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(写真)前13世紀にヒッタイトとエジプトの間で行われたカデシュの戦いの後に結ばれた平和同盟条約を記した碑文。現トルコのボアズキョイで発掘されたものだが、この時代でも楔形文字が使われているのがわかる。(イスタンブール考古学博物館収蔵)
シュメールでは余剰生産物はまず“神殿”に集められ、
そこで記録されて再分配された。
こうした管理システムの試行錯誤のうち、
文字が生まれたとされている。
たとえば、ふだんは文章をほとんど書かない人でも、
数字のメモ書きぐらいはするはずだ。
数を記憶しておくことは、現代人でも苦労する。
シュメールでは、まずそれが“トークン”という形で
管理された。
たとえば発掘されたシュメール文明初期の粘土ボールの中には、48個の小石が入っていた。
これは48頭の羊を納品したという記録で、そのボールの表面には羊を表す絵文字が刻まれ、印章も押されていた。
そのうちトークン自体の形が羊なり麦なりを表すようになったが、やがて数字を書いた粘土版に代用されるようになった。
つまり初期の文字は、奴隷や家畜、物品、あるいは土地の面積などを管理するために、行政文書として生まれてきたのだ。
こうしてシュメールの都市ウルクで文字化が始まると、それはすぐに諸都市にも伝わり、トークンの使用と入れ替わっていく。
初期の文字文書は、たとえばヒツジの絵を描いて
横に数字を入れる程度のものだった。
数字以外は絵文字で、それが次第に簡略化され、エジプトのヒエログリフや中国の漢字のような表意文字に変わっていく。
ただしメソポタミアでは、文字が描かれるのは紙でなく
粘土板なので、細かいものは書けない。
こうしてペンで粘土に刻んで形を書く、
「楔形文字」が生まれた。
資源がないシュメールの地だが、粘土は豊富にあった。
楔形文字が描かれた粘土板は、保存するものは焼かれて、
手紙のように運ばれたという。
シュメール人はとにかく行政文書の管理や保管には熱心で、
遺跡から発掘された粘土板の8割はそれらだという。
紀元前2500年ごろには楔形文字が整理され、
約1000文字程度になった。
すごく多いと思われるだろうが、日本の常用漢字が現在では2136字だと思えば、覚えられないことはないだろう。
前2000年頃にはさらに整理されて200〜400字になり、
シュメール以外のオリエント諸地域でも、
楔形文字が使用されるようになる。
ただし、シュメール語は周辺のセム語系とは異なる
日本語と同様の膠着語なので、それをそのまま用いるのは
無理があった。
たとえば中国語と日本語では言語形態が異なるのに、
文字だけ輸入して日本語を書きあらわそうとすると、
かなを使わない限り無理がある。
同様に、のちにアッカド人やヒッタイト人、ペルシャ人が楔形文字を使う際、自分たちの言葉とシュメール語の借用が入り混じっていた。
日本語を文章で書く時に、
漢字や音読みが混じるようなものだろうか。(続く)
南メソポタミアの気候と風土
シュメール文明が始まった前3500年ごろの気候は現在と異なり、世界の海岸線は今よりも少し内陸にあった。
サハラ沙漠もまだ緑で覆われていた。
ただし南メソポミアが暑くて乾燥していたことはまちがいなく、当時も今も年間降水量は100ミリあまり。
降雨に頼って農業が営めるような場所ではなかった。
海岸線は現在よりも100km近く内陸だったとも言われている。
それでも前6000年ごろには人々はこの土地に住みだした。
沼地での漁労や狩猟、そして細々とした農業。
これといった資源がないこの土地で、使えるものは泥だけだった。前6000年を過ぎると、彼らは北メソポタミア同様に日干しレンガの家を造り出す。
集落が生まれ、やがて灌漑農業が始まる。
前5000年ごろのことだ。
毎年、氾濫を起こすチグリス・ユーフラテス川
チグリス・ユーフラテスの両河川は、毎年決まった時期に増水し、氾濫していた。
上流から運ばれてきた養分を含んだ水は農耕には欠かせないものだった。
しかしゆったりと流れるエジプトのナイル川とは異なり、両河川は時に大洪水を引き起こし、集落を押し流すほどの力を持っていた。
そのためには“治水”が不可欠だった。
また、極度に乾燥している地域のため、放っておくとすぐに塩害が広がって収穫率が激減する。
つまり他の地域に比べて、必ずしも南メソポタミアは農業の条件に適しているわけではなかった。
むしろ農業を行うためには、毎年治水作業をしないとならないというハンディがあったのだ。
しかし、人間は困難があるからこそ工夫する。
大勢の人々が協力して川の水をせき止めたり、引いたりするうちに技術が発達し、大きな集落も生まれ、そして農業生産力が上がっていったのだ。
前5000年ごろには「ウバイド期」と言われる先行する文化がこの地域に現れ、ウル、ウルク、ラガシュといった古代都市が生まれ始めていた。
余剰生産が文明を生んだ
前3500年ごろになると、シュメールの地における灌漑農業は、世界でも群を抜くほど発達し、多くの余剰生産を生んでいた。
増水した川から水を農地に引き、堤防の水門を閉める。
数ヶ月して川の水位が下がり、また水門を開けると水は川に流れていく。
泥混じりの畑を牛にひかせた鋤を使って耕し、その後に種を一定間隔で撒いていく。3人一組になって行うこの作業は、同じ時期に一斉に行われるため、統制のとれた組織が必要だった。
シュメール農耕の収穫率は当時としては驚異的な水準で、前5世紀でもギリシアの歴史家ヘロトドスが「バビロン地方の穀類の収穫率は200倍」と驚いている。
これはかなり盛った数字だが、近年の研究でも一粒の種子に対し50〜100倍はあったと推測されている。
中世の北フランス、あるいはヘロトドスの生きていた古代ギリシアでは4〜5倍だったとされているので、これがいかに高い数字だったかわかるだろう。
それにより余剰生産物が生まれ、農業活動に従事しなくても暮らしていける人達が住む“都市”も発達していった。
子供には、「食の安定が文明発展には不可欠」と教える。人間、食えなきゃ他のことをする余裕もない。余裕がなければ、なかなか文明も発展しないのだ。(続く)
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