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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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カテゴリ:子供に教える世界史・古代編( 36 )

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その5)

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(写真)ギザにあるクフ王のピラミッド。バスや馬から見ると、いかに大きいかわかる


ピラミッド建設黄金時代
前2600年頃に第3王朝から第4王朝へと変り、
ピラミッドは途中で角度が変わるスネフェル王の屈折ピラミッドなどが作られ、いよいよクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三代の王によるギザの三大ピラミッドが建設される時代になる(前2550〜前2490年ごろ)。
なかでもクフ王のピラミッドは底辺約230m、高さ約140m(建設当時は146.5m)あり、当時の高い技術水準がわかる。

ギリシアの歴史家ヘロトドスは、
クフ王はこのピラミッドの建設のために強制労働を国民に強いて、奴隷を酷使したと述べており、
そうしたイメージが今にいたるまでついてしまっているが、
近年の研究ではそうではなく、「失業者対策」の意味も兼ねていたという説が有力になっている。

石材はアスワンで大きく切り出され船で運ばれ
ギザに近いナイル河畔の石切場でブロック
整えられて運ばれる。
ピラミッド建設の主要期間は、増水となる農閑期の4か月だ。
この時期はナイルも水量を増しているから、
川の流れも早かったろう。
建設現場近くには労働者村が築かれ、
そこで労働者は家族たちと暮らしていた。
食料はファラオの食料庫から提供されており、パンやビール、精がつくようにニンニクとタマネギが配られたという。
食うにも困る人々は、
ここで働けば少なくとも食は補償されたわけだ。
また、徴用されたとしても、当時のエジプトの人口からすると数年から10年に1度、それも4か月ぐらいの働きなので、古代中国の兵役に比べればさほど負担ではなかったろう。
しかもクフ王のピラミッドは建設に30年もかかった
というから、早く完成することが
そもそも目的でなかったのかもしれない。
ピラミッド建設のようなこうした大規模な公共事業は、
それ以外の効果ももたらした。

エジプト各地から人を集めるのには、各地域の正確な人口を知らなければならないから、人口調査が行われたことだろう。
また、様々な地方から来る人々の間に共通言語が生まれたり、同じ神を信じることから
エジプト人意識も進んだりしたことだろう。
大規模な土木工事には官僚制の整備も必要であり、またファラオにならない王族に役職を与えるのにも好都合だった。

(続く)


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by mahaera | 2018-11-15 17:02 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

「子供のための世界史」関連本紹介4(古代オリエント)その1「毛皮と人間の歴史」「シュメール―人類最古の文明の源流を辿る」

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毛皮と人間の歴史
 紀伊國屋書店 2003年 西村三郎

図書館で探したけど、ありそうでなかった人間の衣服歴史本。

この本はタイトルにある通り、服飾の中でも毛皮に絞ってあるが、最初の頃の古代の章では人類が服を着始める頃のことについても記してあって参考になった。
特に資料から具体的な数字を引いているので
イメージしやすい。
世界史の教科書からは、古代人の服装をイメージしにくい。
まだ布が高価な時代、自分では、古代の一般庶民は手に入りやすいヒツジやヤギ、犬などの毛皮を下半身に身にまとっていたと思っていたが、どの歴史本でも言及していなかったので謎だった。
しかし、この本ではローマ時代の物価の資料で、
その3種の皮が取引されていたことが出てきて
ようやく納得がいった。中世以降は、
具体的な毛皮の貿易量が出てくるので、これも参考になる。
★★★☆


シュメール―人類最古の文明の源流を辿る
 アリアドネ企画 1998年 ヘルムート ウーリッヒ

タイトルのようにシュメール文明の研修者による解説本なのだが、構成のせいなのか、翻訳のせいなのか、大まかな流れがわかりにくい。
ページを読み進めていっても、50ページ前からどのくらい歴史が流れていったのかがわかりにくいのだ。
もちろん一冊まるごとシュメールなので、
詳しいことは詳しいのだが、読み終わっても、
あまりシュメール人のことが生き生きと伝わってこないのが
残念。★★


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by mahaera | 2018-11-13 11:01 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その4) エジプト初期王朝時代


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(写真)サッカーラの階段ピラミッド

さて前回、エジプト神話でオシリスの息子のホルスが、
父の弟で仇であるセトを打ち負かして王になったと述べた。
これは初期王朝のころは、セト神とホルス神を信じる
グループがおり、その抗争後、
和解して統一したということかもしれない。
ただし初めてエジプトが統一されたころは、
王はまだ上エジプトの有力者の中の第一人者にすぎなかった。
だから強力な王権を確立するために、首都を下エジプトに近いメンフィスに移し、各地に遠征も行ったようだ。
第二王朝のころにはエジプトが青銅器時代に入り、
シナイ半島にある銅山を手に入れている。

この初期王朝時代に、古代エジプトの文字であるヒエログリフが生み出された。これは絵文字から発達したもので、
やがて早く書きやすいようにやがて様式化されていく。
神官文字(ヒエラティック)からやがてもっと簡略化された民衆文字(デモティック)が作られるが、
それはもっと時代が下ったころだ。

書記は穀物の量や家畜の頭数を調査して税の基準とし、
また土木事業の進行具合を記録し、
戦時には軍団にも同行して記録を残した。
記録は木製のパレットに赤と黒の絵の具を入れ、
葦の筆でパピルスの紙に文字を書いた
神殿には膨大な書類があり、専門の書類整理係がいた。
シュメール人が粘土板に楔形文字を刻んでいたころ、
エジプト人も同じようなことをしていたのだ。
世界史の中で文字の発達は、まずは税の管理から始まった。
しかし書類がパピルスだったエジプトならいいが、
粘土板だったメソポタミアの書記は大変だったろうな。
上司に「おい、去年の資料持ってこい」と言われると、
その重労働におびえたことだろう。
粘土板100枚とか重そうだもの。


ピラミッド建設の開始(エジプト古王国時代)

さて、次に続く第3王朝から第6王朝までの約500年間(前2686〜前2181年)が「古王国時代」だ。
エジプトは上下エジプトの境界であるメンフィスを都として栄え、ピラミッドが数多く建設された。
この時代に王であるファラオの力は確立し、
神と同一視される神権政治が確立した。
ピラミッドが最初に作られたのは、
第3王朝の2代目の王ジェセル(前2630年頃)の時で、
それがサッカーラにある階段ピラミッドだ。
石造りの巨大建築としてはエジプト初で、
建設当時はピラミッドの周辺に王宮や神殿もある
複合施設だった。
最初ということで建設中に何度も計画が変更され、
このピラミッドだけ底辺が正方形ではない。
この階段ピラミッドは形がメソポタミアのジッグラトに似ているので、その影響を受けたというのが定説だ。
それがエジプト独自で発展していき、
方錐形の「真正ピラミッド」に発展していく。(続く)


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by mahaera | 2018-11-12 14:02 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その3)

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(写真)太陽神ラーとファラオ。ラーの頭はハヤブサで、頭上には太陽を表わす円盤を載せている(アブシンベンル神殿)

エジプトの統一

ナイル川沿いに40以上あった小国家であるノモスだが、
やがて上エジプトと下エジプトの2つの王国にまとまり、
前3100〜前2900年頃には上エジプトのナルメル王(別名メネス王)が下エジプトを征服しエジプトを統一する。
都は上下エジプトの境界線であるメンフィスに建設された。
メンフィスは現在のギザの20キロほど南にあり、今では遺跡が残っているだけだが、古王国時代を通じて首都となる。

古代エジプトの王朝区分だが、
このナルメル王の統一からアレクサンドロス大王による征服までを約30の王朝に分けている。
そのうち重要な時代を、古王国、中王国、新王国の3つの時代に分けているが、細かく言うとそれぞれに中間期があり、
前後に初期王朝時代や末期王朝時代がつくので、
全部で8つに区切られる。
が、試験にはそこまで細くは出ないし、マニアでなければそういうものがあったぐらい頭に入れておけばいいだろう。

「初期王朝時代」と呼ばれる第一王朝と第二王朝時代は、
教科書レベルだと取り上げられないが、
ここはエジプト王国の王権が確立された時期だと思えばいい。
王はハヤブサの神ホルス神の化身とされた。
この時期は、のちに伝わるエジプト神話が形成される時期でもあった。
歴史的にはわからないことが多いが、神話にそのヒントが残っているかもしれない。

エジプトの創生神話

万物を創生した太陽神アトム=ラーは、大気の神シューとその妻の湿気の女神テフネトを作り、その2人は大地の神ゲプと天空の女神のヌトを生んだ。
ゲプとヌトの間には4人の子供がおり、兄のオシリスと姉のイシス、弟のセトと妹のネフティスがそれぞれ結婚する。
オシリスはエジプトの王となり、善政を行って人々に慕われるが、それを妬んだ弟のセトに殺されてしまう。
ところが殺されたオシリスはイシスによって復活する。
セトはオシリスが生き返らないように、
今度は殺してバラバラにして各地に撒いてしまうが、
イシスは忍耐強くパーツを拾い集めて
またオシリスを復活させる。
いろいろあって最後にはオシリスの息子のホルスがセトを打ち負かして、この世の王となる。
この神々の争いはエンタメ映画『キング・オブ・エジプト』で描かれていた。
映画自体は酷評されたが、エジプト神話を散りばめた作品と見れば参考になる。(続く)


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by mahaera | 2018-11-08 12:08 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その2)

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(写真)上エジプトの最南端となる第一急湍があるアスワン。そこにあるオールドカタラクトホテル。


古代エジプト文明以前
エジプトの農耕は前6000年頃には始まり、
穀物栽培や家畜の飼育が行われていた。
それらは多分、西アジアから伝わったと言われているが、
サハラ東部から始まった農耕の影響も捨てきれない。
下エジプトでは麦の栽培が盛んになり、

ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシなどの家畜が飼われ始めた。
また、この頃にはまだサハラの乾燥化は進んでおらず、
まだ湿潤だったことから、

狩猟や漁労による食料も大きな比重を占めていた。
この頃の遺跡は、ナイル川から離れた場所にあるものが多いということが、川沿いは農耕ができない湿地だったのだろう。
時代的には、旧石器時代から新石器時代への移行期だ。

前5000年から前4000年には、
下エジプトのファイユームで農耕が行われていた。
栽培穀物は大麦・小麦で、衣服のための亜麻も栽培され、

家畜ではヒツジやヤギ以外に、ロバなども飼われるようになった。

ただしこの頃でもナイルの増水にはなすがままだったようで、生活の中心は漁業や狩猟だったようだ。

前4000年から前3000年頃になると、

ようやく古代王朝に先行する文化が上エジプトに生まれてくる。
これが「ナカダ文化」だ。
このころに農耕がナイル川流域に定着したが、

狩猟や漁労も並行して行われていた。
この時期に多くの彩文土器が作られ、遠方との交易も行われるようになり、エジプト原産でないものも発掘されている。
このころになるとサハラの乾燥化が進み、人々がサハラに住めなくなったことも関係しているのかもしれない。
それでもナイル川沿いやデルタ地帯にはまだ、
ゾウやカバ、ライオンなども暮らしていた。

前3500年頃になると、ナイル川沿いには

多くの村落共同体が生まれていた。
やがてそうした村落が統合され、部族国家が生まれていく。
この頃、上エジプトと下エジプトに各20程度、

合計40近くの「ノモス」と呼ばれる小国家が生まれた。
ただし、城壁に囲まれたメソポタミアの都市国家とは異なり、

大きな町らしいものはまだなかったようだ。
陸上交通は限られ、交通は船でナイル川を行き来するのが中心だった。(続く)


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by mahaera | 2018-11-05 11:02 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)1・シュメール文明(その6)ギルガメシュ叙事詩

「ギルガメッシュ!」と聞いて、「ないと!」と答えてしまう男は40代以上か。
あの番組で「ぎるがめっしゅ」を知ったという人もいるはずだが、歴史上のギルガメシュはまったく関係ない。
ギルガメシュは、126年間統治したというウルク第一王朝五代目の王だ。実在した王か、それとも神話上の王なのかはまだ確定してないが、実在の王が死後、神格化したのかもしれない。
むしろギルガメシュは、英雄譚としての『ギルガメシュ叙事詩』の主人公としてのほうが有名だ。

「人類最古の物語」とも呼ばれる『ギルガメシュ叙事詩』シュメール語で書かれたが、のちにアッカド語やヒッタイト語にも翻訳されている。


主なストーリーはこうだ。
ウルクの王ギルガメシュは2/3が神、1/3が人間という半身半人の英雄であり、暴君でもあった。
人々は女神にギルガメシュを懲らしめるように願うと、
女神はその願いを叶えるために粘土から
野生児エンキドゥを作り出す。

エンキドゥは野山に暮らし、動物たちと会話ができたが、
ギルガメシュが送った神聖娼婦(神殿で神に仕える娼婦)
シャムハトと交わるとその力を失う。
しかしシャムハトはエンキドゥに
人間らしい振る舞いを教える。
エンキドゥはウルクへ行き、ギルガメシュと激しい戦いをするが、2人はお互いの力を認め合う親友になる。


やがて神殿に必要な杉の木を手に入れるため、
2人は森の怪人フンババと戦い、これを倒すが、
エンキドゥは神の呪いにより病にかかり死んでしまう。
友の死を嘆くギルガメシュは、「不死」を求めて世界を放浪するが、その答えは出ない。
2つの川の合流地点に住む船頭ウトナピシュテムは、
かつて船を造ってすべての動物を乗せ、神が世界を滅ぼした「大洪水」の際に生き延びた人間だった。
人間が粘土になった後、7日目に鳩を放って陸地を確認したウトナピシュテムに神々は永遠の命を与えた。
ギルガメシュは、ウトナピシュテムが出した試練に耐えられなかったが、若返りの薬を手に入れてウルクに帰還する。
しかし、途中ギルガメシュが水浴びしている間に、
その薬を蛇に取られてしまう。

こうしてギルガメシュの願いは叶わなかったが、
彼はウルクの王として寿命を全うする。


長い物語の要約だ。ころころと物語が変わっていくが、もともとがさまざまな話の寄せ集めなのかもしれない。
この物語を書き写した粘土板は複数あるが、最初に解読されたのはアッシリアの都ニネヴェから発見されたものから。
1872年にこの洪水の部分が解読された時、
西欧社会では「聖書のノアの洪水の話がそれより
古い物語の引用だった」
と大きなニュースになったという。
もっともこのギルガメシュ叙事詩の洪水物語も、
最近ではさらに古い伝承の引用であることがわかっている。
メソポタミアに伝わる洪水物語が、ヘブライ人に伝わり、
それが聖書の物語に組み込まれたのだろう。
異教の神殿であるジッグラトが、
バベルの塔の物語に組み込まれたように。


このギルガメシュ叙事詩は、ストーリーだけでなく、当時のシュメールの人々の考え方や生活ぶりも伝える。
古代のオリエントやギリシャにはいた「神聖娼婦」がすでにシュメールの社会にいたこともわかる(当時、神殿での売春は神聖な行為だった)。
杉の木などの木材が、すでに南部メソポタミアでは枯渇していたこと。
ウルクの長老と若者たちの間で、保守と革新的思想が分かれていたこと。
神々は人間を守るものもいれば、滅ぼそうとするものもいることなどだ。(続く)


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by mahaera | 2018-11-04 10:33 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)1・シュメール文明(その5)

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(写真)ブリューゲル「バベルの塔」。風景や人物は、もちろんヨーロッパ人が想像したものだ。


シュメール人の王朝の変遷

紀元前3000年ごろになると、エジプトではメネス王が上下エジプトを統一し、第一王朝が始まる。
エジプトの古代文明については後述するが、メソポタミア地域との交流はあったようだ。
同時期、ヨーロッパでは、巨石墓や巨石文明が最盛期を迎えていくが、国家というほどの規模のものは登場していない。

紀元前2900年ごろ、シュメール一帯を大洪水が襲い、
その影響で有力都市がウルクからシュメールの
北のアッカドの地にあるキシュに移る。
また、その頃からウルラガシュといった新興都市が生まれ、都市国家が誕生していった。
しかし紀元前2700年ごろ、再びメソポタミア南部の諸都市が勢力を盛り返し、ウルク第一王朝が成立。
その国王のひとりが、後述するギルガメシュである。
紀元前2600年にはウルでも第一王朝が成立する。
やがてシュメールの諸都市間の抗争が激化していく。
このころ、エジプトではピラミッドが次々と建造されている。

紀元前2330年ごろ、ウルク第3王朝のもと
初めてシュメールが統一されるが長くは続かず、
すぐにアッカドサルゴン王に破れる。
サルゴン王は、アッカドとシュメールを治め、
初めてメソポタミアを統一した王だ。
そして世界史の教科書に初めて登場する、
歴史上の個人名である。
サルゴン王からは次の時代に移るので、別の章で解説したい。


ジッグラト

シュメール文明の特徴の一つに、「ジッグラト」と呼ばれる日干しレンガを重ねて造ったピラミッド状の神殿がある。
ウルクやウルといった各都市にはそれぞれの守護神となる神がおり、それを祀る神殿が建てられた。
都市間の戦争が起きると、
勝った方の都市の守護神の力が強くなっていた。
都市が先か神殿が先かはわからないが、
ともかく神殿を中心に都市は発達し、
そこに税として集められた穀物などが集まり、再分配される。
それを行っていたのは当初は神官達だが、
やがてそのトップが王となり、権力を集めていく。
やがて聖俗が分離され、王は世俗のトップになり、
やがて神官達の力を抑えていくようになった。

前3000年以前に、すでにメソポタミアの地には
多くのジッグラトが建てられていた。
これを見たエジプド人がピラミッドを造ったという説もある。
ジッグラトはシュメールだけでなく、
後のアッカドやバビロニアの時代でも造られた。
平地に建てられた小山のような神殿は、
きっと当時の人々に大きなインパクトを与えたに違いない。
それが旧約聖書に出てくる「バベルの塔」のモデルになったというのは、よく知られている説だ。
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by mahaera | 2018-10-28 11:30 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2000年)1・シュメール文明(その4)

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(写真)手持ちの参考画像がなかったので、シュメール人とケムール人を描いてみた。
名前の響きは似ているが、見た目はまったく違う。


シュメール文明の成立

前3500年、ウルク期が始まり、前3400年には初期の文字が発明、前3300年には粘土板文字記録システムが成立し、

ここからいわゆる「シュメール文明」が始まる。
ウルク以外にもウル、ラガシュ、エリドゥなどの都市が
チグリス・ユーフラテス川下流域のシュメールの地に生まれ、
中流域のアッカド地方にもキシュやニップルなどの都市が生まれていった。
アッカド人はセム系の言葉を話していたが、文字記録はシュメール語、あるいはシュメールからの借用語で行っていた。
ではシュメール人はどんな民族だったか。
これは今でも民族系統がわからないとされている。

余談だが、僕は中学の世界史の授業で、「シュメール人」と初めて聞いた時、「ケムール人」がすぐに浮かんで覚えた。
幼い頃、「ウルトラQ」を見させていた息子にそのことを言って覚えさせようとしたが、あまり響かなかったのは残念だ。

さて、シュメール最大の都市はウルクで、
2〜4万人が住んでいたと推測されている。
これだけの人口を支えるだけの農業の生産力があったということだろう。
大麦、小麦などの穀物以外には、豆類、ナツメヤシ、玉ねぎやニンニク、ハーブなども栽培されていた。
また、家畜としては、ヒツジやヤギ、ロバ、牛などが家畜として飼われていた。
しかし、シュメールのその他の資源は粘土だけだった。
鉱物資源は皆無だったので、それは東のザグロス山脈のエラムの地(現在のイラン)から交易で得るしかなかった。
たとえば装飾品や祭器に使われた金やラピスラズリもエラムから、初期の金属器の原料である銅、木材さえ輸入だった。
つまり、シュメールの都市は穀類や加工した工芸品を輸出し、原料を輸入して成り立っていたのだ。


青銅器時代の始まり

人類が最初に利用した金属は何だったのか。
金は精錬しなくても自然界に存在する自然金があり、
またいくらでも薄く延ばせるので、早くから加工して利用していたようだ。
古代ではむしろ自然銀の方が少なく、
金よりも価値があった時期もある。
銅も自然銅があり、早くから人類に利用されていた。

人類最古の銅製品は、イランで発見された前8700年のペンダントという。
銅は柔らかく低温で柔らかくなるので、350〜500度の熱で叩いたりプレスしたりして加工し始めたのが最初だろう。
前7000〜前3000年ぐらいには世界各地で銅が精錬され使われるようになっていたが、まだ硬度が足りず、武器や農具などには使えなかった。
これに錫を混ぜて硬度をつけたのが「青銅」だ。

錫は銅よりも融点が低く加工しやすい割には硬い。
「青銅」は、たまたま錫を多く含んだ銅鉱石を精錬した時に発見されたという。
以降、混ぜる銅と錫の割合によって、色や硬度を変え、青銅製の刀剣などの武具、祭礼に使う神具、宝飾品など、多岐にわたって使用されることになる。
これが青銅器時代の始まりとなる。

メソポタミアで青銅器の使用が始まったのは、
紀元前3100年ごろ

ただし、南部メソポタミアでは銅も錫も産出しなかったので、銅はザグロス山脈のエラムから(のちにオマーンからも)、錫は現在のアフガニスタンやトルコ南部あたりから輸入していた。
つまりそれだけの交易網があったということだ。
まだこの頃は、ラクダや馬がメソポタミアでは家畜化されていなかったので、輸送にはペルシャ湾の港から各地へ交易船が行き来していたのだろう。
オマーンにあるバット遺跡には、メソポタミアへ輸出する銅の採掘跡があり、世界遺産にも登録されている。(続く)


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by mahaera | 2018-10-26 16:26 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2000年)1・シュメール文明 (その3) 文字の発明

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(写真)前13世紀にヒッタイトとエジプトの間で行われたカデシュの戦いの後に結ばれた平和同盟条約を記した碑文。現トルコのボアズキョイで発掘されたものだが、この時代でも楔形文字が使われているのがわかる。(イスタンブール考古学博物館収蔵)


シュメールでは余剰生産物はまず“神殿”に集められ
そこで記録されて再分配された。
こうした管理システムの試行錯誤のうち、
文字が生まれたとされている。
たとえば、ふだんは文章をほとんど書かない人でも、
数字のメモ書きぐらいはするはずだ。
数を記憶しておくことは、現代人でも苦労する。
シュメールでは、まずそれが“トークン”という形で
管理された。

たとえば発掘されたシュメール文明初期の粘土ボールの中には、48個の小石が入っていた。
これは48頭の羊を納品したという記録で、そのボールの表面には羊を表す絵文字が刻まれ、印章も押されていた。
そのうちトークン自体の形が羊なり麦なりを表すようになったが、やがて数字を書いた粘土版に代用されるようになった。
つまり初期の文字は、奴隷や家畜、物品、あるいは土地の面積などを管理するために、行政文書として生まれてきたのだ。
こうしてシュメールの都市ウルクで文字化が始まると、それはすぐに諸都市にも伝わり、トークンの使用と入れ替わっていく。

初期の文字文書は、たとえばヒツジの絵を描いて
横に数字を入れる程度のものだった。
数字以外は絵文字で、それが次第に簡略化され、エジプトのヒエログリフや中国の漢字のような表意文字に変わっていく。
ただしメソポタミアでは、文字が描かれるのは紙でなく
粘土板なので、細かいものは書けない。
こうしてペンで粘土に刻んで形を書く、
「楔形文字」が生まれた。

資源がないシュメールの地だが、粘土は豊富にあった。
楔形文字が描かれた粘土板は、保存するものは焼かれて、
手紙のように運ばれたという。
シュメール人はとにかく行政文書の管理や保管には熱心で、
遺跡から発掘された粘土板の8割はそれらだという。
紀元前2500年ごろには楔形文字が整理され、
約1000文字程度になった。
すごく多いと思われるだろうが、日本の常用漢字が現在では2136字だと思えば、覚えられないことはないだろう。
前2000年頃にはさらに整理されて200〜400字になり、
シュメール以外のオリエント諸地域でも、
楔形文字が使用されるようになる。

ただし、シュメール語は周辺のセム語系とは異なる
日本語と同様の膠着語なので、それをそのまま用いるのは
無理があった。
たとえば中国語と日本語では言語形態が異なるのに、
文字だけ輸入して日本語を書きあらわそうとすると、
かなを使わない限り無理がある。
同様に、のちにアッカド人やヒッタイト人、ペルシャ人が楔形文字を使う際、自分たちの言葉とシュメール語の借用が入り混じっていた。
日本語を文章で書く時に、
漢字や音読みが混じるようなものだろうか。(続く)



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by mahaera | 2018-10-20 11:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2500年)1・シュメール文明(その2)シュメール文明は高い農業生産に支えられていた

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(地図)シュメールの土地の範囲。一番北にあるキシュは、アッカド人の都市国家だが、シュメール文明圏だ。


南メソポタミアの気候と風土

シュメール文明が始まった前3500年ごろの気候は現在と異なり、世界の海岸線は今よりも少し内陸にあった。
サハラ沙漠もまだ緑で覆われていた。
ただし南メソポミアが暑くて乾燥していたことはまちがいなく、当時も今も年間降水量は100ミリあまり。
降雨に頼って農業が営めるような場所ではなかった。
海岸線は現在よりも100km近く内陸だったとも言われている。
それでも前6000年ごろには人々はこの土地に住みだした。
沼地での漁労や狩猟、そして細々とした農業。
これといった資源がないこの土地で、使えるものは泥だけだった。前6000年を過ぎると、彼らは北メソポタミア同様に日干しレンガの家を造り出す。
集落が生まれ、やがて灌漑農業が始まる。
前5000年ごろのことだ。

毎年、氾濫を起こすチグリス・ユーフラテス川

チグリス・ユーフラテスの両河川は、毎年決まった時期に増水し、氾濫していた。
上流から運ばれてきた養分を含んだ水は農耕には欠かせないものだった。
しかしゆったりと流れるエジプトのナイル川とは異なり、両河川は時に大洪水を引き起こし、集落を押し流すほどの力を持っていた。
そのためには“治水”が不可欠だった。
また、極度に乾燥している地域のため、放っておくとすぐに塩害が広がって収穫率が激減する。
つまり他の地域に比べて、必ずしも南メソポタミアは農業の条件に適しているわけではなかった。
むしろ農業を行うためには、毎年治水作業をしないとならないというハンディがあったのだ。
しかし、人間は困難があるからこそ工夫する。
大勢の人々が協力して川の水をせき止めたり、引いたりするうちに技術が発達し、大きな集落も生まれ、そして農業生産力が上がっていったのだ。
前5000年ごろには「ウバイド期」と言われる先行する文化がこの地域に現れ、ウル、ウルク、ラガシュといった古代都市が生まれ始めていた。

余剰生産が文明を生んだ

前3500年ごろになると、シュメールの地における灌漑農業は、世界でも群を抜くほど発達し、多くの余剰生産を生んでいた。
増水した川から水を農地に引き、堤防の水門を閉める。
数ヶ月して川の水位が下がり、また水門を開けると水は川に流れていく。
泥混じりの畑を牛にひかせた鋤を使って耕し、その後に種を一定間隔で撒いていく。3人一組になって行うこの作業は、同じ時期に一斉に行われるため、統制のとれた組織が必要だった。
シュメール農耕の収穫率は当時としては驚異的な水準で、前5世紀でもギリシアの歴史家ヘロトドスが「バビロン地方の穀類の収穫率は200倍」と驚いている。
これはかなり盛った数字だが、近年の研究でも一粒の種子に対し50〜100倍はあったと推測されている。
中世の北フランス、あるいはヘロトドスの生きていた古代ギリシアでは4〜5倍だったとされているので、これがいかに高い数字だったかわかるだろう。
それにより余剰生産物が生まれ、農業活動に従事しなくても暮らしていける人達が住む“都市”も発達していった。
子供には、「食の安定が文明発展には不可欠」と教える。人間、食えなきゃ他のことをする余裕もない。余裕がなければ、なかなか文明も発展しないのだ。(続く)


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by mahaera | 2018-10-19 10:43 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)