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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・総力戦の始まり/第一次世界大戦

第一次世界大戦はそれまでの古い時代の終わりでもあった。
戦争の始まりは、旧来のシステムの延長だった。
まず、それまでは国際間の紛争を戦争によって解決するのは、よくあることだった。
そして、このころの国家は一部の国を除けば「国民のもの」という意識が薄く、戦争開始は国民の審議を問わなくても可能だった。
特に皇帝や国王が納める国では。
しかし4年にわたる戦争の最中に、世界のシステムは変わっていく。

さて、人類史上初めての「総力戦」が始まると、
戦争の当事者双方が「これは今までの戦争とは違う」と気づいた。
まず、あっという間に、大量の武器を消費してしまい、
生産が追いつかなくなった
フランスの野砲の砲弾は、当初の生産量では1日3発しか撃てないことがわかったし、ドイツでは戦争開始時に月産15万発だった砲弾を、1年後には100万発まで増産体制を作ったが、それでも足りなかった
総力戦になると、工業生産は全て兵器優先になる。
兵器を作る大企業は繁栄し、中小企業は閉鎖されていった。

映画『戦火の馬』でも描かれていたが、
当初はお互いの軍の司令官が近代戦を理解していなかった。
ナポレオン時代のように騎兵隊が突撃し、兵士は馬ごとバリバリと機関銃になぎ倒された
歩兵も機関銃の前に1、2分で数百人が命を落としていった。
しかし上官たちは、それ以外に戦法を知らなかった。
1914年が終わるまでに、早くもドイツ軍が68万人、フランス軍は85万人が死傷していた。
1916年に行われたヴェルダン戦では、両軍で2000万発以上の砲弾を使い、合わせて70万人に及ぶ死傷者を出した。
その南のソンムの戦闘では、イギリス軍は突撃により、
1日で死傷者6万人と、参加兵士の半数と将校の3/4を失った。

第一次世界大戦というと思い浮かぶのは、「塹壕戦」だろう。
西部戦線に築かれたこの長い塹壕を挟んで、
両軍はたちまちこう着状態に入った。
「鉄条網」が行く手を阻む中、無意味な突撃が繰り返され
たちまち死体の山が築かれ、死臭が立ち込め、
ネズミが病気を媒介した。
戦死でなく、病死者の数も同じくらいいたという。
戦争のこう着状態を打開するために、毒ガス、飛行機、戦車、潜水艦といった近代兵器が次々と実戦に使われ出した。

各国は挙国一致体制になり、軍需優先の戦時経済は、
たちまち労働者不足を呼んだ。
イギリス国内では女性が男性の仕事を担うようになった。
これはのちの女性参政権につながる。
軍事物資以外の生産に関しては、海外植民地を持っているイギリス、フランスが有利だった。
直接戦争に巻き込まれなかったアジアの国々や植民地は、
戦時景気の恩恵を受けた。
特に工業化の進んでいた日本は、大いに儲かった
インドや中国では民族資本が伸び、やがてそれらの資本家の援助が独立に欠かせなくなっていく。

世界最大の経済大国アメリカは、当初、中立を維持することで同盟国、連合国双方と貿易を行い、貸付も行い莫大な利益を得た。
しかし、戦争も中盤になると、大西洋の制海権を握っているイギリスとの貿易が大半を占めるようになる。
ドイツは、アメリカからイギリスへ送られてくる物資を阻むため、
民間船への潜水艦攻撃を始めた。
戦争開始より、ドイツ自慢の海軍はイギリス海軍によってほぼ港に封じ込められ、たいして活躍をしていなかった。
そこでなんとか存在感をアピールする必要があったのだ。
ただし、これは逆効果になり、アメリカ参戦の口実になる。

一方、1916年には農民が主で工業化が遅れているロシアは、
近代的な総力戦にはもう耐えられなくなっていた

開戦時に530万人、16年末には1400万人が動員され、うち戦死53万人、負傷230万人、捕虜や行方不明者が250万に達していた。
この負担は国民に重くのしかかった。
革命は目前に迫っていた
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by mahaera | 2016-07-31 11:05 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・第一次世界大戦の開始

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昨年のちょうど今頃の8月3日、僕と息子は
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボにある、
ラテン橋の前に立っていた。
ほぼ100年前の1914年6月28日、
オーストリア皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、
青年ボスニア党の青年プリンツィブに暗殺された「サラエボ事件」の舞台になった場所である。
かつてこの橋は、「ボスニア解放の英雄」を讃えて
プリンツィプ橋と呼ばれて、
彼の銅像だか、プレートもあったという。
しかし、90年代の内戦時に、彼がセルビア人だったということで評価が変わり、橋の名前もラテン橋に、そしてプリンツィプを讃えるものは全て取り外された。
橋のそばにあるサラエボ事件を扱った博物館に、2人で入ってみた。
まだ世界史学習がルネサンスあたりだった息子はどう感じだろう。
「20世紀はサラエボに始まり、サラエボに終わった」という言葉がある。
バルカン問題が100年たっても解決しておらず、まるでこの時の亡霊が1990年代に蘇ったと思った人もいたに違いない。

この事件は、前年のバルカン戦争の続きから始まったと言っていいだろう。二度によるバルカン戦争の結果は、どの国にも満足いくものではなかった。
周辺国にコテンパンにやられたブルガリアは、なんとか領土を回復したかったし、トルコもそれは同様だった。
ロシアの後押しで大セルビア主義を唱えるセルビアは海への出口が欲しかったし、ボスニアを併合したオーストリアと対立していた。

それ以外の国はどうだったか。
三国同盟の一員だったイタリアだが、このころにはトリエステ領有問題を巡って、オーストリアと対立していた。
ロシアは極東で日露戦争に破れたあと、中国、インドやイランエリアではイギリスと勢力圏を決めたので、進出できるのはバルカン半島に限定されていた。
そのロシアに金融資本を投下していたのは、伝統的な同盟国のフランスだ。
ドイツは急速な工業発展を遂げていた。
1890年代頃にはアメリカに200万人もの移民を送っていたドイツだが、この頃には重化学工業の発達により、
むしろ人出不足に陥っていた。
東欧から多くの労働者が工場で働くためにやってきていた。
多くのノーベル賞受賞者を出し、1913年には工業力ではイギリスを抜いてアメリカに次ぐ世界2位(およそフランスの倍だ)、電気・化学では世界1位だった。
アメリカはダントツの工業大国だったが、
また世界一の債務国でもあった。
金融資本はまだ発展途上であり、鉄道を敷いたり、工場を作ったりするお金は、イギリスなどが投資していたのだ。
ともあれ世界経済は好調で、人々は科学の発展に明るい未来を描いていた。

その一方、来たるべき戦争に備えて、近代兵器が作られていたが、
欧州ではまだ実戦には導入されていなかった。
何しろ、最後の大きな欧州での戦争は、
バルカン半島を除けば、その40年前の普仏戦争だ。
西欧諸国の戦争は、この半世紀の間は植民地におけるもので、
戦争の悲惨さを知る者は、もうほとんどいなかった
それにそれまでの戦争は、普仏戦争が9か月、
バルカン戦争は実質2か月ずつと短期で終了しており、
戦争にロマンを感じる若者が急増していたのも不思議はない。

サラエボ事件の一か月後の7月28日、オーストリア=ハンガリーが
セルビアに宣戦布告。
これが第一次世界大戦の開始だ。
当然ながら、オーストリア側はセルビアが独立国であるなら絶対にのめない条件を提示していた。
ドイツもやる気満々で、すでにフランス、ロシアと戦う
シュリーフェン計画を練っていた。
しかしこの時は、まさかこれほどの大規模な戦争になるとは誰も思っていなかったし、それを望んでもいなかった。
発達した科学技術や膨れ上がった経済活動が、
もう軍人の想像の範疇を超えていたのだ。

7月31日、ロシアが兵士総動員令。
8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告。フランス総動員令発布。
2日、同盟国側のイタリアが早くも中立宣言。
3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
4日、ドイツが中立国ベルギーに進撃。ベルギー軍と戦闘が始まる。イギリスがドイツに宣戦布告、アメリカ中立宣言
6日、オーストリア=ハンガリーがロシアに宣戦布告。
14日、ドイツと英仏軍が最初の戦闘
20日、東部戦線のタンネンベルクでドイツとロシアが戦闘
23日、日本がドイツに宣戦布告。

102年前のこの暑い時期に、こうして大戦争が始まった。
この時はどの国の兵士も、
クリスマスまでには家に帰れると思っていたのだ。
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by mahaera | 2016-07-30 11:12 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・バルカン戦争を知っているか?

最近、第一次世界大戦に興味を持っている。
きっかけは昨年旅行したバルカン半島。
つい近年まで内戦をしていたユーゴ紛争の火種は、
この第一次世界大戦に遡ること。
あとは、すっかり忘れていたが、いまは第一次世界大戦の100年後なので、昨年の旅行でそうした展示を何度も目にしたのだ。

さて、今回はそこまでの道のりだ。
1904年の日露戦争開始の翌年、1905年にモロッコのタンジールをドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が訪れ、モロッコの領土保全や門戸開放を訴えた。
これにモロッコの保護国化を進めているフランスと、
対岸のジブラルタルを保有しているイギリスが反発
第一次モロッコ事件)。
結局、会議の結果、翌1906年にモロッコはフランスの支配下に入ることで合意。
しかしヴィルヘルム2世は懲りずに、1911年にモロッコの内乱に乗じて軍艦を派遣(第2次モロッコ事件)。
これにイギリスとフランスが強く反発し、またもヴィルヘルム2世はあきらめることに。

英仏独がモロッコで緊迫しているその1911年、
どさくさに紛れてイタリアがトルコと戦争を始めて、
トルコ領のリビアに進出した(イタリア=トルコ戦争)。
イタリアはもともとドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、トリエステの領有をめぐってオーストリアと対立し、すでにフランスと協商を結んでいた(三国同盟から実質脱落)。
 
さらにこのイタリア=トルコ戦争の最中の1912年に、
今度は第一次バルカン戦争が勃発する。
この当時のバルカン半島の状況をおさらいすると、
露土戦争などの結果、1878年のベルリン会議でルーマニア、
ブルガリア、セルビア、モンテネグロ
が独立国として認められていた。あとギリシアもあったね。
これらの国々の後ろ盾は、
パン=スラヴ主義の保護者を自認するロシア
これとぶつかっているのが、パン=ゲルマン主義を掲げるドイツとオーストリア
で、パン=スラヴ主義拡大を恐れるトルコは、ドイツの友邦となる。
そんな中、パン=スラヴ主義の急先鋒であるセルビアは、
「大セルビア主義」を唱えて、アドリア海進出を狙った。
しかし1908年にオーストリアがセルビア人も住むボスニア・ヘルツェゴビナを併合
これはセルビア人の怒りを買う。
「うちが併合したかったのに!」ってね。

他のバルカン諸国がおおむね民族ごとに国の単位を考えているのに、なんでボスニア・ヘルツェゴビナだけ、民族ごとじゃないかと前から疑問だったが、当時、この国の人たちは民族や宗教ごとの帰属意識より、同じ土地に住んでいることへの帰属意識が強かったらしい。まあ、民族主義なんて19世紀入ってからだしねえ。

さて、そのセルビアを中心にして、1912年にバルカン同盟が結成。
セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアが加盟国で、
目的はトルコから領土を分捕ること
トルコがイタリアに敗れたのを知ると、
バルカン同盟の国々は「これなら勝てる」とトルコに1宣戦布告。
主力はブルガリアとセルビア軍。
ギリシア軍は弱かったが、海軍を保有していたので、
オスマン軍の兵士の海上輸送を遮断した。
というのも、この戦争が始まった時は、
オスマン軍はまだイタリアとリビアで戦っていたので、
兵士もそちらに送られていた。
ようやくイタリアと講和して、兵を移動しようとしたオスマン軍だが、エーゲ海の制海権はギリシアが握っていたので、邪魔をされる。

戦闘は一ヶ月後には休戦したが、すぐに再開。
翌1912年3月、ブルガリア軍により
アドリアノープル(エディルネ)が陥落
ギリシア、セルビア軍もマケドニアに進出し、
5月にようやくロンドン条約が結ばれ、戦争が終わる。
これによりアルバニアの独立が認められるが、
マケドニアに関してはブルガリアとギリシアの主張がぶつかった。
ブルガリアは実はイスタンブールまで狙っていたが、
それは同じくイスタンブールを狙っていたロシアには知らされていなかった。

さて、第一次バルカン戦争で得た領土をめぐって、
ブルガリアと他の3国の間で調整がつかずに、
1913年6月に新たな戦争が始まる。
これが第二次バルカン戦争。

セルビアはアドリア海への出口が欲しかったが、
オーストリアの干渉でアルバニアが独立すると、
じゃあマケドニアの一部が欲しいと主張。
ギリシアとつるんでブルガリアをけん制したが、
怒ったブルガリアが喧嘩を売った
この戦争では、モンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国までも
どさくさに紛れてブルガリアに宣戦布告し、
バルカン半島で孤立したブルガリアが敗北
ブルガリアは国のあちこちを各国に取られて周辺国を恨み、
ロシアと別れて、ドイツやオーストリアと組むことに。

以降ドイツは今までの同盟国オーストリアに加えて、
たなぼたでブルガリアも親ドイツ側に入ったので、
陸続きでトルコまで行けることになった。
バグダードまで鉄道を通せば、インドもうかがえる! 
それはイギリスが困る。
そして、オーストリアとブルガリアにはさまれる形に
なったセルビアの運命やいかに!
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by mahaera | 2016-07-29 16:11 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー 『AMY エイミー』 音楽は素晴らしいが、ダメになっていく友達を見ているようで辛い

AMY エイミー

2015年/イギリス、アメリカ

監督:アシフ・カパディア
出演:エイミー・ワインハウス、ミチェル・ワインハウス、マークロンソン、トニー・ベネット
配給:KADOKAWA
公開:7月16日より角川シネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷で公開中


もう公開が始まっている、ドキュメンタリー映画『AMY エイミー』。
今年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した力作で、
それまで歌手であるエイミー・ワインハウスのことをほとんど知らなかった僕だが、かなり大きなインパクトがあった。
2003年、20歳でデビューしたエイミーは、そのジャージーな歌声でたちまち注目される。
23歳で出したセカンドアルバム『Back To Black』は大ヒット。
25歳でグラミー賞受賞という歌手としての頂点を極める。
しかしその裏側では、アルコール依存症、結婚相手からハードドラッグを覚え、プライベートは破綻していった。
そして2011年7月、エイミーは27歳の若さで亡くなる

このドキュメンタリーは、14歳の誕生日を祝うエイミーからその死までの歩みを、ほぼ時系列に沿って、当時の映像とインタビューなどによって構成している。
まず一番驚いたのは、デビュー前から多くのプライベード動画や音声が残っているということ。
僕が親しんできたミュージシャンたちとは時代が違う。
2000年代は、もうデジタルの時代だったのだ。
ライブ映像はともかく、友人たちと遊んでいるプライベート映像、留守電に残した音声がこんな形で、映画に使われるとは。
彼女の歌には確かに魅力がある
僕はこの映画を見たすぐ後CDを購入し、いまも繰り返し聴いている。(「You know I’m no good」「Love is a Losing Game」「Valerie」はとくにいい)
そして歌詞カードを読むと、人生にリンクしたそのあまりの内容に痛々しさを感じる
きっと彼女の心境に自分を重ね合わせることで、
多くの人たちが「共感」して、癒されたのだろう。

摂食障害、アルコール依存、セックス依存、
ドラッグ依存、ファザコン、、
もし自分の身近に彼女がいたら、
関わり合いを持ちたいとは思わないだろう。
ダメな男に惹かれ崇拝し、自分のことを思って注意してくれるような人物を遠ざける、
人に迷惑をかけ、それをまた繰り返す。
ドキュメンタリーにも出てくる、彼女の夫であり、ヒモであり、ドラッグを教え込んだ、
誰が見ても本当に最低の男に惚れ込んでいる、哀れな女
誰かを求めていながら、それを拒否し、いつでもダメなカードを選んでしまう。

最終的には音楽も彼女の救いにはならなかった。

いくら優れた才能があっても、中身は所詮20代前半の子供なのだ。
女子大生ぐらいの年齢の子が、富と名声を手にし、
いきなりいろいろな人から言い寄られたら、
うまく対処して生きていくことができるのか。
大好きだったが自分を捨てていった父親さえ戻ってきて、
ちやほやする。
娘を食い物にする最低な父親だが、それでも喜び、信頼するエイミーが悲しい。

もうこの子は、小さな頃から周辺にいい大人がいなかったんじゃないか。
そうした孤独や絶望感が、彼女の才能を支えていたとしたら、
不幸なことだ。
あとは、もしもっと長生きできたら、そうしたものから解放され、
人気は落ちても自由に音楽を楽しめたのではないかと思う。
最後の録音となったトニー・ベネットとのデュエットの映像を見ていると、いつかはベネットのような存在になれたかもしれないと、思うのだ。

映画のハイライトのひとつである、グラミー賞を受賞した時のあのエイミーの表情。
無防備な喜びの表情は、結末を知っているがために惜しくも悲しい。
映画を締めくくる彼女の死は残念というより、
「仕方がなかった」という感じに思える。
死ぬつもりはなかったのだろうが、彼女はこれで楽になったのではないかと感じてしまうのだ。

エイミーの曲を1曲も知らなくても、この映画はおすすめできる
僕のように見終わった時は、すっかりエイミーの歌声のファンになっているはずだから。

いまも毎日、僕の頭の中ではエイミーの曲が流れている。
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by mahaera | 2016-07-28 16:34 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史・日露戦争から始まる、第一次世界大戦への道

子供に教えている世界史もいつのまにか20世紀に突入していた。
あと100年か。もうすぐだ。
「現代史が面白い」と感じて欲しいのだが、どうだろう。

さて、1904年2月、日本は仁川や旅順のロシア艦隊を奇襲し、
日露戦争が始まったことは、前回書いた。
戦争の経緯などは省くが、イギリスとアメリカから金融支援を受けた日本は緒戦で何とか勝ち進む。
帝政ロシアにとっては極東の局地戦のはずだったが、
相次ぐ敗北に国民の不満が高まっていた。
1905年1月には、首都サンクトペテルブルグで広場に集まった民衆2000〜3000人が殺されるという「血の日曜日事件」が起き、それをきっかけに反政府運動が高まる。
「ロシア第一次革命」だ。
皇帝は極東で日本軍と戦っていた軍の一部を、
シベリア鉄道で戻さざるをえなかった。
戦争を終わらせたかったロシアは、アメリカの仲介で
日本と講和条約を結ぶことにする。
この交渉中には、黒海で戦艦ポチョムキンの反乱も起きている。

日露の講和条約であるポーツマス条約では、
日本はロシアが持っていた中国東北地方の権益
朝鮮半島の優越権、樺太の南半分などを得たが、
賠償金を得ることはできなかった
それにより一方的に勝ったと思っていた日本国民は大きな不満を持ち、政府は非難を浴びた。
しかしロシアは傷が拡大しないうちに手打ちにしたのでまだ余裕はあったが、実は日本はもう戦争をするお金が底をついていた
日本政府はアメリカやイギリスからお金を援助してもらって勝ったとは言えないから、手打ちに政府はほっとしていたろう。

さてさて、日露戦争の結果、世界に2つの変化が起きる。
ひとつは「第一次世界大戦につながる新たな国際関係」、ひとつは「民族主義の高揚」だ。まず後者から。

アジアの国が欧米の大国ロシアを破ったという
ニュースは、白人の不敗神話を打ち砕いた。
これは植民地支配にあえぐ、アジア、アフリカの人々に大きな勇気を与えたという。
民族主義が高揚し、なぜ日本は支配を受けずに独立を維持し、
ロシアを負かすほどの強国になったのかという研究も行われた。
トルコ(1908)、イラン(1907)では「立憲革命」が起き、
インドでは「ベンガル分割令(1905)」への反対運動が高まり、
ベトナムではファン・ボイ・チャウらがトンズー運動(1904)を、
孫文は中国同盟会を結成し(1905)「三民主義」を唱えた。

日本の勝利は、国際関係も変えた。
ロシアは極東から手を引き、以降バルカン半島に進出していく。
そうなると、同じくバルカン半島に進出しようとしている、
ドイツ&オーストリア・チームと対立を深めていく。
ドイツはトルコと手を結び、イスタンブール、
バクダードまで伸びる鉄道を敷こうとしていたのだ。

イギリスは半世紀以上に渡り、ロシアの南下政策と対立していた。
しかしロシアが日本に負けたので「ロシア、大したことないじゃん。戦っても勝てるな。それよりも危ないのは新興国ドイツだ」と考え、1907年英露協商を結んでロシアと手を組むことに。
これにより、ロシアとイギリスの間で、チベット、アフガニスタン、カージャール朝での勢力範囲が決められる。

すでにロシアはフランスと露仏協商が結んでいたので、
結果的に英露仏の三国協商だ。
一方、日英同盟を継続した日本もこのチームに加わり、
1907年に日露協約、日仏協約を結んで、アジアにおける勢力圏の確定を行った。
これは、中国の東北地方はロシアと仲良く山分けに、
フランスにはインドシナ進出を認めるというもの。
アメリカとは桂=タフト協定で、アメリカのフィリピンの領有
認める代わりに、日本の朝鮮進出を承認という取り決めをした。

こうして、この段階で、のちに第一次世界大戦につながる国同士のチーム形成ができていく。
日本は、欧米の「帝国主義クラブ」に加入できたのだ。

日露戦争後、日本は朝鮮(韓国)支配を推し進め、
民衆による激しい武力闘争が、1908年だけでも1451回も起きた。
1909年、伊藤博文がハルピンで暗殺
その翌年の1910年に日本は韓国を併合する。
以降、日本人資本家は土地を取り上げ、韓国の民族資本の芽を摘み、大量の朝鮮人低賃金労働者を日本の資本主義を支えるために日本に送り込むようになる。

日本は、アジアの人々が期待したような
「欧米の帝国主義に対抗するアジアのヒーロー」ではなかった。
日本に対する失望感は、やがてアジア諸国に広まっていく。
子供には「スネオがジャイアンを倒してクラスのヒーローになったが、今度はスネオがジャイアンになった。
そもそもスネオは、最初からジャイアンになるつもりだった」と話す。

まもなく、第一次世界大戦だ。
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by mahaera | 2016-07-28 10:57 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・日露戦争までの中国をめぐる状況

自分でも日清・日露戦争のあたりってけっこう忘れているあたり。
日本史上では、太平洋戦争、日中戦争に次ぐ大戦争のはずなんだけれど、
世界史的に見たら「クリミア戦争」ぐらいの感じなのかな。
たとえばwikiを見ると、日清戦争の日本の死者は1400人
病死が1万2000人と病死のほうが多い。日露戦争は日本の
死者約8万8000人
のうち病死が2万7000人。規模でいうと
日露戦争のほうが大きな戦いだったことがわかるが、
太平洋戦争なんかと比べると2桁は違う。

さて、日清戦争後の三国干渉で日本が返還した遼東半島には、
ロシアが代わりに進出し大連と旅順に拠点を築いた(おいおい)。
その向かいの膠州湾にはドイツが進出し、青島を建設(おいおい)。
イギリスも山東半島の威海衛
フランスも広州湾をそれぞれ租借し、
列強の中国進出が一段と活発化する。
スペインと戦争して出遅れたアメリカは焦って、1899年に
「門戸開放宣言」をする。
これは、各国がテリトリーを決めるのではなく、
「機会均等に利権をむさぼろう」というもの(笑)。
そんな中、1900年に義和団事件が起きた。
これは山東半島に進出したドイツが強引にキリスト教を布教し、
キリスト教排斥運動を呼んだのが始まり。その中心の義和団は、
やがて清を助けて外国排除運動を始め、それが中国北部に拡大。
最初は、義和団が事件を起こすたび、
諸外国に怒られて困っていた清だが、西太后はそれを利用して
1900年、諸外国に宣戦布告(ダメだ)。
これを「北清事変」あるいは「義和団の乱」という。
映画にもなったね。『北京の55日』

あの映画では日本の出番がほとんどないが、
実際には8か国(日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、
オーストリア、イタリア、アメリカ)出兵し、
その主力は日本とロシアだった。
義和団は「刀槍不入」といって、修練によって神様を
自分に乗り移らせ、刀も槍も刺さらない、鉄砲の玉もはじくと、
10代の少年少女に教えて対抗したが近代兵器の前に軽く粉砕。
この時、イギリスは南アフリカ戦争でいっぱいいっぱい、
アメリカはフィリピンで民衆運動を抑えなくてはならず、
すぐに軍隊を動員できたのは日本とロシアのみ。
さて、あっという間に終わったこの乱の後、
列強は「北京議定書」を清に認めさせる。
これは軍隊の駐留権を認めるというもの。
映画『砲艦サンパブロ』で米軍の軍艦がなぜ揚子江にいたかは、
これが理由。1860年の北京条約では「北京に外交使節を置く」
だったが、もう1901年のこの条約では軍隊を北京に
置いてもよくなったのだ。

さて、義和団事件で大軍を送ったロシアは、その後、軍隊をそのまま中国の東北地方に置いたままにして帰らない。
これは日本を警戒させ、
またロシアの南下政策を恐れるイギリスも警戒させた。
イギリスは極東では力が回りきらないことを実感し、
1902年に日本と「日英同盟」を結ぶ。
それまで他国と軍事同盟を結んでいなかったイギリスだが、
「光栄ある孤立」を捨てたのだ。ということは、
日本の朝鮮半島の進出をイギリスが認めたことでもある。
そして、やはりロシアの東北地方進出を快く思っていなかった
アメリカも(このエリアに興味を持っていたから)、
日本のバックにつくことに。ドイツとオーストリアは逆に、
ロシアが極東に進出してくれたらバルカン半島に来なくなるので、
ロシアを後押し。フランスはロシアの友好国だけれど、
日露の対立には巻き込まれたくないし、
イギリスとせっかく仲良くなってきたのに、というところで、
この戦いではロシア側で参戦しないことに決めた。
こうして、日露間の緊張が高まり、それぞれ軍備を増強。
他の国は参戦しないシングルマッチの方向に進む。

戦争にはお金が必要。
日本では戦争の見積額は当時のお金で4億5000万円だったが、
日清戦争で失った分があるので、1億円を外貨で調達しなくては
ならなかった。ところが、投資家は日本がロシアに負けると
思っているのでなかなか外債を買わない。結構苦労したらしいが、
イギリス、ついでアメリカの後押しで調達でき、
日本が緒戦でロシアに勝つと、さらに外債は売れて戦争終結までに
10億円余りの外債を発行。
ちなみに日露戦争の費用は、結果的に18億2000万円かかった。
イギリスとアメリカの経済支援がなかったら負けてたし、
そうなると返済が大変だったろうなあ。

こうして1904年2月8日、日本の奇襲攻撃で開戦(またか)。
宣戦布告はそのあとの2月10日(またか)。
日本の大義名分は「大韓民国」の保全だが、
韓国はあとで日本が併合するので(おいおい)、まあ名目だけ。
この時、ロシア側で参戦した国がただひとつ。
それがモンテネグロ(笑)。戦闘には参加しなかったが、
戦後、双方で休戦協定を結ぶのを忘れ、
2006年になって正式に終戦になったと話題になった。

息子には、「戦争にはお金がかかるので、戦費調達が大事」。
「戦争には常に投資家がいる」。と教える。
あ、あと、ちゃんと休戦協定も忘れずにしよう。
小さな国だからといって、忘れちゃいけない。
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by mahaera | 2016-07-22 03:52 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・日本の登場と日清戦争

世界史を教え始めて1年以上になるが、ようやく帝国主義時代に
なって日本が積極的に“世界史”に顔を出してくるようになる。
それまでも大航海時代とか、日宋貿易とか、ちょこちょことは出てきたが、あくまで周辺のトピックス扱いだ。
しかしここから、日本が積極的に大陸進出してくるので、諸外国とも関わってくる。
息子はすでに中学で日本史を習っているから、
アウトラインはわかっているはずだが、世界史の中でのこの頃の
日本はあまり誇らしいことはしていないので、
しょぼい感じを受けているようだ。

1868年、明治政府が成立
当時は列強が武力でアジア諸国に権益を広げようとしている時代だから、新政府も急いで富国強兵しなければならなかった。
西洋式の軍隊を作り工業を発展させ、初頭教育も行わなければと。
まあ、その時のお手本はイギリスなどの西欧諸国だから、
当然その帝国主義的なシステムも研究していた。
紡績工業や鉄鋼業を発展させ、どこか海外に売って外貨を稼ぐ。
そのお金で軍備を増強。
あとは資源を他国から奪い、また製品を他国へ売りつける。
その方法は日本よりは遅れている国にしか通用しないから、
隣の朝鮮が手っ取り早いと思うのも当時としては当然だろう。

当時の朝鮮は江戸期の日本同様に鎖国していた(清は別)ので、開国には応じない。
それならペリー方式でと思ったのか、軍艦を朝鮮近海に派遣して挑発。江戸幕府と違うのは、そこで衝突が起きてしまったこと。
これが1875年の「江華島事件」
それを受けて翌年1876年、日本にしては初の不平等条約を他国に結ばせることに成功する。
これが「日朝修好条規」
日本にしてみれば、「やったー、これでオレより下ができたぞ」って感じなのかな。

工業国に転身しようとしていた日本は、朝鮮から米などの穀類を積極的に輸入し始める。
その後、日本の進出を警戒する清と、朝鮮をめぐってさまざまな勢力争いが起きるが、ここでは省略。
ただ朝鮮の宮廷も、日本につくか清につくかで内部分裂していた。
日本もその間、西南戦争から自由民権運動、国会の開設なんだかんだで忙しい。

ともあれ、1890年に帝国議会もでできて、近代国家らしくなった日本は1894年に、新国家としては初めての対外戦争を起こす。
これが日清戦争だ。
きっかけは朝鮮で起きた農民反乱。
それを抑えるために朝鮮政府は清に助けを求めるが、
日本も勝手に出兵してしまう。
日本と清が進出してきたことを恐れた政府と反乱軍は停戦するが、
日本は「徹底的に反乱軍を鎮圧しよう」と清に持ちかける。
朝鮮のいっそうの混乱を望んでいたのだ。
それを清が「手打ちになったんだからいいんでしょう」と拒否。
じゃあ、俺が事件を起こしてやるとばかりに、
日本軍が清を奇襲し、日清戦争を始めてしまう。
いちおう日本は開戦の理由として、「朝鮮の独立を守るため」と明言しているのだが、その後の歴史を見ればウソなのはサルか小学生でもわかる。

「日清戦争」だが、戦争の舞台になったのはほぼ朝鮮半島のみ。
日本や清本国は戦争の舞台になっていないのがミソ。
だから、このネーミングには子供の頃は違和感があったよ。
開戦してから8ヶ月で勝負は決まり、日本の勝利。
この朝鮮の進出と日清戦争、いまの「日本えらかった!派」の人たちは、
「南下してくるロシアから日本を守るために必要だった」とネットで主張するが、そうかもしれないが違和感ある。
だって、その結果、よりロシアと一触触発の危機になり、
日露戦争の原因になったわけだし、その言い訳が征服された朝鮮の人々に通用するわけない。
日本を舞台にアメリカとロシアが戦ったとして、
アメリカに「防波堤となるので犠牲になって」と言われて納得する日本人はいないだろ(いるか)。

で、その結果、日本はまたも不平等条約の締結に成功。
「清と不平等条約を結べば先進国」ということだ。
清は朝鮮の宗主国ではなくなり、台湾や遼東半島の割譲、
莫大な賠償金、開港や経済的特権を手に入れた。
日本は何年もかけて軍事力を高めていて(1892年には予算の31%を軍事費に投入していた)準備しており、議会も開設していたから戦争が起きた場合の予算案も通しやすかった。
国民は勇ましいのが好きだし、戦争になればいつもは政府を叩くマスコミも、政府に協力する。
日本に限っていえば、「新国家初めての対外戦争で、大国に勝つ」ということで、国民国家としての意識が高まった。
また、官民一体となっての経済政策もすすめられる。
賠償金を軍備にまわし、日露戦争にそなえることができた。

清が日本に敗北したことは、列強による中国分割を促進する。
なんたって、新興国の日本に負けるぐらいなんだからと。
日本が得た「遼東半島の割譲」は、
1895年のロシア、フランス、ドイツの三国干渉によって阻止され、
清に返還されたが、それは清のことを思ってしたわけじゃなくて、
彼らがもともとそこを欲しかったから。

そこからの話は、また次回。
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by mahaera | 2016-07-19 10:51 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・アフリカの分割

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副読本として中央公論社から出ている「世界の歴史」シリーズを読んでいるが、この24巻の「アフリカ」を読むのは結構しんどかった。
なにしろ日頃、あまり知らない地名や民族、そして歴史が語られ、
しかもその歴史もよくわからない部分も多いからだ。
その一方、地域によっては、意外な行為が“文化(習慣)”になっているのも、驚きだった。

たとえば、現在も内戦内乱が絶えない南スーダンでは、
ある牧畜部族社会ではほとんどの成人男子が通過儀礼として
他部族への殺人
を行っているという記述だ。
1980年代に現地調査をしていた筆者の聞き取りだが、
殺害する相手は戦いの相手ではなく、決まった農耕民だったら畑で農作業している老人や道を歩いている女性など何でもいいらしい。
婦女子が殺害の対象外、という概念はない。
政府軍もまた、司令官が私的制裁に軍を動員して、村で虐殺を行うことも珍しくない。
それも他部族が相手だったりするのだが、その部族単位が隣同士だったり、さらに混在して住んでいたりするのだ。
また、「民族」も、国によっては植民地時代に西欧が作り出した概念で、それまでは表面的には対立がなかったところもある。
「国」というものは、統治する制度も大事だが「同じ国民」という概念を共有しないと、なかなか成り立たない(概念なので同じ民族でなくていい)。
そんなところに、現在のアフリカの国々の難しさがある。
なにしろ、人工的に引かれた線の中で、「国」ができたのだから。

1871年にスタンリーが、タンガニーカで消息不明だったリヴィングストンを発見し、アフリカの内陸部が世(欧米)に知られる。
それまで、欧米が知っているアフリカは、北アフリカをのぞけばほとんどが沿岸部だった
ポルトガルが喜望峰を就航してから400年近くが経っていたが、欧州の目はアジアへ向けられ、アフリカは寄港地であり、奴隷や象牙の供給地ぐらいの関心しか払われなかったのだ。
サハラ以南のブラックアフリカでは、現南アフリカの地域はヨーロッパ人にとっても住みやすい環境だったので、オランダ人、ついでイギリス人が植民地を築いた。
イギリスに追い出されたオランダ系のブール人は、北部にオレンジ自由国、トランスヴァール共和国を築く。
もちろん、元から住んでいたズールー族などを追い出してのこと。
1879年には、本国の意向に背いて、植民地政府がズールー族と「ズールー戦争」を起こした。
初戦ではズールー族が英軍を破るが、結局は負けてイギリスの支配下に入る。

 さて、ベルギーの国王レオポルド2世が1883年に、
「コンゴ領有」を宣言すると、列強はあせる。
つまり、それまで広大な「空き地」だった内陸アフリカに旗を立てて、「自分のもの」と宣言したのだから。
そこで当時の実力者ビスマルクは、1884年にベルリン=コンゴ会議を開いて、アフリカ領有の“ルール”を決めようと提唱する。これで決まったことは2つ。
1.先占権(早い者勝ち)、
2.実効支配(口だけじゃなくてきちんと統治しているか)。


まるで子供のルールだが、もちろんそこに住んでいるアフリカの人は、こんなルールができたことは知る由もない。
この会議により、1885年、コンゴ自由国(自由ってなんだ?)、ポルトガル領アンゴラ、ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)南西アフリカ(ナミビア)それにトーゴカメルーンフランス領コンゴマダガスカルと、ほぼアフリカの南半分ぐらいを切り分けてしまった。
当然、反乱が起きた地域もあるが、鎮圧されてしまう。

さて、アフリカの北側では、フランスが西アフリカに勢力を伸ばし、イギリスが北はエジプト、南はケープ植民地から勢力を伸ばしていた。それぞれ「アフリカ横断政策」、「縦断政策」として習ったと思うが、
1898年にスーダンのナイル河畔のファショダで、
両者の軍隊が直面してしまう(ファショダ事件)。
当時は、イギリスとフランスとは仲が悪かったので、
戦争一歩手前となるが、これはフランス側の譲歩によって回避される。
逆にこれがきっかけで、以降、イギリスとフランスはドイツに対抗するために接近していくのだ。

その少し前、遅れてアフリカに進出したイタリアが、
イギリスの援助でエチオピアに侵攻し、1896年にフランスの支援を受けたエチオピアに撃退されるという、アドワの戦いというのもあった。
1898年にはイギリスはスーダンのマフディーの乱を鎮圧。
ケープ植民地では、世界のダイヤモンドの9割を独占する
企業家セシル・ローズが1990年に首相になり、鉱山、警察、統帥権を得て、現ジンバブエに侵攻し自分の名前をつけた「ローデシア」を建設。
「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。ローズの有名なセリフが、
当時の列強のアフリカ侵略(帝国主義)を表しているだろう。
「私はできることなら、惑星をも併合したい」。
ローズは、アングロサクソンが地球を支配することを夢見た、
人種差別主義者
だった。

この時期、なんで急速にアフリカが分割されたか。
もちろん1870年代から始まった、第二次産業革命に必要な資源を求めて、そして製品の市場を求めての帝国主義によるものだ。

息子よ、ちゃんと覚えているか。
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by mahaera | 2016-07-17 15:59 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー 『帰ってきたヒトラー』 ヒトラーはいい人だったと思えたら、自分はヤバい?

帰ってきたヒトラー

2015年/ドイツ

監督:デウィッド・ヴェンド
出演:オリヴァー・マスッチ、ファビアン・ブッシュ、クリストフ・マリア・ヘルプスト
配給:GAGA
公開:6月17日


拡大公開でもミニシアターでもはないぐらいの公開だが、
そこそこヒットしているらしい『帰ってきたヒトラー』。
こういう映画、作るのにはかなり勇気がいったろう。
何しろ日本と違って、ドイツではヒトラーやナチスを賛美するのは絶対にタブー。
前にミャンマーに行った時、地元のバカな若者が、
ドイツ人女性にナチス式の敬礼を冗談のつもりでやったら、
彼女にひどく怒られていたっけ。

 もうあちこちで書かれているがこの映画、フィクションとしてのコメディとしてはイマイチだが、何しろヒトラー役のオリヴァー・マスッチさんの熱演はすごい。
正直言って似てないが、映画を見ているうちはそんなことを忘れて、彼を好きになってしまう。
そして、ドッキリ式で彼に応対する町の人たち(実際の町の人)から、次々と偏見や差別的な本音を引き出してしまうのは、つられて笑ってしまいながらも、自分が嫌になる。
民衆なんて、自分も含めてほとんどがクズかもしれない
だから、「理想」に向かって生きているわけだし、
「良き人」になりたいと思って生きている。
そんな心を逆なでするのが、このコメディだ。

 「ヒトラーっていい人じゃない」
昔の人もそう思っていたろう。
いや、すべてヒトラーのせいにするのはフェアじゃない
ヒトラーは死んではおらず、いまもこの世界で脈々と生きている。
自分の不甲斐なさを人のせいにするために。
世の中や他人のせいにしているのは、自分が全体の一部になれば楽だろう。
でもね、生きていればいい時も悪い時も、みんなに訪れるもんだ。
不満だってあるだろう。それをいちいち人のせいにしていれば、
あなたのところにもヒトラーはきっとやってくる。

いや、でもヒトラーいい人だなあと思ってしまうところが怖い。
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by mahaera | 2016-07-15 16:03 | 映画のはなし | Comments(0)

旧作映画レビュー『アマデウス』 僕はサリエリにもなれなかったよ

この映画が公開された年、日本全国で、いや世界中で何人の人が
“サリエリ”とあだ名を付けられたことだろう。
そのとき大学生でバンドを組んでいた僕のまわりでも、
「俺はサリエリだ!」と言っていたものが何人もいた。
昨日も違うバンド仲間と飲んでこの映画の話が出た時にも、
「俺の高校にもいたよ。サリエリ」というヤツがいた。

本当にこの映画は、当時僕らをサリエリ気分にさせたっけ。
生きていると何事も要領よくできるヤツもいるし、
がんばってもまったくのびないヤツもいる。
そんなとき、僕らはサリエリほどがんばってもいないのに、
「俺はサリエリだから」と自嘲気味に言ってみたくなる。

TOHOシネマズで朝10時からやっている「新・午前十時の映画祭」、
『アマデウス』を上映ということで、高3の息子を誘って行く。
いつも一緒にマーベルヒーロー映画を見に行く息子だが、
親の務めとして、たまには名作も見せなくてはならない。
実は息子には3ヶ月ほど前にDVDで3回に分けて見せたのだが、
やっぱりこの映画は大スクリーンでいい音響で見たい
ロードショー、名画座、レンタルビデオ、テレビ放映、
ディレクターズカット、DVDとさまざまな形態で、おそらく10回は見ているほど、僕はこの映画が好きだ。
同じ何回も見ている映画だが、毎回新しい発見がある
「アラビアのロレンス」や「2001年宇宙の旅」ほど難しいわけではなく、
おそらくほとんどの人がサリエリに自分が投影できるだろう。
見終わった後の印象も毎回そんなに変わらない。
でもまた見てしまうのだ。

まあ、若いころに気がつかなったのは、サリエリがモーツァルトに対する憎悪が、実は愛情の裏返しだったこと。
サリエリはモーツァルトに、なりたかった理想の自分を見るのと、
報われない一方通行の愛情に苦しんでいたのだ。
モーツァルトの妻、コンスタンツァの比重が大きいのも、
モーツァルトを挟んでの三角関係の物語だからだろう。
そうしたホモセクシャルな感じは、若い頃は気づかなかった。
最後のレクイエムの写譜のシーンは、サリエリの恋が叶えられたシーンにみえる

ただ、世の中のほとんどの人は、サリエリにもなれない
サリエリは当時の成功者だったのだから。
映画を見終わったあと、息子が「僕はサリエリだ!」と
言いださないかと思ったが、そうは感じなかったようだ。
まだ、なにもがんばってないからねえ。
君は(笑)

http://asa10.eiga.com/2016/cinema/602.html
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by mahaera | 2016-07-14 12:04 | 映画のはなし | Comments(0)