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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史  〜 雪どけと欧州統合の試み(〜1959年)

1956年2月の「スターリン批判」、
そしてソ連の「平和攻勢」以降、ポーランドのポズナニ暴動、
ハンガリー動乱などがあったが、ソ連は東側衛星諸国の離脱を力で押さえ込み、フルシチョフは1958年に第一書記から首相に就任し、ソ連の実力者になった。
彼はスターリンのような独裁者ではなく、
派閥の均衡の上に選ばれていたが、激情家としても知られている。
1958年から始めた農業改革は失敗し、
アメリカやカナダから穀物を輸入することになった。
また、興奮して多くの仲間を罵ったため、党内に敵を多く作り、
それがのちに失脚の原因となった。
しかし功績としては、アメリカとの緊張関係を解き、
「雪どけ」をもたらしたことだろう。
1959年9月、フルシチョフは訪米を果たし、
アイゼンハワーと会見する。
ソ連の首相が訪米するのは初めてであり、
世界に平和の望みを抱かせた。

1957年10月、ソ連による人工衛星スプートニクの打ち上げに
一時はパニックになったアメリカだが、
翌1958年1月に人工衛星の打ち上げに成功していた。
アメリカではとにかく宇宙への進出が緊急案件となり、
映画『ライトスタッフ』に描かれたように、
NASAに優秀な人材と潤沢な資金が注ぎ込まれる。
しかしアメリカがようやく人工衛星の打ち上げに成功したと思ったら、1959年9月にソ連はロケットを月面に到達させ、
またアメリカを出し抜いた。

アメリカ軍部(軍事産業)はソ連がアメリカの数倍の核弾頭を持っているという「ミサイルギャップ」を政府や国民に信じ込ませ、
アイゼンハワーが大統領に就任中、
核兵器は1000発から2万2000発までに増えたという。
これはメガトン数で言えば、広島に落とされた原子爆弾
136万発分という。
当時、アメリカ軍部が想定した核戦争では、
アメリカの核爆弾で24時間以内にソ連と中国の3億5000万人、
東欧で1億人、日本を含む周辺の同盟国でも
放射性降下物で1億人の死者が出る試算を弾き出していた。

核戦争への恐れは、アメリカで1957年に連載された小説「渚にて」が評判を呼び、1959年には映画化もされたことからもわかる。
これは核戦争により北半球が全滅し、
オーストラリアに避難した人々に放射能の雲が迫り、
人類の滅亡が近づいていく様子を描いたものだった。

一方、西ヨーロッパでは二度にわたる世界大戦の反省から、
まずは1951年にECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)設立された。
これはEUの原点ともいえる組織で、
基本プランを作ったフランスの外務大臣シューマンは、
アルザス地方の出身だった。
アルザスは石炭・鉄鋼の産地ということから、
常にフランスとドイツ両国の争奪の的になっていて、
戦争の原因にもなっていた地方だ。
そのためシューマンは第一次世界大戦にはドイツ人として、
第二次世界大戦には対独レジスタンスとして参加していた。
工業原材料を共用することにより、
経済目的だけでなく戦争を起こす原因の一つを取り除く。
それが、シューマンの悲願だった。
長年資源を求めて戦ってきた敵同士の国が、
その資源を共用化するというのは実利だけでなく、
「平和」に対する象徴的な意味合いもある。

1957年のローマ条約に基づき、1958年にはいよいよEEC(ヨーロッパ経済共同体)が発足。
ECSCでものを作る原材料を共有するのに成功した後は、
今度はものを作る労働力、そしてそれを売る市場を共有化する試みが始まったのだ。
そのため、加盟国間の関税の撤廃や、
対外的には共通の関税を設定した。
発足当時の原加盟国は、フランス、西ドイツ、ベルギー、
ルクセンブルク、オランダ、イタリアだ。

一方、イギリスを中心に1960年、
別組織のEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)が設立する。
EECは将来的に経済統合だけでなく、政治統合も見据えた組織だったが、イギリスはそこまで求めていなかったのだ。
EFTAにはイギリスに同調する、スイス、オーストリア、
ポルトガル、スウェーデン、ノルウェー、デンマークが参加。
ただし、こちらはEECに比べて、あまり発展しなかった。

1958年、EECに加盟する国々は、
EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)も作る。
最終的には、1967年にECSC、EEC、EURATOMが、
EC(ヨーロッパ共同体)としてまとめられるが、
それはまだ先の話になる。

現在、EUの問題はニュースで取り上げられるが、
戦争のない世紀はなかったヨーロッパの人々にとって、
経済問題が戦争にたやすく変わることは自明のこと。
EECが発足した当時は、ヨーロッパ全土がほぼ戦場となった
戦争の記憶も新しく、米ソの冷戦の犠牲は勘弁してもらいたいところだったろう。
by mahaera | 2016-12-08 10:18 | 世界史 | Comments(0)
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