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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・第二次世界大戦と太平洋戦争の開始(1939〜1941年)

子供に教えている世界史・第二次世界大戦と太平洋戦争の開始(1939〜1941年)

1939年3月 チェコスロバキアは解体し、チェコはドイツに併合。
スロバキアはドイツの保護国。そして南部はハンガリーに併合。
オーストリアに続いて欧州の国がひとつ消えた。

3月27日マドリードが陥落。
その前の月には英仏がフランコ政権を承認していた。
4月1日、フランコによってスペイン内戦集結が宣言された。
フランコ派は人民戦線派の5万人に死刑判決をだし、
うち半分を実際に処刑する。
フランコのスペインは3月27日に日独伊防共協定に参加し、
5月、アメリカはフランコ政権を承認するが、
スペインは国際連盟を脱退する。

4月、どさくさに紛れてイタリアがアルバニアを併合
 英独海軍協定破棄。ドイツはイギリスの宥和政策をはねつける。

5月、満州国とモンゴル人民共和国の国境でノモンハン事件発生。
戦いは9月16日までの夏の間続き、
日本とソ連はほぼ互角の兵力で戦ったが、
最終的には大量の兵士や物資を動員できるソ連に圧倒された。
ただし独ソ不可侵条約の前で日本はラッキーだったと思う。
また、この戦いも関東軍のほぼ独断で行われていた。

 独伊軍事同盟、締結。

7月、アメリカより日米通商航海条約の破棄が通告される。

8月23日 独ソ不可侵条約が結ばれる。
 これは世界に大きな驚きをもたらした。
ドイツは次にポーランドを狙っていたが、
東のソ連と西の英仏に挟み撃ちにされた困る。
そこで当面はソ連と手を結び、ポーランドの山分けを持ちかける。
スターリンはスターリンで、ミュンヘン会談で英仏があてにならないことを知り、ならばドイツと手を結ぶ方が得策と考えた。
それに東には日本の満州国があり、
関東軍とノモンハン事件も起きていた。
そこで独ソ不可侵条約を結び、付属の秘密議定書で
「エストニア、ラトビアはソ連の勢力範囲に」
「ポーランドはドイツと分割」と決める。
日本はこの独ソ不可侵条約について、
全くドイツから知らされていなかったので政府は大騒ぎになった。
日本は当時、ノモンハン事件の真っ最中だったから、
敵であるソ連と味方と思っていたドイツの協定は、
日独同盟の締結の中止に至らせた。
ソ連もポーランド侵攻が決まったため、
それを日本に隠して東北アジアの軍隊を引き上げなくてはならなくなり、ノモンハン事件は手打ちの機運が強まっていく。
9月15日に停戦。
その2日後の9月17日にソ連軍のポーランド侵攻が始まる。

さてドイツと同盟軍のスロバキアは、
独ソ不可侵条約の1週間後の9月1日早朝に、
100万人の軍隊と2000機の飛行機で
ポーランド回廊やダンチヒに侵攻。
9月3日にはポーランドの同盟国であった英仏がドイツに宣戦布告。
こうして第二次世界大戦が始まった。

ポーランドは英仏の援軍が来るまで持久戦に持ち込もうとしたが、
9月17日に想定外のソ連軍が雪崩を打ってポーランド領内に侵攻。
10月1日にはポーランドは両国に完全占領された。

ドイツ軍のほぼ全勢力がポーランドに向けられていたにもかかわらず、西部フランスとの国境では何も起こらなかった。
イギリスもフランスも、立場上宣戦布告したが、
全面戦争する気はまだなかったのだ。
また、ドイツも英仏が適当なところで手打ちをすると、
この段階では思っていた。
ポーランド軍のうち脱出できたのは12万人で、68万人が捕虜になった。
第二次世界大戦が終わるまでの6年の間に、ドイツとソ連の圧政や虐殺などにより、
ポーランド国民の2割に当たる600万人が殺された。
ドイツもひどかったが、ソ連も同じようにひどかった。
ポーランド軍の将校ら2万2000人が銃殺された
「カテインの森事件」を見れば、その酷さがよくわかる。
先日亡くなったアンジェイ・ワイダ監督は、
自分の父親がこの事件で亡くなったこともあり、映画にしている。

ポーランド分割後、ソ連はバルト三国と
フィンランドに圧力をかけ始めた。
フィランランドには国境線を30km下げるように通告したが、
拒否されたので11月30日にソ連はフィランド領内に侵攻を始める。
「冬戦争」だ。
この行為は国際社会から非難を浴び、
12月にはソ連は国際連盟を除名される。
ソ連軍はフィランド軍の6倍の数がいたが、
粘り強い抵抗に20万人以上の死者を出し、フィンランドは翌年国土の1/10をソ連に割譲することで、独立を守ることに成功する。
しかし、フィランドは援軍を送ってくれなかった英仏は頼みにならないと悟り、この後はドイツに接近していくことになる。

英仏側の連合国についてはよく知られているのだが、
ドイツ側の枢軸国は特に強いつながりがあるわけではなかった。
たとえばフィンランドは、先に述べたようにソ連と戦うために英仏側についたが、ソ連が連合国側につくと、今度は仕方なく枢軸国側で戦い、そして負けることになった。
スウェーデンは中立を通したが、国内ではファシズム支持も多く、戦時中に多くの鉄鋼をドイツの兵器産業に輸出して協力した。
中立なので英仏も攻撃はできないが、武器の供給源だったのだ。
ハンガリーは第一次世界大戦で失った領土を取り戻すため、
枢軸国側に加わった。
ルーマニアは1940年にベッサラビアをソ連に奪われたことで、
それを回復するために枢軸国側につく。
ブルガリアは隣のユーゴとギリシアがドイツに降伏したので、
枢軸国側につくことになる。

1940年4月 ドイツがノルウェー、デンマーク侵攻
5月 ドイツがオランダ、ベルギー侵攻
6月 ドイツによりパリ占領、フランス降伏
8月 日伊独三国同盟
9月 日本は仏領インドシナ進駐。
石油などの資源を求めてだが、本国フランスを占領しているドイツにも話を通していなかったので、ヒトラーは不快だった。当時仏領インドシナを統治していたのは、ヴィシー政権。

1941年 1月アメリカ武器貸与法成立。中立をやめる
4月 日ソ中立条約。
まさか2か月後にドイツがソ連との条約を破るとは、
日本も知らなかった。日本は振り回されっぱなしで、一貫した対外政策も取れない。
6月 まさかの独ソ戦開始。
 日本、がっくしだが、対決相手をアメリカに絞る。
これにより、ドイツ枢軸国+ソ連 VS 連合国 の図式から、ソ連が連合国側へ

7月 日本が南部仏領インドシナに進駐。
ここで流れが大きく変わる。
日本に対しての英米の経済封鎖が進む。
ABCDブロックというやつね。英米は「日本に石油を輸出しない」ことを決定。これは日本軍は大ショック。
だって石油の備蓄は1年半分しかないもの。
大好きな戦争ができない。戦争させてくれないら、戦争するぞと。
これが日米開戦につながるが、例えばいま、アメリカに貿易を停止されても戦争は仕掛けないだろうな。
当時の日米の国力はしかも、ケタが違っているほどの差があった。
11月26日 いわゆるハルノート。最後通牒だ。

12月8日、日米開戦。太平洋戦争始まる。
by mahaera | 2016-10-20 22:24 | 世界史 | Comments(0)
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