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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史 〜ベルリンの壁建設と核戦争の脅威(1961年)

1961年4月の「ビッグス湾事件」失敗の2ヶ月後の6月、
ケネディはウィーンでフルシチョフと会談する。
フルシチョフは、敵意ある態度で
この若い大統領にのぞんだ。
フルシチョフは当時、ベルリン問題で頭を抱えていた。
この時までに274万人が東ドイツから西ドイツに流入し、
また西ベルリンに西側の軍隊が駐留し続けていることも
問題だった。

また、西ドイツの再軍備も恐れていた。
なにしろ、ロシアは20世紀に入ってから
二度もドイツに侵攻されているのだ。
西ドイツの首相アデナウアーは、東西対立を利用して米英を引き込み、ドイツの統一を考えていた。
東ドイツも、ソ連を後ろ盾に東西ドイツの遮断を
フルシチョフに求めていた。
しかし米英はドイツのためにソ連と戦争をする気はなかったし、ソ連もそれは同様だった。

ウィーン会談は、フルシチョフが求めた
「西ベルリンからの西側軍隊の撤退」
をケネディが撥ねつけたことで、物別れに終わる。
フルシチョフは、難民の流出と東ドイツ経済の崩壊を止めるため、世界中の批判を覚悟でベルリンの壁建設を決める。

8月、西ベルリンに流入する難民は週1万人に達していた。
東ドイツの崩壊を防ぐため、12日の夜から13日にかけて国境は有刺鉄線で閉鎖され、壁が建設され始めた。
西側諸国は何も手を打たなかった。
それ以上の進展(戦争)は、もう後戻りできなくなる可能性が強かったのだ。
ケネディは
「最善の策ではないが、戦争より壁のほうがましだ」
と側近にこぼした。
ケネディは核ミサイルの発射ボタンを押す、
人類最初でおそらく最期になるかもしれない大統領になりたくなかったのだ。
しかしソ連は強気に出て、しばらく停止していた核実験を開始する。

アメリカ軍統合参謀本部は、
核戦争の開始を1963年の後半を予定していた。
この時期になれば、ボタンひとつでソ連を全滅させるミサイルが一斉に発射できる準備が整うのだ。
「アメリカ国民は2週間核シェルターの中で暮らす必要がある」と聞いたケネディは、報告の途中で席を立って戻らなかったという。

1961年の夏のアメリカは、家庭用核シェルターの是非について、「もし隣人がシェルターに助けを求めてきたら銃撃する用意もしないと」ということが真剣に論議されていた。
ただし、実際には買う人は少なかったという。
もし核戦争が起きて、隣人が全部死んだら、自分だけ生き残っても仕方がないと考える人が多かったからだ。

アメリカの軍備は、
「ソ連が軍事的に有利な核ミサイルを持っている」という「ミサイルギャップ」論により進んでいたが、
ケネディは大統領に就任するとマクナマラ国防長官にそれを確認させる。
すると驚くべきことに(大統領も知らなかったが)、
実際にはアメリカのICBM(大陸各弾道弾)保有数は45基で
ソ連の4基の10倍以上も上回っていた。
潜水艦搭載、近隣諸国の基地からのものを入れると、
この時点でアメリカは2万5000発の核兵器を所有していたが、ソ連はその10分の1しかなかった。
ミサイルギャップは存在しなかったのだ。

ケネディはミサイルギャップの解消を訴えて当選したので、
それを隠そうしたが、政治経験の浅い(フォードの社長から引き抜かれた)マクナマラ国防長官は就任早々、
それをマスコミにしゃべってしまった。
これは失態で、マクナマラはクビを覚悟したという。
軍はさらなる軍備費増強を求めていたからだ。
この時点では、兵器産業はアメリカいちの産業で、
それを阻むのは大統領でさえ難しかったろう。

戦略空軍司令官のパワー大将は
「戦争が終わった時点でアメリカ人が2人、ロシア人が1人残っていればアメリカの勝ちだ」と述べた。
そして軍はキューバ侵攻の準備を始め、侵攻のきっかけ(ハイジャック、テロなどのやらせ)を探り始める。

一方ベトナムでは、独裁のゴディン・ジェム政権を打倒するために、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成。
以降は農村部でゲリラ活動が始まっており、
ケネディはこれにも対処しなくてはならなかった。
ジエムはどうしようもない独裁者で、国民の信頼はゼロ。
さらにアメリカによる民主化要求をはねのけた。
しかしケネディによってベトナムに派遣された副大統領のジョンソン(のちに大統領)は、ジエムを
「東洋のチャーチル」と褒め上げ、
アメリカの軍事顧問団の派遣が700人から1961年末には約3000人に、1963年末には1万6000人に増強される。
こうしてベトナムへの直接軍事介入の道が開けていく。

そして1962年10月、核戦争の脅威がピークに達する13日間が訪れる。
ここで人類が滅亡していたかもしれない。
それが「キューバ危機」だ。
by mahaera | 2016-12-29 11:06 | 世界史 | Comments(0)
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