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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・ 日中戦争の泥沼化とチェコスロバキアの解体(1938-1939)

子供に教えている世界史・
日中戦争の泥沼化とチェコスロバキアの解体(1938-1939)

1937年12月、日本軍は南京を占拠したが、すでに国民党は四川省の重慶に首都を移し、徹底抗戦の構えを見せる。停戦を申し込んでくるという日本政府の目論見は、またも外れてしまった。
日本は第一の仮想敵国はソ連なので、そんなズブズブと中国大陸全般で戦争をしている予定ではなかった。
そして南京で起きた大虐殺は世界中で報道される。
逃げ遅れた国民党兵士だけでなく、一般市民の虐殺。
その数は数千人から三十万人と幅があるが、少なくとも万を超える一般人が殺されたのは間違いないだろう。
数より、あった事実が大事なのだ。
このころにはすでに日本軍の統率力にも問題があったのだろうか。

さて、戦争には大量の燃料が必要だ。
船を動かし、飛行機を飛ばすのには石油は必須。
驚くだろうが、日中戦争を始めた時点で、日本は石油の8割をアメリカから輸入していた。
のちに真珠湾を攻撃する日本海軍だが、アメリカの石油がなければ日本は真珠湾の攻撃もできなかったとも言える。

1935年の資料では、日本の貿易相手国でアメリカは輸入で1位、輸出で2位。
そして中国は輸出1位、輸入2位。
あとから考えれば、最も大事にしなければならない他国上位2か国と戦争するなんて、気でも違っているしか思えないが、多分気でも違っていなければ、よほどの馬鹿だったのだろう。軍人はやはり経済も政治もわからないのだ。
現に海軍とかは、このころ「水から石油を作る」という詐欺師に引っかかりそうになっている(笑) 
ちなみに満州で石油を探したが、見つかったのは中華人民共和国時代になってからだ。

日本が中国に宣戦布告せず、「事変」で押し通したのは、アメリカの「中立条約」があったからだった。
国際連盟にも加入せず、孤立政策を取っていたアメリカには、
「他国どうしで戦争があった場合、中立を守るためにアメリカは両国に武器や軍需物資を輸出しない」という法律があった。
つまり「戦争」となれば、日本はアメリカからの軍需物資やその原料、燃料の供給がストップされてしまう。
石油輸入の8割が止まれば、日本はおしまいだ。
しかし、「いや、これは戦争じゃなくて事変なんですよ」という言い訳が、国際社会で効くわけがない。
それに日中戦争の拡大は、中国におけるアメリカの貿易や商業活動を阻害することにもなり、アメリカの日本に対する態度はどんどん冷え切っていく。
もはや日本と商売しなくてもいいとね。

1938年 ヨーロッパではヒトラーが再び動き出した。
3月 ナチスドイツはオーストリアを併合する。
オーストリアでは親ムッソリーニのファシズム政権があったが、ヒトラーはそこにナチス党員を入れろと強要。
拒否されたので進軍すると、オーストリア国民は熱狂的な支持でこれを受け入れた。のちの国民投票では97%の支持。
19世紀以来念願の「大ドイツ主義」がここで成就したと思った国民も多かったという。
当時はオーストリア国民としてより、ドイツ人としての意識が高かったからだ。
しかしその期待は第二次世界大戦が始まると、オーストリア人は「二級市民」として扱われるようになり裏切られる。
ともあれ、オーストリアは戦後は国民に「ナチスドイツの被害者」教育を施したが、実は熱狂の中で積極的に加害者に加わっていた。

オーストリア併合を果たしたヒトラーは、次に目標をチェコに向ける。
3月、ヒトラーはドイツ系住民が多いズデーデン地方の併合を「民族自決」を盾にとってチェコに要求する。
そしてチェコスロバキアの独立によって、「北部ハンガリー」であるスロバキアを奪われたとするハンガリーも領土を主張。
もちろん以前からヒトラーの野望を感じていたチェコは、フランス、ついでソ連と相互援助条約を結んでいて拒否。
戦争の脅威が欧州を襲う。

一方、日本は3月、南京に傀儡政権を打ち立て、4月には国家総動員法を公布。
戦時体制に入る。
5月廈門攻略、6月に中国軍は日本軍の進撃を食い止めるために黄河を決壊させるが、その影響で餓死者も含め数十万人の民間人が亡くなる。
10月には武漢と広東を攻略。戦域は中国の南方にまで及んだ。

イギリスのチェンバレン首相はチェコを犠牲にして戦争を避けようしたが、チェコの反対に遭い、交渉は決裂。
しかしムッソリーニの仲介で9月にイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳でミュンヘン会談が行われ、ズデーデン地方の割譲が決定した。
会議には、チェコの代表も、ソ連も呼ばれなかった。
ヒトラーは「もうこれ以上、ドイツは領土を要求しない」と言い、イギリスのチェンバレン首相はそれを信じた。
チェンバレンは会議を終えて英国へ帰国すると民衆に歓喜の声で迎えられた。
「宥和政策」により、戦争への道を回避したと称えられたのだ。

しかしヒトラーは、約束を守る気などさらさらなかった。
逆にヒトラーはこの一件で、「英仏は戦争に訴えることはない」と信じ、翌年のポーランド侵攻を決意する。

ソ連はそれまで、ドイツに対抗するために英仏に接近する政策を取ってきた。
国際連盟に加入し、仏ソ相互援助条約も結んだ。
しかし1935年からイギリスは宥和政策を取り出し、
ヒトラーのナチスドイツと親密になり出した。
スターリンは、イギリスがヒトラーを手なづけてソ連に当てようとしていると思うようになる。
それにミュンヘン協定では、ソ連はチェコスロバキアと国境を接している隣国なのに呼ばれもしなかった。
ここでソ連は英仏を見限り、
この後はヒトラーと結ぶ方法を探っていく。

10月、ポーランド政府はドイツに在住しているポーランド国籍のユダヤ人の旅券をほぼ無効とした。
つまり、この時はポーランドもまた反ユダヤ政権だった。
ドイツも反ユダヤだったので、ポーランド系ユダヤ人を強制収用し、ポーランド国境に送りつけたが、ポーランドは入国を拒否。どこにも行けなくなったユダヤ人の中には、餓死者も出た。
これがきっかけで、パリでポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館職員の暗殺事件が起きる。
この事件を受けて、11月9日、ドイツ全土でユダヤ人が襲われる
「水晶の夜(クリスタルナハト)」事件が起きる。

12月 中国では国民党の蒋介石のライバルである汪兆銘が単独で日本と和平交渉に入ろうとし、重慶を脱出。
1939年に入ると日本軍は1月に重慶爆撃、2月海南島占領、3月に南昌攻略と軍を進めるが、大規模な戦いはなく、ただ、占領した点と線が広がっていくだけだった。
もう戦争を終わらせるきっかけを失っていたのだ。

翌1939年3月、ヒトラーは約束を破り西部のチェコを完全に占領。
工業化が進んでいたチェコを手に入れることにより、
そこを軍需産業の中心地とする。
1935年からようやく再軍備化が進んでいたドイツは、
このころ、まだ英仏と渡り合えるほど軍備が進んでいなかった。
なので結果的だが、ミュンヘン会談の譲歩により、イギリスはドイツの再軍備を手助けしたことになる。
東部のスロバキアは独立させるが、
独立と同時にハンガリーが侵攻してくる。
スロバキアは仕方なくドイツに調停を頼み、その保護国になるがカルパト・ウクライナ部分はハンガリーが併合する。
こうしてチェコスロバキアは“解体”してしまう。
この月、ドイツ人居住地域であるリトアニアのメーメル地方もひっそりと併合している。

第二次世界大戦まで、あと半年。。。。
歴史に「もしも」はないが、この時点で、もはや戦争は避けられなかったのか。。
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by mahaera | 2016-10-18 10:38 | 世界史 | Comments(0)
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