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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・グラッドストンVSディズレーリ その3 1868〜1878

もはや自分のための備忘録という感じだが、
人物を中心にまとめてみると、19世紀の世界史がスッキリする。
単に年号が続くと、事件の前後関係がわかりにくいのだが、
「この人が何歳の時」と思えば、時間の流れがつかみやすい。

1868年末、イギリスで新選挙法により初の選挙。
選挙権保有者をなし崩し的に2倍に増やしてしまったディズレーリだが、人々は彼の功績ではなくそれはグラッドストンのものだと思っていたから、選挙でディズレーリ敗北。
今度は第1次グラッドストン内閣が成立する。
内政変革に意欲を燃やす彼は、まずアイルランド国教会を廃止
アイルランドはもともとカトリック多数派だったが、
イギリスが征服した際に無理やり(イギリス)国教会を押し付けていたのだ。
これによりアイルランド人は自由に教会を選べ(信教の自由)、教会税も廃止
次にアイルランドの土地改革を行う。
アイルランドの土地の所有者はイングランド人の不在地主が多く、地主が小作人を強制退去させることができないようにする法律だ。
そして次は小学校の義務教育の制定
アメリカ、プロイセンよりも遅れて1870年(日本は1872年)にこれも成立。
ゆくゆくは普通選挙だろうが、その前に国民の教育水準を上げないとというわけだ。

そして同年には外務省を除く、全省庁の採用試験制度を導入。
これで建前的には誰でも採用の道が開かれることになった。
また貴族による軍隊の階級買取制度(お金を出せば、そこそこの階級になることができた)も廃止。
翌1871年には選挙の秘密投票制度の実施も決めた。
それまでは人前でいちいち誰に入れると言わなきゃならなかった。
今では当たり前のシステムだが、当時は進歩的な制度だったのだ。

一方、野党に降ったディズレーリは何をしていたかというと、
時間に余裕ができ、小説を出版。これが大ベストセラーになる。
日本で言えば、安倍首相が小説を出したようなもんで、そりゃあ、みな読みたいだろう(でもない?)。
まあ、グラッドストンが矢継ぎ早に改革をしている間、様子を見ていたのだろう。
みんなが反対できない政策に反対してもしょうがない。

しかし、グラッドストンの弱点は外交がイマイチだったということ。
1870年のプロイセンとフランスの戦争(普仏戦争)には中立を保った結果、ドイツ帝国の成立を許して欧州の発言権をビスマルクに奪われてしまう。
ロシアにも以前に結んだ条約を一方的に破棄され、地中海を脅かされ、アメリカに対しても譲歩。
平和主義とも言えなくはないが、外交的には弱い立場は国民には支持されないのは今も同じだ。

ディズレーリはグラッドストンを「弱腰外交」とdisり、国民の愛国心を煽る。
グラッドストンは、次に所得税を廃止案を出したが、否決され、
ついに解散総選挙に追い込まれる。
所得税廃止ってすごい魅力があるのに彼は選挙で負け、代わりに保守党が勝ち、1874年に第2次ディズレーリ内閣が成立。
負けたグラッドストンは、自由党の党首を引退する。

勝ったディズレーリには、今回は両院とも多数派が保守党を占めたということで、安定政権が見込まれた。
今回は人材も不足していなかった。
内政では、労働者の境遇をよくするため、60時間労働から57時間に短縮、
最低雇用年齢も10歳に引き上げた(それでも、まだまだ酷いよねえ)。
そして公衆衛生法で住環境を整え、労働組合の待遇も改善
保守党なのに、自由党よりも労働者に注意を払ったのだ。

この第2次ディズレーリ内閣時代、ドイツ帝国は欧州の強国になり、フランスが落ち目になった。
ドイツはロシア、オーストリアと三帝同盟を作ったが、
イギリスはそれ切り崩す機会をうかがっていた。
当時、イギリスの第一の敵はロシアだった。
イラン、インド、極東と、ロシアの南下政策は世界中でイギリスの利権とぶつかっていたのだ。

1877年、露土戦争が起きる。
ロシアのバルカン進出を食い止めるため、イギリス政府は親トルコ的な政策を取っていたが、その前までは世論はバルカンでキリスト教徒を虐殺しているトルコに批判的だった。
なので露土戦争が起きた時も、そう簡単にはトルコ側で参戦できない事情がイギリスにあった。
下野したグラッドストンも反トルコの立場だった。
なのでイギリスとしては独力でトルコがロシアに勝って欲しかったが、トルコ軍は敗走し、イギリスに相談なしにロシアと不利な講和条約を結んでしまった。

このロシアとトルコの条約だと、ロシア艦隊はエーゲ海に進出できるようになる。
そうなるとエジプトが危うい。イギリスはとうてい認めるわけにはいかなかったので、世論はロシアとの開戦を煽った。
そこに出てきたのがドイツの鉄血宰相ビスマルクだ。
彼は1878年、ベルリン会議を開き、列強の思惑をうまくあしらってドイツ主導にことを進めようとする。
 ビスマルクはご存知のように、プロイセンの富国強兵を成し遂げ、わずかな期間で欧州最強国にして、さらにはドイツ帝国を成立させた大人物である。
この鉄血宰相とやりあえるのは自分しかいないと、ディズレーリはベルリン会議に乗り込んだ。
そして一歩も引かない強行姿勢をとり、ロシアのエーゲ海進出を阻んだ。
こうしてイギリスの主張はほとんど通ることになったが、それはまたロシアがイギリスに譲歩したビスマルクに不満を持つことになり、イギリスが崩そうと思っていた三帝同盟の切り崩しに早くも成功したことも意味していた。
こうしてディズレーリは外交的に勝利により、名声を勝ち得た。
このころ、「ロシアの手先」と罵られ、家に石を投げられたグラッドストンと対照的だ。

 一方、この時代、イギリスは世界各地で問題を抱え込むことになるのだが、それはまた次に。
by mahaera | 2016-07-11 13:03 | 世界史 | Comments(0)
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