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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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カテゴリ:子供に教える世界史・古代編( 69 )

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国(前1400年ごろ〜前1200年ごろ)その2ハトシェプスト女王とトトメス3世の時代

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ハトシェプスト女王時代のエジプトは平和外交が主で、戦争も少なかった。
しかしその一方、先王であったトトメス1世が抑えたシリアでのミタンニ勢力が力を伸ばしていた。
あと記録では南方のソマリア付近にあったブント国との貿易が残っている。
ブントからは金や香料、象牙、奴隷、ヒヒなどが輸入された。

50歳でハトシェプストが亡くなり、トトメス3世(在前1490〜前1436年)の単独統治時代が来る。
彼はまず彼女の彫像や墓などを破壊し、記念建造物から名前が削り取られ、ハトシェプストの記録を抹消した
エジプトの王に女性がいた痕跡を消したかったか、単に彼女が嫌いだったか。
トトメス3世は単独統治に入ってすぐ、シリア遠征を行った。
これはミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主としてシリアの諸都市に「反エジプト同盟」を組ませて対抗したからだ。
トトメス3世はシリアの反エジプト同盟軍を撃破し、以降、監察官を置いて支配を固める。
しかしその後もシリアの反抗は続き、トトメス3世は都合17回のシリア遠征を行っている。
8度目にはアレッポ近郊でミタンニ軍と戦い、敗走するミタンニ軍を追いユーフラテス川にまで達した。
この勝利により、エジプトは国際的にもヒッタイトやカッシート、アッシリアといった国に、シリアでの主権がエジプトにあると認めさせた。
南では現在のスーダンにあったクシュ王国を屈服させた。
こうしてエジプト新王国の版図を過去最大にしたため、「エジプトのナポレオン」とのちに呼ばれるようになった。

国王と神官団
トトメス3世の死後も有能なアメンヘテプ2世、トトメス4世といった王が後を継ぎ、何度か起きたシリアの反乱を手早く鎮圧した。
しかし一方で、この時代にはテーベの神官たちが強力な力を持ち、王と緊張関係を持つようになって行った。
国家神であるアメン・ラーを祀るカルナック神殿には、エジプトが戦争で勝利するたびに膨大な戦利品が寄付され、経済的にも国家予算の半分を手にしていた。
記録によると、神殿領はエジプトの全耕地の1/3を所有し、その神殿領の全財産の3/4をテーベの神殿が保有していた。
そのため国王を誰にするかでも、神官たちの力が働いていた。
戦争に勝つたびに、神官たちの力は強くなっていったのだ。

トトメス4世はその力を削ごうと、他の神への寄進も行った。
次のアメンヘテプ3世(在位前1386年〜前1349年)は40年にわたる統治の間、アメン神官団をうまく抑え、多くの建造物が造られた。
今もルクソールに残る「メムノンの巨像」は、アメンヘテプ3世の座像で、彼の巨大な葬祭殿の一部だった。
ただし葬祭殿自体は現在ではほとんど残されていない。
また、ルクソール神殿もこの時代に建設された。(続く)
(写真)ルクソールにある「メムノンの巨像」は、アメンヘテプ3世葬祭殿の一部だった


by mahaera | 2019-03-21 11:04 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国(前1570〜前1200年)その1 エジプト新王国の誕生

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(写真)現在もハトシェプスト女王の葬祭殿は、ルクソールの人気観光地だ。

久しぶりに舞台はエジプトへ。
前2000年から前1500年にかけておきたインド=ヨーロッパ語族の民族移動は、馬と戦車という最新兵器と共にオリエント、イラン、インドに大きな変動をもたらした。
しかし当初はやられっぱなしだった国や地域の中には、その最新軍事技術を取り入れて再興した国がある。
それがエジプトだ。

インド=ヨーロッパ語族の移動に押し出されるように、「ヒクソス」と呼ばれるレバント(地中海東岸)地方のさまざまな民族の混成軍がエジプトを征服したが、彼らが軍事的に優位だったのは、その「馬と戦車による戦術」を取り入れていたからだった。
当時のエジプトはロバに戦車を引かせていたから機動力では太刀打ちできなかった。
しかし、そんなヒクソスの王による統治も100年も続けば、エジプト人も技術を学び馬と戦車を利用するようになる。
こうしてヒクソスを追い出してエジプト人による王国を再び興す。これが「新王国」時代だ。

新王国は古代エジプトの中でももっとも繁栄した時代で、傑出したファラオが次々に現れた。

教科書に名が載るだけでも、エジプト史上初の女性ファラオのハトシェプスト女王、遠征を繰り返し「エジプトのナポレオン」と呼ばれたトトメス3世、世界初の一神教を生んだアメンホテプ4世、黄金のマスクで知られるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の4人がいる。
この時代、対外的にはシリアなどのレバント地方に進出し、またオリエントの国際政治に深く関わっていた。

ヒクソスの駆逐とエジプト再統一
ナイル下流域の下エジプトに都を置いたヒクソスの王朝に反旗を翻したのは、ナイル中流域のテーベ(現ルクソール)拠点としていた第17王朝だった。
3代の王による対ヒクソス戦争が行われ、前1570年ごろ下エジプトのヒクソス勢力をエジプトから駆逐。
イアフメス1世はさらにヒクソスの残存勢力をパレスチナに追い詰めて滅亡させる。
以降シリア南部にエジプトの統治が及ぶことになる。
また彼は南のヌビア(現スーダン)にも遠征し、それを支配下に置いた。実際はその前のヒクソスと並立していた17王朝と連続しているが、古代エジプトの歴史区分的には、この功績からイアフメス1世を第18王朝の創始者とし、「新王国時代」となっている。
続くアメンテヘプ1世は内政に力を、次のトトメス1世は外征に力を注ぎ、当時力延ばし始めていたミタンニ王国に圧力を加えた。
その後を継いだトトメス2世は病弱ということもあり、姉のハトシェプストと結婚して王位継承の正当性を強化。
側室との間の子トトメス3世を後継者に指名して死去する。
しかしトトメス3世はまだ幼かったので、ハトシェプストが共同統治者として摂政となり、エジプトでは女性として初めて女性が最高権力を持った(前1493年〜前1483年)。
ハトシェプストは公式な場では男装し、あごひげをつけていたという。


by mahaera | 2019-03-17 11:27 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その6 インド・アーリヤ人と同系統?のフルリ人のミタンニ王国


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前回までは黒海北岸から東へ向かったインド=ヨーロッパ語族の話だったが、ここからは南に向かったグループの話。
これもインド=ヨーロッパ語族ではないかと言われているのが、前25世紀ごろコーカサス山脈付近から北メソポタミアに南下したフルリ人だ。
最初は少数であちこちに分散し、国家を作るほどの勢力ではなかったが、前17世紀にはフルリ人初の国ヤムハド王国が生まれる。
この国は短命だったが、前16世紀には北メソポタミアにミタンニ王国が建国する。
ミタンニは世界史の教科書にも出てくるので、覚えておいたほうがいいだろう。
この王国の支配層はフルリ人だったが、住民の多くは前から住んでいたメソポタミアの民族だった。
またフルリ人もすべてがインド=ヨーロッパ語族ではなく、そのトップだけがそうだったのかもしれない。
というのもフルリ語は膠着語でインド=ヨーロッパ語系ではないものの、ヴェーダ時代のインドのサンスクリット語と共通する単語が多数使われていた。
数字の呼び名が1(eka)、3(tera)、5(Panza)、7(satta)と、今もインドで使われている単語に近かったり、インドラやヴァルナといったインドの古代の神々を信仰していたりしたようだ。
また、フルリ人の神々の名前、王の名前はサンスクリット語で説明できるものだった。
なので南に向かったアーリア人の一派がコーカス山脈あたりで土着の民族を支配し、フルリ人を形成。
さらに南下したのかもしれない。
彼らはインド=ヨーロッパ語族が持っていた火葬の習慣と馬と戦車の使用をメソポタミアにもたらしたが、それはアーリア人のインド侵入とほぼ同時期だった。
また、馬を扱うフルリ人は、古代オリエントの国家に調教師として派遣されていたという記録もある。
また、陶芸や冶金にも秀でていたという。
フルリ人のミタンニ王国は300年続き、最盛期はアッシリアを支配下に置き、オリエントの強国として南のバビロニアと対立。ヒッタイトやエジプト新王国と交流し、時には戦争もした。



by mahaera | 2019-02-28 19:01 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その5 インド北西部へのアーリア人の侵入/馬と車輪

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(写真)スポーク付きの車輪が現れるまでは、車輪は円盤だった。スポークの考案により、車輪の重量を減らし、歪みや強度にも対応出来るようになった。


インド北西部のパンジャーブ地方に侵入したインド・アーリア人だが、大集団が一気に移住したのではなく、小集団が百年以上かけてゆっくりと移動してきたのかもしれない。
移住の理由は定かではないが、定住していた中央アジアの気候の変化や人口の増加による牧草地不足があったのだろう。
彼らはインダス文明の末裔であるインド先住民たち(アーリア人は彼らを「黒い肌のもの」と呼んだ)を征服した。
当時、彼らは2頭、あるいは4頭立ての二輪戦車金属の武器を使用し、世界的にも圧倒的な軍事力を持っていた。

アーリア人は牛を主とした牧畜民だったが、パンジャーブの地に入り先住の農耕民と交わり、やがて農耕社会に移行していった。前1500〜前1000年ぐらいの間、パンジャーブ地方に彼らが留まっていた時代を前期ヴェーダ時代という。
大きな国は作られず、部族社会のままだったようだ。
やがて前1000年ごろからアーリア人はインド北部のガンジス川方面に第二次移動を始めるが、それは次の機会に。


[馬と車輪]

車輪は文明の発達になくてはならない発明だが、世界ではメソアメリカ文明やアンデス文明のように車輪が発明されなかった(おもちゃとしてはあった)文明もある。
車輪が発明されたのは新石器時代の末期で、すでに農耕は始まっていた。
車輪の利用は、それをひく家畜の利用とほぼ対になっている。
つまり、車輪をひく家畜がいなければ実用化は難しい。
前4000〜前3000年ほどの間にメソポタミアからヨーロッパ南部にまで車輪の技術は伝わったが、荷車を引くのはおもに牛やロバだった。
また、車が威力を発揮するには、平らな道が必要だった。
前2500年ごろのシュメールではロバに戦車を引かせていたが、実際の戦闘で役立ったかは不明だ。
インダス文明でも牛車が使われていた。

馬が家畜化されたのはインド・ヨーロッパ語族の故郷である前4000年ごろのウクライナという。
当時は食肉が目的だったが、そのスピードを生かして荷物を運ばせたりするようになる。
また、馬が家畜化される以前は、戦闘に使えるほどスピードがある家畜はいなかった。
初期の車輪は木製の円盤で、強度上の問題から一本の木の縦の断面から切り出していた。
ということはよほど大きな木でないと大きな車輪は作れなかった。また、車輪を動かすには平らな土地でないと無理だ。
なので中央アジアの平原地帯で、前2000年ごろ、おそらくインド・ヨーロッパ語族により最初にスポークのある車輪が発明されたのも納得がいるだろう。スポークの利用により、強度や耐久性が高まり、また車輪の重量も減らすことができる。
これを馬に引かすことによって機動性がよく、軽くて速い戦車や馬車を作り出すことに成功した。

戦争の歴史では騎馬よりも戦車が先に開発されている(前2500年ごろ)。
というのも騎馬で戦うには鞍や鎧、手綱などの発明が必要だったからだ。
それにこのころの馬はまだ小型で、騎馬に適さなかったとも。
戦車の場合、御者と弓をひくものは別なので2〜3人乗りになるが、騎馬は1人で馬の操作と弓の攻撃もしなければならない。
つまり矢を放っている間、馬から落ちないためには鞍や鎧が必要だった。裸馬に乗るのはたぶん早い段階で達成していたと思うが、そこから先に時間がかかったのだ。

また、戦車の場合、牛車と違い車輪は高速で回る。
そのためには金属の部品が必要で、それには前1200年以降の鉄器の普及もかかわってくる。
しかし初期の頃には、まだ金属器が使われていないか、せいぜい青銅が一部使われていたぐらいなのだろう。
しかしそれでも馬に引かせた戦車は、圧倒的な機動力があり、そこから弓矢を打てば多くの敵を倒せた。
第一次世界大戦で装甲した自動戦車が登場したのと同じくらいのインパクトはあったのだ。
こうして前2000年から前1500年にかけて、世界各地にインド・ヨーロッパ語族が最先端の軍事力で広がっていったのだ。


by mahaera | 2019-02-05 03:01 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その4 アーリア人の移動とインダス文明の滅亡

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(写真)インダス文明でも牛は神聖視されていたが、やってきたアーリア人もそれは同様だった。牛の家畜化はオリエントで始まったが、現在のインドの牛は別系統なので、インドでは別の種類の牛を独自に家畜化したのかもしれない。

民族大移動始まる
前2000年ごろから、インド=ヨーロッパ語系のアーリア人が黒海北部あたりから中央アジアに進出し始めた。
地中海ではミノア文明が栄え、エジプトでは中王国時代、メソポタミアでは都市国家が並立していた頃だ。
この頃、世界的な規模で人々が移動を始めているので、大きな気候の変動があったのかもしれない。

中央アジアではおそらく彼らにより独自の文化(バクトリア・マルギアナ複合体=BMAC)が発展し、世界最古のスポーク付きの車輪が生まれた(車輪自体はそれ以前からあった)。
アフリカでもこのころ大規模な民族移動が始まり、エチオピア高原から牧畜民がケニアに移動し始める。
西アフリカでは、カメルーンのあたりからバントゥー系語族が東へ移動を始める。
これはアフリカにおいては、インド=ヨーロッパ語の移動に匹敵し、南アフリカにまで広がった。
中央アジアから前2000〜1500年ごろイランに移動したアーリア人たちは、ゆるやかに先住民のエラム人の社会に浸透し、そしてエラム人をアーリア化していった。
これはエラム人がいなくなったという訳ではなく、文化的に同化されていったということだ。


インダス文明の滅亡とアーリア人の侵入
イランより東では、前1500年を過ぎた頃に中央アジアから(もしくはイラン高原経由)アーリア人の一派がインドのインダス川方面に移動を始めた。これがインド・アーリア人になる。
インダス川周辺に栄えていたインダス文明だが、前1800年ごろを境に衰退していった。
その理由は現在もハッキリとわかっていない。
メソポタミアやエジプトは建物の建材に日干しレンガを使っていたが、インダス文明の都市は焼きレンガを使っていた。
これは大量の木材が必要だったので、森林伐採による環境破壊が原因ではないかという説もある。
また気候の変動による洪水説、交易路の変化説などが唱えられているが、決定的となる説はない。

1980年代までの歴史教科書では、侵入してきたアーリア人がインダス文明を滅ぼしたと書いてあったかもしれないが、現在ではアーリア人がインド北部に来た頃にはすでにインダスの諸都市は滅亡しかかっていたとして、否定されている。
ともかく、インドでは都市文明が放棄され、この後は小さな村落を中心に農耕と牧畜の時代が1000年ほど続く。
次にインドに都市といえるものが現れるのは、前500〜前400年ごろだ。

by mahaera | 2019-01-27 22:20 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その3 インド=ヨーロッパ語族

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(写真)パキスタン北部山岳地帯、フンザ地方グルミット村の少女たち。

このあたりは、パキスタンでもインド系ではなく、イラン系の顔立ちの人が多い。


人種とは別に「インド=ヨーロッパ語族」が広く拡散したことは学説的にはほぼ定説となっている。
これは話者人口では現在世界最大の語族で、
大半のヨーロッパ言語とイランのペルシャ語、
インドのヒンディー語
などが含まれている。

ヨーロッパ系の言語とヒンディー語は今ではかなり異なるが、18世紀末に古代語であるサンスクリット語と古代ギリシャ語が同じような構造であることに気づいた学者がおり、以降、研究が進んだ。
そこでそれらの諸言語の大もとになる「印欧祖語」があると推測され、その起源を探すようになる。

印欧祖語がどこで生まれたかについては諸説あるが、現在では紀元前5000年ぐらいにウクライナ南部からアナトリア半島北岸にかけての地域、つまり黒海の北岸から東岸、そして南岸の一部、カフカス山脈にかけてその話者が住んでいたと推測されている。
そして言葉に含まれる単語と考古学の研究が進み、
その社会もだんだんとわかるようになってきた。
生活では牧畜と農耕が主で、一部では遊牧という社会形態も始まっていた。
ともあれ、一番の財産は家畜で、牛、馬、豚を飼っていた。
車も導入され、家畜に引かせており、銅器や青銅器は使われていた。
宗教は多神教で、神は天に住み、天空神が重要視された。のちの話だが、世界最初期の騎馬文化が生まれたのもこの語族だ。

従来はインド=ヨーロッパ語族とは見られていなかった「古アナトリア諸語(ヒッタイト人)」なども前5000年ぐらいの早い段階で枝分かれした言葉とみられている。
同時期に分かれた言葉としては、紀元後8世紀まで現在の新疆で使われていたトカラ語もあるが、共に死語になっている。
その次に分かれたのが古代ギリシャ語やアルメニア語だ。
当然ながら古くに分かれた言葉ほど、他の言語との隔たりが大きい。

そしてインド・イラン諸語と、
ヨーロッパ系の言語に分かれたのがだいたい前4000年ごろ。
インド・イラン語派のもとは中央アジア付近で形成されていったと考えられ、前2500〜2000年ぐらいの間にそれぞれ別の言語へと分かれて行った。
インド・イラン語派の話者は現在、バングラデシュのベンガル語からトルコ東南部のクルド語までの範囲にわたって広範囲に広がっている。
ちなみにヨーロッパのロマ(ジプシー)語も、このインド・イラン語派に入る。

最初に東へ移動したグループは、ヒッタイト人やギリシャ人となった。
エーゲ海周辺ではイリオス(トロイ)などで前2200年ごろ一度文化が断絶しているが、インド・ヨーロッパ語族の最初のギリシャ人がこのころに移住してきたとみられている。
しかしギリシャやヨーロッパ方面への民族移動は、
この後、何回も続く。

インド・ヨーロッパ語族の民族は、前1900年ごろからオリエントの地へも少しずつ侵入しだした。
最初に彼らが国を作ったのは小アジアのヒッタイトだが、メソポタミア北部に建国したフルリ人の国ミタンニも、フルリ語は膠着語だが、単語に多くのサンスクリット語系の言葉を含んでいる事から、支配階級はインド・アーリア語族の可能性が高いという。フルリ人は馬を用いた戦車を使っていた。(続く)
by mahaera | 2019-01-24 00:07 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その2 [間違いだらけのアーリア人学説?] 

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(写真)インダス文明の人形。昔は「インダス文明はアーリア人の侵入によって滅んだ」と教科書に出ていたが、現在はアーリア人の移動はインダス文明の滅亡後で、直接は関係ないとされている。(デリー国立博物館収蔵)


よく勘違いするのが、用語としての「インド=ヨーロッパ語族」と「アーリア人」との関係だ。
狭義のアーリア人とは、前1600年ごろにイランに侵入していった牧畜系征服民族で、現在のイラン人(国号の「イラン」もアーリア人の国を意味する)のこと。
イラン・アーリア人とは別に、この時、
東に向かったグループがインド・アーリア人だ。
狭義の「アーリア民族の移動」はこのことを示す。
一般的には広義のアーリア人というと、イラン・アーリア人、インド・アーリア人、パシュトーン人やタジク人を示す。
しかし「アーリア人」というと「ゲルマン人」を
イメージする人もいるだろう。
なぜヒトラーは「我々はアーリア民族」と言ったのだろうか。

もともと人種と語族は、別な概念だ。
英語が国語のアメリカを考えれば、同じ語族の国でもさまざまな人種が混在しているのはわかるだろう。
しかし「インド=ヨーロッパ語族」=「アーリア人」と
拡大解釈し、そのような人種がかつていたと
作り出したのが「アーリアン学説」だ。
「アーリア神話」とも呼ばれるこの学説は今では
全く根拠がないが、自分たちを優秀な民族だと正当化し、
白人が世界を支配するのに都合のいい学説だっだ。
とくに「ドイツ人」(1871年ドイツ帝国建国)が生まれてまだ半世紀もたっていないドイツでは国民の心をつかみ、「ゲルマン人こそ純粋なアーリア人」という学説が神秘主義やオカルトと混じり、ヒトラーはそれに感化されてナチズムを生んだ。
ナチズムでは、純粋アーリア人が優良人種として世界を支配すると真剣に考えたが、そもそもゲルマン系ドイツ人と、
イラン人やインド人を一緒にするのは無理がある。
それでも第二次世界大戦中は、
「実は日本人もアーリア人だった!」とか
「インド人はアーリア人だから、イギリスと戦え」とか、
都合のいい学説も唱えられた。

ということで、現在の世界史では「アーリアン学説」は否定されているので混同しないこと。
つまり「アーリア人」が出てきたら、せいぜいイラン、インドを含む「広義の」アーリア人と解釈して欲しい。(続く)


by mahaera | 2019-01-20 11:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] インド=ヨーロッパ語族の民族移動の時代(前2000〜前1500年)その1歴史上何度かあった民族移動

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(写真)パキスタンのフンザ地方。こうした険しい山や谷を越えて、人々はより環境の良い地を目指して移動していった。

人類は歴史上、何度も民族移動を繰り返しており、
それは現在でも続いている。
そもそも人類が移動を始めなければ、
我々は今もアフリカにとどまっていたはずだ。
人は常により良い環境を求めて移動をする生物であり、
その能力も持っている。
最初は徒歩で、やがて馬などの動物を乗り物に、
そして船や車、飛行機などを使い世界中に拡散していった。
きっといつかは集団で宇宙に進出していくだろう。

歴史上、その拡散や移動には大きな波があった。
後から来た波は、先にそこに住んでいた者を支配し、
同化したり滅ぼしたりするが、
また次の波が来れば同じことが起こった。
そうして現在では「単一民族」と呼ばれているグループでも、
実は多くのレイヤーを重ねている。
日本人だって、顔つきひとつ見ても
様々な民族が混じり合っているのがわかるだろう。
世界史の中では、こうした民族移動が
たびたび取り上げられている。
ただし民族移動といっても同じ民族が固まって長距離を移動していくわけではなく、移動の過程で周辺民族を取り込んだり、玉突き現象で押し出されていく場合もあったりした。

高校生の大学受験レベルでも押さえておかねばならない大移動は、前2000〜1500年頃のインド=ヨーロッパ語族、
前1200年頃の「海の民」、4〜7世紀のゲルマン民族、
9〜11世紀のノルマン人、16〜17世紀のスペイン人の新大陸への移民、20世紀初頭のアメリカへの東欧移民が挙げられるだろう。
自主的ではないが、アフリカから新大陸へ連れて来られた
黒人も民族移動に入れてもいいだろう。
アジア地域では大規模な民族移動が行われている。
ただし数百年かけてのゆったりしたもので、現地の文明を破壊していくほどではなく、ゆっくりと浸透していくようなものだった。
長江以南への漢民族の移動、トルコ系民族の移動、
雲南からのタイ族の移動などだ。
それらは、また別の機会に。

大規模な民族移動はそこにあった社会を破壊することもあるが、社会が新たに活性化することもある。
たいていは後から来た方の民族のほうが少数派なので、
時代を経るに従って同化していくが、逆に文化的に
上位の場合、少数でも文化的に支配していく場合もある。
世界史を学んでいくと、そうした文明の衝突を世界のさまざまな場所で見ていくことになるだろう。(続く)


by mahaera | 2019-01-19 11:30 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]初期ギリシャ文明(前3000〜前1500年)その3 交易によって栄えたミノア文明

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(写真)クレタ島イラクリオン郊外にあるクノッソス宮殿跡


前2000〜前1500年ほどに栄えたミノア文明の
クノッソス宮殿跡には、高い城壁などがなかったことから、
メソポタミアの都市と異なり、外敵に悩まされることがなかったと言われている。
実際、宮殿が焼け落ちるまで、大きな戦争が続くこともなかったのだろう。
この王国は外敵に攻められることが少ない島国という
利点を生かし、地中海交易で栄えたようだ。
ワインやオリーブ、銅や錫、陶器などをエジプトに
輸出していたとみられ、中王国から新王国時代のエジプトとは密接なつながりがあった。

宮殿に描かれたフレスコ画は、のちのギリシャ人のように
兵士や戦いを描くものではなく、オシャレで優雅な女性や
イルカや牛などの動物が描かれた開放的で明るいものだった。
文明の条件である都市も発達し、
前18世紀には独自の線文字Aが生まれた。
この当時のミノア人の言葉が
何系の言葉だったかはわからない。

ミノア文明が栄え始めたころは、エジプトは再び安定を取り戻した中王国の時代で、クレタとは盛んな交易があった。

当時はまだ鉄器が使われる前の青銅器時代。
青銅は銅と錫の合金で、銅に比べると硬く、
武器や農具にも使用可能だった。
銅の産地は比較的多かったが、錫の産地は少なく希少だった。なので遠隔地から貿易でそれを手に入れる必要があったのだ。当時は遠くイギリスのコーンウォールや北西スペイン、
北西フランス、北イタリアなどで産出していた錫

運ばれてきたようだ。


繁栄したミノア文明だが、前1400年ごろには滅んでしまう。
かつてはサントリーニ島で起きた火山の大爆発の影響という説もあったが、これは前1600〜20年ぐらいの出来事なので、
クレタ島も被害を受けたであろうが、
それで滅んだわけではない。
その後、前1600年ごろからギリシャ本土で栄えた
ミケーネ文明が前1450年ごろクレタ島に侵攻し、
これを支配下に置いたことはクノッソス宮殿から
ミケーネ人が使っていた線文字Bが発掘されたことから事実のようだ。
クレタ島にある他の宮殿都市遺跡のフェイトスやマリアの
宮殿はこのときに炎上したとみられている。
ミケーネ人の支配は75年に及んだが、
前1375年ごろクノッソス宮殿は全焼してしまう。
遺跡からは焼死体の跡は発見されず、
住民は逃げる余裕があったのだろう。
ここでミノア文明は完全に消滅した。
ミケーネ人が破壊したのか、それともミノア人自身が
反乱を起こし、火がつけられたのか。
それは永久にわからないかもしれない。

この後は、ミノア文明に変わったミケーネ人を含む、
インドヨーロッパ語族の大移動について述べていくことになると思う。
by mahaera | 2019-01-10 12:51 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編] 初期ギリシャ文明(前3000〜前1500年)その2 ミノア文明と神話



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(写真)クレタ島にあるクノッソス宮殿跡。行ってみたら想像と違い、かなり内陸にあった。3500年前に焼失したので、残っているのは土台の部分だけ。壁は日干しレンガで作られ、柱や天井は木材だったのだろう。写真の建物の部分は、発掘後に復元されたレプリカだが、コンクリート製の結構粗雑な作りでがっかり。

ヨーロッパ最古の文明・ミノア文明
東方ではインダス文明が衰退していったころ、オリエントの西方の地中海ではミノア文明が最盛期を迎えようとしていた。
ミノア文明は東地中海のほぼ中央に浮ぶクレタ島に栄えた文明で、中心都市はクノッソス(現イラクリオン郊外)だ。
クレタ島の大きさは広島県ぐらいで、島には他にもフェストス、マリアなどの都市があった。
ミノア文明はギリシャ人の移動以前に栄えて続いたので、
現在のギリシャ人とは民族系統は別だ。
しかしその文字(線文字A)が解読されていないので、
言語は何系かわかっていない。

[クノッソスの迷宮]
ミノア文明の名前の由来は、
ギリシャ神話のミノス王の伝説による。
ゼウスとエウロペ(ヨーロッパの語源となった)との間に生まれたミノスは成長してクレタの王になったが、
その時王位継承の証として生贄に捧げる牡牛を、
海神ポセイドンに送って欲しいと頼む。
しかしポセイドンが送った牡牛があまりにも美しかったため、ミノスは代わりの牡牛を生贄にしてしまう。
ポセイドンは怒り、仕返しにミノスの妃のパシパエが牡牛に欲情を抱くようにする。
悶々としたパシパエは思いを遂げるために、
工匠のダイダロスに頼み、木製のハリボテの雌牛を作ってもらい、その中に入って牡牛と交わった。
パシパエは妊娠し、人間の体に牛の頭の怪物ミノタウロスが生まれてしまう。
困ったミノス王はクノッソスの宮殿の一部に、
ダイダロスに銘じて迷宮のラビリンスを造らせ、
そこにミノタウロスを閉じ込めた。

時が過ぎ、クレタとの戦争に負けたアテナイは、毎年少年少女7人を生贄としてクレタに貢ぐことになった。
彼らはみなミノタウロスの餌食になる運命だった。
3回目の時に、アテネの英雄テセウスが
そのグループにもぐりこむ。
ミノスの娘アリアドネはテセウスに恋し、
彼を救おうとダイダロスに迷宮脱出の方法を聞きだした。
そしてアリアドネは短剣と魔法の糸の片方をテセウスに渡し、自分は糸の片方を持つ。
短剣でミノタウロスを倒したテセウスは、
糸を手繰り寄せてアリアドネのもとに戻り迷宮を脱出する。

これがギリシャ神話の中のクノッソスの迷宮のエピソードだ。しかし神話が作られたのはミノア文明が栄えていた頃より千年も後なので、史実とは関係ないだろう。
ミノア文明が栄えていた頃はアテネもなかったろう。
しかし遠い時代の記憶が、神話となって語り伝えられていたのかもしれない。(つづく)


by mahaera | 2019-01-09 12:40 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)