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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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映画レビュー 今月はロッキー祭り『ロッキー』1作目は今見ても心にしみる作品だった

先月は個人的に「ランボー祭り」だったが、今月は
「ロッキー祭り」にしようと、「ロッキー」一作目を、
おそらく30年ぶりぐらいに見る。
公開時、丸の内松竹で見たのも懐かしい。
しかし高校生の僕には、“まあまあ”の作品だった。
で、見直してみると、そりゃあわからないよね、高校生には。
これは「人生を無駄に過ごしてしまった人たち」が再起を賭ける話で、高校生はこれからなんだもの。

ストーリーはみなさんご存知なので省略だが、
驚いたのが、フィラルデルフィアの町が、
「まるでグアテマラシティか」と思うほどに汚い。
画面の隅々までゴミが散らばっているし、ロッキーの部屋もセットとは思えないほど乱雑だ(セットじゃなかったみたい。
コメンタリーでスタッフが、「ロッキーのトイレは臭かった」と言っていたので)。
70年代のアメリカ、本当に荒んでいた
きれいなショッピングモールひとつ出て来ないんだから。

監督やスタッフ、出演者の全員がコメンタリーで言うのは、
「予算がなかった」ことばかり。
もともとスタローンが書いた脚本を気に入ったプロデューサーが映画会社に持ち込み、
重役たちを半ばだますようにして出資させた企画。
愛犬のドッグフードさえ買う金がなかったスタローンだが、25万ドルを積まれても脚本だけ売るのは断り、自分の主演にこだわった。
「もし自分が出ないで映画が大成功したら、辛くて金を持ってビルから飛び降りていただろう」(スタ談)。
金を出した重役は映画が完成するまで、スタを別の金髪のイケメン俳優と勘違いしていたからGOが出た。

予算がないので出演者たちの服は自前。
フィルム代がないので、テイク数も重ねられない。
レールも引けないので、まだ試作に近かったステディカムを導入した初期の映画でもある。
監督曰く「俳優用のトレーラーなんてなく、バン一台でみんな着替えをしてた。しかし『ロッキー5』じゃ、スタローンはもう王子様みたいになってた」
感動のラストシーンも、録り直したためエキストラがおらず、
スタッフや知り合い30人ほどで取り囲んだだけ
どおりで、後ろが真っ暗だなと思った。

見直してみて、かなりよくできた脚本だと感心した。
よくある話だが、各キャラクターがしっかり描けている。
登場人物はすべてダメ人間だ。
優しくて高利貸しの取立て人が合わないロッキー、兄にずっと劣等感を植え付けられておびえる小動物のように育ったエイドリアン、周りが幸せになっていくにつれて自分が取り残されて八つ当たりするポーリー、ロッキーに冷たく当たっていたが彼が注目を浴びるとマネージャーを買って出るミッキー…。
ミッキーがしゃあしゃあとロッキーを訪ねて来て、
ロッキーが今までの不満をぶちあげ(でも面と向かっていえずトイレに隠れたり、彼が部屋を出てから言うのがロッキーらしい)、ロングショットで追いかけて肩を抱くシーンは、すごくよくできている(キャラを説明しきっている)と思う。
急にちやほやされてムカついても、優しさが出てしまう男なのだ。
あと、エイドリアンに「部屋に来いよ」と言っても、
なかなかエイドリアンが入って行かない辺りの、
恋愛不器用なふたりの描写もいい。

あの有名なロッキーのテーマ(ファンファーレバージョン)が流れるのも、映画の3/4まで来てからというのも、今の映画に比べると奥ゆかしくていい。
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by mahaera | 2015-06-25 21:17 | 映画のはなし | Comments(0)

映画監督フランクリン・J・シャフナーについて思う その3 最後の名作「ブラジルから来た少年」

シャフナーが「パピヨン」の次に撮ったヘミングウェイ原作の「海流の中の島々」(1976)はあまり評判にならなかった。
僕も未見で、しかも国内版ソフトが一度も発売になっていない。
しかしようやく7/8にDVD発売されるというので期待。

そしてその次が、「ブラジルから来た少年」(1978)だ。
原作はアイラ・レヴィン。「死の接吻」や
「ローズマリーの赤ちゃん」「ステップフォード・ワイフ」
「硝子の塔」の原作者で知られるミステリー作家だ。
劇作家としても有名で、「デストラップ・死の罠」は映画にもなっている。
この「ブラジルから来た少年」は、いわばSFミステリーともいう作品だ。
1970年代半ば。南米のパラグアイで、「死の天使」と呼ばれたナチスの医師メンゲレ(グレゴリー・ペック)が目撃される。
彼は各国に住む、公務員で65歳の老人を97名殺すリストをナチス会に渡す。
その報告を受けたナチスハンターのリーベルマン(ローレンス・オリヴィエ)は最初は取り合わなかったが、やがてそれが実行されていくにしたがって、メンゲレと闘うことになる…。

悪役を演じるのは初めてというグレゴリー・ペックが、
一度見たら忘れられない強烈なメンゲレ博士を演じる。
メンゲレは実在の人物で、アウシュヴィッツで数々の人体実験を行ったことで有名だ。
とくに双子を使った実験を重ね、次々に解剖したので、3000人の双子のうち生き残ったのはわずか180人という。
戦後は、うまく南米に逃げて、ユダヤ人の追っ手にはマークされていたものの、モサドは捕まえることができずに、1979年にブラジルで海水浴中に心臓発作で死亡した。
この映画が作られた当時は、まだ生きていて
南米に潜伏していたのだ。

今の目で見ると映画は非常に地味だ。
主役級が、60歳を超えた老人ばかり(もうひとりの重要な役もジェームス・メイスンと高年齢)。
とくにローレンス・オリヴィエは演技なのか実際にそうなかわからないほど、やせ細ってヨレヨレの老人になっている。
しかし派手さを排し、グイグイと話を引っ張って行く演出力はすばらしい。
メンゲレの目的は途中で明かされる(タイトルがヒント)が、そこから最後までもだれることがない。見直して思ったのが、1976年はまだ「ナチスの残党」も「アウシュビッツの生存者」も共にみな生きていて、この話が伝える恐怖がリアルだったということ。
南米のナチスの会合では、ヒトラーの肖像画が掲げられていて、みな軍服を着て出席というのも、本当にありそうだ(第二次世界大戦時、南米は親独政権が多かった)。
ミステリーとして(SFとしても)非常に面白いと思うのだが、
当時、日本では劇場公開を見送られてしまった。

“ブラジルから来た少年”役の少年が怖すぎ
余談だが、メンゲレは『Xメン ファーストジェネレーション』のセバスチャンのモデル。
また、南米で余生を送ったメンゲレを描いた「マイ・ファーザー」という映画もある。
これはメンゲレの息子が、本当の父親を知りたくて、ドイツから南米に会いに行った実話をもとにした映画。
自分の父親が史上最悪の殺人鬼でありながら、やはり父親は父親という矛盾に苦しむ息子が、書いた本が原作で、こちらはメンゲレをチャールトン・ヘストンが演じている
見た人は少ないだろうなあ。

この『ブラジルから来た少年』のあと、
シャフナーはもう名作を撮っていない
でも、すばらしい作品をいくつも残してくれたから、いいのだ。
シャフナー見ていない人は、ぜひ見てください。
ただし女性には、きっと受けない、男臭い作風です(笑)
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by mahaera | 2015-06-22 23:08 | 映画のはなし | Comments(0)

映画監督フランクリン・J・シャフナーについて思う その2 自由への渇望「パピヨン」

フランクリン・J・シャフナーのつづき

中学3年になる春休みだったか、親にせがんで
北千住の三番館に「パピヨン」を観に行った
ネット検索しても出て来なかったが、小学生の時、
パピヨンの物語は少年マガジンかなにかに連載していた。
アンリ・シャリエールの原作はそれほど世界で人気だったのだ。
なので、それが映画になり、「荒野の七人」の
マックイーンが主演とあらば、是非みたい。
映画館に入ると、なぜか映画は始まってから
10分ぐらいのところから映写を始めた。
いきなり囚人がギロチンで首を切られるところだ。
小学生の僕はビビった。

パピヨンとはフランス語で「蝶」
胸にパピヨンの刺青をした囚人シャリエールが、
殺人の罪で仏領ギアナの刑務所に送られ、
そこから何度も脱獄を試みるのがストーリー。というか自伝だ。
先週、ちょうどギアナ三国の原稿を書いていて、
「パピヨンの刑務所」や「悪魔島」が観光名所に
なっていることを知り、久しぶりに借りて見た。
で、シャフナーらしい、男臭い重量級の作品だった。
150分のうち、最初の90分近くはまったくなごむシーンがない。
音楽も最小限。ずーっと緊迫している。
とくに最初の独房シーンは、マックイーンの鬼気迫る演技と共に忘れらない。
体力つけるためにゴキブリ食ったりね。
で、何回も観ているのだけれど、今回腑に落ちたことがあった。
それは「なぜパピヨンは、自由をあきらめなかったか」だ。

注意して見ていると、何の罪で刑務所に入ったかを囚人たちが話していても、パピヨンだけは「オレは人を殺していない。ハメられたんだ」を繰り返す。
昔は、いちおう主人公だし。そういうことで」ぐらいにしか思っていなかったのだが、パピヨンは別に話したっていい同じ仲間にも、修道女の院長にも繰り返す。
そして一緒に脱走した仲間は捕まり、心折れて脱走を諦める。
つまり、「オレは無実だ」という叫びが、
パピヨンを最後まで諦めない、不屈の男にしているのだ。
これは映画の中で最重要だった
映画を見ているものにとっては、別にパピヨンが殺人を犯していても、このストーリーの中ではとくに問題にしなかったろう。
しかし、映画を作る側からしたらそうではなかった。

脚本のダルトン・トランポは、1947年の赤狩りで捕まり、仲間を売らずに証言を拒否して、実刑判決を受けた共産党員だった。
仕事はなくなり、メキシコに移り住み、
貧困の中、偽名で脚本を書き続けた。
「ローマの休日」と「黒い牡牛」でアカデミー賞原案賞を受賞したが、謎の作家はハリウッドに姿を現すことなかった。
彼の作風は「権力への不信と反抗」で、キューブリックが監督した「スパルタカス」やケネディ暗殺の陰謀を描いた「ダラスの熱い日」、自身が1939年に書いた小説とそれを元にして監督した「ジョニーは戦場に行った」によく現れている。
そのトランポが晩年に書いた脚本が、この「パピヨン」だ。
非人間的な扱いを受ける主人公をうまく描けないはずがない。
独房に差し入れをした仲間の名を言えと言われ、拒否する男。
そこにかつての自分を重ねたに違いない。

映画はパピヨンの不屈を描いたが、観客が一番共感したのは
ダスティン・ホフマン演じる囚人仲間のドガだ。
一度受けた恩は忘れない、友情を大事する男。
しかしパピヨンほど強くはなく、最後は脱獄を諦める。
それは観客自身だ。ドガはパピヨンが口を割って自分の名を出しても責めないという。
しかしパピヨンは口を割らなかった。

DVDの吹き替えでは、TV放映時の愛川欽也版で「あたしゃ」というセリフがちよっとおかしかったが。映画観てすぐに買ったEP版、親に捨てられて残念。
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by mahaera | 2015-06-21 23:20 | 映画のはなし | Comments(0)

映画監督フランクリン・J・シャフナーについて思う その1 経歴と「猿の惑星」「パットン大戦車軍団」

フランクリン・J・シャフナーという映画監督をご存知だろうか? 
作品数もそれほど多くはなく、また80年代以降の晩年は作品に恵まれなかったので、全盛期は60年代末から70年代中期のわずか10年。
しかしその全盛期に70年代映画ファンに忘れがたい作品を残した。
何でわざわざ書くというと、先日たまたまTsutayaで借りた4本のうち、『パピヨン』と『ブラジルから来た少年』が彼の作品だったからだ。で、改めて観て、その正統派の作風に感心した。

フランクリン・J・シャフナーは1920年に東京で生まれる
父親は宣教師だったが、彼が6歳の時に死去。
アメリカに戻ったのは16歳のときというから、
日米の緊張が高まる時期まで日本で暮らしていたのだろう。
帰国後は大学に行くが、戦争勃発と共にOSS(CIAの前身)に
所属した
ようだから、日本語ができたのかもしれない。
しかし戦争が終わるとテレビ業界に入り、後に映画化されて有名になった「十二人の怒れる男」(映画版は同じくテレビ出身のシドニー・ルメット)を手がけ、エミー賞を受賞。
1963年より映画監督に。
まあまあの作品を4本監督した後、
1968年に監督した『猿の惑星』が大ヒットする。

ご承知のように原作は戦時中に日本軍の占領下に入り、
その体験を元に書いた「戦場にかける橋」が映画にもなったフランス人ピエール・ブール
この「猿の惑星」も白人がそれまで猿とみなしていた
アジア人と立場が逆転するという風刺小説だが、
映画版では黒人問題や赤狩りのメタファー
当時の現代的な問題を取り上げている(脚本のウィルソンは赤狩りの対象になったことがある)。
この映画については、一冊の本ができるくらいの話題があるが、
それは置いておいて、シャフナーは理不尽な権力や仕組みの中で翻弄される主人公(かつての支配階級)を描いた。

次作の1970年の『パットン大戦車軍団』は、
アカ嫌いの超タカ派の軍人パットンの戦時中の功績を描いた戦争大作だが、もうニューシネマが始まっているのに時代遅れの戦意高揚映画のような作品(に一見見える)。
脚本は戦争経験がない反権力青年フランシス・フォード・コッポラだし、主演はリベラルで有名なジョージ・C・スコットだ(スコットはアカデミー主演男優賞を受賞するけれども辞退)。
冷戦時代には、パットンのような男は、
すでに時代遅れと描く、骨太な演出だ。
次の「ニコライとアレクサンドラ」は未見だが、その次が1973年の『パピヨン』になる。

つづく
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by mahaera | 2015-06-20 13:21 | 映画のはなし | Comments(0)

最新映画レビュー『しあわせはどこにある』キャストは好み、題材も面白そうなのに退屈した、自己啓発映画

しあわせはどこにある
Hector and the search for Happiness

人生に行き詰まった精神科医が、“幸福”を探しに世界を旅
する

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2014年/イギリス、ドイツ、カナダ、南アフリカ

監督:ピーター・チェルソム(『Shall we Dance ?』『ハンナ・モンタナ・ザ・ムービー』)
出演:サイモン・ペッグ(『宇宙人ポール』『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』)、ロザムンド・パイク(『ゴーン・ガール』『アウトロー』)、トニ・コレット(『リトルミス・サンシャイン』『シックス・センス』)、クリストファー・プラマー(『人生はビギナーズ』『サウンド・オブ・ミュージック』)、ジャン・レノ(『レオン』)、ステラン・スカルスガルド(『奇跡の海』『マイティ・ソー』)
配給:トランスフォーマー
公開:6月13日よりシネマライズ、新宿シネマカリテ


いろんなタイプの映画があり、どうしようもない
アクション映画とか褒めるのに苦労するのだが、
この映画は期待は高かったのだが、久しぶりに退屈した。
まあ、「そんな映画を紹介するな」と言われそうだが、
なぜダメなのかをちゃんと考えてみようと思う。

ロンドンに住む精神科医のヘクターは、
美人でしっかり者の恋人クララと何不自由ない生活を送っていた。
しかし、毎日患者たちの不幸話を聞いているうちに、
自分の人生がつまらないものに見えてくる。
ヘクターは答えを求めて世界各地を旅することに。
まずは中国へ。上海行きの飛行機で知り合った
裕福なビジネスマンと遊びに行った先では、
魅力的な若い中国人女性に知り合い、
チベットの僧院では僧侶に悩みを打ち明ける。
アフリカでは麻薬王と出会い、ギャング団に拉致される。
ロサンゼルスではかつての恋人に再会する。
はたして彼は“幸福”を見つけることはできるのか。

原作(「幸福はどこにある—精神科医ヘクトールの旅」NHK出版)は未読だが、解説によれば小説の形を借りた自己啓発本だという。
その名残は映画のそこかしこに出ていて、ヘクターは旅で起きたできごとがあるたびに“幸せのヒント”をノートに書き付ける。
「幸せとはありのままの姿で愛されること」「幸せとは時としてすべてを知りすぎないこと」といった教訓というか標語か。
ただ、自己啓発本を読む人は最初から「啓発されたい」というモードに入って読んでいるが、映画を観る人はそうじゃない。
別に面白ければいいし、主人公に共感するのも、自分がそうなりたいからではなく、主人公の気持ちがよくわかるからだ。
つまり登場人物の心情に寄り添うことができなければ、
映画は表面的にいろいろな出来事が起きるだけ
で、無味乾燥なものになってしまう。

ところが、この映画の主人公ヘクターには、
ちっとも共感できない。更年期障害ではないが、
生活には恵まれているのに漠然と「僕は幸せなのかなあ」では、
よほどの人でなければ彼に入り込めないだろう。
別に人一倍悲惨なできごとがあれば、という意味ではない。
何不自由なくても精神が苦しいことは、
演出やキャラ造型で示すことができる。
ところが本作では、書き割りのキャラでうまくいっていない。
軽いコメディタッチでもいい。笑わせるが、
ポイントでシニカルな結果にして登場人物の思いに気づかせる
ウディ・アレンのような人もいる。
しかし、監督・脚本のピーター・チェルソムからは、
映画的表現のひらめきが感じられず、“幸せのヒント”の標語が出るたびに、押し付けがましさも感じてしまうのだ。

ちなみに、キャスト陣は僕の好きな人たちばかりだ。
だが、誰もが深いキャラをみせておらず、ストーリーを進めるためにいるだけのキャラで残念。
世界各地で主人公が出くわすアクシデントも、
標語を導き出すためにひねり出されたストーリーのような感じ。
各エピソードも毎回ヘクトールがノートに書き付けた標語でしめるが、それは毎回解答を提示されているようで、こちらに考えさせる間も与えない。
「はいっ。この話の答えはこれです!」みたいな。

まあ、僕と違って、啓発を求めている人が本を読むような感じで、この映画を観ればまた違ったものがあるかもしれないが、豪華キャストの無駄遣いにしか思えない出来映えだった。
もう劇場公開しているので、ハッキリ書けるが。
(☆なし)(旅行人のWEBサイト「旅シネ」に寄稿したものを転載しました)
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by mahaera | 2015-06-19 13:20 | 映画のはなし | Comments(0)

最新映画レビュー『奇跡の2000マイル』 4頭のラクダとオーストラリアの砂漠を横断した、ひとりの女性

奇跡の2000マイル
Tracks

2013年/オーストラリア

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監督:ジョン・カラン(『ストーン』)
出演:ミア・ワシコウスカ(『アリス・イン・ワンダーランド』『イノセント・ガーデン』)、アダム・ドライバー(『フランシス・ハ』)、ライナー・ボック
配給:ブロードメディア・スタジオ
公開:7月18日より有楽町スバル座、新宿武蔵野館


どこにいても、自分の居場所がわからない人がいる。
いや、誰でも人生にそんな“とき”がある。
そんなとき、人はどうするのだろう。都会で孤独に生きるのか、
それともそもそも人がいない場所に行くのか。
人が嫌いな訳ではない。傷つけたい訳ではない。
ただ、うまくやって行けないだけだ。
この映画の主人公、ロビン・デヴィッドソンも
そんな女性に見える。オーストラリアのど真ん中、
アリス・スプリングスにやって来る前から、
彼女はそんな人生を送って来たのだろう。

1975年、アリス・スプリングスにひとりの女性がやってきた。
愛犬ディギティを連れたロビンは、ここから乾燥した砂漠地帯を
西へ徒歩で向かい、インド洋に達するという夢を叶えるため、
ラクダを手に入れようと努力する。
旅のメドがついたロビンは、ナショナル・ジオグラフィック誌からも援助を受けることに成功。
その条件として旅の途中に、リックというカメラマンに何度か写真を撮らせることに。
1977年、4頭のラクダと愛犬を連れてロビンはついに出発する。

時おり挟まれる回想シーンから、
彼女は帰るべき家がないことが見えて来る。
家といっても現在の家ではなく、
心の中にある自分の原風景とでもいう過去の家だ。
そして彼女が絆を確かめたいのも、現在の父ではなく、
記憶の中の過去の父だ。
それを叶えるためにか、ロビンはラクダを連れて旅に出る。

旅に出るまでを比較的丁寧に描くことにより、ラクダと犬を連れた旅が、当初考えていた冒険とはほど遠いものであることがロビンにもわかってくる。
まったく人気のない荒野だけではない。
29日目にエアーズロックにたどり着くが、そこは“国立公園”と
して囲われていて、ラクダ連れだと入れてくれない。
彼女は1か月近く歩いて来ても、エアーズロックのそばに近づくこともできない。
そして観光客のぶしつけな視線を浴びる。
ナショナル・ジオグラフィックからの資金提供の見返りに
撮影を許した彼女だが、カメラマンはポーズを要求する。
そして旅は単調だ。
1日32キロ。
ほとんどが何も起こらない、冒険とはほど遠い毎日だ。
逆に“冒険”になってしまうのは、自分が何かしくじった時なのだ。

映画は彼女の旅をなぞるので、かなり淡々と進む。
一番のハラハラが、落としたコンパスを拾いに戻り、
自分のいる位置がわからなくなってしまうシーンだ。
360度見回しても目印になるようなものは何もない
荷物を積んだラクダに戻ることができなければ、死んでしまう。
以前、自分が熱帯のジャングルに行った時、
恐いのは用を足しに茂みに分け入った時に、
来た道に戻れなくなることだった。
目をつぶってくるくる回転したら、もう方向がわからなくなる。
このオーストラリアの土漠もそんな感じだ。

誰もいない荒野だが、時おり車が走るのか道があったり、
アボリジニの村があったりと完全に文明から遠い訳ではない。
逆にそれが孤独を感じさせる要素でもある
道を通る車とすれ違えば観光客がカメラを向ける。
人と接することで、余計に孤独が強まることもあるのだ。

映画は、とくにこの旅が何だったかという
明快な落としどころは用意しない。
その結果は、旅を終えたロビンの心の中にある。
その点が物足りないといえば物足りないが、
簡単に結論を出して感動を示すことは避けたかったのだろう。
空撮を含むオーストラリアの自然と、
ミア・ワシコウスカの好演が印象に残る。
ミアはときどきジュディ・フォスターそっくりだと感じるところがあった。
(★★★)

●映画の背景

映画の主人公でもあるロビン・デヴッドソンが旅を始めたのは1977年4月9日のこと。195日後に西海岸に到達した。彼女が1981年に出した回顧録「TRACKS」はベストセラーになり、オーストラリアなどでは教材にもなっている。

(旅行人のWEBサイト「旅シネ」に寄稿したものを転載しました)
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by mahaera | 2015-06-18 15:25 | 映画のはなし | Comments(0)

「マネー・ボール 奇跡のチームをつくった男」マイケル・ルイス

映画「マネーボール」が面白かったので、原作小説を買って読んだ。
2004年と10年以上前の本だが面白い。
当時誰も注目していなかった理論で、
誰も注目していなかった選手を見つけて成功する、
まあビジネス書だが、確率論もその解釈次第ってことだ。
データは公開されているものだし、それをどう読み取るかで
変わって来るという話。しかしそれでも完璧ではなく、
最終的には「勝てない」んだが。

関心したのは、よくここから映画はあそこまでの
ドラマを作ったということ。ドラマの部分はほぼ創作だ。
映画化が難航して、ソダーバーグ版が寸前で中止になったのも、
脚本にドラマがなかったから。
苦労して成功するという原作通りの脚本でも面白いと思うが
(この本自体がけっこう面白い)、
それじゃ足りないと思ったのだろう。映画としては。
映画で一番ぐっとくる場面は、もちろん創作だ
(原作にビリーの娘はほとんど登場しないし、
20勝かけた試合でも「アメリカンアイドル」を
見ていて野球に興味ない)。
それが脚色というものだろう。

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by mahaera | 2015-06-17 10:24 | 読書の部屋 | Comments(0)

映画レビュー「(500)日のサマー」 文系男子にとってはイタい過去を見せつけられている

「(500)日のサマー」

評判が高い映画だったので、心して観るが
いっこうにハマってこない。
童貞臭漂う草食系男子(会社も文科系)が、
会社に入って来た「理想の女子」サマーにひと目惚れ。
「運命の人」と信じ、願いかなってつき合うようになり、
楽しいひとときを過ごすが、数ヶ月で別れる。
男子には別れる理由がサッパリわからない。
そしてサマーは、「運命の人に出合った。
あなたは運命の人じゃない」といって誰かと結婚する。

映画は、彼がサマーと出合って別れる500日を
シャッフルして見せる。映画の9割ぐらい
進んだところまで、僕は乗り切れない。
サマーが何を考えているかサッパリわからないのだ。
映画は主人公の主観なので、それは主人公そのままでもある。
で、最後の方になって全部腑に落ちた。
「ああ、これは僕のことね」と。
つきあっていた女性に突然、「あなたと私は合わない」と
言われるとか、
デート中に「意味なく急に機嫌が悪くなったり」とか、
自分に理解できない理由で別れることになったすべてのことだと。
相手がどう考えているかなんて気づきもしなかった、
恋に恋していた20代の不幸な恋愛全部を。
サマーは魅力的だが、何を考えているのかわからないのは、
全部主人公の主観だからだ。輝きもするしくすみもする、
共感しているかと思えばまったくわからなくなるときもある。
痛い。とっても痛い映画なのだ。

たぶんこの映画を見た文科系男子の90%は、
自分のイタイ部分を目の前に突きつけられて、
辛い恋を思い出すだろう。だけど、人はそれがあったからこそ、
現在の妻や恋人がいる。
エンディングはそれが伝わるハッピーエンドなのだ。

主人公がサマーと初めて結ばれた翌朝、
町の人々が祝福し歌い踊るミュージカルシーンは、
「モテキ」と似ているなあと思っていたら、
雑誌で「モテキ」の監督が、「あの映画から
サンプリングしました」
と語っていた。
あれはやりたくなるよな。
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by mahaera | 2015-06-13 22:24 | 映画のはなし | Comments(0)

映画レビュー「この空の花 長岡花火物語」 何だかすごいものを見たという感じ

「この空の花 長岡花火物語」

評判がいい」ぐらいの前知識で、どんな映画かわからずに深夜にDVDを再生してぶっ飛んだ。
大林宣彦監督の「この空の花 長岡花火物語」だ。
現在の長岡市の花火大会と東日本大震災、
そして戦争時の長岡大空襲を、ドラマとドキュメンタリーで
描くというが、この語り口が、見慣れている
ふつうの映画とはまったく異なり、何だか別世界の
言語や表現
を見ているようで、
の暴走老人ぶりにホドロフスキーに通じるものを感じた。

何の説明もなく現在と過去、語り手がぽんぽんと飛び交い、
画面を見ている私たちに登場人物が語りかけたり、
セリフの棒読みを続けたり、ひとつの画面で
いくつもの時代のストーリーが同時に進行していたり、
ちょっとしたエピソードごとに回想に入ったり
(本を読んでいて脚注に出合って行き来する感覚だ)、
現実感を削ぎ落とした合成や、俳優が演じている
実際の人が出て来たりと、もうやりたい放題
大林流の書き割りの背景や、紙芝居のような合成は
慣れてはいたが、その手法はもう完成の域
日本人と原爆と原発の問題(長岡は原爆投下候補地だった)、
戦争の悲惨さを描いているが、メッセージは
かなりストレートなのに、押し付けがましなく、
映画の力によって、あれよあれよと見せつけられてしまう。
こんな映画は、世界にほとんどない
160分という長尺を、怒濤のカットやシーン
(想像するだけで苦労とそのイマジネーションに気が遠くなる)で、
たたみかけるように見せているが、
その情報量たるや朝ドラの総集編を見ているようなものだ。
現在の長岡市の花火大会に空襲で死んだ人々や
裸の大将・山下清、サックスの坂田明まで飛び出すのは、
ほとんど「ゲルニカ」だった。

「人間にもっと想像力があったら、戦争なんか起きないのに」という、“きれいごと”とも取られかねないメッセージを、大林監督は照れることなく、ビュアに発信している。
本当だが、気恥ずかしくてなかなか言えないことだ。
YAHOOニュースのコメントを見ると、そんな“想像力”のない人たちのコメントだらけだ。
「戦争を終わらすためには、多少の一般人が空爆で死ぬのはやむを得ない」とIS国への空爆を認めている人たち。
犯罪者や危険地域に行くジャーナリストだけでなく、遠い国で家族の幸せだけを願ってひっそり暮らしている人の死も、自分に関係なく、気にしない、そんな今の風潮に、真剣に大林監督は危惧を抱いているのであろう。
そんなメッセージも伝わるが、何よりも映画の表現として
「なんか変なものを見てしまった」と思わずにはいられないパワー。
これに近いものは、最近ではホドロフスキーの「リアリティのダンス」ぐらいしか浮かばない。
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by mahaera | 2015-06-09 10:56 | 映画のはなし | Comments(0)

『facebook 世界最大のSNSでビル・ゲイツに迫る男』 映画の原作本です

映画「ソーシャルネットワーク」の原作本、読み終わる。

もっとも原作といっても、脚本家はこの本のプロットとなる
10ページを読んで脚本を書き始めたという。
つまり脚本と本は同時に別々に進められていたようだ。
もちろん実際にあった話なので、大筋は同じ。
ただ原作者はマーク・ザッカーバーグにインタビューできなかったので、原作本の多くはインタビューができた共同創業者のエドゥアルドと、対立したウンクルボス兄弟の視点が多い。
「ザッカーバーグはこう思った」というのはないのだ。
そして原作に書かれているのは、映画では回想シーンとなる部分のみ。
つまり現在の訴訟シーンは、映画独自のもの
ついでにいえば、映画の冒頭の恋人と別れるシーンは映画オリジナル。
原作ではマークの彼女は登場しない。

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つまり原作は、「今、昇り調子のFacebookはどうやってできたか。その裏に消えていった人たちもいた」みたいなビジネス書の作りなのだが、映画では「すでに終わってしまったことを、当事者たちが振り返る」という形に変更されている。
映画は成功談ではなく、「イノセントの喪失」がテーマのひとつだったからだろう。
映画を観ればわかるように、学生寮の部屋から生まれたFacebookだが、訴訟のシーンでは(回想シーンから数年経ち)、無邪気に楽しかった時代はもうとっくに過去のものになり、彼らは否応無しに「大人」になってしまったのだ。

映画に原作の事実はほとんど取り入れているが、
それだけでは映画としては感動はなかったかもしれない。
ただそこに「友情」「裏切り」「愛」という、
映画を面白くするのに必要な要素を脚本家は見つけた。
そして「イノセントの喪失」というエンディングをつけた。

最初見た時には「友人を作るFacebookは大成功したが、
結局は友情を失い、元カノに友達申請する」という
むなしいエンディングと思ったが、見直してみると違う
解釈もあるなと思った。
もしかしてマークにとっては、ハッピーだったかもしれない。
だって、あんなに手ひどく嫌った彼女が、
Facebookに登録しているのを見つけたのだから。
これは彼にとっては、大きな勝利だったんじゃないかな。
どちらともとれる表情をして終わるのが、いい映画らしいところだ。
自分は評価されなかったが、
少なくとも自分の作品は彼女に評価されたのだから。

あと、今回、得点映像付きの2枚組DVDを買ってみて
気づいたのは、映画製作者たちが、ハーバード大学にこだわったこと。
最初は“いい大学”ぐらいでするっと見てしまったのが、
世界最高峰の大学なんですね。
大統領を7人も輩出しているし(オバマもそう)。
日本でいえば、「東大の学生の生活を見せる」みたいな好奇心と、
彼らのエリート意識を見せる部分があったんだろう。
もちろんザッカーバーグは、そこでは異質な存在だったようだけど。
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by mahaera | 2015-06-04 16:58 | 読書の部屋 | Comments(0)