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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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10月21日、Mamatos "Chase the Cloud" 発売記念ライブ at 渋谷nob



10月21日、Mamatos \"Chase the Cloud\" 発売記念ライブ at 渋谷nob_b0177242_20310581.jpg
明日、Mamatos、久しぶりにライブやります。2ndアルバム発売記念、といっても2ヶ月たってしまいましたが(笑)

■日時:10月21日(日曜)17:00開場、17:30開演
17:30 オレラーズ ナカジーマン(ds, vo)、向井くん(Gu, Vo)
18:15 アメフラヘヴィ おのゆみ(key,vo)、丹代利隆(ba,etc)
19:00 Mamatos カオリン(vo), 斉藤厚(Vo,Gu),JACK大西(Vo,Dr)、前原利行(Vo,Ba), ゲストKey おのゆみ
(終演20:00予定)
■会場:渋谷nob
      TEL 03-3464-9593 [URL]shibuya-nob.com/
      〒150-0044 東京都渋谷区円山町1−3 BF1
 渋谷東急本店向かって左の道に入り、
 松濤郵便局前の信号を左。ユーロスペース手前

■料金:チャージ1500円+1ドリンク(600円)または3ドリンク(1000円) フードもあります

ライブ終了後、出演者たちとお客様がたで、そのまま打ち上げします(20:00-22:00予定)。こちらフリードリンク(フード付き)で2000円です。こちらもいらしてください。

また、CD販売も現地でしますので、お声かけください!

# by mahaera | 2018-10-20 20:31 | 音楽CD、ライブ、映画紹介 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2000年)1・シュメール文明 (その3) 文字の発明

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2000年)1・シュメール文明 (その3) 文字の発明_b0177242_11161125.jpg

(写真)前13世紀にヒッタイトとエジプトの間で行われたカデシュの戦いの後に結ばれた平和同盟条約を記した碑文。現トルコのボアズキョイで発掘されたものだが、この時代でも楔形文字が使われているのがわかる。(イスタンブール考古学博物館収蔵)


シュメールでは余剰生産物はまず“神殿”に集められ
そこで記録されて再分配された。
こうした管理システムの試行錯誤のうち、
文字が生まれたとされている。
たとえば、ふだんは文章をほとんど書かない人でも、
数字のメモ書きぐらいはするはずだ。
数を記憶しておくことは、現代人でも苦労する。
シュメールでは、まずそれが“トークン”という形で
管理された。

たとえば発掘されたシュメール文明初期の粘土ボールの中には、48個の小石が入っていた。
これは48頭の羊を納品したという記録で、そのボールの表面には羊を表す絵文字が刻まれ、印章も押されていた。
そのうちトークン自体の形が羊なり麦なりを表すようになったが、やがて数字を書いた粘土版に代用されるようになった。
つまり初期の文字は、奴隷や家畜、物品、あるいは土地の面積などを管理するために、行政文書として生まれてきたのだ。
こうしてシュメールの都市ウルクで文字化が始まると、それはすぐに諸都市にも伝わり、トークンの使用と入れ替わっていく。

初期の文字文書は、たとえばヒツジの絵を描いて
横に数字を入れる程度のものだった。
数字以外は絵文字で、それが次第に簡略化され、エジプトのヒエログリフや中国の漢字のような表意文字に変わっていく。
ただしメソポタミアでは、文字が描かれるのは紙でなく
粘土板なので、細かいものは書けない。
こうしてペンで粘土に刻んで形を書く、
「楔形文字」が生まれた。

資源がないシュメールの地だが、粘土は豊富にあった。
楔形文字が描かれた粘土板は、保存するものは焼かれて、
手紙のように運ばれたという。
シュメール人はとにかく行政文書の管理や保管には熱心で、
遺跡から発掘された粘土板の8割はそれらだという。
紀元前2500年ごろには楔形文字が整理され、
約1000文字程度になった。
すごく多いと思われるだろうが、日本の常用漢字が現在では2136字だと思えば、覚えられないことはないだろう。
前2000年頃にはさらに整理されて200〜400字になり、
シュメール以外のオリエント諸地域でも、
楔形文字が使用されるようになる。

ただし、シュメール語は周辺のセム語系とは異なる
日本語と同様の膠着語なので、それをそのまま用いるのは
無理があった。
たとえば中国語と日本語では言語形態が異なるのに、
文字だけ輸入して日本語を書きあらわそうとすると、
かなを使わない限り無理がある。
同様に、のちにアッカド人やヒッタイト人、ペルシャ人が楔形文字を使う際、自分たちの言葉とシュメール語の借用が入り混じっていた。
日本語を文章で書く時に、
漢字や音読みが混じるようなものだろうか。(続く)



# by mahaera | 2018-10-20 11:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2500年)1・シュメール文明(その2)シュメール文明は高い農業生産に支えられていた

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2500年)1・シュメール文明(その2)シュメール文明は高い農業生産に支えられていた_b0177242_10422744.jpg
(地図)シュメールの土地の範囲。一番北にあるキシュは、アッカド人の都市国家だが、シュメール文明圏だ。


南メソポタミアの気候と風土

シュメール文明が始まった前3500年ごろの気候は現在と異なり、世界の海岸線は今よりも少し内陸にあった。
サハラ沙漠もまだ緑で覆われていた。
ただし南メソポミアが暑くて乾燥していたことはまちがいなく、当時も今も年間降水量は100ミリあまり。
降雨に頼って農業が営めるような場所ではなかった。
海岸線は現在よりも100km近く内陸だったとも言われている。
それでも前6000年ごろには人々はこの土地に住みだした。
沼地での漁労や狩猟、そして細々とした農業。
これといった資源がないこの土地で、使えるものは泥だけだった。前6000年を過ぎると、彼らは北メソポタミア同様に日干しレンガの家を造り出す。
集落が生まれ、やがて灌漑農業が始まる。
前5000年ごろのことだ。

毎年、氾濫を起こすチグリス・ユーフラテス川

チグリス・ユーフラテスの両河川は、毎年決まった時期に増水し、氾濫していた。
上流から運ばれてきた養分を含んだ水は農耕には欠かせないものだった。
しかしゆったりと流れるエジプトのナイル川とは異なり、両河川は時に大洪水を引き起こし、集落を押し流すほどの力を持っていた。
そのためには“治水”が不可欠だった。
また、極度に乾燥している地域のため、放っておくとすぐに塩害が広がって収穫率が激減する。
つまり他の地域に比べて、必ずしも南メソポタミアは農業の条件に適しているわけではなかった。
むしろ農業を行うためには、毎年治水作業をしないとならないというハンディがあったのだ。
しかし、人間は困難があるからこそ工夫する。
大勢の人々が協力して川の水をせき止めたり、引いたりするうちに技術が発達し、大きな集落も生まれ、そして農業生産力が上がっていったのだ。
前5000年ごろには「ウバイド期」と言われる先行する文化がこの地域に現れ、ウル、ウルク、ラガシュといった古代都市が生まれ始めていた。

余剰生産が文明を生んだ

前3500年ごろになると、シュメールの地における灌漑農業は、世界でも群を抜くほど発達し、多くの余剰生産を生んでいた。
増水した川から水を農地に引き、堤防の水門を閉める。
数ヶ月して川の水位が下がり、また水門を開けると水は川に流れていく。
泥混じりの畑を牛にひかせた鋤を使って耕し、その後に種を一定間隔で撒いていく。3人一組になって行うこの作業は、同じ時期に一斉に行われるため、統制のとれた組織が必要だった。
シュメール農耕の収穫率は当時としては驚異的な水準で、前5世紀でもギリシアの歴史家ヘロトドスが「バビロン地方の穀類の収穫率は200倍」と驚いている。
これはかなり盛った数字だが、近年の研究でも一粒の種子に対し50〜100倍はあったと推測されている。
中世の北フランス、あるいはヘロトドスの生きていた古代ギリシアでは4〜5倍だったとされているので、これがいかに高い数字だったかわかるだろう。
それにより余剰生産物が生まれ、農業活動に従事しなくても暮らしていける人達が住む“都市”も発達していった。
子供には、「食の安定が文明発展には不可欠」と教える。人間、食えなきゃ他のことをする余裕もない。余裕がなければ、なかなか文明も発展しないのだ。(続く)


# by mahaera | 2018-10-19 10:43 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

最新映画レビュー『クレイジー・リッチ』 恋人の実家は大金持ち!

このレビューは、別サイト「前原利行の映画レビュー」に引っ越しました。
以下リンク先です。内容は少しリライトしてあります。2021.12.11



# by mahaera | 2018-10-18 12:29 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] 古代オリエント文明(前3500〜前2500年)1・シュメール文明(その1)

子供に教える世界史[古代編] 古代オリエント文明(前3500〜前2500年)1・シュメール文明(その1)_b0177242_12515828.jpg
(写真/アッシリアの有翼人面牡牛像・ルーブル美術館収蔵)

仕事が一段落したので、また世界史の続きを。
誰が読むんだろと思うが、まずは自分が読みたい(笑)。
自分の子供はゲームのチャットに夢中で、
世界史にほとんど興味を示さなくなっているが。
まあ、教えたときのことを思い出しながら続けていこう。

長い先史時代が終わり、
ようやく今回から世界史でいう“古代”に入る。
「先史時代」は歴史がまだない時代。
つまり人類が文字をまだ発明する以前のこと。
歴史学者が文献や石碑などをもとに研究するのに対し、
先史時代の場合はどちらかといえば文化人類学に近いのだろう。

世界史の教科書の始まりは、
序章である先史時代に続いて「古代世界」から始まる。
「四大文明」説は古いものになりつつあるが、
教科書上では便利なのでまだ生き残っている。
ただし、世界史は地域別に進んでいくので、
最初に「古代オリエント」という章を設け、
メソポタミアとエジプトの文明を。
それからイラン文明、古代ギリシア、古代ローマと紀元前3500年から紀元後400年までぐらいまでを一気に学習
それから古代中国や古代インドの文明に戻るので、
「そのころ、世界の別な場所ではどうだったか」という同時代的な感覚はつかみにくい。
なので、子供に教えていた時は、
もっと小刻みにイメージをさせていた。
試験にも「これと同じ時代のものを選べ」というのがよく出題されるのだ。あと地図問題。
まずは紀元前3500年から前2500年くらいまでの1000年で区切り(それも大雑把だが)、そのころの世界を見てみよう。

ティグリス川とユーフラテス川に囲まれたメソポタミア

どの教科書だろうが、古代文明の最初はメソポタミアから始まる。
「メソポタミア」とはギリシア語で「川の間」という意味。
ティグリス川ユーフラテス川という2つの川が流れる間やその周辺の土地で、現在の国でいえばほぼイラクとシリア東部と重なる。
東を流れるティグリス川は長さ1750km、その上流はトルコ東部で、ディヤルバクルのあたりを流れている。
一方、ユーフラテス川は長さ2800km。
やはり源流はトルコ東部で、ペルシャ湾に出る195km手前でティグリス川と合流し、シャットラアラブ川となる。

先史時代のところで述べたが、人類最古の集落や農耕が発展した場所の一つが、この両河川の上流地域、
いわゆる「肥沃な三日月地帯」だった。
前9000〜前6000年には、ムギが栽培され、ヤギやヒツジが飼われていた。
上流の降雨量は年間250ミリ前後(東京は1500ミリ)と乾燥はしているが、ムギなどの栽培には適していた。
農耕は降雨に頼る天水農業だった。

ティグリス川とユーフラテス川は、
その真ん中あたりの中流域でくびれのように接近しているが、
その付近に発展した都市がバグダードであり、
古代ではバビロンもこの地域にあった。
古代史ではこのあたりから北を「アッシリア」
南を「バビロニア」といい、
バビロニアはさらにその北部を「アッカド」
南部を「シュメール」という。
初期の文明が生まれたのはその下流域であるシュメールの地においてだった。
(続く)

# by mahaera | 2018-10-15 12:59 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)