人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

mahaera.exblog.jp

子供に教えている世界史・戦後の再建〜国連、IMF、戦後処理(1945年)

1945年8月15日 日本の降伏により、
ようやく第二次世界大戦終わる。

教科書ではこのあと、戦後の各国の再建よりも先に
「国際連合の成立」と「国際経済の再建」が来る。
「冷戦」や「アジアの独立」が長いので、最初にざっくりと説明してしまおうということだろう。

さて、まずは国際連合(国連)だ。
これはUnited Nationsというように、もともとはドイツや日本などの枢軸国と戦うため、連合国だけでは始めた機関だ。
スタートは1941年8月の米英による「大西洋憲章」で、戦後の安全保障制度の発表に始まっているので、まだ日米開戦前の話。
1943年10月の米英中ソによる「モスクワ宣言」で、国際平和機構の設立が語られるが、まだ大国間には諸問題があった。
国連の目玉とも言える「安全保障理事会」だが、多数決にすると社会主義国はこの時点でソ連しかないから、ソ連が圧倒的に不利。
そこで、ソ連は多数決ではなく、全会一致を主張。

1945年2月のヤルタ会談でソ連の主張が盛り込まれ、
常任理事国の拒否権が認められることになった。
常任理事国は、連合国の大国のアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国(当時は中華民国)。
1945年4月には連合国50カ国がサンフランシスコに集まり、
国際憲章が採択される。
ちなみに、日本はこの時、まだ戦っていたが、
世界はすでに“戦後”をどうするかに向かっていた。
10月、国際連合が正式に発足。
1946年1月にロンドンで第1回国連総会が開かれる。
本部はのちにニューヨークへ。

以前の国際連盟との大きな違いは、
「軍事的制裁」の発動が可能なこと。
これはヒトラーや日本の暴走を止められなかった反省点だ。
ところがすぐに冷戦が始まり、これがなかなか機能しなかったことはご存知の通りだ。
国連は専門期間も設け、有名なところではユネスコ(国連教育科学文化機関)、WHO(世界保健機関)がある。

ユネスコ憲章の前文

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、
人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」

を読むと、いまだそれを世界は実践できていないなと感じる。
だって心の中に戦争を求めている人たちが多すぎる。

もうひとつ。戦後の経済体制。
1944年7月にアメリカのプレストン・ウッズで戦後の世界経済の安定をはかる会議が開かれる。
ここでIMF(国際通貨基金)と世銀(国際復興開発銀行)の
2つの組織の成立が決まる。発足は1945年12月。
第二次世界大戦が起きた原因の1つに、
自由な経済活動を阻むブロック経済があった。
植民地を持たない日本やドイツはこれで、追い込まれたからだ。
そのため、戦後は自由な貿易や資本の移動、
そして経済の安定が図られた。

具体的には大恐慌以降に金本位制が崩壊したので、
基軸通貨としてドルを設定するということだった。
戦前から説明すると、戦前の各国は金と通貨の兌換を保証し、
自国通貨を安定させていた。
これが「金本位制」で、要するにその国の流通通貨と同じ分の金が用意できるというのが、信用の前提だった(いつでも金に換えられるから安心)。
ところが大恐慌で通貨の信用度が落ちると、
みな通貨を金に換えるし、金での取引を求める。
国によっては、その国の通貨が売られどんどん金が流失していく。
そこで金本位制を停止したのだが、
運悪く日本は大恐慌が起きた年に金本位制を取り入れた。
他国は金本位制を止めたので、日本の貯蓄していた金がどんどん流出するためになった(2年後、金本位制を停止)。

さて、第二次世界大戦中はどこの国の通貨も安定していない。
どこが勝つかわからないものね。
そこで各国間の取引は「金」ということになり、戦争が終わってみると、全世界の金の70%がアメリカに集中していた。
つまりアメリカのドル通貨が、ずば抜けて信用度が高かったわけ。
そこで米ドルと各国の通貨の交換レートを決めて、
そのレートでの交換を保証することに。
これがドルが基軸通貨になった理由だ。
これはアメリカ経済が不況になる1973年まで続けられる。
昔は固定相場制だったことは、年配の方はこ存じの通り。
1ドル=360円だったもの。

世銀(国際復興開発銀行)は、戦争で疲弊した国を救うために低利子で長期間の貸付を行う銀行。
日本ではこれで黒部ダムを作ったり、新幹線を走らせた。
が、これだけではうまくいかず、「マーシャルプラン」が行われる。

1947年「関税ならびに貿易に関する一般協定(GATT)」が成立。
これはブロック経済により、世界貿易が縮小して不況に輪をかけたのを反省して、さまざまな関税の撤廃を目指したものだ。
もっと先の話になるが、このGATTの中で踏み込んだ
具体的な多国間交渉が行われるようになる。
これが「ラウンド」。
「ウルグアイ・ラウンド」とか聞いたことあるでしょう。
これは1986年から行われた、
知的所有権や農産物貿易に関しての交渉だった。

ただ、もうみんなわかっているように、
このGATTのように貿易を自由にするということは先進国、
とりわけ工業国に有利だった。
だって安価に大量に作ることができる国に、
これからという国は太刀打ちできない。
そこで輸入に高関税をかけると、
「それはGATT違反」とか言われるわけ。

さて、戦争が終わり、ドイツは米英仏ソにより
分割占領されることになった。
また10月からはニュールンベルクで国際軍事裁判が、
日本では1946年1月から極東軍事裁判が開かれた。
これらの裁判で戦争中にはよくわからなかったユダヤ人のホロコースト、南京虐殺、関東軍の陰謀などが明らかになっていった。
しかし、戦勝国が敗戦国を裁くことについては異論も多い。
かといって革命が起きたわけではない敗戦国には、
かつての自国の指導者たちを裁くのは無理だったろう。

ドイツの領土は東側が大きく縮小することになった。
オーストリアはドイツと切り離されて、やはり4カ国の共同統治に。
他の枢軸国のイタリアは植民地を失い、フィンランドはカレリア地方を、ルーマニアはベッサラビアと北部ブコヴィナをソ連に割譲し、ハンガリーはチェコなどから奪った領土を返還した。

戦争の終結とともに、すぐに米ソ対立が鮮明になってくる。
終戦前の7月にチャーチルの保守党は総選挙で早くも敗れた。
共産主義の脅威を訴えるチャーチルだったが、英国民はもう戦争にうんざりし、福祉国家体制を目指す労働党に票を入れたのだ。
また、石炭や電力などのエネルギー産業を国有化した。

フランスは戦時中はドゴールが臨時政府を組織したが、
終戦後の10月の総選挙では共産党と社会党が1、2党を占めた。

イタリアはファシストの公職追放が行われ、ファシズム体制を擁護した国王にも批判が集まり、国民投票で君主制が廃止される。

ポーランドは領土の東側をソ連に渡す代わりに、
西側をドイツから得ることになり、国境線が大きく変わる。
ポーランド亡命政府はソ連占領時に弱体化され、
1947年の選挙で共産党が力を握ることになる。

ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、ユーゴは、
ソ連が占領し、やがて共産党政権が生まれることに。
by mahaera | 2016-11-03 16:17 | 世界史 | Comments(0)
<< 最新映画レビュー『われらが背き... 最新映画レビュー 『ハドソン川... >>