「ほっ」と。キャンペーン
ブログトップ

旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

mahaera.exblog.jp

<   2016年 06月 ( 9 )   > この月の画像一覧

子供に教える世界史・番外編 映画「砲艦サンパブロ」に歴史を学ぶ

子供に教える世界史・番外編「砲艦サンパブロ」

 世界史を気軽に理解できるように、
勉強の休憩時間にDVDで映画を見せている。
休憩とか食事の時に見せているので、普通の映画なら2回に分けて、
大作なら3回に分けてぐらいの進みだ。
今までに「天地創造」「トロイ」「300」「ベン・ハー」「華麗なる激情」「ガンジー」「アラビアのロレンス」「アポカリプト」「戦争と平和」「アマデウス」「エリザベス」「エリザベス/ゴールデンエイジ」「ガンジー」とか。
何にはまるっきりのハリウッド映画もあるが、
何かしろ引っかかるだろ。
で、先日見せたのが「砲艦サンパブロ」

 ちょうど列強の中国進出のところを教えていたので、
何かいい映画ないかなと思ったのだが、手持ちであったのはこれ。
時代は1927年の南京事件(日中戦争のではない)の頃なので
教えている時代は全然違うが、列強が進出する雰囲気は出ている。
皆さんはこの映画を見たことがあるだろうか。
1966年公開のアメリカ映画で、196分の大作だ。
監督は「ウエストサイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」のロバート・ワイズ。SFファンには「アンドロメダ‥」「スタートレック(1作目)」の監督といった方が馴染みがあるだろう。
音楽のジェリー・ゴールドスミスが実にいい仕事をしているので、
サントラ盤が欲しくなった。

 1920年代の揚子江、在留米人の保護のため、
小さな戦艦のサンパブロが停泊している。
そもそも外国の領土なのに、アメリカの国旗を掲げた戦艦が
停泊しているのはなぜかというと、1900年の義和団事件(調べてね)の後に清と列強の間に結ばれた北京議定書で、外国の駐兵権が盛り込まれてしまったからだ。
日本国内に外国の8か国の軍隊が駐留しているような状況だ。
そこに主人公である水兵ジェイクがやってくる。
あちこちの部署で問題を起こして長続きしないが、
それは彼の生真面目さや周囲に流されない性格によるものだ。
このジェイクを演じるのが全盛期のスティーブ・マックイーン
船内でも彼は周囲から浮いてしまうが、彼の友人になるのが、
のちに「ガンジー」を監督したり、「ジュラシックパーク」の富豪を演じたりするリチャード・アッテンボロー
アッテンボローは現地の娼館に身売りされたメイリーと恋仲になるが、悲劇が待っている。
このメイリー役を演じたマラヤット・アンドリアンヌはタイ人で、のちに作家エマニュエル・アルサンとして「エマニュエル夫人」を書いてブレイクするのは余談。
さて、ジェイクは自分が担当の機関室が、すっかり中国人スタッフに乗っ取られていることを知り、取り戻そうとする。
ずっと停泊しているサンパブロ号にはいつの間にか中国人たちが住み着き、アメリカ人たちは仕事の命令を出すだけで何もしなくなっていたのだ。
ジェイクは自分の指導のもと、若い中国人青年ポー・ハン(マコ岩松)に正しい技術を教えて育てようとする。
また、宣教師に随行する若いアメリカ人女性(19歳のキャンディス・バーゲン!)と知り合い、淡い恋心を抱くようになる。

 映画のタイトルバックは、世界史の教科書に載っている
鄭和の巨大なジャンク船とコロンブスの船の大きさの比較」図を模したもので、巨大なジャンク船の手前に小さなサンパブロ号が置かれている。
映画の原題は「The Sand Pebbles」で「砂つぶ」とでもいうような意味だろうか。巨大な中国に浮かぶ頼りないサンドペブルス。大きな力の前にはなすすべもないことを表している。
物語は中盤で緊迫していく。国民党軍、共産党軍の対立の中、国民党軍が北伐を始める。それに連動し(先導されて)中国民衆は駐留する外国人に対し排斥運動を始める。停泊しているサンパブロを小舟が取り囲み、「出て行け!」とデモンストレーションをするのだが、ここでこの映画は、ベトナム戦争のことを描いていると、当時の人たちはわかったろう。
67年当時、世界中の米軍基地の周りで起きた反対デモ。
映画の主人公たちはアメリカ人で、しかも中国人に
理解のある人ばかりだが、それでもそもそもここに来ていること自体が問題なのだ。
映画では軍人と宣教師と、欧米の進出の基本ラインになる2者をメインキャラクターに置き、欧米のアジア進出の状況をわかりやすくしているのだ(そして2者は結ばれない)。

 中国民衆の怒りは、いい米国人、悪い米国人を区別しない。
そこに駐留していること自体が問題なのだ。
沖縄の米軍基地問題を考えればわかるだろう。
主人公達の兵隊は、在中の米国人を守るという任務があるが、
守るべき米国商人には嘲られ、宣教師には兵隊がいるからトラブルが起きるので帰ってくれと冷たく言われる。
これは正義を信じてベトナムに行った兵隊が感じた幻滅と同じだろう。
マクイーンが技術を仕込んだ青年や、アッテンボローが娼館から救い出した女性は、いずれも「裏切り者」として死に追いやられる。
最後、奥地にいる宣教師を見捨てて戻るように命令が下るサンパブロ号だが、艦長(リチャード・クレンナ、「ランボー」の大佐の人)は、命令を無視して救いに行くことにする。
通常の戦争アクション映画では、ここがヒロイズムの見せ場になるのだが、本作はベトナム戦争時に作られた映画なので、そんなことはまるでない。
とにかく、しなくしていい戦いで無駄に人が死んでいく
良かれと思ってやったことが、誰にも喜ばれないし、
かえって悲劇を呼んでいくのだ。帝国主義の最前線に出ていった人々が、自分たちが招かれざる客であることに気づきながら死んでいく。

 ちなみに、うちの息子は「スプラッター描写は盛り込んでいるもののヒロイズム溢れる戦争映画」しか見たことがなかったので、この映画を見終わった後、どよ〜んとしていた。
無駄死にだもの。

僕も高校生の時に荻昌弘の「月曜ロードショー」でこの映画を見終わった時は、どよ〜んとしたよ。
そうやって、世界を学べよ、若者。隠れた名作だ
https://www.youtube.com/watch?v=4mFXUnnrem8(出だしのシーンが見れます)
[PR]
by mahaera | 2016-06-30 12:27 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えているうちに気がついた世界史・清末の人口

子供に教えているうちに気がついた世界史・清末の人口

 アヘン戦争、太平天国の乱、アロー戦争と、
19世紀の中国史を子供に教えていて気がついたけれど、
清が始まった1650年ごろの中国の人口は1億4000万人
資料によってかなりの差はあるが、これが200年後の
1850年頃には4億2000万人と、3倍にも増えている
同時期の日本は3割程度の増加だから、
産業革命をなしたイギリスと同じくらいの増加率。

人口増加にはいろいろの要因があるようで、
まずはジャガイモやトウモロコシなどの新大陸の作物が定着し、
より多くの人口が養えるようになったこと。
また、新大陸と日本からの銀が流入して税の銀納化が進んで
人頭税が地丁銀制(土地税)に組み込まれ、
戸籍登録を行う人が増えたことがある。
つまり、税金を納める人が増えて、それまで見えなかった
人口も読みやすくなったのだ。
輸出超過で国内に銀が出回り通貨の安定はしたが、
1800年代になると今度は急激な人口増加のため、
土地が足りなくなる。
また、アヘン戦争のところでも述べたが、
このころからアヘンの流入と代価としての銀の流出により
税金が2倍になり、流民や反乱が増えるようになった。

 資料にもよるが1850年と1900年を比べると、
増え続けていた清の人口は50年で100万人以上減ってしまう
中国人の海外移民は清朝政府によって禁止されていたが、
アロー戦争後の1860年の北京条約により、
中国人の自由意志での海外渡航が認められることになった。
1850年ごろになると世界各国で奴隷制が廃止に向かったが、
今度は足りなくなった労働力を移民で埋めるようになった。
アメリカ大陸に多くの東欧移民が1950年代から増加するが、
中国人も違法ながらクーリーとして国外へ出るようになる。
1850年代だけで、ペルー行きやキューバ行きの船で4回も
クーリーの暴動事件が起きている。その移民が合法になったので、
1860年代以降はその数は急激に増加した。
それを運ぶだけの欧米の汽船も1870年代以降は
定期就航するようになったのも理由の一つだ。
アメリカには、ゴールドラッシュに湧くカリフォルニアを中心に、
多くの鉱山労働者や鉄道労働者が海を渡る。
中国人労働者の力なくして、短期間でアメリカ横断鉄道は
開通しなかった
ろう。また、マレーシアのスズ鉱山などの
労働者も中国人が多く、この時代の中国系の流入が、
今のマレーシアの民族構成を作った。

 余談だが、19世紀末からスズの需要が高まったのは、
缶詰用のメッキに使うためという。
今では缶詰と言ってもピンとこないが、
冷凍技術が発達していないこのころは、食物を保存して
運ぶために考えられた缶詰は、画期的な発明だった。
運ばれるうちに食物は鮮度が落ちていくが、缶詰なら変わらない。
「缶詰だから新鮮な果物が食べられる!」というのが
宣伝文句だった(アメリカで缶詰が普及したのは1870年代)。

 こうして単に戦争とか条約を覚えるだけでなく、
そこから世界がどう変わっていったかと仮説を立てて、
それが合っているかを調べてみると、無味乾燥な歴史の
教科書も少しは面白くなると思うのだが、
高校生にはわかんないだろうなあ。


 P.S.この後に及んで、息子が受ける大学の受験科目に世界史がないかもしれないという可能性が出てきた。おいおい。
[PR]
by mahaera | 2016-06-27 11:01 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー 『疑惑のチャンピオン』  ロシア陸連のニュースを見て、ドーピングを思う

疑惑のチャンピオン
2015年/イギリス

監督:スティーヴン・フリアーズ
出演:ベン・フォスター、クリス・オダウド、ギヨーム・カネ、ダスティン・ホフマン
公開:7月2日より丸の内ピカデリー他


6月22日
昼ごはんを食べながらテレビをつけたら、
ロシア陸上界のドーピング問題をワイドショーで取り上げていた。
ナイスタイミングということで、7月2日公開のイギリス映画『疑惑のチャンピオン』について書いておこう。
これはツールドフランスで、1999年から2005年まで7連覇を達成したランス・アームストロングの実話の映画化だ。
ゲーム競技は試合運びの経験や偶然にも作用されるが、
陸上競技や自転車競技は、ひたすらひとりで筋肉を動かすという、
偶然に左右されない要素が多いので、
ドーピングの効果がかなり期待されるという。
映画では、ガンを克服して復帰したアームストロングが、
最初からドーピングしまくりで、
優勝もそのおかげだったと描かれている。

ドーピングはチーム全体が協力しないとできない。
コーチ、医者だけでなく、スタッフ、チームメイトまで
大勢の人々が関わる。人が多い分、どこかで漏れそうだが、
7回連続優勝していることに誰かは疑問を抱かなかったのだろうか。
もちろん映画でも、スポーツ記者が疑惑を記事にするが、
逆に訴えられて敗訴してしまう。
一流スポーツメーカーがスポンサーについている
スーパースターだから、疑惑ですむうちは業界全体で守るのだ。
スターがいるから、競技に人が集まり、お金も集まる。
そのためには、多少の疑惑ぐらい目をつぶろうという姿勢が、
ツールドフランス側にあったのだろう。

面白かったのは、ドーピングがばれないように
検査をすり抜ける手口

きれいな血液を冷蔵庫に保管して、検査の前に輸血して、
血液中のクスリの濃度を下げる。それがどんなクスリかというと、
肺から吸った空気を早く体内に吸収できるようにするものらしい。
上り坂でも息が驚異的に続き、どんどん追い抜けるというわけだ。
「ドーピングをしたら果たして本当に試合に勝てるのか」というのは素朴な疑問だが、僕らがしたってスーパーマンになれるわけではない。
97%と98%のわずかな体力差で勝ち負けが決まる、
第一線の選手のギリギリの闘いだからこそ、効果があるのだ。

このアームストロング選手、僕の好きなアメリカン・コメディ『ドッジボール』に本人役で出演していた。
街の冴えないスポーツジムが、薬漬けで儲けている人気ジムに買収されそうになり、ドッジボールで勝敗を決めようとする映画だ。
物語の終盤、敵に背を向けて逃げようとする主人公に、
アームストロング選手が自身役で出てきて、主人公を元気付けるのだが、、、。
あんた、あんなに感動的なシーンなのに、あん時、あんたは自分のドーピングを隠してた訳かい
このシーン、感動ではなく笑えるシーンになってしまった
ちなみにドーピングがバレたアームストロングは、
7年分の優勝記録を抹消されてしまった。
ひどい大会だ。
[PR]
by mahaera | 2016-06-24 02:13 | 映画のはなし | Comments(0)

息子の塾の保護者会で思ったこと

6月8日 塾の保護者会で

 先日、息子の塾の保護者会に吉祥寺まで行ってきた。
 話の内容は受験の傾向とか勉強の進め方だが、これは別に僕が受験するわけではないので、どうしようもない。夏休みは1日10時間勉強とか、〇〇大学はこんな出題傾向があるとかね。そりゃ、「勉強はさせないと」とは思い教えているが、そもそも自主的に勉強しない人はその報いが自分に来るだけで、今をなんとか凌いでも人生は長いので、30代とか40代でほころびが来るんじゃないかな。親が出来るのは、子供がチョイスできる環境を作ってあげることぐらい。まあ、そんなこと延々考えていくと、「何もしないのが一番いい」とネガティブな考えにループしていく。

 しかし1日10時間ってサラリーマンの労働時間より長いよね。そんなに勉強しなきゃ受からない大学出ても、社会に出たらバカになる。もう一流大学の現代国語の入試問題って、ライターの僕でもスラスラ読めないし、模範解答もなんだか一度では理解できない。ある意味、文章が下手で相手に伝わらない難文だ。もし自分が編集しているものにライターさんがこんな文章書いてきたら、入試とは別の次元で赤入れるだろう。読んで理解できない文章書くなよっ!て。あと模範解答も綺麗事で、全く伝わらない。ただし、これがスラスラ読めて書けたら、かなりの文章力だろう。

 「今後は知識の詰め込みだけでなく、発想力や展開力、国際競争力のある人材を大学は求める傾向が、、、」と先生は言うが、入試問題なんて30年前とちっとも変わっちゃいない。中国の科挙みたいなもんだ、過去問やって、出題傾向を暗記するタイプ。英語の4択問題なんてまさしくそう。相も変わらずかっこの中に動詞の変化を入れて選択するクイズだ。

 最後に、18歳人口と大学入学者数のグラフが出てきたけれど、18歳人口は1992年から比べると2015年はその60%に減っている。しかし大学入学者数は、10%減程度。つまり人口は減っても大学の定員数はそんなに変わっていない。つまり今は選ばなきゃたいていの人は入れるようになっている。この傾向はまだまだ続きそうだ。あとこのグラフの減少率のままだと、2060年には日本は18歳の人口がゼロになるんだが、どうなんだ。映画「トゥモローワールド」のようだな。
[PR]
by mahaera | 2016-06-18 09:03 | 日常のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史・アロー戦争(第2次アヘン戦争)

子供に教えている世界史・アロー戦争(第2次アヘン戦争)

 前回のアヘン戦争は、世界史上の重大事件だが、その年に生きた人々にとっては、意外になんとなく過ぎてしまったのではないかと思う。例えば、1980年代以降の歴史もすでに歴史教科書に載っているが、当時、僕は毎日それを衝撃的に受け止めていた訳ではない。このアヘン戦争も、当事者であるイギリスからすれば遠い極東の出来事で、同じ年のエジプト問題(オスマン帝国から独立したムハンマド・アリーの総督世襲を認めるか。つまりエジプトの半独立を認めるか)のほか、高まるチャーチスト運動、アイルランド自治問題などの国内問題が山積みだった。一方、清も清で、この戦争で負けたことに、大して動揺もしていなかった。それが問題だったのだが、、、。

 「朝貢貿易」という言葉がある。中国では古代王朝の開始から、世界の中心は中華王朝であり、それ以外は「周辺」であるという思想が、数千年続いていた。もちろん異民族王朝が中原を支配することはあったが、その場合も中国を中心にする世界観を引き継いだ。「皇帝」といえば中国の皇帝のみで、それと対等な国は世界には存在しない。なので対等な条約や貿易は存在しない。周辺国は貢物を捧げ、中華皇帝はそれに対して恩恵を施すだけだ。別に物産には困っていないので、進んで貿易をする必要もない。また、世界で一番進んでいる国だから、他国の文化を学ぶ必要もない。むしろ学びに来い。そんな感じだ。だから、17世紀以降、ヨーロッパ諸国が通商を求めてきても、なんでそれが必要であるかを根本的に理解していなかったし、国際条約も理解していなかった。「国際法」の必要もなかった。中国の法こそが絶対で、それに皆が従うのが当たり前なのだから。産業革命以降、新たな「中心国と周辺国」のルールが世界に広まっていっても、清は別の世界の価値観で動いて、それに知らずのうちに組み込まれていることに気づかなかったのだ。 

 さて1940年のアヘン戦争、1942年の南京条約によって新たに港が開港したが、イギリス側の思うような貿易は進まなかった。まずアヘンの輸出量は増大したが、未だアヘン貿易は「合法」ではなかった。アヘン戦争で買ったからといって、イギリスもさすがにアヘン貿易を合法化することは露骨すぎ、条約の条文に織り込まなかったからだ。また、イギリスが期待した綿製品の輸出は伸び悩んだ。清の人々はイギリスの綿製品を買わなかった(自給自足できたので、当たり前なのだが)。そんなイギリスの苛立ちの中に、1956年10月、珠江に停泊していたアロー号が清の臨検を受け、中国人船員が逮捕、英国旗が下されるという事件が起きた。本当に旗が下されたのかははっきりしない。また、船籍もその前に期限切れですでにイギリス船籍ではなかった。しかし、イギリスは機会をうかがっていた。アヘン戦争の経験で、まず戦争で勝たないと清は交渉しないことがわかっていたからだ。言いがかりのような発端なので、イギリス議会でも庶民中心の下院では否決されたが、首相は下院を解散して総選挙を行ってまでして、戦争の議案を通過させた。

 今回は、偶発的な戦争ではなかったので、イギリスはフランスも共同出兵に誘う。アメリカとロシアは様子見だ。清に向かったイギリス遠征軍だが、途中、インドで「大反乱」が起きていてその鎮圧に追われる。中国到着は1857年12月末と遅れてしまったが、英仏連合軍は広東を占領する。こうしてアロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発した。アヘン戦争の時と同様、英仏軍は港湾都市のみを攻撃しながら北上、北京に近い天津に迫った。

 この時、清政府は別の敵と戦争中で、存亡の危機に瀕していた。1851年に始まった太平天国の乱は1853年に南京を都とし、揚子江以南の広東や四川を除く大半の地域を占領していた。それへの対策で、英仏と戦争しているどころではなかったのだ。そこで英仏と「天津条約」を結んで、ひとまず休戦する。しかし英仏軍が引き上げると、清朝政府内部で今度は、主戦派が巻き返した。翌1859年に英仏大使が条約締結のためにやってくると、これを砲撃して撃退。当たり前だが翌年、増強された英仏軍がやってくると、清軍はなすすべもなく破れ、とうとう北京は英仏軍の前に落城する(と言っても皇帝たちは逃げていた)。悪名高い円明園の破壊もこの時だ。バカだなあと思うが、井の中の蛙はこんなものなのだろう。

そして北京条約が結ばれる。これはもちろんアヘン戦争の時の南京条約よりも前進した(イギリスにとって)もので、賠償金はもちろん、11港の開港(北京の外港の天津を含む)、内地旅行権、外交使節の北京駐在、キリスト教の布教、九龍の割譲など、盛りだくさん。続いてアメリカとロシアも同様の条約を結ぶ。「朝貢体制」の崩壊は加速化した。病気だった清朝皇帝は、北京からの避難先で死去。

まもなく皇室でクーデターが起き、翌1861年西太后が実権を握る。
[PR]
by mahaera | 2016-06-16 19:32 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・アヘン戦争

b0177242_17174342.jpg


子供に教えている世界史・アヘン戦争(今回も長いです)

 昨年の4月から教えている世界史、古代オリエントから始まってようやくアヘン戦争だ。随分かかったものだが、高校の授業だとここいらで、1年が終了してしまうことが多い。つまり映画でいうと、クライマックスへ向かうちょっと前で、終わってしまうようなものである。ここからが面白いのに。ともあれ、アヘン戦争(とアロー戦争)は、受験の世界史にも出題頻度が高いところだ。戦争の経緯の記述はあっさりしているが、出題されるのはその後の条約の内容を問うものがほとんどだ。

 産業革命後、その国の体制に関係なく、世界は急速に「中心」と「その周辺」化していくが、1800年代初頭にはまだ巨大な「周辺」があった。それが清を中心とする東アジア市場だ。1795年代末、乾隆帝が亡くなるまで、清は間違いなくアジアの超大国だった。その領土は現在の中国よりも大きく、内政は安定しており、お茶と引き換えに大量の銀が流れ込み、貨幣経済も発展。税制も物納ではなく、銀(貨幣)を単位としたものになっていた。しかし乾隆帝末期にはさしもの大帝国もほころび始め、陰では汚職や腐敗が進んでいた。乾隆帝の死の翌年には白蓮教徒の乱も起きている。

 さて、インドの平定も進んでいるイギリスでは、お茶が大ブームで、清への銀の流出が問題になっていた。当時、お茶を産出するのは清だけで、イギリスではその支払いに銀を当てていた。というのも、清はイギリスから「買うものはない」と製品を買わなかったからだ。一方、お茶は産業革命になくてはならないもので、それまでは朝からビールを飲んでいた労働者が、お茶の普及によって月曜の朝から工場に行けるようになったとも言われている。機械を動かす工場では就業時間は守らなければならない。そのためにもお茶は必需品だった。しかし清はイギリスの工業製品は買ってくれない。当時、人口は3〜4億人という、世界の人口の1/4という巨大マーケットなのにである。そこでアヘンに目をつけたのだ。

 1700年代末からアヘンは清に流入していたが、1820年代からそれまでの年間5000箱からアヘン戦争が始まる頃には4万箱と8倍に達していた。吸引者数も3万人から200万人と、社会問題になるほど増えていた。生産地はインド。アヘンが何であるかは書かないが、当時のアヘンはベンガル産とマールワー産で、東インド会社直轄地のベンガル産がビハールとワラーナシーから。マールワー産はラージャスターンの藩王国だった。この時期、インドの綿工業は衰退し、綿花輸出が進行したが、そのモノカルチャー化の中にアヘンも含まれていたのだ。しかしアヘンはインドの中では販売禁止と、イギリスもいちおう害があるものとは認識していたのだ。

 清は当然、アヘン貿易を禁止にするが、密輸の流れは止まることを知らない。取り締まる役人も、密輸商人とグルだったからだ。こうして大量のアヘンと引き換えに、今まで清に流入していた銀が流出しだす。資料によれば1820年の銀の流出が400万ドルだが、1940年には2000万ドル近くに。これは清の国家財政の8割に匹敵するという。銀が少なくなれば、銀納だった税金に影響が出る。単純に言えば、銀の値段が2倍になるということは税額が2倍になるのと同じだ。それが一番響くのは低所得者層で、農民は流民となり、社会不安が増していく。イギリスは当初は不平等な貿易を是正したかっただけかもしれないが、この頃にはアヘンがインド政府の重要な財政源になっていた。アヘン収入により20万人に及ぶインド人傭兵を賄っていたのだ。

 1839年、皇帝の命を受けた林則徐が広州でアヘンを没収し、化学処理して処分。命を受けた商人は、抵抗することなく進んでアヘンを差し出した。しかし、その報はイギリス議会に数ヶ月かかって届けられ(まだスエズ運河は完成してなかった)、議会では清に出兵する決議が通る。もちろんイギリスでも、アヘンは麻薬だとわかっていたので、反対意見も多かった。しかし、それまで清との貿易協定が結べず、手詰まり感があったので、これがきっかけにという期待層もおり、戦争賛成271 VS 反対262という僅差で、戦争が決まる(イギリスでは議会の承認が無ければ戦争ができない。すでに1932年に選挙法が改正され、有権者は地主から産業資本家が中心になっていた)。

 1840年6月、インドから多数の傭兵を積んだ戦艦が清に到着。戦争は主に海戦と港湾都市で行われ、圧倒的な火力でイギリスが勝利。やるせないのは、清の正規軍は機能せず、戦ったのはほとんどが農民や漁民のゲリラ、そしてイギリス軍の8割もインド人だったということ。1842年、南京条約が結ばれる。不平等条約だったが、国際条約に疎い清では、それに気づかなかったという。戦争は終わったが、その後、イギリスの望むように事態は変わらず、それが1853年のアロー戦争を起こす。江戸幕府は長崎経由でアヘン戦争を知り、「異国船打払令」の緩和を発布する。
とにかく、こうして東アジアへの扉は開いた。あとはまっしぐらである。
[PR]
by mahaera | 2016-06-13 17:18 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・インドの植民地化と大反乱

b0177242_14404253.jpg
子供に教えている世界史・インドの植民地化と大反乱

 欧米諸国のアジア進出。
前回がトルコとイランのイスラム圏だったが、今回はインド世界。
ムガル帝国の解体から、1870年からの帝国主義時代が来る前までのインド世界を教える。

 今でこそ「インド」という国があるが、その当時はそんなものはなく、多くの国や地域がバラバラに存在していた。たまにムガル帝国のような力を持った王朝が現れると、大きな領域が支配されるが、実質は中央集権にはほど遠く、地方の実力者が強かった。中央から官吏が派遣される中国の王朝とは、ちと具合が違ったのだ。そこに17世紀になるとイギリスとフランスが進出してくる。もともとは領土的支配ではなく、貿易の好条件が目的だったが、地方の諸侯同士の争いに巻き込まれていくうち、イギリスが領土を持つようになり、税による収入を得るようになる。
 もともとイギリスの目的は、インド産綿布や胡椒。ところが最初はインドに売れる品物がイギリスにはなく、輸出超過に。ところが18世紀にイギリスで産業革命が成功すると、今度は安い綿布がインドに流れ込み、インドの手工業は壊滅。綿織り物の中心地だったダッカなどは、人口が1/5に減ったという。イギリスとしては、インドはもう綿花の産地であってくれればいいだけ。その産地であるデカン高原も、18世紀末には3度に及ぶマラーター戦争で征服。19世紀初頭には、インドにおける東インド会社の貿易独占も廃止され、インドはますます原料輸出国、イギリスではそれを加工して売る、というイギリスの繁栄にはなくてはならない地となった。イギリスでは19世紀後半には、もう農業人口は7%程度という工業国になっていた。

 そんなイギリス支配がうまくいったのも、例えば北インドではもう600年近く、征服王朝の元で暮らしており、慣れきっていたことがある。支配者が、モンゴル人やアフガン人だったのが、イギリス人に変わったぐらいの受け取り方だ。それでも、急速なイギリス式の支配は、いろいろな層に不満を募らせていた。イギリスが始めた税制や貨幣経済の浸透は、旧来の農村社会の解体を促進し、都市への人口流入を強めた。綿花などの原料を効率よく輸出するために、1853年に鉄道も敷かれる。

 さて、当時のインド駐在のイギリス軍だが、5万人がイギリス人、28万人がインド人傭兵という割合だった。1840年に清で起きたアヘン戦争の際も、イギリス派遣軍の8割はインド人傭兵だったのだ。1845年のシク戦争の際も、もちろんインド人傭兵が主力となってシク教徒を制圧。そしてイギリスは、1851年に始まった太平天国の乱で国土の半分が占領されていた清に対し、強気で1856年にアロー戦争を仕掛ける。しかしその翌年、兵力の供給地で、イギリスの繁栄を支えているインドで、傭兵たちが反乱を起こしてしまう。これが「インド大反乱」。いろいろな反イギリス勢力が結集して戦乱は北インドに広がったが、体勢を立て直したイギリスに1859年には鎮圧されてしまう。イギリス側となって戦ったのは、ネパールのグルカ兵のほか、南インドや反乱に加わらなかった藩王国など。結局、多くの血を流したのはどちらもインド人だった。インドの教科書では、この事件をかなりヒロイックに描いている。日本の教科書でも、インドのジャンヌダルクと呼ばれたラクシュミ・バーイぐらいは掲載されるようになった。イギリスと戦って20代前半で戦死しした王妃で、今もインド人の間では人気が高い。

 150年かけてインドが植民地化されていく歴史だが、インドに行く人、この辺りの歴史も勉強してね。インドとイギリスの関係は長いのだ。
[PR]
by mahaera | 2016-06-12 14:40 | 世界史 | Comments(0)

森岡賢さん、亡くなる

6月7日

知っている人が亡くなると、たとえ昔、ちょっとだけ会ったことがある人でも、それほど親しかったわけでなくても、悲しい気持ちになる。

 僕が初めて就職した会社で、半年ほど楽器屋部門で働いていたことがあった。こちらは大学を出ばかりの新人。そのスタジオにあるバンドが良くリハに来ていた。それぞれはプロで仕事もしているが、そのバンドGRANNY TAKES A TRIPとしてはまだレコードデビューはしていなかったと思う。ドラムの河村さんは白井貴子のバックをしていたが、ギターと歌のやっちさんはのちにKAI FIVEに入るが、この時はまだ裏方。あとベースとキーボードがいて、キーボードが森岡さんだった。

 僕より5歳下だったから、まだ十代だったのだろう。ベテランの先輩方の中で、いじられたり、怒られたり、居場所がなかったり。歳も他の三人よりも、僕に近い。なので、スタジオに来ている時は、よく話をしていた。そのバンドのライブも時々見に行っていた。渋谷エッグマンの時は、前座がまだ売れる前のプリンセス・プリンセスだった。森岡さんはリハの休憩時間に、自分で打ち込みしたデモテープを聞かせてくれた。まだ、大した打ち込みができる時代ではなかったが、シングシングシングか何かのビッグバンド音楽だったと思う。確かお父さんが作曲家と言っていた。

 やがて僕は部署が変わり、森岡さんに会うこともなくなった。久しぶりに会ったのは、たまたま何処かで彼に会い、彼自身のバンドのライブに誘われたからだ。それが今から思えばSOFT BALLETだったと思う。原宿のクロコダイルに行ったけど、残念ながら当時僕の好きなタイプの音楽ではなかった。楽屋であいさつしたのが、最後の会話だったが、その時はもう彼は自信に満ち溢れた立派なプロだったが、相変わらずおとなしい人だった。ご冥福を祈ります。
[PR]
by mahaera | 2016-06-10 15:11 | 音楽CD、ライブ、映画紹介 | Comments(0)

子供に教えている世界史・オスマン帝国の動揺とイスラーム世界

b0177242_1314533.jpg
子供に教えている世界史・オスマン帝国の動揺とイスラーム世界

 GWも終わり、息子に教える世界史も復活。
しかしやる気があるのかないのか、脱力感を抱く日々。
エリザベス女王とビクトリア女王をまちがえるなんて、家康と吉宗を間違えるようなもんである。

 さて、しばらくはアジア諸国が西欧にやられっ放しの話になる。
産業革命や市民革命前後から、英仏蘭、そしてやがて独露が加わり、
西欧諸国がアジアに進出していく歴史だ。
教科書的には第二次産業革命が始まる1870年ごろを境に
前者を「植民地化」、後者を「帝国主義」とざっくり分けている。
そしてその前者のさらに前半が、
今回の1700〜1870年ごろのオスマン朝の領土縮小の歴史だ。
1699年にオーストリアにハンガリーなどを割譲したオスマン帝国だが、
本格的に弱体化するのは、何度にもわたる露土戦争。
戦えば負けるというオスマン帝国は、1774年には今の黒海北岸から勢力を駆逐され、1798年にはナポレオンに領土のエジプトに侵攻される。
フランスは駆逐されるも、その混乱からオスマン帝国が派遣したアルバニア人傭兵司令官のムハンマド・アリーが実権を握り、エジプト総督になり、独立を試みるようになる。
ムハンマド・アリーは優れた人物で、1820年代に明治維新に半世紀先駆けて、近代的軍隊を創設したり、近代工場を設立し、税制も改革したり、海外出兵したりと富国強兵に勤めた。
しかし、運がなかったのか、必然だったのか、彼の努力は1840年の条約によってイギリスやロシアなどの列強の圧力によって挫折する。
イスタンブールに迫ったアリーの軍に対し、オスマン帝国はイギリスに泣きを入れ、英軍がエジプト軍を破ったからだ。

 オスマン帝国に恩を売った列強は、次々に帝国とエジプト内の利権を手にする。インドや東南アジアのように直接支配ではないが、金が儲かるシステムを作っていくのだ。
ちょうどこの時代、イギリスやフランスは資本の投資先を探していた。
そして現地の政府はお金がないから、鉄道敷くにも運河を造るにも借款をする。エジプトはアリーの死後、無能な君主が続き、1870年ぐらいまでに借金漬けになった。
王は自国の権益を外国に売って、その金で欧州で遊びまくった。
オスマン帝国も皇帝自ら、イギリスの高官に賄賂を要求する体たらく。
オスマン帝国は1875年に、エジプトは1876年に破産してしまう。
列強はオスマン、エジプトの土着産業を解体していく。
オスマン帝国も改革運動はあったが、全て失敗。
このあたりのダメダメぶりを読んでいると、
江戸幕府はかなりしっかりしていたと感じるところだ。
ついで同時期のイランのダメダメぶりもあるのだが、そ
れはまた別の機会に。

息子には「ダメ人間が金を借りると、よりいっそうダメになる」という教訓になるかな。
[PR]
by mahaera | 2016-06-07 13:14 | 世界史 | Comments(0)