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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

mahaera.exblog.jp

2019年 04月 03日 ( 1 )

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国 その4 ツタンカーメンの時代

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(写真)エジプトのファラオといえばツタンカーメンのこの姿が浮かぶのでは。

エジプト新王国が栄えていた紀元前14世紀ごろの、世界の状況をおさらいしてみよう。
エジプトと活発な貿易を行っていたクレタ島のミノア文明が滅び、ミケーネ人が地中海に進出
西アジアではヒッタイトが再び力を取り戻し、北メソポタミアのミタンニを破る。その影響でミタンニからアッシリアが独立。
別項で述べるが、中国では初の王朝・が誕生していた。


ツタンカーメンの即位
さて、アメンホテプ4世の死後は、アメンホテプ4世の共同統治者だったスメンクカーラー(王命表からも削り取られ謎が多い。在位も短く、墓も作られず女性説もある)の短い統治の後、その息子で幼少のトゥトアンクアムン(前1333年〜前1324年)が王位を継承する。
彼が有名な「ツタンカーメン」だ。
彼は当初はアテン信仰の時代に生まれたので「トゥトアンクアテン」と名乗っていたが、父王の死後、アメン・ラー信仰が復活。
神官団の力が増して名前を改名し、さらに都もアマルナからテーベに戻した。
即位した時はまだ少年だったため、周囲の意向が強かったのだろう。

ツタンカーメンの治世は短かったが(死亡推定19歳、身長165cmで華奢だった)、ヌビアの氾濫やヒッタイトとの戦いをこなしてはいた(この時期アッシリアがミタンニから独立)。
ただ、病弱だった可能性は高いとされている。
また墓に130本の杖が副葬され、しかも使用されていた跡があること、死の原因が骨折からの他の病気だったため、生前から足が悪かったという説もある。
ツタンカーメンについては、多くの本が出ているので詳しくはそちらを参考にされたい。
歴史上では大した業績は残してはいないが、ほぼ未盗掘の状態で発見された唯一の王の墓なので、エジプト学には大きな貢献を果たしたことは間違ない。


ツタンカーメンの死後
ツタンカーメンは若くして子を残さずに死んだため、王族の1人で先代のアメンホテプ4世の代から支えていた高官のアイが王位を継ぐ。
彼はまたアメン大神官の地位にあった。
王としての正式名称は「ケペルケペルウラー」だが「アイ」と呼ばれることが多いのは即位期間が2〜4年と短く、かつツタンカーメン暗殺説があったことから歴史学者からも軽く見られているから。
もっとも彼には子がなく。即位時も高齢と見られているので最初から“つなぎ”のファラオだったのかもしれない。
また、ツタンカーメンの王妃だったアンケセナーメンは、ツタンカーメンの死後、アイと結婚して王位の正当性を保証したが、その前にヒッタイトのシュッピリウルマ1世に手紙を送り、「王子を婿としてほしい」と要請していた。
しかし王子ザンナンザはエジプトへ向かう途中に暗殺されてしまう。
犯人は、王になろうとしたアイだったという説がある。

前1323年、アイが死ぬとアイが指名していた将軍を倒して軍人のホルエムヘプが第18王朝最後のファラオとして即位した。
ホルエムヘプは自身をアメンホテプ3世の後継者として位置付け、アマルナ時代のアメンホテプ4世、スメンクカーラー、ツタンカーメン、アイの4代の王の存在を消して、この期間の業績を全て自分のものにしている。
しかしその前の時代が不人気だったため、厳格なホルエムヘプの統治は歓迎されたようだ。
彼もまた高齢で子はおらず、遺言により腹心で軍司令官のパ・ラメスがラムセス1世として次のファラオになる(前1295年)。ここから第19王朝が始まる。

(続く)


by mahaera | 2019-04-03 10:26 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)