1962年10月14日にキューバ上空をU2偵察機が飛行。
翌15日、そのときに撮った写真をワシントンの国家写真解析センターが解析すると、アメリカ本土を射程内とする中距離弾道ミサイルとその基地が発見される。
翌16日、その写真と解析がホワイトハウスに届けられた。
これが核戦争の脅威が世界を覆った「13日間」の幕開けだ。
すぐさまホワイトハウスに閣僚や要人15人を集め、
「エクスコム(国家安全保障会議執行委員会)」が設けられ、
最初の3日間は昼夜を問わずに会議が進められた。
キューバへのミサイル配備と、
そして多くのソ連人軍事顧問団(貨物船の船底に隠れていた)の派遣に、CIAもそれまで気づかなかった。
そしてケネディはソ連の真意を測りかねていた。
というのも、この段階でソ連が持つICBMはまだ10基ほどに対して
アメリカは2000基、ソ連が500発ほどの核弾頭に対し、
アメリカは2万発ほど、
さらにアメリカは原子力潜水艦や爆撃機を常に飛ばしていて、
軍事衝突が起きてもソ連が勝てる見込みはなかった。
さらにトルコや西ヨーロッパなどのソ連の近接地域にアメリカは
ミサイル基地を配置して、
いつでもソ連を攻撃できるようにしていた。
それに比べてソ連は、アメリカの主要部を攻撃できる位置に
ミサイル基地を持っていない。
ケネディがいう
「なぜだろう。今回のキューバへのミサイル配備は、我々がトルコにかなりの数のミサイル配備をするのと同じだ。それは危険な話だ」
バンディ補佐官が答えた。
「大統領。すでにそういうことを我々がしているということですよ」。
つまりソ連は常にアメリカの核攻撃の脅威を感じていたことに、
アメリカは気づいていなかった。
むしろ自分が脅威を受けている被害者だと思っていたのだうろ。
そこでアメリカの先制攻撃を恐れるフルシチョフは、
賭けに出たのだ。
エクスコムでは、統合参謀本部(軍)が主張する空爆推進派と、
ケネディやマクナマラ国防長官が主張する海上封鎖派に
意見が分かれた。
当時は11月の中間選挙の前で、ケネディは応援の遊説を取りやめると怪しまれるとの閣僚の意見に沿い、
昼間は各地の遊説を続けながら早朝に会議を続けていた。
統合参謀本部のルメイはキューバへの先制攻撃を主張した。
たぶん、攻撃してもソ連は何の反応も示さないというのだ。
ケネディは強気の軍の意見を聞いた後、補佐官に
「官僚というものは、何でも自分に都合よく解釈できる。それに従っていたら、地上に生き残るものは誰もいなくなる」
とこぼした。
10月20日土曜
空爆の前に海上封鎖という段階を踏む方向へケネディは舵を切る。
いきなりの空爆では、フルシチョフも後に引けなくなる。
まずは封鎖して、フルシチョフの選択の余地を残すことにし、
「封鎖」も好戦的な表現であるとして
「隔離」という言葉を使うことにした。
ルメイはケネディを弱腰として怒り狂った。
ケネディは、キューバ問題はその前に起きたベルリン危機にリンクしていると考えていた。
つまりアメリカがキューバを攻撃すれば、
報復としてソ連はすぐさま西ベルリンを占領してしまうだろうと。
その結果、キューバ問題に忍耐を持たなかったアメリカに対して、
西ヨーロッパの友好国はアメリカを見放すだろうと考えたのだ。
10月22日月曜
ケネディが夜にテレビ演説を行うということを知ったモスクワは、
アメリカがキューバのミサイル配備を知ったと推測し、
緊張に包まれる。
フルシチョフは幹部を緊急招集し、
数日以内にカリブ海で戦争が行われるかもしれないと説明した。
アメリカ側は日中にイギリスやフランス、
西ドイツらの首相に状況説明する。
午後7時、ケネディはテレビでアメリカ国民に、
ソ連によってキューバにミサイルが持ち込まれたことを告げ、
「海上隔離」を行うことを発表した。
アメリカ国民は、核戦争が現実に近づいていることを知った。
アメリカでは軍の警戒レベルは5段階の真ん中のデフコン3となり、180隻の海軍軍艦がカリブ海に配置され、
戦略爆撃機のうち1/8が常に上空に待機する体制となった。
万が一、アメリカが全滅しても報復できるようにだ。
しかしそこで報復しても、何の意味があるのだろう。
同日、モスクワでアメリカに情報を提供していた
スパイのペンコフスキーが逮捕され、アメリカは情報源を失う。
(つづく)