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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史〜キューバ危機・前編(1962年)

1962年10月14日にキューバ上空をU2偵察機が飛行。
翌15日、そのときに撮った写真をワシントンの国家写真解析センターが解析すると、アメリカ本土を射程内とする中距離弾道ミサイルとその基地が発見される。
翌16日、その写真と解析がホワイトハウスに届けられた。
これが核戦争の脅威が世界を覆った「13日間」の幕開けだ。
すぐさまホワイトハウスに閣僚や要人15人を集め、
「エクスコム(国家安全保障会議執行委員会)」が設けられ、
最初の3日間は昼夜を問わずに会議が進められた。

キューバへのミサイル配備と、
そして多くのソ連人軍事顧問団(貨物船の船底に隠れていた)の派遣に、CIAもそれまで気づかなかった。
そしてケネディはソ連の真意を測りかねていた。
というのも、この段階でソ連が持つICBMはまだ10基ほどに対して
アメリカは2000基、ソ連が500発ほどの核弾頭に対し、
アメリカは2万発ほど、
さらにアメリカは原子力潜水艦や爆撃機を常に飛ばしていて、
軍事衝突が起きてもソ連が勝てる見込みはなかった。
さらにトルコや西ヨーロッパなどのソ連の近接地域にアメリカは
ミサイル基地を配置して、
いつでもソ連を攻撃できるようにしていた。
それに比べてソ連は、アメリカの主要部を攻撃できる位置に
ミサイル基地を持っていない。

ケネディがいう

「なぜだろう。今回のキューバへのミサイル配備は、我々がトルコにかなりの数のミサイル配備をするのと同じだ。それは危険な話だ」

バンディ補佐官が答えた。
「大統領。すでにそういうことを我々がしているということですよ」。

つまりソ連は常にアメリカの核攻撃の脅威を感じていたことに、
アメリカは気づいていなかった。
むしろ自分が脅威を受けている被害者だと思っていたのだうろ。
そこでアメリカの先制攻撃を恐れるフルシチョフは、
賭けに出たのだ。

エクスコムでは、統合参謀本部(軍)が主張する空爆推進派と、
ケネディやマクナマラ国防長官が主張する海上封鎖派に
意見が分かれた。
当時は11月の中間選挙の前で、ケネディは応援の遊説を取りやめると怪しまれるとの閣僚の意見に沿い、
昼間は各地の遊説を続けながら早朝に会議を続けていた。
統合参謀本部のルメイはキューバへの先制攻撃を主張した。
たぶん、攻撃してもソ連は何の反応も示さないというのだ。
ケネディは強気の軍の意見を聞いた後、補佐官に
「官僚というものは、何でも自分に都合よく解釈できる。それに従っていたら、地上に生き残るものは誰もいなくなる」
とこぼした。

10月20日土曜
空爆の前に海上封鎖という段階を踏む方向へケネディは舵を切る。
いきなりの空爆では、フルシチョフも後に引けなくなる。
まずは封鎖して、フルシチョフの選択の余地を残すことにし、
「封鎖」も好戦的な表現であるとして
「隔離」という言葉を使うことにした。
ルメイはケネディを弱腰として怒り狂った。
ケネディは、キューバ問題はその前に起きたベルリン危機にリンクしていると考えていた。
つまりアメリカがキューバを攻撃すれば、
報復としてソ連はすぐさま西ベルリンを占領してしまうだろうと。
その結果、キューバ問題に忍耐を持たなかったアメリカに対して、
西ヨーロッパの友好国はアメリカを見放すだろうと考えたのだ。

10月22日月曜
ケネディが夜にテレビ演説を行うということを知ったモスクワは、
アメリカがキューバのミサイル配備を知ったと推測し、
緊張に包まれる。
フルシチョフは幹部を緊急招集し、
数日以内にカリブ海で戦争が行われるかもしれないと説明した。
アメリカ側は日中にイギリスやフランス、
西ドイツらの首相に状況説明する。
午後7時、ケネディはテレビでアメリカ国民に、
ソ連によってキューバにミサイルが持ち込まれたことを告げ、
「海上隔離」を行うことを発表した。
アメリカ国民は、核戦争が現実に近づいていることを知った。
アメリカでは軍の警戒レベルは5段階の真ん中のデフコン3となり、180隻の海軍軍艦がカリブ海に配置され、
戦略爆撃機のうち1/8が常に上空に待機する体制となった。
万が一、アメリカが全滅しても報復できるようにだ。

しかしそこで報復しても、何の意味があるのだろう。
同日、モスクワでアメリカに情報を提供していた
スパイのペンコフスキーが逮捕され、アメリカは情報源を失う。

(つづく)
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by mahaera | 2016-12-31 18:13 | 世界史 | Comments(0)

ジョージ・マイケル、キャリー・フィッシャー、デビー・レイノルズ、、

12月28日のノオトより

今年はいろいろいなミュージシャンが亡くなったねえ、
などと友人と先日話していたが、まだ続くのか。
「ワム!」のときはまるで興味なかったが、ソロになって
1作目の「FAITH 」は名曲揃いの傑作。
「Faith」や「I Want Your SEX」、アレサ・フランクリンとのデュエット「愛のおとずれ」は良かった。
他にもクイーンのカバーの「サムバディ・トゥ・ラブ」は名演中の名演で、フレディ好きの友人も「彼だったらフレディの代わりにクイーンに入っても」と言っていた。
出したスタジオソロアルバムはたった4枚。
しかしすべてが本国イギリスでは1位という、スーパースターだった。
本名はΓεώργιος Κυριάκος Παναγιώτου。
53歳か、僕より年下だったんだな。

デビッド・ボウイーに始まり、プリンス、ジョージ・マイケル、
そしてレイア姫まで亡くなっては、今年は確かにひとつの区切りを感じる。
僕も「死」をかなり意識した年だった。
個人的には誰も知らない音楽や映画のヒーローたちだが、
自分の成長期には常に身近にいてくれた友人や先輩たちだ。
この世界に、夢や希望があることを教えてくれた人たちへ感謝している。

デビー・レイノルズも亡くなった。
「雨に唄えば」は10回は見たはずだ。。。
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by mahaera | 2016-12-30 11:41 | 日常のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史 〜ベルリンの壁建設と核戦争の脅威(1961年)

1961年4月の「ビッグス湾事件」失敗の2ヶ月後の6月、
ケネディはウィーンでフルシチョフと会談する。
フルシチョフは、敵意ある態度で
この若い大統領にのぞんだ。
フルシチョフは当時、ベルリン問題で頭を抱えていた。
この時までに274万人が東ドイツから西ドイツに流入し、
また西ベルリンに西側の軍隊が駐留し続けていることも
問題だった。

また、西ドイツの再軍備も恐れていた。
なにしろ、ロシアは20世紀に入ってから
二度もドイツに侵攻されているのだ。
西ドイツの首相アデナウアーは、東西対立を利用して米英を引き込み、ドイツの統一を考えていた。
東ドイツも、ソ連を後ろ盾に東西ドイツの遮断を
フルシチョフに求めていた。
しかし米英はドイツのためにソ連と戦争をする気はなかったし、ソ連もそれは同様だった。

ウィーン会談は、フルシチョフが求めた
「西ベルリンからの西側軍隊の撤退」
をケネディが撥ねつけたことで、物別れに終わる。
フルシチョフは、難民の流出と東ドイツ経済の崩壊を止めるため、世界中の批判を覚悟でベルリンの壁建設を決める。

8月、西ベルリンに流入する難民は週1万人に達していた。
東ドイツの崩壊を防ぐため、12日の夜から13日にかけて国境は有刺鉄線で閉鎖され、壁が建設され始めた。
西側諸国は何も手を打たなかった。
それ以上の進展(戦争)は、もう後戻りできなくなる可能性が強かったのだ。
ケネディは
「最善の策ではないが、戦争より壁のほうがましだ」
と側近にこぼした。
ケネディは核ミサイルの発射ボタンを押す、
人類最初でおそらく最期になるかもしれない大統領になりたくなかったのだ。
しかしソ連は強気に出て、しばらく停止していた核実験を開始する。

アメリカ軍統合参謀本部は、
核戦争の開始を1963年の後半を予定していた。
この時期になれば、ボタンひとつでソ連を全滅させるミサイルが一斉に発射できる準備が整うのだ。
「アメリカ国民は2週間核シェルターの中で暮らす必要がある」と聞いたケネディは、報告の途中で席を立って戻らなかったという。

1961年の夏のアメリカは、家庭用核シェルターの是非について、「もし隣人がシェルターに助けを求めてきたら銃撃する用意もしないと」ということが真剣に論議されていた。
ただし、実際には買う人は少なかったという。
もし核戦争が起きて、隣人が全部死んだら、自分だけ生き残っても仕方がないと考える人が多かったからだ。

アメリカの軍備は、
「ソ連が軍事的に有利な核ミサイルを持っている」という「ミサイルギャップ」論により進んでいたが、
ケネディは大統領に就任するとマクナマラ国防長官にそれを確認させる。
すると驚くべきことに(大統領も知らなかったが)、
実際にはアメリカのICBM(大陸各弾道弾)保有数は45基で
ソ連の4基の10倍以上も上回っていた。
潜水艦搭載、近隣諸国の基地からのものを入れると、
この時点でアメリカは2万5000発の核兵器を所有していたが、ソ連はその10分の1しかなかった。
ミサイルギャップは存在しなかったのだ。

ケネディはミサイルギャップの解消を訴えて当選したので、
それを隠そうしたが、政治経験の浅い(フォードの社長から引き抜かれた)マクナマラ国防長官は就任早々、
それをマスコミにしゃべってしまった。
これは失態で、マクナマラはクビを覚悟したという。
軍はさらなる軍備費増強を求めていたからだ。
この時点では、兵器産業はアメリカいちの産業で、
それを阻むのは大統領でさえ難しかったろう。

戦略空軍司令官のパワー大将は
「戦争が終わった時点でアメリカ人が2人、ロシア人が1人残っていればアメリカの勝ちだ」と述べた。
そして軍はキューバ侵攻の準備を始め、侵攻のきっかけ(ハイジャック、テロなどのやらせ)を探り始める。

一方ベトナムでは、独裁のゴディン・ジェム政権を打倒するために、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成。
以降は農村部でゲリラ活動が始まっており、
ケネディはこれにも対処しなくてはならなかった。
ジエムはどうしようもない独裁者で、国民の信頼はゼロ。
さらにアメリカによる民主化要求をはねのけた。
しかしケネディによってベトナムに派遣された副大統領のジョンソン(のちに大統領)は、ジエムを
「東洋のチャーチル」と褒め上げ、
アメリカの軍事顧問団の派遣が700人から1961年末には約3000人に、1963年末には1万6000人に増強される。
こうしてベトナムへの直接軍事介入の道が開けていく。

そして1962年10月、核戦争の脅威がピークに達する13日間が訪れる。
ここで人類が滅亡していたかもしれない。
それが「キューバ危機」だ。
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by mahaera | 2016-12-29 11:06 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史〜 ケネディ政権の誕生とビッグス湾事件(1961年)

1960年前後ぐらいまでの世界は、
米ソの冷戦構造の上に成り立っていた。
このあたりは、スピルバーグの映画
『ブリッジ・オブ・スパイ』や、デ・ニーロが監督した『グッド・シェパード』がいいサブテキストになるだろう。
アメリカ政府の中枢には多くのソ連のスパイが入り込んでいたのは、本当のことで、
冷戦終了後に公開されたロシアの資料でそれは確認された。

1959年9月にはソ連首相のフルシチョフが訪米し、
アイゼンハワー大統領と会談し、一時的には雪解けムードも漂ったが、翌年の1960年5月1日にアメリカのU2偵察機が
ソ連上空で撃墜される事件が起きて、それも吹き飛んだ。
それまでもアメリカは何度も領空侵犯をして
ソ連の偵察飛行を続けていた。
パイロットのパワーズは脱出して命は助かったが、自殺はせず、スパイ容疑を認めた(当時、米軍は自殺用の毒薬を配っていた。つまり軍人としては認めないということだ)。
アイゼンハワーは当初しらを切ったが、自白のニュースを聞いて「安全保障上当然のこと」と開き直った。
この事件により、パリで行われていたサミットは流れ、
フルシチョフはアメリカに謝罪を求めた。

余談だが、パワーズとアメリカで収監されていたスパイの
捕虜交換は、翌1962年にベルリンの橋の上で行われ、
これが映画『ブリッジ・オブ・スパイ』のクライマックスになっている。
また、ロックバンドU2のボーカルBONOは
U2撃墜事件の直後の1960年5月10日に生まれている。

1961年1月20日、アメリカの新大統領にケネディが就任。
就任時の年齢は43歳。
今に至るまでカトリックとしては唯一のアメリカ大統領だ。
当時、アメリカ社会は第三次世界大戦の恐怖と、
高まる公民権運動の波で揺れていた。
戦後生まれのティーネイジャーは新しい風を求め、
音楽もロックンロールやフォークソングに人気が
集まっていたころだ。
ケネディ内閣は副大統領にリンドン・ジョンソン、
国務長官にラスク、国防長官にフォード社長のマクナマラ、司法長官に弟のロバートを配し、
「ニューフロンティア政策」を掲げた。
ケネディは人種差別法の撤廃、
経済再建(戦後の好景気は終わりに近づいていた)、
アポロ計画(スプートニクショックからの立ち直り)など、国内でも多くの政策に取り掛かったが、就任早々、
外交問題で失敗をする。
それがキューバの「ビッグス湾事件」だ。

1959年にカストロらによってキューバ革命が成功する。
アメリカはすぐにカストロ政権を承認するが、訪米したカストロを避けてアイゼンハワーはゴルフに行ってしまった。
カストロは当初、民主主義的な政権を目指していたが、
アメリカのフルーツ会社の所有する土地を小作人に
分配するなどの農地改革や、米国企業の接収などが、
アメリカの反発を生む。
1961年にはアメリカはキューバと国交断絶をし、
キューバは社会主義宣言を出してソ連寄りの姿勢を務めた。
ビッグス湾事件は、前大統領アイゼンハワー時代にニクソンによって進められていた、キューバ人亡命グループによるキューバ侵攻作戦だ。
CIAが立案したが、作戦は粗雑で、情報も事前に漏れていた。

CIAはこのころ、世界各地で民主的だったり社会主義的だったりする政権を転覆させる秘密工作を行っていた。
1961年1月17日にはコンゴの初代首相ルムンバの暗殺を成功させ、ファシストのモブツのクーデターも成功させている。

さて、ケネディはこのCIA立案の侵攻計画を当初疑問視するが、ダレスCIA長官が
「キューバ亡命軍が上陸すれば、民衆は歓呼の声で迎えるだろう」と太鼓判を押したのでGOを出す。
ケネディはまだ経験が浅く、
参謀本部も押した計画を信じた。
ところが上陸したキューバ亡命軍を迎えたのは民衆ではなく、キューバ軍だった。
民衆の蜂起はなかったのだ。
軍は空爆を進言したが、
ケネディはこれ以上の拡大をやめた。
作戦は完全に失敗。
そのため亡命キューバ人グループは、
ケネディを恨むようになる。

この事件は世界中でアメリカの失墜を呼んだ。
また、ケネディも就任早々、
CIAや軍事顧問団への不信を持つようになる。
CIA長官のダレスは解任され、参謀総長らの首をすげ替えた。
しかし軍の圧力はケネディ政権時代には、常に続けられた。
軍は早く世界戦争をしたがっていたのだ。
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by mahaera | 2016-12-27 12:10 | 世界史 | Comments(0)

12月23日小田急相模原ドラゴンフライでのBARライブ終了

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12月23日の、小田急相模原ドラゴンフライでのBARライブ終了しました。
来ていただいた皆さん、ありがとうございました!
次回は未定ですが、また決まりましたら告知します。
グループ形式でのライブは、2012年から、しばらくやっておらず
、今年9月からぼちぼちと助走をつけて、復活に向かっています。
しかし音楽って、一度やめるとまた始めるのがしんどい(笑)

画像は昨日のものですが、僕が撮っているので、僕は写っていません。。。
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by mahaera | 2016-12-26 17:12 | ぼくの音楽・バンド活動 | Comments(0)

本日12月23日(祝)小田急相模原駅BAR ドラゴンフライでライブ予定

いよいよ今日、今年最後のライブです(といっても来年の予定ないけれど)。

場所が小田急相模原なんで、遠い人はすみません!
場所はドラゴンフライ。
昔を知っている人は、スクール・オブ・ロックといったほうがわかりやすいかな?
まあ、元気でやっているということで、忘年会でもしましょう。飲み食いしながらやります。

■日時:12月23日(祝)19:30〜21:00(Open 19:00)
■場所:BAR ドラゴンフライ
(小田急相模原駅南口から徒歩4分。線路脇)
■料金:チャージなし(投げ銭歓迎)ドリンク600円〜
■出演 2組
●The Mahaera Group
前原利行 Vo, Ba, Gui
松永宏紀 Manipulator, Key
西岡真哉 Vo, Gui
ゲスト 後藤真法 Violin

●YUSUKE Vo, Guitar
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by mahaera | 2016-12-23 11:09 | ぼくの音楽・バンド活動 | Comments(0)

最新映画レビュー 『聖杯たちの騎士』 人生を振り返り迷いが生じたとき、男は女にすがるのか

聖杯たちの騎士

2014年/アメリカ

監督:テレンス・マリック
出演:クリスチャン・ベイル、ケイト・ブランシェット、ナタリー・ポートマン
配給:東京テアトル
公開:12月23日よりヒューマントラストシネマ渋谷にて


テレンス・マリック監督
いいものもあるのだが、ダメなほうもけっこう多い
テレンス・マリック監督作品。
『天国の日々』なんて名作もあるのだが、
『ツリー・オブ・ライフ』以降は評価がわかれるところ。
実際、『ツリー・オブ・ライフ』(2011)、
『トゥー・ザ・ワンダー』(2012)、
そしてこの『聖杯たちの騎士』(2015)は、言っちゃえば
すべて同じ内容を、形を変えて映画にしたまで。


過去に起きた出来事にさかのぼって現在の自分を癒すという、
超プライベートフィルムだ。
自分をブラッド・ピットやベン・アフレック、クリスチャン・ベイルに演じさせて、うまくいかなかった少年時代の家族関係や恋人たちを映画の中で振り返り、救いを見出しているだけなのだ。
とはいえ『リアリティのダンス』のホドロフスキーほどの
アクの強さはない。
ただ、ただ、美しい映像とモノローグが流れる。
そして周りには常に美女がいる(笑)


この『聖杯たちの騎士』の主人公は、成功しつつある映画脚本家だが、過去に自殺した弟がおり(マリックの実話)、そのことで家族のみんなが心に傷を負って乗り越えられない。
そして、様々な女性が彼の前に姿を現し、消えていく。

映像はむちゃくちゃきれいだよ。
CGIじゃなくてもこんなに見たことがないぐらいきれいな映像を見せてくれる。
だって撮影は3年連続アカデミー撮影賞受賞のエマニアル・ルベツキだもの(『ゼロ・グラビティ』『バードマン』『レヴェナント』)。現在、世界最高の撮影監督だ。
もう雑誌のグラビアみたいな画面
でも、眠くなってしまうのだ。
きっと女にはモテるんだろうけれど、
「そのくらい自分で解決しろよ!」と、つい突っ込みたくなる(笑)。
ケイト・ブランシェットやフリーダ・ピントとか、
好きな女優が出ているのはうれしいが。
ただ、人は歳をとると、どんなに成功した人でも、
成功しなかった人はなおさらだが、
「自分は違った人の人生を歩んできたのではないか?」
と思ってしまう。常に選択が正しかった人なんていないもの。
ただ、隣の席の人にそれを延々聞かされてもなあ、といった印象になったよ。
★★
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by mahaera | 2016-12-22 00:41 | 映画のはなし | Comments(0)

最新映画レビュー 『ニーゼと光のアトリエ』 ブラジルに実在した精神科医とその治療を描く

ニーゼと光のアトリエ
Nise

2015年/ブラジル
監督:ホベルト・ベリネール
出演:グロリア・ピレス、シモーネ・マゼール
配給:ココロヲ・動かす・映画社○
公開:12月17日よりユーロスペース
公式HP:http://maru-movie.com/nise.html


●ストーリー

1943年のブラジルのリオデジャネイロ。
医師のニーゼはかつて働いていた病院に戻ってきた。
彼女がいなくなっていた数年の間に、同僚たちはロボトミー手術やショック療法などの暴力的な治療を行うようになっていた。
それを拒否したニーゼは、担当者がいない作業療法の部署に回される。最初はなすすべもなかったニーゼだが、やがて患者が絵の具を使って絵画を描くアトリエをオープン。
ユングに影響を受けたニーゼは、患者たちが描く絵が
“無意識の現れ”ではないかと考えるようになる。
最初は乱雑だった患者たちの絵も、しだいに変化していった。
しかしそんな対処療法は病院内で反発を生んでいくことになる。

●レヴュー

ニーゼは実在の人物で、この映画も実話を基にしている。
冒頭、窓がない建物にニーゼがやってきて、入り口のドアを何度もしつこいぐらい叩いて、ようやく中に入れてもらう。
当時の社会、そしてそれに負けないニーゼの性格を暗示したものになっている見事な導入部だ。

ニーゼは自分が病院を留守にしていた間、統合失調症などの患者に、電気ショックやロボトミー手術という当時では最先端の“科学的な”治療が行なわれていることを知り、また同僚の医師たちがそれを進んで取り入れていたことに愕然とする。
それはどう見ても、患者たちの人権を奪う、残酷なものだった。

この当時の精神病の治療は、患者のためにというより、
周りにいる人たちが楽になるためだったこともある。
まだ向精神薬の開発も進んでいなかったころだ。
興奮する患者を病院に押し込め、
さらに外科手術で無気力な状態にする。
それが許されるのは、患者たちを人間としてみていない、
あるいは劣った存在としてみているからだ。医師も世間も。

映画では語られていないが、
ニーゼが病院に戻ってくるのは1943年。
第二次世界大戦中で、当時のブラジルはヴァルガス大統領による
ファシズム独裁体制だった。
ヴァルガスはドイツやイタリアを真似た全体主義で、
反対派の追放や投獄を行った。
ニーゼもその対象になり、病院を追われていたようだ。
つまり社会全体が、少数派に対して非寛容になっていた。
精神病院はその縮図ともいえよう。
社会の迷惑になるものは、排除するか力を奪ってしまえばいいと。しかし「社会」ってなんだ?

そんな中、ニーゼはアートを通して、
患者たちの心の内を知ろうとする。
絵画を学んだことがなく、知能も劣るとみなされていた患者たちだが、
彼らが描いた絵は当初は乱雑だったものの、
やがて目的のあるものに変わっていく。つまり変化していくのだ。
「それは治療なのか?」と同僚は問う。
ニーゼは「わからない」と答える。
ただし治すことはできなくても、
アートは患者に寄り添うことができる。
“治す”なんておこがましい。
ただ、“生きやすく”することはできるかもしれない。

人が病気になるのは理由がある。
もしかしたら精神病になるのも意味があるのかもしれず、
治すべきと考えるのは患者のためでなく、面倒を回避したい
私たちのためにそう言っているだけではないのか。
少しはましになったが、21世紀になっても、自分のわからないもの、
自分と違うものを排除しようとする世の中は続いている。

相模原の施設で起きた事件は、
そんな“今の日本”を暴いて見せたように思える。最悪の結果で。
今でこそ、私たちはこの映画を見るべきなのかもしれない。

★★★☆前原利行)

●映画の背景
・今では想像もつかないことだろうが、脳の一部を切除するロボトミー手術は1960年代までは世界的によく行われていた。
僕が知ったのは映画『カッコーの巣の上で』だったが、もちろん日本でも積極的に行われていた。
たとえばこの外科的手術により、興奮したり攻撃的な感情を抑えたりすることができるということだが、副作用も多かった。
しかし1940年代にはこれは画期的な療法とされ、初めて前頭葉切除の手術を行ったポルトガルの医師モニスに、1949年にノーベル生理学・医学賞が与えられたほどだった。しかしこれはのちに「人体実験」に近かったことや、モニスも手術を行った患者に銃撃される事件も起き、廃れていくことになる。
・日本では第二次世界大戦中、戦後と、1975年に廃止されるまでロボトミー手術はよく行われていた。日本でも同意のないまま手術を受けた患者が、医師の家族を殺した事件も起きている(ロボトミー殺人事件)。
・アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディの妹ローズマリーも、ロボトミー手術を父により受けさせられていた。
・「ロボトミー」というと、「人間をロボットのようにしてしまう」こからつけられた名前かと僕も思っていたが、これはまちがいで、「葉(臓器の一部の単位のlobe)」の塊を切除するということから付いた名。

●関連情報
・第28回東京国際映画祭グランプリ&最優秀女優賞受賞作品。

旅行人のHP内「旅行人シネマ倶楽部」に寄稿したものを転載しました
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by mahaera | 2016-12-21 11:16 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史〜ラテンアメリカ諸国の動勢(〜1960年)

子供に教えている世界史〜ラテンアメリカ諸国の動勢(〜1960年)

さて、目を久しぶりにラテンアメリカに向けよう。

ブラジルでは、戦前にファシズムの影響を受けたヴァルガスが
1937年に独裁体制を築く。
彼は第二次世界大戦時には連合国側につき、工業化を推し進める。
1945年にクーデターで失脚するが、国民の人気は高く、
1950年に行われたブラジル初の民主的選挙で大統領に選出。
福祉政策など大衆の支持を基盤にし、右派から左派に転じた彼の政策は「ポピュリズム」を代表するものだった。
ヴァルガスはソフトな独裁者だったが、政権末期には
支持を得るために共産党に近づいたことがアメリカの怒りを買い、独裁政治を糾弾される。
そしてヴァルガスは退陣要求が強まる中、
1954年にピストル自殺を遂げている。
以降の大統領は開発に失敗し、1964年にアメリカが支持する
軍人のブランコ将軍がクーデターを起こし、
親米反共の軍事独裁政権を発足させる。

お隣のアルゼンチンは、戦前に親独のペロンが実権を握り、
中立国でありながら枢軸国寄りの姿勢をとり、
アメリカの非難を浴びた(のちに形ばかりの連合国での参戦)。
アルゼンチンを始め、南米には多くのドイツ系移民がおり、
戦後は多くのナチの戦犯をかくまったことでも知られている。
戦後まもなくの1945年10月、アメリカの後押しで軍事クーデターが起こり、ペロンは拘束される。
しかしペロンを支持する民衆は多く、また、妻のエバ・ペロン(エビータ)がラジオで国民にペロンの釈放を訴えたことから、
クーデターは失敗し、ペロンは解放された。
マドンナがエビータを演じたミュージカル映画『エビータ』は
ここがクライマックスになっている。

ペロンは翌1946年に大統領に当選。
当時のアルゼンチンは、牛肉の輸出も好調で
南米有数の富裕国だった。
ペロンの支持基盤もヴァルガス同様に民衆で、
労働組合の保護や賃上げを認めたり、アメリカやイギリス系の企業を国有化したりなど、資本家の反発を買うものも多かった。
一方、反対者を強制収容所に送るなど独裁的でもあり、
「ポピュリズムに支えられたファシズム」ともいえる。
しかし経済の好調に支えられたペロンも、
1949年にはアメリカやカナダといった食料輸出国のライバルの
増産や、1952年に国民に人気のあった妻エバの病死、
離婚法を認めたことからカトリックの支持を失うなどし、
1955年に軍事クーデターを起こされ、スペインに亡命する。

キューバでは1952年に軍事クーデターで政権を奪取した
バティスタが、独裁政治を行っていた。
バティスタ政権を支援していたのはアメリカで、
アメリカ企業やマフィア(バティスタはアメリカ亡命時代にカジノを経営して裏社会につながりがあった)が、
キューバの経済を牛耳るようになる。
これに対抗して革命運動を行ったのがカストロだ。

アメリカから貸与された最新の武器を持っていた
バティスタ政府軍だが、国民の支持を得られず、
カストロ兄弟やチェ・ゲバラらによる革命軍により打倒され、
1959年バティスタは亡命し、キューバ革命が成功する。

当初カストロは、アメリカとの協力を模索しており、
革命成功の4か月後にはワシントンD.C.を訪問し、
革命政権の承認を求めた。しかしアイゼンハワー大統領は
「ゴルフに行く」という理由で会いもせず、冷遇。
この当時、カストロは共産主義に影響は受けているものの、
自分を共産主義者とはまだ表明していなかった。
ソ連の援助は受けてはいたものの、できれば米ソの対立をうまく利用して、独立国家として認められたかったのだろう。
しかし、アメリカはそれを許さなかった。

カストロは帰国後、キューバの農地の7割を占めているといわれた
ユナイテッドフルーツ社関連の土地を接収して、
アメリカ企業の資産の凍結や国有化を推し進めた。
1960年にはソ連と粗糖と石油をバーターで取引し、
さらに武器の提供を受けることも約束。
アメリカとの対立が鮮明になる。
CIAはカストロの暗殺計画を立て始める。
10月には対キューバ輸出が禁止された。

こうした中、2期続いたアイゼンハワーは退任する。
次期大統領は、ニクソンとの選挙戦に勝った
ジョン・F・ケネディに決まった。
アイゼンハワーの退任演説は、軍産複合体がアメリカの歴史上、
かつてないほど力を持ち、自由や民主主義を脅かすことに警鐘を鳴らすという異例のものだった。
冷戦を推し進め、アメリカの国家予算の半分を軍事費に費やした
アイゼンハワーだったが、退任時になってようやく自分がしてきたことに冷静に向き合えるようになったのかもしれない。

ケネディが大統領になったとき、アメリカの軍事力は、
大統領でさえコントロールの効かないものになっていた。
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by mahaera | 2016-12-19 18:36 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー『グレート・ミュージアム ハプスブルグ家からの招待状』淡々としたドキュメンタリー

グレート・ミュージアム ハプスブルグ家からの招待状

2014年/オーストリア

監督:ヨハネス・ホルツハウゼン
出演:ウィーン美術史美術館の人々
配給:スターサンズ/ドマ
公開:11月26日
劇場情報:ヒューマントラストシネマ有楽町



仕事柄、そして趣味というか“好き”なのであちこちの国に行くが、オーストリアにはまだ行ったことがない。
いや、興味がないわけではないのだが、なかなかチャンスがない。

本作は、そのオーストリアの首都ウィーンにある、ウィーン美術史博物館の改装工事に密着したドキュメンタリーだ。
映し出されるのは、改装の様子だけではなく、
絵画の修復といった裏方、競売に参加して作品を仕入れる者、
企画会議をしている様子など、美術館で働くさまざまな人たち。
ドキュメンタリーといってもいろいろあり、
よくテレビで放送している「美術館紀行」的なものを想像すると、期待したものがまるで出てこないので、
ガッカリされるかもしれない。
名画を映し出し、その歴史やウンチクが語られる
ガイドブック的なものはここにはない。
本作は、映像に解説やナレーション、劇伴音楽、インタビューが
一切ない「ダイレクトシネマ」という手法で作られている。
もちろん編集があるので演出はあるが、
少なくともその場で撮った映像には手を加えていないのだ。

主役は飾られている絵画ではなく、そこで働く人々だ。
修復セクションはなんとなく予想はつくのだが、
収蔵品を増やそうとスタッフがオークションに行き、
あまりの高さに断念する下りとか、
新装オープンの際にチケットのデザインをどうするか、
ロゴをどうするかとなどと討議している姿は新鮮で面白い。

日本だと、ついスタッフの下に
「修復スタッフ 〇〇 (修復歴25年のベテラン)」とか
入れてしまいたくなるが、本作ではそんなことはないので、
ただ、ただ、匿名で働く人々を見ている感じだ。

というわけで、本作が面白いかどうかについては、
面白いと思う人はかなり選ばれるだろう。
作り方が間違っているというのではなく、
万人が興味を持てるかなという点で(寝ちゃう人もいるはず)。
私は正直、まあまあだった。
★★☆
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by mahaera | 2016-12-16 11:46 | 映画のはなし | Comments(0)