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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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カテゴリ:子供に教える世界史・古代編( 63 )

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その2 [間違いだらけのアーリア人学説?] 

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(写真)インダス文明の人形。昔は「インダス文明はアーリア人の侵入によって滅んだ」と教科書に出ていたが、現在はアーリア人の移動はインダス文明の滅亡後で、直接は関係ないとされている。(デリー国立博物館収蔵)


よく勘違いするのが、用語としての「インド=ヨーロッパ語族」と「アーリア人」との関係だ。
狭義のアーリア人とは、前1600年ごろにイランに侵入していった牧畜系征服民族で、現在のイラン人(国号の「イラン」もアーリア人の国を意味する)のこと。
イラン・アーリア人とは別に、この時、
東に向かったグループがインド・アーリア人だ。
狭義の「アーリア民族の移動」はこのことを示す。
一般的には広義のアーリア人というと、イラン・アーリア人、インド・アーリア人、パシュトーン人やタジク人を示す。
しかし「アーリア人」というと「ゲルマン人」を
イメージする人もいるだろう。
なぜヒトラーは「我々はアーリア民族」と言ったのだろうか。

もともと人種と語族は、別な概念だ。
英語が国語のアメリカを考えれば、同じ語族の国でもさまざまな人種が混在しているのはわかるだろう。
しかし「インド=ヨーロッパ語族」=「アーリア人」と
拡大解釈し、そのような人種がかつていたと
作り出したのが「アーリアン学説」だ。
「アーリア神話」とも呼ばれるこの学説は今では
全く根拠がないが、自分たちを優秀な民族だと正当化し、
白人が世界を支配するのに都合のいい学説だっだ。
とくに「ドイツ人」(1871年ドイツ帝国建国)が生まれてまだ半世紀もたっていないドイツでは国民の心をつかみ、「ゲルマン人こそ純粋なアーリア人」という学説が神秘主義やオカルトと混じり、ヒトラーはそれに感化されてナチズムを生んだ。
ナチズムでは、純粋アーリア人が優良人種として世界を支配すると真剣に考えたが、そもそもゲルマン系ドイツ人と、
イラン人やインド人を一緒にするのは無理がある。
それでも第二次世界大戦中は、
「実は日本人もアーリア人だった!」とか
「インド人はアーリア人だから、イギリスと戦え」とか、
都合のいい学説も唱えられた。

ということで、現在の世界史では「アーリアン学説」は否定されているので混同しないこと。
つまり「アーリア人」が出てきたら、せいぜいイラン、インドを含む「広義の」アーリア人と解釈して欲しい。(続く)


by mahaera | 2019-01-20 11:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その1歴史上何度かあった民族移動

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(写真)パキスタンのフンザ地方。こうした険しい山や谷を越えて、人々はより環境の良い地を目指して移動していった。

人類は歴史上、何度も民族移動を繰り返しており、
それは現在でも続いている。
そもそも人類が移動を始めなければ、
我々は今もアフリカにとどまっていたはずだ。
人は常により良い環境を求めて移動をする生物であり、
その能力も持っている。
最初は徒歩で、やがて馬などの動物を乗り物に、
そして船や車、飛行機などを使い世界中に拡散していった。
きっといつかは集団で宇宙に進出していくだろう。

歴史上、その拡散や移動には大きな波があった。
後から来た波は、先にそこに住んでいた者を支配し、
同化したり滅ぼしたりするが、
また次の波が来れば同じことが起こった。
そうして現在では「単一民族」と呼ばれているグループでも、
実は多くのレイヤーを重ねている。
日本人だって、顔つきひとつ見ても
様々な民族が混じり合っているのがわかるだろう。
世界史の中では、こうした民族移動が
たびたび取り上げられている。
ただし民族移動といっても同じ民族が固まって長距離を移動していくわけではなく、移動の過程で周辺民族を取り込んだり、玉突き現象で押し出されていく場合もあったりした。

高校生の大学受験レベルでも押さえておかねばならない大移動は、前2000〜1500年頃のインド=ヨーロッパ語族、
前1200年頃の「海の民」、4〜7世紀のゲルマン民族、
9〜11世紀のノルマン人、16〜17世紀のスペイン人の新大陸への移民、20世紀初頭のアメリカへの東欧移民が挙げられるだろう。
自主的ではないが、アフリカから新大陸へ連れて来られた
黒人も民族移動に入れてもいいだろう。
アジア地域では大規模な民族移動が行われている。
ただし数百年かけてのゆったりしたもので、現地の文明を破壊していくほどではなく、ゆっくりと浸透していくようなものだった。
長江以南への漢民族の移動、トルコ系民族の移動、
雲南からのタイ族の移動などだ。
それらは、また別の機会に。

大規模な民族移動はそこにあった社会を破壊することもあるが、社会が新たに活性化することもある。
たいていは後から来た方の民族のほうが少数派なので、
時代を経るに従って同化していくが、逆に文化的に
上位の場合、少数でも文化的に支配していく場合もある。
世界史を学んでいくと、そうした文明の衝突を世界のさまざまな場所で見ていくことになるだろう。(続く)


by mahaera | 2019-01-19 11:30 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]初期ギリシャ文明(前3000〜前1500年)その3 交易によって栄えたミノア文明

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(写真)クレタ島イラクリオン郊外にあるクノッソス宮殿跡


前2000〜前1500年ほどに栄えたミノア文明の
クノッソス宮殿跡には、高い城壁などがなかったことから、
メソポタミアの都市と異なり、外敵に悩まされることがなかったと言われている。
実際、宮殿が焼け落ちるまで、大きな戦争が続くこともなかったのだろう。
この王国は外敵に攻められることが少ない島国という
利点を生かし、地中海交易で栄えたようだ。
ワインやオリーブ、銅や錫、陶器などをエジプトに
輸出していたとみられ、中王国から新王国時代のエジプトとは密接なつながりがあった。

宮殿に描かれたフレスコ画は、のちのギリシャ人のように
兵士や戦いを描くものではなく、オシャレで優雅な女性や
イルカや牛などの動物が描かれた開放的で明るいものだった。
文明の条件である都市も発達し、
前18世紀には独自の線文字Aが生まれた。
この当時のミノア人の言葉が
何系の言葉だったかはわからない。

ミノア文明が栄え始めたころは、エジプトは再び安定を取り戻した中王国の時代で、クレタとは盛んな交易があった。

当時はまだ鉄器が使われる前の青銅器時代。
青銅は銅と錫の合金で、銅に比べると硬く、
武器や農具にも使用可能だった。
銅の産地は比較的多かったが、錫の産地は少なく希少だった。なので遠隔地から貿易でそれを手に入れる必要があったのだ。当時は遠くイギリスのコーンウォールや北西スペイン、
北西フランス、北イタリアなどで産出していた錫

運ばれてきたようだ。


繁栄したミノア文明だが、前1400年ごろには滅んでしまう。
かつてはサントリーニ島で起きた火山の大爆発の影響という説もあったが、これは前1600〜20年ぐらいの出来事なので、
クレタ島も被害を受けたであろうが、
それで滅んだわけではない。
その後、前1600年ごろからギリシャ本土で栄えた
ミケーネ文明が前1450年ごろクレタ島に侵攻し、
これを支配下に置いたことはクノッソス宮殿から
ミケーネ人が使っていた線文字Bが発掘されたことから事実のようだ。
クレタ島にある他の宮殿都市遺跡のフェイトスやマリアの
宮殿はこのときに炎上したとみられている。
ミケーネ人の支配は75年に及んだが、
前1375年ごろクノッソス宮殿は全焼してしまう。
遺跡からは焼死体の跡は発見されず、
住民は逃げる余裕があったのだろう。
ここでミノア文明は完全に消滅した。
ミケーネ人が破壊したのか、それともミノア人自身が
反乱を起こし、火がつけられたのか。
それは永久にわからないかもしれない。

この後は、ミノア文明に変わったミケーネ人を含む、
インドヨーロッパ語族の大移動について述べていくことになると思う。
by mahaera | 2019-01-10 12:51 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] 初期ギリシャ文明(前3000〜前1500年)その2 ミノア文明と神話



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(写真)クレタ島にあるクノッソス宮殿跡。行ってみたら想像と違い、かなり内陸にあった。3500年前に焼失したので、残っているのは土台の部分だけ。壁は日干しレンガで作られ、柱や天井は木材だったのだろう。写真の建物の部分は、発掘後に復元されたレプリカだが、コンクリート製の結構粗雑な作りでがっかり。

ヨーロッパ最古の文明・ミノア文明
東方ではインダス文明が衰退していったころ、オリエントの西方の地中海ではミノア文明が最盛期を迎えようとしていた。
ミノア文明は東地中海のほぼ中央に浮ぶクレタ島に栄えた文明で、中心都市はクノッソス(現イラクリオン郊外)だ。
クレタ島の大きさは広島県ぐらいで、島には他にもフェストス、マリアなどの都市があった。
ミノア文明はギリシャ人の移動以前に栄えて続いたので、
現在のギリシャ人とは民族系統は別だ。
しかしその文字(線文字A)が解読されていないので、
言語は何系かわかっていない。

[クノッソスの迷宮]
ミノア文明の名前の由来は、
ギリシャ神話のミノス王の伝説による。
ゼウスとエウロペ(ヨーロッパの語源となった)との間に生まれたミノスは成長してクレタの王になったが、
その時王位継承の証として生贄に捧げる牡牛を、
海神ポセイドンに送って欲しいと頼む。
しかしポセイドンが送った牡牛があまりにも美しかったため、ミノスは代わりの牡牛を生贄にしてしまう。
ポセイドンは怒り、仕返しにミノスの妃のパシパエが牡牛に欲情を抱くようにする。
悶々としたパシパエは思いを遂げるために、
工匠のダイダロスに頼み、木製のハリボテの雌牛を作ってもらい、その中に入って牡牛と交わった。
パシパエは妊娠し、人間の体に牛の頭の怪物ミノタウロスが生まれてしまう。
困ったミノス王はクノッソスの宮殿の一部に、
ダイダロスに銘じて迷宮のラビリンスを造らせ、
そこにミノタウロスを閉じ込めた。

時が過ぎ、クレタとの戦争に負けたアテナイは、毎年少年少女7人を生贄としてクレタに貢ぐことになった。
彼らはみなミノタウロスの餌食になる運命だった。
3回目の時に、アテネの英雄テセウスが
そのグループにもぐりこむ。
ミノスの娘アリアドネはテセウスに恋し、
彼を救おうとダイダロスに迷宮脱出の方法を聞きだした。
そしてアリアドネは短剣と魔法の糸の片方をテセウスに渡し、自分は糸の片方を持つ。
短剣でミノタウロスを倒したテセウスは、
糸を手繰り寄せてアリアドネのもとに戻り迷宮を脱出する。

これがギリシャ神話の中のクノッソスの迷宮のエピソードだ。しかし神話が作られたのはミノア文明が栄えていた頃より千年も後なので、史実とは関係ないだろう。
ミノア文明が栄えていた頃はアテネもなかったろう。
しかし遠い時代の記憶が、神話となって語り伝えられていたのかもしれない。(つづく)


by mahaera | 2019-01-09 12:40 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]初期ギリシャ文明(前3000〜前1500年)その1キクラデス文化と初期のトロイ

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(写真)トロイII市(前2600〜前2300年)にある「ランプ」と呼ばれる傾斜路

ここで目をオリエントから地中海へ。
インド=ヨーロッパ語族の移動が始まる前から、
ギリシャ地域では文明が生まれていた。
ギリシャ人到来前のギリシャ文化だ。
教科書では「ギリシャとローマ」の章に入れられてしまうので、もっと後の時代かと勘違いしてしまうが、メソポタミア→エジプト→インダスに次ぐ古代文明といえるかもしれない。


ギリシャ最初期のキクラデス文化(前3000〜2000年)
紀元前3000年ごろから、オリエント文明の影響を受けた青銅器文明が東地中海の各所に生まれていた。
エーゲ海周辺の土地は狭く、大規模な灌漑農業には向いていなかったが、牧畜や交易活動が積極的に行われた。
初期のエーゲ文明は、前3000年ごろに
現在のギリシャとトルコに挟まれた海域に広がる
キクラデス諸島に生まれたキクラデス文化だ。
ただし各島の人口は少なく、せいぜい数千人程度。
キクラデス諸島では大麦や小麦を栽培し、羊やヤギの放牧、マグロなどの漁業が行われ、船による交易が行われていた。
発掘物では、まるで現代アートのような大理石の女性像が有名だ。キクラデス文化はその後、クレタ島に興ったミノア文明に統合されていく。


初期のトロイとクレタ(前3000〜前2200年)
一方、黒海とエーゲ海を結ぶダーダネルス海峡の西端では、
前3000年ごろから現トルコのトロイ遺跡がある丘(チャナッカレ近郊)にイリオスの町ができ始める(「トロイ」は英語で、古代ギリシャ語では「イリオス」という)。
この場所は、黒海交易の拠点だった(イリオス滅亡後は、海峡の東端のビザンチオン=イスタンブールが発展する)。ただしイリオスはこの頃はまだ集落といっていいほどの規模で、大きな町になるのは前2500〜前2200年になってから。

クレタ島でも前3000年ごろには、人々が町や宮殿を作り始めていたが、まだ文明と呼べるほどではなかった。
しかしキクラデス文明が前2000年ごろに断絶した後、クレタ島では「ミノア文明」が発展していく。
これらのエーゲ海文明と、それより古いマルタの巨石文明、ビブロスなどの東地中海沿岸の諸都市とは、前3000〜前2000年ぐらいの間にどの程度交易があったかはわからない。
少なくとも前2000年頃には、すでに幅広い交易活動があった。
しかし前2200年ごろ、ギリシャ本土では一度、文化が断絶する。民族移動による破壊と停滞がこの時期起きたのだろうと推測されている。つまりそのころから、インド=ヨーロッパ語族のギリシャ人が黒海付近から移動してきて、この地に住むようになるのだ。(続く)


by mahaera | 2019-01-08 09:34 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

「子供のための世界史」関連本紹介9(古代オリエント)その6「四大文明 インダス」「メソポタミアとインダスのあいだ」

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NHKスペシャル 四大文明 インダス

日本放送出版協会 (2000/08)
近藤 英夫(著), NHKスペシャル「四大文明」プロジェクト (著)

NHK、放映された「四大文明」の時に出た本。当時、初めて詳しくカメラが入ったドーラビーラー遺跡については詳しくて面白い。ただし、インダス文明の外観的なところが弱い、というか、素人にもわかるような解説が少なく、いきなり細かく専門的なところに入るので、読み進めてもイメージがつかみにくいのが難。

★★


メソポタミアとインダスのあいだ: 知られざる海洋の古代文明

(筑摩選書) 単行本 – 2015/12/14
後藤 健 (著)

メソポタミア文明とインダス文明を結ぶ間のペルシャ湾岸に、農耕ではなく交易によって栄えていた文明があったという説を唱える。それにより、両地域は孤立していたわけではなく、交易ネットワークがあって成り立っていた。イラン高原のトランス・エラム文明についても触れるが、大半はアラビア半島で繁栄した交易都市文明について。今まで知らなかったので、なかなか興味深い。文明はすべて農耕から発達したわけではないという「非農耕文明」もあったという主張や、インダス文明の起源についてイラン高原のエラム文明が関係していたという説もまた、面白い。

★★★


by mahaera | 2019-01-06 13:15 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

「子供のための世界史」関連本紹介8(古代オリエント)その5「 古代エジプト文明社会の形成」「 古代インド文明の謎」

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古代エジプト文明社会の形成―諸文明の起源〈2〉 (学術選書)
京都大学学術出版会 (2006年)
高宮いづみ 著
古代エジプトのうち、おもに先王朝時代から古王国時代まで、前3500年から前2200年ぐらいまでをとりあげる。固有名詞が多くなる王朝の政治史的なものは少なく、むしろ古代エジプト人がどのような生活を送っていたのか、文化、経済、統治システム、宗教、芸術など、社会自体を解説してくれるのでありがたい。ボリュームがあり、専門用語も多く、専門書と教養書の中間ぐらいの内容。ただし専門用語とか細かいところは読み飛ばしても、だいたいの古代エジプト人の暮らしぶりは浮かび上がってくる。★★★



古代インド文明の謎 (歴史文化ライブラリー) 単行本
吉川弘文館 (2008年)
堀晄 著
タイトルからしてインダス文明の解説本かと思ったら、実はインダス文明を滅ぼしたのはアーリア人ではない、アーリア人が大挙して侵入してきたことはなかったという自説を展開。そもそもインダス文明の担い手はアーリア系で、インドでは大幅な民族の変動はなかったという。著者の専門は中央アジアなので、中央アジアの文明に最後は持っていくのだが、自説が学会ではあまり認められていない不満に最後は終始する。説は面白いのだが、インダス文明自体についてはほとんど触れていないので、タイトルを見て読んだら違う本を読まされた気になった。むしろ「アーリア人の民族移動はなかった?」というタイトルにすればよかったと思う。ということで、インダス文明を知りたい人には役に立たない。


by mahaera | 2019-01-03 20:07 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その5 湾岸交易の衰退とエジプト中王国の滅亡

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(写真)中王国時代の都があったテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿。
これはのちの新王国時代のもの。ナイルデルタ地帯は、中王国の終盤になると次第にアジアからのヒクソスが力を伸ばし、独自の王朝を作っていく。


バーレーンのバールバール文化(前2200〜前1600年頃)

メソポタミアではインダス文明の地は「メルッハ」と呼ばれ、インダス文字を刻した印章が多く出土している。
インダス産の紅玉髄(カーネリアン)を始めとする各種貴石製のビーズ類はウルなどから出土しており、またインドのロータル遺跡などではビーズ工房が発掘されている。

メソポタミアとインダス文明の中継貿易や銅の採掘などで栄えたオマーン半島のウンム・アン=ナール文化は、なぜか前2200年頃になると拠点をよりメソポタミアに近い現在のバーレーンに移した。
そのためこれ以降をバールバール文化(文明)
(前2200〜前1600年頃)と呼ぶ。
メソポタミアでは「ディムルン」と呼ばれた国だ。
時代的には、メソポタミアが統一されてアッカド王国やウル第3王朝ができていたころ。
そして当時のチグス・ユーフラテス川の河口は、現在よりもずっと内陸にあった(港の位置が違う)。
エジプトではちょうど中王国時代だ。

バーレーンでは銅は産出しないので、おそらく中継貿易のための都市だった(銅はオマーン半島で相変わらず採掘された)。
インダスの交易品は、初期のころは直接メソポタミアに運ばれることもあったが、この頃にはこのディムルンがペルシャ湾の交易を独占するようになった。
物流の流れを整理すると、メソポタミアからは穀物、毛織物、工芸品、オリーブオイルなどが、
インダスからは紅玉髄、ビーズ細工、木材、金
そしてアラビア半島からは銅、真珠、貝の象嵌細工などが輸出されていた。
バールバール文化は前1600年ごろから衰退に向かう。
はっきりとした理由はわからないが、おそらくインダス文明の滅亡、バビロン第一王朝の衰退により、交易が停滞したことが大きいのだろう。

まあ、世界史の教科書だと「メソポミア文明とインダス文明が交流があった」ぐらいの記述しかなく、この湾岸文明についてはほぼ触れていない。同時期の陸路の道を支配していた「トランス・エラム文明」は、10年ぐらい前の教科書には一瞬掲載されたが、その後、消えたみたいだ。まあ、そこまでは覚えなくてもいいってことだと思う。しかし知っておいても面白いと思って、ここでは紹介した。


ヒクソスによるエジプト中王国の終焉

前2000年ごろからアーリア人をはじめとする民族大移動が
西アジア全域で起きていた。
もっともそれは、何百年をかけてのゆったりしたものだった。異民族のあるグループは、地中海東岸からエジプトとフェニキアの交易路を通り、エジプトのデルタ地帯に侵入してきた。
エジプト人は彼らを「ヒクソス」と呼んだ。
彼らが何系の民族だったのかははっきりとわかっていない。
諸説あるが、現在では「シリア・パレスチナ系」という説が有力だ。
エジプト側からの資料しかないので、
長らくヒクソスは「蛮族」としてのイメージが強かったが、
エジプトを何世紀にもわたって支配して王朝を打ち立てていたほどなので、統率の取れた集団であったことはまちがいない。

とにかくヒクソスが軍事力でエジプトを圧倒したことは間違いない。
まずはウマの使用だ。エジプト人が移動に使う家畜は、
それまでロバを荷運び用に使うぐらいだった。
また車輪の使用も知らなかった。
歩兵中心だったエジプト軍を、ヒクソスはウマに引かせた戦車という機動力、複合弓、青銅の刀や鎧といった当時最新の技術や装備で打ち負かした。
こうして前1700年ごろヒクソスは下エジプトに政権を打ち立てる。
ヒクソスの侵入は、よく世界史の試験には出る。
というか、高校の世界史では、中王国時代はヒクソスの侵入しか教えていない。

次回からは、紀元前2000年ごろからの民族大移動とその影響、エーゲ海文明などについての話になると思う。



by mahaera | 2018-12-31 11:12 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その4 エジプト中王国時代

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(写真)テーベ(現ルクソール)のカルナック神殿跡。

前2000年ごろのテーベの人口は4万人で下エジプトのメンフィスの6万人よりも少なかったが、中王国〜新王国時代に大きく発展し、のちにエジプト最大の都市に発展する。


メソポタミアではアッカド王国、ウル第3王朝、そして古バビロニア王国など、都市国家から領域国家への再編が進み、東ではインダス文明、西ではクレタ島のミノア文明が栄え、北ではアーリア人の民族移動が行われていた頃、エジプトではどうなっていたか。

エジプト古王国時代の末期は中央集権体制が混乱し、短い治世の王や、上下エジプトで別々の王朝が現れるなどの第一中間期へと続いていた。
前2040年頃にようやくメンチュヘテプ2世が全国を再統一し、ようやく混乱が収まる。
こうして前1790年まで中王国時代が始まる。
この時代、都は第11王朝では上下エジプトの境界にある
メンフィスではなく、もっと上流のテーベに移された。
しかし次の第12王朝ではそれよりもやや下流のアル=リシュトに移された。
中王国のことは、教科書ではほとんど触れられず、「そんなものがあった」と覚えておけば、受験にはとくに問題はない。

この時代には、エジプトは再び国力を回復し、
各地への遠征を行った。
また、デルタ地帯の大規模な灌漑や干拓事業が行われ、
地中海東岸のレバント地方、
ギリシアのミノアやクレタ島などとの交易も盛ん
になった。
周辺地域では、フェニキア人やクレタ人の活動により
海上交易が盛んになっていた。
前2000年ごろに始まったアーリア人の民族移動により、
アーリア人の王国が西アジア各地で生まれていた。
メソポタミアでは、古バビロニア王国が栄えていた。

この時代、エジプトの生産力は増し、穀物、亜麻、パピルス、宝飾品、芸術品、ヌビアからの象牙や金などを輸出
フェニキア商人の手によって地中海各地へ運ばれ、
代わりにスペイン産の錫やレバノンの杉
ギリシアからのワインやオリープオイルが輸入された。

王だけでなく他の王族や貴族も富を蓄え、別荘を持ち、
装飾品を揃え、宴会を開くようになった。
エジプト語や文字も完成し、古王国時代よりも
細かい表現ができようになった。
書記養成学校が作られ、文字を学んだ者達から、
やがてエジプト文学が生まれていった。
ただし、一番の読者は王だったので、内容は教訓的、あるいは王の力を正当化するプロパガンダの要素を含んだものだった。

「アメンエムハト1世の教訓」は、暗殺された王が後の王に、「人を信用するな」と述べたもの。
物語文学ではエジプト文学の古典と言われる『シヌの物語』が生まれた。
アメンエムハト1世の暗殺を知って遠征から戻る途中、
高官のシヌは身の危険を感じて亡命する。
シヌはベドウィン族の娘と結婚して高い地位につくが、
望郷の念が強くなり、エジプトへ戻るという話だ。
宗教的には、テーベが都になった時、
町の主神だったアメン神の地位が高くなり、太陽神ラーと結合してアメン・ラー神としてエジプトの国家神となっていく。


by mahaera | 2018-12-30 09:32 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その3 ハンムラビ法典


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(写真)ハンムラビ法典の碑文。バビロンのマルドク神殿にあったものだが、前12世紀にエラム人に略奪されて、イランのスーサで発見された。ルーブル美術館の目玉のひとつ。浮き彫りの左側がハンムラビ王で、イスに座った神から法を授かっている。つまり法は神が決めたものという意味だ。


バビロン第一王朝とハンムラビ法典
さて強力だった古アッシリア王国のシャムシ・アダド1世
前1781年に死去すると、メソポタミアは戦国時代。
群雄割拠状態になっていく。
その中で頭角を現していくのが、
バビロン第一王朝の6代目の王ハンムラビだった。
ハンムラビはシャムシ・アダド1世が生きている間は
臣従していたが、その死後はアッシリアと協力して
前1764年にシュメール地方のラルサ王朝を征服。
その後アッシリアが没落していくと、これも征服した。
こうしてメソポタミアはアッカド王国以来、久々に再統一された。
ハンムラビ王は、運河や治水、灌漑など大規模な工事を行った。
当時、すでにシュメールの地は、
千年以上続いた灌漑による塩害に苦しめられていたからだ。
またハンムラビはシュメールの法に乗っとり、
「ハンムラビ法典」を編纂して、領内の多民族統治に務めた。

ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」の復讐法ばかり有名になってしまったが、これは残酷ではなく、「倍返し」などの際限ない復讐に歯止めをかけようとしたともいわれる。
本文は282条からなり、聖書にも引用されている
「目には目を」の文は、196と197条。
おそらく当時としてはかなり公平性を持った法律で、
女性の権利や奴隷の権利、犯罪被害者へ加害者による賠償
命じるなど、身分差別(3つの身分があった)はあるが人種や宗教の差別はなかったことが特徴だ。
ハンムラビ法典はもともとアッカド語で粘土板に書かれたが、のちに石柱に刻まれた。
楔形文字でハンムラビ法典が刻まれた有名な玄武岩の石棒は、イランのスーサで発見された。
これは紀元前12世紀にバビロンから奪われ、
スーサに運ばれたもの。現在はパリのルーブル美術館にある。
ハンムラビは前1750年ごろ死去する。バビロン第一王朝はその後、しばらく続くが、最終的には前1531年にヒッタイトによって滅ぼされた。
このころには、セム系の民族に変わり、インド=ヨーロッパ系の民族がメソポタミア地域に登場していたのだ。


[ハンムラビ法典]
ハンムラビ法典には、現代からすると意外なことが記されているが、私が注目したのはビールに関する記述。
シュメールやメソポタミアでは前3000年ぐらいから
ビールが飲まれていた。
今のビールと違い、パンを水につけて発酵させたようなもので、立派な食事の一部だった。
神殿に奉納するビールの量なども定められているが、
ハンムラビ法典では
108条「酒場の女が酒と麦(貨幣の代わり)の交換を拒んだり、値段をごまかしたりしたら、川に投げ込んで溺死させてもいい」というのがある。
まずは酒場があったこと、そこで働く女性がいたこと、値段のごまかしがあったことがここからわかる。

109条「もし酒場に謀議をしている犯罪人が集まっているのを知りながら、通報しなかったら、その酒場女は死刑」

14条では「幼児誘拐が死刑」となっているのは、奴隷に売り飛ばしたりすることがあったからだろうか。不動産や土地の売買、利息に関しての規定もある。

また、「妻が子を産ませるために女奴隷を夫にあてがったら、その女奴隷はもう売ることはできない」というのも面白い。

138条「もし男子を生まない理由で正妻と離婚するなら、彼女の持参金をすべて返し、銀500グラム相当の離婚金を払わねばならない」※当時の肉体労働者の日給は銀0.23グラム。だから結構大金。

24条「もし強盗が命を奪ったら、市と市長は遺族に銀500グラムを支払わねばならない」(強盗は死刑)

モラルも厳しい。近親相姦は死刑。
155条「息子の嫁とできたら水死」
156条「婚約中の息子の相手に手を出したなら、1マナの銀の罰金」
157条「母親と相姦した場合は、二人とも焼殺」
129条「妻が現行犯で不貞していた場合、男と一緒に水死させる。ただし亭主が助命すれば許される」
131条「妻が密通の嫌疑をかけられても、現行犯でないなら、神に宣誓して実家に帰れる」

あと、家畜を借りた場合はいくら払い、それに怪我をさせた場合や死なせた場合はいくら賠償、獣医が家畜を死なせた場合はなどと、具体的、かつそういう揉め事が多かったんだなあと、当時のメソポタミアの様子がよく分かる。



by mahaera | 2018-12-29 11:16 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)