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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・第一次世界大戦の終結

前回は第一次世界大戦の途中までだった。
膠着状態が続いていたこの戦争も1917年に大きな転換を迎える。
アメリカの参戦とロシア革命だ。
アメリカの参戦は、昔の教科書では
「ドイツの無制限潜水艦作戦により、客船が沈められ、アメリカ人も数多く犠牲になった」のがきっかけと書いてあったが、
今ではもっと踏み込んで、これは「きっかけ」で本当の理由は別にあったことも書かれている。
つまり、お金の問題だ。

戦争前はアメリカは世界一の工業大国で、海外貿易で潤っていた。
しかし戦争が長期化し、しかもヨーロッパとの貿易をドイツに邪魔されると、アメリカ経済はマヒする。
そして、中立ではあったが、英仏に多大な金額を貸し付けていた。
もし英仏が負けたらお金は返ってこなくなるし、
また勝っても英仏は疲弊していればお金を返せない。
つまり、「お金が返せる状態」で、この戦争を終わらせたかった。

一方、ロシアでは2月革命で皇帝は退位して資本家中心の臨時政府が成立していたが、戦争は続行していた。
しかしそれに不満を持つレーニンら共産党がクーデターを起こし(10月革命)、ソヴィエト=ロシア政府を樹立。
彼らを支持したのは、早く戦争を終わらして故郷に帰りたい農民や兵士たち。
そこでレーニンは、即時停戦、講和の条件は「無併合・無賠償・民族自決」、そして「秘密外交の廃止」を訴える。
ここで、映画「アラビアのロレンス」にも出てきた、
イギリスがトルコ領をフランスと山分けする秘密条約「サイクス・ピコ条約」などを世界にバラしてしまう。

早く戦争を終わらしたかったソヴィエトだが、ドイツとの交渉に5か月もかかり、1918年ブレスト=リトフスク条約をようやく結ぶ。
これは、フィンランド、ポーランド、バルト三国、ウクライナを失うと、かなりドイツに有利なものだった。

これで東部戦線の憂いを断ったドイツだが、
アメリカが本格的に上陸してくると、もう勝ち目は無かった。
9月ブルガリア、10月トルコが降伏し、11月にはオーストリアで革命が起き、長年続いたハプスブルグ家は崩壊。

戦時のドイツは太平洋戦争中の大本営発表と一緒で、軍人たちが自分に都合のいい勝利のニュースばかり国内に流していた。
しかしこの頃になると国民も気づく。
ようやくドイツが負けていることを知った皇帝も激怒したという。

軍人たちは戦いは仕事だが、政治は素人なので、
講和など駆け引きには慣れていなかった。
また、敗戦により責任を追及されるのも嫌だったので、
軍の敗北にドイツ国民を道連れにしようとしていたのだ。
で、どうせ負けるなら、華々しく散って負けようと。
そこで今までほとんど出番がなかったドイツ海軍は、
11月最後の玉砕戦に売って出ようとした。
しかしもう負けるのがわかっていたので、
兵士にとっては無駄死にだ。
そこで「そんな作戦なんか嫌だ!」と、
キール軍港で水兵たちが反乱を起こす。
これがきっかけでドイツ革命が起き、皇帝はオランダに亡命。
11月11日ドイツは連合国に降伏。
ようやくこの大戦争も終わりを告げた。

第一次世界大戦は当時、人類史上最大の戦争で、戦線はヨーロッパだけでなくアフリカやアジアにまで及び、アメリカも参戦した。
戦死者は1000万人以上、戦傷者は2000万人以上とされている。
被害は戦場となった国だけではなかった。
例えば、当時世界の多くに植民地を持っていたイギリス帝国は、
インド、オーストラリアなどあらゆる地域から兵士を動員したため、英領インドでも7万人近くが亡くなっている。
フランス領アフリカからも多くの兵士が派遣され、
8万人が亡くなっている。

また、戦争による物資の欠乏、紛争による民間人の死者も多く、
例えばアルメニア虐殺やアラブ独立運動のあったオスマン帝国では、民間人の死者の方が多い。
ドイツ、オーストリア、ロシアに三分割されていたポーランドは、
同じ国民同士で殺し合い、ドイツ・オーストリア側で15万人、
ロシア側で9万人が戦死している。
日本の戦没者は415人。

そして教科書ではあまり紹介されていないが、第一次世界大戦末期、人類史上差最悪のパンデミック(伝染病)が世界に蔓延した。
「スペイン風邪」と呼ばれているインフルエンザで、発生元はアメリカだが、アメリカの参戦とともに欧州に上陸。
1918年秋には世界的に広まった。感染者は5億人以上(当時の世界人口は20億人程度)、うち5000万人から1億人が亡くなった。
日本でも40万人以上が亡くなったという。

実際は、戦争している場合ではない、人類の危機だったのだ。


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by mahaera | 2016-08-29 11:42 | 世界史 | Comments(0)

これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル著 を読む

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仕事とはいえ旅行中は、いまだに文庫本を持ち歩く。
前ほど読む時間はなくなったが(どこでもネットが通じるせいだ)、それでも1週間に1冊ぐらいはなんとか。

行きの羽田で買ったマイケル・サンデルの講義録のような本。
いわゆる「ナントカ論」ではなく、これは大学の哲学の授業なので、過去の哲学者の意見を上げ、果たしてそれは正しいのかを検証するのだが、例えばAという意見も筋が通っているし、それと対抗するBという意見もなるほどと(当然、一流の哲学者の説の引用なので理解はできる)思えたりするわけだが、要は、単純に結果を求めずに、いろいろ試行錯誤して自分の答えを見つけようよ、学生たち、ということ。部分的には、何度読んでも理解が難しいところもあるが(デカルトとか)、ところどころ、「そうだよね!」と読んでモヤモヤが晴れる部分もあり。

近代以降の世界史を息子に教えている。その中に近代国家の国民の権利と義務の問題があるのだが、例えば「兵役」は国民としての権利を発揮するために必要な義務なのか。それならば応募制ではなくて徴兵制の方が正しく反映しているのではないか。お金で兵士を雇う傭兵制は、本来の民主主義を反映していないのではないか。突き詰めれば戦争は民間に委託するという方法はどうなのか、などはちょっと考えてしまった。

実際、今のアメリカは徴兵制ではないし、イラク戦争などは、以前は軍がやっていたかなりの部分を民間に委託している。つまり、汚れ仕事をお金で解決しているわけだが、それが逆に国民の戦争への無関心につながっていく。遠いイラクの人たちが死んでも実感がないし、アメリカの兵士も民間の警備会社の人間も、それが職業の人たちだから、一般人は自分たちのこととして捉えにくい。ベトナム戦争のときにあれだけ反戦運動が盛り上がったのは、大学生が徴兵されるという、「自分たちの問題」だったからだ。

 あとは、「人は自分の行動だけに責任を持つべきか、それとも自分の所属しているグループ全体に対して責任を持つべきか」。
 お金が儲かっている人は「それは自分の努力の結果で得たものなので、たくさん税金を取られて福祉に使われるのは、個人の自由の権利を侵害している」と考える。貧しい人が貧しいのは、本当にその人の自己責任で、助ける必要はないのか。国が保護を与えるのではなく、自助努力をさせるようにするのか。そもそも金持ちが富を独占するのは、その人がそれだけの働きをしたからではなく、システムがおかしいのか。

 別な話では、過去の戦争責任や迫害や差別を、現代の人々を負わなければならないのかという問題も難しい。日本では、過去の戦争責任の話は地雷のようなもので、僕も曖昧な態度をとると両翼の人から責められるが、個人の感情的な部分と組織の部分は切り離して考えなくてはならない。日本の中国侵略に対して、「俺たちは関係ない」という日本人だって、戦時中の日系アメリカ人収容所問題で違法な拘留をしたことを謝罪したアメリカ政府に「謝らなくていいですよ」とは言わないだろう。

 本当のリバタリアンは、「国のやっていることと自分のやっていることはすべて無関係」なので、戦争責任も関係ないとするが、国の社会福祉も期待しないし、自分がのたれ死んでも自分のせい。が、そんな人はあまりいない。たいていの人は、人の手柄を自分のことのように誇りに思うが、人の失態に対しては他人のように振る舞う。まあいいや。こうした討論は、若い人にやってほしいな。

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by mahaera | 2016-08-28 14:00 | 読書の部屋 | Comments(0)

最新映画レビュー 『みかんの丘』 アブハジア紛争中、辺境の村にも戦争の波が押し寄せる

みかんの丘

Mandarinebi

2013年/エストニア、ジョージア


監督:ザザ・ウルシャゼ

出演:レムビット・ウルフサク、ギオルギ・ナカシゼ

配給:ハーク

公開:917日より岩波ホールにて(同時公開『とうもろこしの島』)

公式HPwww.iwanami-hall.com/contents/next/about.html


アブハジア紛争の中、辺境の村に残った老いたエストニア人

傷ついた敵同士がその家で暮らすうち、心を通わすようになるが…


●ストーリー

ジョージア(グルジア)西部にあるアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。そして戦場から遠く離れた山地の小さな集落にも、戦火が迫りつつあった。移住したエストニア人たちが暮らしていたこのみかん農園が広がる集落だが、紛争のため住民の多くは帰国し、残ったのは二人の老人、イヴォとマルガスだけだった。

マルガスは実ったみかんの収穫が気になるが、イヴォはどこか上の空だ。ある日、彼らの家の前で戦闘が起き、イヴォは生き残った2人の兵士を自宅で介抱する。ひとりはアブハジアを支援するためにやってきたチェチェン人の傭兵アハメド、もうひとりはジョージアの若い兵士ニカだ。二人は快方に向かい、互いに相手への憎しみを抱きつつも、恩人のイヴォの家では決して殺し合わないことを約束した。しかし数日後、そこにアブハジアを支援するロシアの小隊がやってきた。


●レヴュー

仕事柄、ジョージアやアブハジアについては、知っている方かもしれないが、映画を見て原稿を書こうと調べ出すと、知らなかったことばかりだった。

まず、本作の主人公とも言えるイヴォはエストニア人だ。

バルト三国の一つとして知られるエストニアの人間がなぜアブハジアに?というところから始まるが、19世紀末から20世紀初頭に、エストニア人がバルト海沿岸から移住してきたという歴史があることに驚いた。

それもロシアがアブハジアを征服した際、イスラム教徒のアブハズ人たちの半数近くがオスマン朝に移住を余儀なくされ、その結果、ロシア帝国内の様々な民族が移り住むことになったという。

アブハズ人はジョージアの中では少数民族だが、その中にさらに少数民族が住んでいたのだ。


また、なぜチェチェン人のアハメドが義勇軍としてアブハジア側で戦っているかというと、アブハズ人はもともと北カフカス系の民族で、イスラム教徒が多かった(のちにキリスト教徒に転向したものもいたが)。

ということで、イスラム教徒が多数であるチェチェン人が義勇軍としてくるのだが、映画を見ると、実際にはロシアとの戦いで実戦を積んだ傭兵としてのスカウトされたようだ。


少数民族の中の少数民族であるアフハジアのエストニア人からすれば、今回の紛争に対しては冷ややかな目で見るしかなかったのかもしれない。

それに幾多の政変や戦争を見てきた老人にとってそれは一時的なものだが、大地の実りは毎年やってくるものなのだ。

そして戦争は、いつでも若者が死ぬことで続けられる

老人からすれば子供か孫のような兵士たちが、家の前で撃ち合い、死んでいく。

勝ち負けなどなんの意味もない。

将来があったはずの人間が無駄に死んでいくだけだ


怪我の治療を受けるうち、最初は横暴な振る舞いをしていたチェチェン人のアハメドだが、自分を助けてくれた老人シヴォに恩義を感じ、故郷にいる家族を養うために傭兵になっていることを告げる。

一方、ジョージア人の若者ニカは、劇団で役者を目指していたが、志願してここにやってきたことを告げる。

戦争が終わったら、また舞台に立ちたいという。

最初は共に憎しみを感じ、老人イヴォのために嫌々協力していた二人だが、イヴォの家で過ごすうち、お互いがそれぞれ家族もいる血の通った人間であることに気づいていく。


この町からも戦場からも離れた人がいない集落というのが、戦争という生々しい現実の中にありながら、次第に話が寓話的色彩を帯びていくのだが、僕はそこに小学生の頃に読んだ手塚治虫の反戦短編マンガや、小川未明の童話「野ばら」を思い出した。

国境に配置された老人と若者の兵士の話を覚えているだろうか。

映画は最後に大きな転換点を迎える。

「野ばら」と違って、戦争はこの地にもやってきたのだ。

それもあっという間に。

映画が終わった時、生き残ったものも、死んだものも、

いっとき幸せでいられた瞬間があったことを思い出す。

大義だろう、自己防衛だろう、自由だろう、いろいろあるだろうが、死んでいく人たちにも、それぞれの家族があり、人生がある、私たちと同じ人間であることを忘れてはいけない。

これは世界の「辺境」での物語だが、それは世界のどこにでも起きる(起きた)話なのだ。

★★★☆前原利行


■関連情報

2013年ワルシャワ国際映画祭最優秀監督賞、観客賞

2015年アカデミー賞外国語映画賞ノミネート


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by mahaera | 2016-08-26 11:01 | 映画のはなし | Comments(0)

最新映画レビュー 『ソング・オブ・ラホール』 パキスタンの伝統音楽は世界に通用するのか!

ソング・オブ・ラホール
Song of Lahore

2015年/アメリカ

監督:シャルミーン・ウベード=チナーイ、アンディ・ショーケン
出演:サッチャル・ジャズ・アンサンブル、ジャズ・アット・リンカーン・センター・オーケストラ、ウィントン・マルサリス
配給:サンリス、ユーロスペース
公開:8月13日よりユーロスペースにて公開中
公式HP: senlis.co.jp/song-of-lahore/


20年ほど前にパキスタンのラホールに行ったことがある。
バックパッカーで世界を回っていた頃のこと。
当時はパッカーの間では「ラホールの泥棒宿」の話は有名で、
僕はちょこっと滞在しただけで、インドへすぐに国境を越えた。
惜しいことをした。

ラホールは今はパキスタンの都市だが、ムガル帝国時代はデリー、アグラと並ぶ帝国三大都市のひとつで、
英領インド時代にはパンジャーブ地方の中心都市だった。
インドとパキスタンが分離独立するまでは、かつての宮廷文化の名残で、ラホールには多くの楽士が住んでいたという。
パキスタン独立後も、映画産業の伸びとともに音楽家の需要は増えていた。
しかし、それが大きく変わったのは、近年の事。
イスラーム原理主義の浸透により、娯楽としての音楽は肩身が狭いものになっていった。

そんな風潮の中、危機に瀕している伝統音楽を救おうと、
一人の実業家が音楽家たちを集めて“サッチャル・ジャズ・アンサンブル”を結成。
古典楽器を使って「テイクファイブ」を演奏する彼らの姿がYouTubeで世界に流れ、
やがて彼らは、世界最高峰のジャズミュージシャンである
ウィントン・マルサリスからニューヨークに招かれる。
ウイントン率いるビッグバンドとの共演だ。
ニューヨークに着いてリハーサルを始めた彼ら。
しかしそこには、大きな壁が立ち塞がっていた。

最近はニュースで解説もよく流れるからご存知だと思うが、
イスラーム教には、多数派のスンナ派と少数派のシーア派がいる。
両者の教義の違いは自分で調べていただくとして、
シーア派が多いのはイランとイラクと知っている方はいると思うが、実はインド亜大陸にも少数だがシーア派の人たちがいる
例えばインドではラクナウの藩王はシーア派だったので、
町で一番盛大なモスクはシーア派の建築だし、
バングラデシュのダッカでも、シーア派のモスクがある。
サッチャル・ジャズ・アンサンブルの中でも、
おそらく最も実力のあるミュージシャンで
バーンスリー奏者のバーキル・アバースがカメラの前で、
人にわからないように防音の効いた部屋で、練習しなければならないことを語った時に、
音楽家という下に見られるカーストとというだけでなく、
さらに自分は少数派のシーア派で、パキスタンの中では
二重に肩身の狭い思いをしなければならないと語っていたのに、
驚いた。
パキスタンはイスラムなのでカーストはないのかという先入観があったが、調べてみると、身分制度はちゃんとあるらしい。これはイスラムというより、インド亜大陸の習慣なんだな。

さて、映画について。
前半の成功物語の部分は、苦労があってもそのあとに成功が
待っていることを知っているので、ちょっと気楽に見ていられるのだが、そんなこちらの気楽な気分を凍りつかせるのが、
ニューヨークに着いてからのリハーサルシーン。
半ば浮かれ気分で、観光さえ楽しんでいたメンバーたちだが、
ウイントンの楽団のリハーサルで、世界トップレベルのジャズメンたちの高い壁に当たり、
また、音楽の進め方の流儀の違いに戸惑う。
リハで曲のキーが変わり、サッチャルのミュージシャンが
対応できなくなってしまう
ところだ。
まちがいなく本作のハイライトとなる大ピンチ
もうあの時のメンバーたちの緊張の顔、そしてウイントンたちをまともに見られない気まずさ。

ちょうど僕のバンド仲間と試写に行ったのだが、見終わった後で、
「あのシーンは、自分も何度も夢で見てうなされたのと同じだよね」とお互いに言った。
楽器をやっている人の方がわかりやすいと思うのだが、
打楽器の人たちは、最初こそ戸惑うものの、
勝手がつかめれば、うまくビッグバンドに入り込める。
また、先に書いたバーンスリー奏者のバーキルは、単音楽器というのと、ビックバンドの人たちが微笑むほどうまいので、問題ない。
しかしシタールは、楽器の性質上、ドローンを鳴らしていることもあるので、
チューニングが難しいんだろう(シタールをしたことがないので詳しくはわからないが)。それでも不可能とわけではなく、やはりこのシタール奏者(YouTubeの人とは別人)のレベルが合わなかったのだろう。
いや、あれが自分だったら、本当に辛いなあ〜。

単なる感想になってしまったが、でも自分の親戚とか知り合いが、
出ているような親近感を持って見てしまうのだよ。最後には。
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by mahaera | 2016-08-16 23:44 | 映画のはなし | Comments(0)

2016.08.15ボゴール着。日本は終戦記念日だが、ここインドネシアでは

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日本は今日は終戦記念日だが、インドネシアでは明後日の8月17日が独立記念日なので、ここ一週間、小、中学生が行進の練習をしている姿を各地で見続けてきた。

8月15日、インドネシアの日本軍はほぼ無償で終戦を迎えた。それにより、インドネシア独立派は早急に独立宣言をする必要に迫られ、8月17日に独立を発表。そのあとは、当然ながらオランダ軍が上陸してくるはずなので、独立派は日本軍に武器の提供を求めた。

で、ネトウヨに限らないが、皆さん良く誤解しているのは、「日本軍はインドネシアの独立に協力した」という美談。多分テレビとかでやっている、インドネシア独立軍に加わった日本兵の話とかを見て、日本軍が組織的にしたと思っているのだろうが、それは間違い。軍隊というのは、会社も同じだが、縦が絶対の組織だ。敗戦と同時に日本軍は、連合軍の管理下に置かれた、ということは日本軍の管轄のトップが連合軍になったので、インドネシアで終戦を迎えた日本軍は、連合軍の命令に服従しなければならない立場だった。

終戦は8月だが、イギリス軍がジャカルタに上陸したのは9月、オランダ軍は10月で、日本軍は敗戦後も2か月以上にわたって広いインドネシアで治安を維持しなければならなかった。その隙をついて、各地で独立派が日本軍の武器を奪取しようと襲った。日本軍としては、連合軍が来るまで治安を維持しなければならない。そこで、各地で衝突が起きる。独立派としては、ここで武器を手に入れておかないと、弾圧されるのは目に見えている。おまけに日本軍は、武器の使用を禁止していた。日本軍は、連合軍と独立軍(インドネシア共和国軍)の板挟みになって、早くこの問題を手放したかった。連合軍の方も最初に来たイギリス軍は、オランダ領のインドネシアの独立問題に首を突っ込みたくなかったというのが本音だ。

10月に連合軍が進駐してくると、武器の引き渡しを求める独立派により各地で日本兵が殺される事件が起き、100名あまりが無抵抗のまま殺されてしまう。日本兵は、応戦してはならぬと厳命を受けていたからだ。

そうした中、10月12日に最大の武力衝突がスマランで起きた。インドネシア人による日本人や外国の民間人2000名の拉致を受けて、日本軍治安部隊が独立派と武力衝突した。5日間による戦いで、インドネシア側が1000人以上の死者、日本側は30人あまりが戦死、監禁中の一般人150人あまりが殺された。武器を持っている日本軍にかなうわけはなかった。しかし、こんな戦いに意味があったのだろうか。最終的には敗戦後、インドネシアの日本軍は、復員までに戦死・病死を含み1000人あまりが死んでいる。

日本軍が保有していた武器のうち、最終的に独立派に渡ったのは、2/3ぐらいだと言われている。日本兵からしたら、日本では終戦を迎えているのに、インドネシアでは準戦闘状態がさらに数ヶ月続いた、いや、それまで戦闘状態ではなかったのが、終戦により始まってしまったのだ。本音としては、武器をさっさと渡して引き上げたかったのだろう。できれば、連合軍よりインドネシア独立派に渡したかったのかもしれないが、軍隊という組織ではそれは命令違反なのだ。ということで、日本軍がインドネシア独立軍に協力した、ということはない。むしろ逆なのだ。

では独立軍に参加した日本兵はというと、脱走したり、復員命令に従わなかった日本兵だ。つまり、軍という組織からアウトした、脱走兵だ。なので彼らがしたことの評価は、本来ならばウヨクの人たちからすれば非難されるべきものなのだが、逆になんだか、「日本人は素晴らしい!」と手柄にしちゃっているのが、気持ち悪い。軍の命令に背いたんだから、愛国心をむしろ捨ててるんだから。そのぐらいの覚悟で、日本を捨てて、離脱したはず。むしろウヨクの方々が、愚直に命令に従って戦いたくもない独立派と戦って死んだ日本兵や、またはインドネシア人を殺したりした事件があったことを無視するのが、不自然。

別にどちらも、歴史の中で起きたコインの裏と表なのだが、片方ばかり日が当たり、それを自分の手柄にする風潮が嫌いだ。インドネシア人の手柄を奪うのもね。
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by mahaera | 2016-08-15 23:42 | 海外でのはなし | Comments(0)

2016.08.13 バンドンからチルボンに移動

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バンドンから列車でチルボンへ。

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仕事疲れか食べ過ぎか、下痢がひどくて昨日は夕食抜いたら、
ようやくお腹の調子が戻りました。今回は都市中心に回ってるので、
レストラン取材が多い。よって食べ過ぎで、
単なる屋台飯が食べたい!と何度思ったことか。

チルボンは海沿いの町なので、シーフード。
ということでカニを注文したのだが、とっても食べにくい。
カニと格闘しているうちに、満腹になってしまった。
これでビールがあればなあ。。
(チルボンはムスリムが多いのと田舎町なので、
ビールを置いている店がほとんどない)
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by mahaera | 2016-08-14 11:39 | 海外でのはなし | Comments(0)

2016.08.12 バンドゥンのブラガ通り

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おととい、飛行機でジャワ島の東端バニュワンギから
スラバヤ乗り継ぎで、西ジャワのバンドへ移動してきました。
ジャワ第3の都会なので、町中渋滞で嫌になります。

さて、ここのブラガ通りは、夜になると各店で生演奏が行われる
歓楽街(と言ってもタイのに比べると、ムスリムの国なのでかなり大人しい)。
毎夜、音楽を聴きに繰り出したいところなのだが、
そんな場所に来た時に限って、お腹の調子が悪い。
風邪かもしれぬと、初日は大人しく寝て、
昨夜ようやく、夜に外へ。

100メートルぐらいの間に、ライブ演奏がある店は8軒。
しかし、ほとんどが洋楽のカバー。
インドネシア歌謡が聞きたいところだけれど、
わざわざ町の中心部ではやっていないか。
最初の写真のように、ドラムはなく、カホンで代用しているグループが多い。
人気は、80年代MTV時代のポップス。
しかし中には、バリバリのハードロックの店もある(笑)

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いまだに「移民の歌」とか「BURN」とか。
客席にスカーフの女性がいたりするのも、
また酒じゃなくてコーヒーでハードロック鑑賞しているのも、
違和感があるが。まだお腹の調子が悪くて、
昨日は1軒ビールの小瓶1本ずつで退散しました。
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by mahaera | 2016-08-14 11:34 | 海外でのはなし | Comments(0)

2016.08.10 細い人、太い人 at バニュワンギ

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ガイドブックには絶対に掲載しないネタだが、
インドネシアの交通標識が気になっている。同じ町でも、
歩行者の形が太めの人と細めの人がいるのだ。
太めの人は、どう見ても人間というよりは、ゴリラのようにしか見えないのだが。。。


今朝は5時に起きて、バニュワンギからスラバヤ乗り継ぎでバンドンまで移動。
雨も降ってきたことだし、そろそろ限界。
夜遊びは明日にして、もう寝ないと、明日ダウンしてそう。
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by mahaera | 2016-08-12 13:34 | 海外でのはなし | Comments(0)

2016.08.09 インドネシアのバニュワンギから

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8月9日 バニュワンギにて

東京は炎天下らしいが、ここバニュワンギも炎天下。
それ、どこ?と思うだろうが、ジャワ島の東端の町で、
バリ島へのフェリーが出ているところといえば、なんとなくイメージが浮かぶだろうか。
「観光客が通り過ぎるだけじゃもったいない!」と思ったのか、
近年、バニュワンギ県が大々的に観光客誘致に乗り出している(らしい)。

 日本の旅行業関係者を招いてツアーを行ったりはしているが、
まだまだの状況。「歩き方」にも掲載していない。
そこで今回、僕が来て、町の見所や地図を作っているのだが、、、、。

そもそも街中に観光名所がない(笑)
ここに来る観光客の目的は、車で1時間ほどの山の中(上?)に
あるイジェン火口湖なのだが、それは素晴らしいので見る価値あり。
しかしそれ見てしまうと、特にやることがなくなる。
この火口湖へ行くツアーは、深夜1時発、戻りは8時ぐらいだから、前日にバニュワンギにいる必要がある。
深夜のツアーなので、急がない欧米人はたいてい2泊するが、
「町は見るところないよ」と口を揃えて言う。
バリの対岸なので、周りは海なのだが、町に近いところは大してきれいじゃない。
で、オススメのビーチというと、車で片道2、3時間かかるので、
ちょっと行ってこようということにはならない。

それでも観光案内所に行ったら、日本語を勉強していた
若い職員が2人もいるところに、日本への期待度が感じられた。
彼らも日本語が使えてうれしそうだったな。

さて、町なかの見所の、ブーム・ビーチへ歩いて行ってみるが、
地元の若者がバイクでやってきて、屋台でスナック食べたり、
お茶したりするところ。対岸にバリが見えるのだが、
黒砂のビーチはゴミが多く、まあ外国人がわざわざ来るところじゃない。
まあ、夕涼みに来るといったところか。

あとは道教寺院。これも現在、再築中で立派なのだが、
なんでわざわざ、という感もある。それでも、そこにいた
中国系の老人が話しかけてきて、こちらが簡単な中国語を話せると知って大喜び。頼まないのに、バイクでホテルに送ってくれたよ。

炎天下の中を歩いて地図作りしていたら、食欲がなく、
遅い昼はフライドチキンを買って部屋でビールを飲みながら食べ、昼寝をすることに。そもそも暑くて地元の人で歩いている人なんかいないよ。


一気にビールを飲んで、エアコンの効いた部屋でベッドに倒れ込み、1時間ほど寝た。で、夢を見た。
夢の中で僕は食事をしている。そこでもビールを飲んでいて、
酔っている。場所はインドネシアの食堂か。
気がつくと店の主人も意気投合しているらしい。彼も酔っている。
支払いの段になって、酔っているし、夢の中なので余計に計算ができない。
どうも料理2品とビールぐらいで、3つ足せばいいのだが(25+28+44ぐらいの計算)、夢の中で暗算ができない。店の主人も酔っているのか、何度やっても計算できない。
そこで見かねた主人の奥さんが出てきて、代わりに計算する。
計算はできたようだ。しかしその奥さんは、下一桁だけ教えて「いくらだったでしょう?」と、僕に答えさせようとする。あー、もう面倒だから、大きいお金を渡して、お釣りをくれと言う。
そこで目が覚めた。
 こういう夢、見ませんか? 
僕はたまに見るけれど(笑)
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by mahaera | 2016-08-12 13:31 | 海外でのはなし | Comments(0)

最新映画レビュー『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』 自分にドンピシャな脚本家。こうありたいもの

『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』 

2015年/アメリカ

監督:ジェイ・ローチ
出演:ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン、エル・ファニング
配給:東北新社
公開:7月22日よりTOHOシネマズシャンテほかにて公開中


以前、映画レビューでも書いたことがあるが、ダルトン・トランボは若い頃の僕にとって最も気になるハリウッドの脚本家だった。
今と違って、ネットもwikiもない1970年代。
知りたい作家の経歴を知りたくてもわからず、
モヤモヤとしたものを感じていた。
知ってるのは、1950年代に共産主義者として赤狩りに遭い、
“ハリウッドテン”の一人して、自分の名前で脚本が書けない時代があったということ。
『ローマの休日』のオリジナル脚本は彼の手になるが、
他の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名義を借用し、
アカデミー賞を受賞したこと。
『黒い牡牛』でもアカデミー賞を受賞したが、彼が偽名で書いた作品のため、オスカーを受け取ることができなかったこと。
そして、『スパルタカス』でようやく自分の名前で脚本を発表できたということだ。
もちろん『ローマの休日』は好きな映画だし、
『スパルタカス』『パピヨン』『ジョニーは戦場に行った』は、
僕がリアルタイムで名画座通いし出した頃の大好きな作品なので、それらが皆同じ脚本家によるものだと知った時は、うれしかった。
ただし、『スパルタカス』『パピヨン』は何度も見ているが、
『ジョニーは戦場に行った』は辛くて一度しか見ていない。
多感だった?高校生には、あの主人公ジョーの姿は、ホラー映画以上の恐怖だった。
もっともその頃は、物語の裏に隠されたいろいろな意味がまだ理解できていたわけではない。

映画『トランボ』は、第二次世界大戦が終わり、
アメリカで赤狩りが始まった頃のハリウッドから始まる。
“共産主義者”は国の敵となり、ハリウッドでも“アカ”の思想に染まった者探しが始まる。
それまで脚本家として名声を得て、裕福な暮らしをしていたトランボだが、議会での証言を拒否し、有罪を宣告されてしまう。
この時、仲間たちの名前を挙げて、有罪を免れた者たちもいた。
もちろん政府側は証言を待つまでもなく、疑いがある者たちを割り出していたことだろう。
わざわざ証言をさせる理由は、彼らの不和と裏切りを世間に知らしめ、さらに仲間を売った屈辱を味あわせるというためだった。
ハリウッド内でも、ジョン・ウエインやロナルド・レーガンのようなタカ派は、“裏切り者”を積極的に炙り出そうとする。
なかには反骨精神を持つ者もいたが、
世の中がいわば大衆ヒステリーのような状況では、どうしようもなかった。
また、共産主義者にはユダヤ人が多かったことから、反ユダヤ的な運動もあったようだ。
“仲間を売った”者の中には、のちに『エデンの東』でアカデミー賞を取る名監督エリア・カザンがいる。
そのため彼は仕事を得ることができ、多くの名作を残したが、
仲間を売った汚名は一生ついて回った。
この赤狩りは、仕事を失った者に大きな痛手を与えたが、ハリウッドに生き残った者にもまた、大きな心の傷を残したのだ。

出所したトランボには仕事がなくなる。
そんな彼を拾ったのは、B級映画専門の映画会社だ。
高給取りの一流脚本家をタダ同然で使えるのだから、
こんなにうまい話があるわけはない。
その間、トランボは偽名で多くの作品を書く。
ここで、「上訴して法廷で闘おう」と一緒に仕事を失った友人がトランボに言う。
しかし、トランボは「書き続けることが私の闘いだ」と断る。
同じ有罪を宣告された仲間たちの間にも、赤狩りは大きな亀裂と傷を生んだ。

友人の名で発表した『ローマの休日』(1953)
そして偽名で書いた『黒い牡牛』がアカデミー賞受賞(1956)
自分の名前を公表できないトランボだが、大きな心の支えになったに違いない。
この映画の中で、観客が大いに湧くシーンがある。
ジョン・グッドマン扮するB級映画会社社長のオフィスを訪れた赤狩りの調査員が、バットで撃退されるシーンだ。
こうした男気のある者がいたからこそ、トランボは作品を書き続けることができたのだ。
しかし、おおっぴらにはできない作家活動は、家族に負担を強いる。そのあたりも『トランボ』は丁寧に描いている。
特に娘のエル・ファニングとの関係の変化は、
二人の俳優の好演もあり、いいシーンになっていると思う。

やがて、時代が変わり、「赤狩りで追われた脚本家だろうが、
構わないじゃないか
」という映画人も出てくる。
カーク・ダグラスがトランボを訪ねて『スパルタカス』(1960)の脚本を依頼するくだりや、同時にオットー・プレミンジャー『栄光への脱出』(1960)の脚本を急がせるシーンは、見ていて痛快。
とくに『スパルタカス』は、今だとカーク・ダグラスが筋金入りのリベラル派だと知っているので、彼がトランボに依頼した意図もよくわかる。
有名なラストシーン、奴隷軍を捕まえたローマの将軍が「スパルタカスは誰だ。知っているものは名前を言え。そうすれば残りの者は、はりつけにしないでやる」と言う。
しかし奴隷たちは、一人ひとり立ち上がり
「俺がスパルタカスだ!」と叫ぶ。
このシーンは、「仲間の名前を言えば許してやる」と言った赤狩りの公聴会にかぶる
実際には、「俺がスパルタカスだ!」とならなかったが、そこにトランボの願いが込められ、名シーンとなったのだ。
映画は、そのあと、トランボが名誉回復してスピーチをするシーンで終わる。
そこで、「この赤狩りには誰も勝者はいない」と、転向して仲間を売った者も傷ついたことをトランボは言う。

「俺は負けねえぜ」
この映画では触れられていないが、
映画『パピヨン』のマックイーンのセリフだ。
好きな映画だが、あの映画で不思議だったのは、
マックイーン扮するパピヨンが本当に人を殺して有罪なのかはハッキリと語られないことだった。
もともとこの映画は他の人物が書いた脚本で進められていたが、予算が膨れ上がり、急遽もう一人大スターが必要だということでダスティン・ホフマンがマックイーンの相手役に選ばれた。
ところが、ホフマンの役ドガは元の脚本では出番は少ししかない。
それを大きく膨らませるために、トランボが急遽雇われた。
彼は速書きで有名だったからだ。
トランボが書いた主人公パピヨンは、実際に何を犯したかは重要ではない。
パピヨンが見る奇妙な夢のシーンがあるが、そこでパピヨンが糾弾されるのは、「人生を無為に過ごしてしまった罪」だ。
これはトランボの実体験から来ているシーンではなかろうか。

『ジョニーは戦場へ行った』
では、戦争で四肢を切断され、目も耳も口も使えなくなってしまった青年ジョーが、その中でなんとかして生きていこうとする物語だ。
これはリアルタイムで観た当時、単に「戦争は残酷だ」と思って見ていた。しかし今では、
すべての自由を奪われてしまっても、それでも表現せずにはいられない」ことのメタファーに見える。
原作は、トランボが唯一書いた小説で、アメリカでは何度も発禁処分になっている。
そしてトランボ自身が監督した唯一の作品でもある。

映画『トランボ』の題材は興味深いが、映画自体は傑作というほどではないかもしれない。
しかし、こういう人間がいたことをハリウッドが描くことは、意味のあることだろう。
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by mahaera | 2016-08-08 09:51 | 映画のはなし | Comments(0)