。
やがて彼はロックに熱中。両親は悪魔の音楽とけなすが、
ピアノで自作曲をテープに録音し始める。

家を離れ、遠くの大学に通いだした彼だが、そこで最初の躁鬱症を発症。
やがて地元に戻り、マクドナルドでバイトしながら音楽活動を続けるダニエル。
活動といってもバンドやライブをするわけではなく、
ガレージでひたすら自作曲の自主制作テープを作るだけだ。
それもダビングを知らず(またはできず)、
オーダーがあればその曲順にいちいち歌を吹き込むといった具合。
しかしそんな彼のカセットは次第に地元のインディーズで話題を呼び、
MTVで取り上げられたころからメジャーへの入り口が見えてくる。

しかしそれと同時に、彼の精神は崩壊寸前にあった。
ニューヨークでソニックユースのメンバーらとのレコーディング中に
切れて、姿を消すダニエル。
悪魔の声が聞こえ、子供のころからの友だちの「キャスパー」と話をし、キリストに助けを求める。
精神病院に入院した彼に、再び脚光が当たったのは、
ニルヴァーナのヴォーカルのカート・コベィンが、
ダニエルのイラスト入りのTシャツを気に入り、たびたび着ていたからだ。
目玉がヒョロリとのびたそのヘタウマなイラストは、どこか人の気をひきつけるものがあった。
入院中のダニエルに、大手メジャーレコード会社から契約の打診がくる。
人生における彼の最大のチャンスだったが、彼はまだ完治していなかった。
やがて彼は退院して、人前に立ち、歌を歌うようになるが…。

彼を見ていて、ビーチ・ボーイズのリーダーのブライアン・ウィルソンを思い出した。
実際、ユーモアに満ちて良くできたこのドキュメンタリーは、
ブライアン・ウィルソンのドキュメンタリー風パロディにも思える。
ビーチ・ボーイズのリーダーであり、作曲からスタジオワークを仕切っていたブライアンは、
コンサートツアー中の飛行機の中で、突然おかしくなってしまう。
以降、彼はツアーに参加せず、スタジオワークに専念するが、妄想はどんどん悪化し、
『ペット・サウンズ』のような傑作アルバムを作るが、
ドラッグ漬けの日々で人生の多くを無駄にする。
大人だが、少年のようにか細いブライアンの歌声は、ダニエルにも通じる。

ダニエル・ジョンストンの歌は正直言ってうまくない。技術的にはきっと下手な部類だ。
彼の歌に伴奏をつけるピアノやギターも、いつもチューニングやリズムが狂っている。
プレイだって、まちがっても気にしない。
しかしその歌声に、人をひきつける魅力があるのは確かだ。
ちゃんと聴いていないと、いつのまにか消え入ってしまうそうな、か細い声だが、
技術はなくても表現力に満ちている。

アーティストを目指した一人の感受性豊かな男が、
精神のバランスを壊していく姿を、多くの証言と本人が残した膨大なカセットテープや八ミリなどで構成したこのドキュメンタリーを、
貫くのはユーモアだ。
彼を悲劇の人として描き、また、家族の犠牲に焦点を当てた悲しいドキュメンタリーにすることもできたろう。
しかし、彼に散々な面にあった人々でも、そのコメントのトーンは全体的に明るい。
それは彼がまだ生きていることもあるが、また彼の才能をみな愛しているからだろう。
時には手をつけられない、大人の姿をした子供。
それがダニエル・ジョンストンなのだ。
そして彼の半生を見終わったとき、それが他人事ではないことを感じる。
彼は自分の中の一部が、純粋培養されて大きくなった姿かもしれないからだ。

たぶんあと半年もしたらTUTAYAの店頭から姿を消すから(回転が悪い作品は棚から下げられる)、
見かけたらすぐ借りて見るべし。
その価値は十分あるだろう。
目玉がヒョロリと延びたカエルのイラストがジャケットだ。
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by mahaera | 2008-11-04 09:54 | 映画のはなし | Comments(0)

映画『七人の侍』 その1

三週間ほど前になるけど、久しぶりにテレビで『七人の侍』を見た。
BS放送をHDに録ってあったやつを、
息子が気になり観たいというので、僕も一緒にながら見始めた。

この映画を見るのはもう何回目になるのだろう。
僕が子供のころから、よくテレビで放映されていたが、最初にきちんと見たのは1975年のリバイバルの時だ。
当時僕は中学生だったが、その時の国語の先生が「絶対に見に行け!」と大絶賛。
もちろん僕はそのころ立派な映画少年だったけど、あまり日本映画は見ていなかった。
クラスの何人かでテアトル東京に見に行ったと思う。しかし父親と行ったような気もするので、
もしかしたら二回行ったのかもしれない。
侍が次々と揃っていくところはわくわくし、決戦に備えて緊張感が高まり、
そして大迫力の雨の中の戦いには我を忘れた。
中学生でもこの映画の面白さは十分にわかり、感動し、泣いた。

その後、名画座で何度か見たし、テレビでも時々やるので数年に一回は見続けていると思う。
この映画に関して、「飽きる」ということはない。
この映画で飽きてしまうようなら、その人はどんな映画を見ても飽きてしまうだろう。
今回も、最初は斜め見だったのだが、やがて手作業を止めて真剣に見出してしまった。
本作は休憩ありの三時間二十七分の長尺だ。
息子は途中で注意力散漫になり、妻は最初から興味なしで見ていない。
その脇で、ひとり涙を流す自分。。(笑)

この『七人の侍』を見ると必ず泣いてしまうところがいくつかある。
まず最初のほう。農民たちが勘兵衛(志村喬)に村を守ってくれるように頼むが、断られる。
武功にもならず、報償も得られず、ただ飯が食えるだけでは、ふつう誰でも断るだろう。
そこで今まで悪い奴だと思っていた人足(眉毛がつながった男)があるきっかけを作り、勘兵衛は村人を助ける決意をする。
「このめし、おろそかに食わぬぞ」のセリフ。 ここで侍のテーマ(音楽)が流れ、涙がじわっ。
勘兵衛のやさしさと決意を知り、侍ならずとも彼に惚れ込んでしまうシーンだ。

その後はテンポ良く侍集めのシーンが続く。宮口精二扮する久蔵が登場する果し合いのシーンはインパクト大。
やがて侍たちは村へ。侍と農民の間に緊張が走るが、菊千代(三船敏郎)の活躍でそれも回避。
野武士との戦いに備え、侍たちは村人を集めて訓練する。
その過程で菊千代が落ち武者狩りの武器を農民に差し出させる。
ここで再び侍たちと農民間に緊張が走る。侍たちははみな武者狩りで命を狙われたことがあるからだ。
その溝を埋めたのが、また菊千代だ。
菊千代「こいつはいいや。いったい百姓をなんだと思ってたんだ。百姓ぐらい悪びれた生き物はねえんだぜ」
百姓がいかに小ずるくて、悪賢いかと罵倒する。
農民出身の彼はそのことを良く知り、それが嫌で侍になろうとしたのだ。
菊千代「でもな、そんなけだものを作ったのは誰だ? お前たち侍だっ!」
ここで、涙どわーっ。菊千代の叫びが、胸に突き刺さる。侍に酷い目に合わされ、農民が嫌になった男。
三船敏郎の名演が光る。

続く
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by mahaera | 2008-10-31 09:57 | 映画のはなし | Comments(0)

映画『七人の侍』 その2

その1からの続き

訓練が続き、離脱しようとした農民を勘兵衛が引き止める名シーンがあり、やがて稲刈り、
斥候を討ち取り、夜襲をかけるシーン、平八の戦死、そして野武士の襲来シーンへと続く。
この平八の弔いから一転し、丘上に野武士の軍団が現れるシーンは、
僕にとって『ゴジラ』でゴジラが初めて丘上に顔を出すシーンと同じくらいのインパクトがある。
戦いのシーンでは、まず水車小屋が焼かれ、赤ん坊を抱いた菊千代が
「こいつは俺だっ!」と叫ぶシーンが泣ける。
小さいころテレビで『七人の侍』を見て、ストーリーは忘れたが、このシーンだけは強烈に覚えていた。

そして戦闘が終わり、勝四郎が「野武士はっ? 野武士はっ?」と叫ぶ。
勘兵衛「野武士はもうおらん!」 
その瞬間、子供のように泣く勝四郎。
もうこのあたりは号泣。

最後はみなさんも知っている通り、平和が戻った村の情景に勘兵衛の
「また負け戦だったな。勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちだ」という名セリフがかぶる。
ここで小学生の息子「え?勝ったじゃない」と僕に聞く。
「そのうち、このセリフの本当の意味がわかるよ。あと何年かしたらね」と思うも、黙って聞き流す。

スピルバーグは今でも新作に取りかかるとき、『アラビアのロレンス』などと共にこの『七人の侍』を見直すという。
たぶん、こんな映画はもう二度と作れないだろうなあ。

その後、図書館で「黒澤明と『七人の侍』」という本を読んでそう確信した。
これは『七人の侍』製作のドキュメント本だ。これを読むと黒澤がいかに妥協しなかったかがわかる。
最初の制作費と日数は、まだ映画の三分の一しか撮り終わっていない段階で使い切ってしまったこと。
途中で打ち切りにならないよう、最後の決戦シーンの撮影は最後まで残しておいたこと。
水車小屋炎上シーンは撮影がうまくいかないとして、四回も燃やす羽目になったこと。
スタッフ、キャストすべてに、黒澤のペースを要求したこと。(毎晩の宴会に参加が必須というのは辛そう)
役者を精神的に追い詰めるほどダメ出しをしたこと。
勝四郎が志乃と初めて出合う山の花は、造花ではなく、
毎朝スタッフが山に本物を摘みに行って撮影したこと。

いまだと、そんな独裁的な監督には誰もついていかないし、
またそこまで無理強いしてもスタッフをコントロールできる監督もいないだろう。
映画のためにはすべてを犠牲にできる時代だったのかなあと。
そう思うと、最近の日本映画は、「映画」と呼べるものは少ないなあ。
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by mahaera | 2008-10-31 09:56 | 映画のはなし | Comments(0)

アメリカン・コメディって観ますか? ベン・スティラー

「アメリカでは大ヒット!」なのに、日本では劇場公開が見送られるジャンルがある。それはコメディ。
日本ではアメリカン・コメディはヒットしないというジンクスがある。
たとえば主演作は必ずと行っていいほど、その週の興行成績のトップになるベン・スティラー、アダム・サンドラー、ウィル・フェレルといったスターの作品でも、かなりの確率でDVDスルーになってしまうのだ。
え? 3人とも知らない? 仕方がない。日本で公開しても単館だったり、その人の名前を出していないんだから。

なかでも日本で比較的知られているのはベン・スティラー。
『メリーに首ったけ』の主人公はキャメロン・ディアスじゃなくて、彼女に惚れるベン・スティラー。
あとはロバート・デ・ニーロと共演した『ミート・ザ・ペアレンツ』、
SFXを多用したファミリー映画『ナイト・ミュージアム』の3作品はヒット。
でも、僕が彼の映画を好きになったのは『ズーランダー』。
スティラーが一流モデルで、マレーシア首相の暗殺を阻むという、くだらないギャグの連発なんだけど、わかる人にしか受けないだろうなあ。
ここで主人公のズーランダーのライバルで出ているのが、彼の盟友オーウェン・ウィルソン。
彼もまたおかしくて、ベン・スティラー映画にオーウェンが出ていないとさびしい。
『ロイヤル・テネンバウムズ』でも共演していたが、本当に仲がいいんだろうなあ。
その二人が往年のテレビシリーズの映画版リメイク『スターキー&ハッチ』で共演したけど、日本では劇場公開されず。ま、出来は今ひとつ。
まあまあ良かった『ポリーmy Love』もDVDスルー。
ジャック・ブラックと共演した『隣のリッチマン』もDVDスルー。
『ドッジボール』は劇場公開されたけど、主演じゃないし。。
散発的にドリュー・バリモア共演の『おまけつき新婚生活』が劇場で公開されたけど話題にならず。

そんな状況のなか、アメリカでは大ヒットし興行ランキング1位になった『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』が日本でお正月映画として公開される。もともとはこの時期に上映されるのはハリー・ポッターの新作だったんだけど、公開が半年延びたので、代役らしいが。。。
『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』、ひどい映画です。
これは褒め言葉で、くだらないことを一生懸命やる、とことんやるベン・スティラーはすごい。共演のジャック・ブラックもすっかりかすんでしまうほど。

まだ彼の映画を観ていない人がいたら、まず『ズーランダー』を観て欲しい。あれに彼の芸風が集約されている。
『ミート・ザ・ペアレンツ』と『メリーに首ったけ』は、彼に限らなくても、映画としての出来がとてもいいので、お勧め。
同じくらい『ロイヤル・テネンバウムズ』も好きだけど、あれは監督の映画だから。
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by mahaera | 2008-10-17 10:00 | 映画のはなし | Comments(0)