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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・戦後アジアの独立2 ベトナム(1940〜1954年)  

ベトナム戦争については知っていても、その前史となる日本占領下からフランスの撤退までは、あまり勉強した記憶がないのではなかろうか?
ま、平成生まれの息子にいたっては、
ベトナムがアメリカと戦争していたことも知らない(笑)

さて、第二次世界大戦が終わると、
それまで植民地だったアジア諸国は独立の道を歩みだした。
前回は、アメリカの植民地だったフィリピン、日本の植民地だった朝鮮、イギリスの植民地だったインド、ビルマ、マレーシア&シンガポールの戦後について述べた。
これらの国では、旧宗主国や占領軍と現地勢力が、基本的には「独立」で話を進めて至った(朝鮮は南北に分裂するが)。

今回は、独立を武力で鎮圧しようとした
フランスの植民地である現ベトナムについて。

第二次世界大戦でフランスやオランダがドイツに敗れると、
日本では「南進論」が盛んになり、1940年9月には日本は北部インドシナ(ベトナム)に進駐する(第一次仏印進駐)。
本国がヴィシー政権に変わった仏領インドシナでは、
現地軍だけでは日本を追い払う力はなく、
また、日本もフランスのヴィシー政権はドイツの傀儡国家なのでその植民地政府のシステムを残して支配することにした。
目的は日本が必要な原料や食料の生産だ。
とくにベトナムの米は日本に輸出された。
そのためベトナム人は、日本とヴィシー政権の
二重支配に苦しめられた。

この日本の第一次仏印進駐のどさくさに紛れて、
タイが国境紛争を起こし、仏印南部に攻め込む。
タイは以前にタイの国土をフランスに取られたとして国境線に大いに不満だったのだ。
これの仲介を日本が買って出て、カンボジアとラオスの一部をタイに与えて、日本はタイに恩を売った。

1941年になると、日本はドイツとイタリアと同盟、また日ソ中立条約により、米英と対立が深まる(独ソ戦が始まる前だ)。
連合国側の輸出規制によって困った日本は、
蘭領インドシナに圧力をかけるが、これは裏目に出て、
オランダをより米英側につかせることになる。

1941年7月、日本軍は資源を求めて、
南部インドシナに進駐(第二次仏印進駐)。
フランスは対抗して壊滅するよりも、今の力を温存して将来の植民地支配の継続を願い、抵抗はしなかった。
フランスが頼めるドイツもアメリカも仲介に加わらなかった。
ドイツは6月に始まった独ソ戦で忙しかったのだ。
結果、この第二次仏印進駐がアメリカの態度を硬化させ、
日本に対する石油輸出の禁止につながり、
それが太平洋戦争につながっていく(この段階まで石油を日本に輸出していたことも驚きだが)。

日本とヴィシー政府による二重統治は、
日本のスローガンである「大東亜解放」とは矛盾していたが、日本はそれはここでは無視することにした。
仏軍は少数ながらも軍を維持し、軍事的にも経済的にも日本に協力し、日本軍の「駐留経費」も支払った。
また、本国とのモノカルチャー貿易だった仏領インドシナは、戦争により本国との貿易が途絶えて大打撃だったが、
その分、日本が貿易相手国になってくれた。
戦時中の仏印は日本にとって中国に次ぐ貿易相手国で、
逆に仏印は日本に対して貿易黒字になっている。
しかし戦争末期には、日本への海上輸送が不可能になる。

1944年8月、連合軍がフランスの大半を奪還し、
本国ではヴィシー政権が消滅した。
日本と協力していた現地フランス人たちはは、
いきなり「自由フランス」が正当な政権になったとしても、
すぐに日本に対して立ち上がることもできない。
また、日本としてもアジア諸地域で負けているので、
ここで新たに戦争も起こしたくない。
そこで敗戦も近づいてきた1945年3月に
阮朝最後の皇帝のバオ・ダイを担ぎ、
「ベトナム帝国」を作らせて独立させたが、評判は悪かった
(バオ・ダイのあだ名はナイトクラブのキング)だった)。

この間、北部ベトナムでは「死者200万人」という大飢饉が起きている(日本軍の調査によると40万人。正確な数はわからないが100万人前後は亡くなったようだ)。
原因は天災によるものだが、日本軍とフランス政権がそれぞれ米を備蓄したことと、連合軍の爆撃で南部から北部への米の移動ができなかったこともあげられている。
つまり人々が飢えで死んでいく中、
日本もフランスも米をかき集めていたのだ。

ベトナムでは日本占領中からホーチミン主導による「ベトナム共産党=ベトミン」による運動を開始している。
彼らは日本の敗戦の3日後に革命を起こしバオ・ダイを廃し、9月2日には「ベトナム民主共和国」を樹立させる。
1946年、フランスがベトナムに戻ってきたが、
彼らは植民地を手放す気は無かった。
現地政府との小競り合いから12月に全面戦争が始まる。
フランスは大都市を抑えたが、
農村のほとんどはベトミンが支配していた。
当初はゲリラ戦が続いていたが、1949年8月ソ連が原爆実験に成功、10月中華人民共和国の成立を受け、1950年1月からソ連と中国がホーチミン政権を承認し、武器援助を始める。
一方、フランスは再びバオ・ダイを担いで
傀儡政権の「ベトナム国」を成立させた。
この際、ラオスとカンボジアも独立させている。

冷戦は始まっていたので、アメリカはフランスに援助をした。
が、まもなく朝鮮戦争(1950年〜)が始まり、冷戦の各国の主力は朝鮮に移り、ベトナムではダラダラと戦争が長引く。
しかし1954年のディエンビエンフーの戦いで、
フランスの敗北が決定的になった。
その後も戦いは続いていたが、休戦会談も続き、
1954年7月に「ジュネーブ休戦協定」が結ばれる。
これはその後の南北分断のきっかけとなった。

決まったことは
・ベトナム、カンボジア、ラオスの独立
・北緯17度線を仮の境界とし、フランス軍は北から、ベトミン軍は南から撤退する
・2年後に総選挙をし、その結果、統一ベトナム国家を作る。

国土の大半を支配していたベトミン側は、
納得できなかったが、ソ連と中国に説得されて調印。
しかしアメリカは調印をしなかった。
というのも、2年後の選挙ではバオ・ダイが負けることを予想していたから。
こうしてインドシナからフランスは手を引き、
アメリカが代わって覇権を伸ばしていくことになる。

つづく
by mahaera | 2016-11-10 15:28 | 世界史 | Comments(0)
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