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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・第二次世界大戦と太平洋戦争の開始(1939〜1941年)

子供に教えている世界史・第二次世界大戦と太平洋戦争の開始(1939〜1941年)

1939年3月 チェコスロバキアは解体し、チェコはドイツに併合。
スロバキアはドイツの保護国。そして南部はハンガリーに併合。
オーストリアに続いて欧州の国がひとつ消えた。

3月27日マドリードが陥落。
その前の月には英仏がフランコ政権を承認していた。
4月1日、フランコによってスペイン内戦集結が宣言された。
フランコ派は人民戦線派の5万人に死刑判決をだし、
うち半分を実際に処刑する。
フランコのスペインは3月27日に日独伊防共協定に参加し、
5月、アメリカはフランコ政権を承認するが、
スペインは国際連盟を脱退する。

4月、どさくさに紛れてイタリアがアルバニアを併合
 英独海軍協定破棄。ドイツはイギリスの宥和政策をはねつける。

5月、満州国とモンゴル人民共和国の国境でノモンハン事件発生。
戦いは9月16日までの夏の間続き、
日本とソ連はほぼ互角の兵力で戦ったが、
最終的には大量の兵士や物資を動員できるソ連に圧倒された。
ただし独ソ不可侵条約の前で日本はラッキーだったと思う。
また、この戦いも関東軍のほぼ独断で行われていた。

 独伊軍事同盟、締結。

7月、アメリカより日米通商航海条約の破棄が通告される。

8月23日 独ソ不可侵条約が結ばれる。
 これは世界に大きな驚きをもたらした。
ドイツは次にポーランドを狙っていたが、
東のソ連と西の英仏に挟み撃ちにされた困る。
そこで当面はソ連と手を結び、ポーランドの山分けを持ちかける。
スターリンはスターリンで、ミュンヘン会談で英仏があてにならないことを知り、ならばドイツと手を結ぶ方が得策と考えた。
それに東には日本の満州国があり、
関東軍とノモンハン事件も起きていた。
そこで独ソ不可侵条約を結び、付属の秘密議定書で
「エストニア、ラトビアはソ連の勢力範囲に」
「ポーランドはドイツと分割」と決める。
日本はこの独ソ不可侵条約について、
全くドイツから知らされていなかったので政府は大騒ぎになった。
日本は当時、ノモンハン事件の真っ最中だったから、
敵であるソ連と味方と思っていたドイツの協定は、
日独同盟の締結の中止に至らせた。
ソ連もポーランド侵攻が決まったため、
それを日本に隠して東北アジアの軍隊を引き上げなくてはならなくなり、ノモンハン事件は手打ちの機運が強まっていく。
9月15日に停戦。
その2日後の9月17日にソ連軍のポーランド侵攻が始まる。

さてドイツと同盟軍のスロバキアは、
独ソ不可侵条約の1週間後の9月1日早朝に、
100万人の軍隊と2000機の飛行機で
ポーランド回廊やダンチヒに侵攻。
9月3日にはポーランドの同盟国であった英仏がドイツに宣戦布告。
こうして第二次世界大戦が始まった。

ポーランドは英仏の援軍が来るまで持久戦に持ち込もうとしたが、
9月17日に想定外のソ連軍が雪崩を打ってポーランド領内に侵攻。
10月1日にはポーランドは両国に完全占領された。

ドイツ軍のほぼ全勢力がポーランドに向けられていたにもかかわらず、西部フランスとの国境では何も起こらなかった。
イギリスもフランスも、立場上宣戦布告したが、
全面戦争する気はまだなかったのだ。
また、ドイツも英仏が適当なところで手打ちをすると、
この段階では思っていた。
ポーランド軍のうち脱出できたのは12万人で、68万人が捕虜になった。
第二次世界大戦が終わるまでの6年の間に、ドイツとソ連の圧政や虐殺などにより、
ポーランド国民の2割に当たる600万人が殺された。
ドイツもひどかったが、ソ連も同じようにひどかった。
ポーランド軍の将校ら2万2000人が銃殺された
「カテインの森事件」を見れば、その酷さがよくわかる。
先日亡くなったアンジェイ・ワイダ監督は、
自分の父親がこの事件で亡くなったこともあり、映画にしている。

ポーランド分割後、ソ連はバルト三国と
フィンランドに圧力をかけ始めた。
フィランランドには国境線を30km下げるように通告したが、
拒否されたので11月30日にソ連はフィランド領内に侵攻を始める。
「冬戦争」だ。
この行為は国際社会から非難を浴び、
12月にはソ連は国際連盟を除名される。
ソ連軍はフィランド軍の6倍の数がいたが、
粘り強い抵抗に20万人以上の死者を出し、フィンランドは翌年国土の1/10をソ連に割譲することで、独立を守ることに成功する。
しかし、フィランドは援軍を送ってくれなかった英仏は頼みにならないと悟り、この後はドイツに接近していくことになる。

英仏側の連合国についてはよく知られているのだが、
ドイツ側の枢軸国は特に強いつながりがあるわけではなかった。
たとえばフィンランドは、先に述べたようにソ連と戦うために英仏側についたが、ソ連が連合国側につくと、今度は仕方なく枢軸国側で戦い、そして負けることになった。
スウェーデンは中立を通したが、国内ではファシズム支持も多く、戦時中に多くの鉄鋼をドイツの兵器産業に輸出して協力した。
中立なので英仏も攻撃はできないが、武器の供給源だったのだ。
ハンガリーは第一次世界大戦で失った領土を取り戻すため、
枢軸国側に加わった。
ルーマニアは1940年にベッサラビアをソ連に奪われたことで、
それを回復するために枢軸国側につく。
ブルガリアは隣のユーゴとギリシアがドイツに降伏したので、
枢軸国側につくことになる。

1940年4月 ドイツがノルウェー、デンマーク侵攻
5月 ドイツがオランダ、ベルギー侵攻
6月 ドイツによりパリ占領、フランス降伏
8月 日伊独三国同盟
9月 日本は仏領インドシナ進駐。
石油などの資源を求めてだが、本国フランスを占領しているドイツにも話を通していなかったので、ヒトラーは不快だった。当時仏領インドシナを統治していたのは、ヴィシー政権。

1941年 1月アメリカ武器貸与法成立。中立をやめる
4月 日ソ中立条約。
まさか2か月後にドイツがソ連との条約を破るとは、
日本も知らなかった。日本は振り回されっぱなしで、一貫した対外政策も取れない。
6月 まさかの独ソ戦開始。
 日本、がっくしだが、対決相手をアメリカに絞る。
これにより、ドイツ枢軸国+ソ連 VS 連合国 の図式から、ソ連が連合国側へ

7月 日本が南部仏領インドシナに進駐。
ここで流れが大きく変わる。
日本に対しての英米の経済封鎖が進む。
ABCDブロックというやつね。英米は「日本に石油を輸出しない」ことを決定。これは日本軍は大ショック。
だって石油の備蓄は1年半分しかないもの。
大好きな戦争ができない。戦争させてくれないら、戦争するぞと。
これが日米開戦につながるが、例えばいま、アメリカに貿易を停止されても戦争は仕掛けないだろうな。
当時の日米の国力はしかも、ケタが違っているほどの差があった。
11月26日 いわゆるハルノート。最後通牒だ。

12月8日、日米開戦。太平洋戦争始まる。
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by mahaera | 2016-10-20 22:24 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・ 日中戦争の泥沼化とチェコスロバキアの解体(1938-1939)

子供に教えている世界史・
日中戦争の泥沼化とチェコスロバキアの解体(1938-1939)

1937年12月、日本軍は南京を占拠したが、すでに国民党は四川省の重慶に首都を移し、徹底抗戦の構えを見せる。停戦を申し込んでくるという日本政府の目論見は、またも外れてしまった。
日本は第一の仮想敵国はソ連なので、そんなズブズブと中国大陸全般で戦争をしている予定ではなかった。
そして南京で起きた大虐殺は世界中で報道される。
逃げ遅れた国民党兵士だけでなく、一般市民の虐殺。
その数は数千人から三十万人と幅があるが、少なくとも万を超える一般人が殺されたのは間違いないだろう。
数より、あった事実が大事なのだ。
このころにはすでに日本軍の統率力にも問題があったのだろうか。

さて、戦争には大量の燃料が必要だ。
船を動かし、飛行機を飛ばすのには石油は必須。
驚くだろうが、日中戦争を始めた時点で、日本は石油の8割をアメリカから輸入していた。
のちに真珠湾を攻撃する日本海軍だが、アメリカの石油がなければ日本は真珠湾の攻撃もできなかったとも言える。

1935年の資料では、日本の貿易相手国でアメリカは輸入で1位、輸出で2位。
そして中国は輸出1位、輸入2位。
あとから考えれば、最も大事にしなければならない他国上位2か国と戦争するなんて、気でも違っているしか思えないが、多分気でも違っていなければ、よほどの馬鹿だったのだろう。軍人はやはり経済も政治もわからないのだ。
現に海軍とかは、このころ「水から石油を作る」という詐欺師に引っかかりそうになっている(笑) 
ちなみに満州で石油を探したが、見つかったのは中華人民共和国時代になってからだ。

日本が中国に宣戦布告せず、「事変」で押し通したのは、アメリカの「中立条約」があったからだった。
国際連盟にも加入せず、孤立政策を取っていたアメリカには、
「他国どうしで戦争があった場合、中立を守るためにアメリカは両国に武器や軍需物資を輸出しない」という法律があった。
つまり「戦争」となれば、日本はアメリカからの軍需物資やその原料、燃料の供給がストップされてしまう。
石油輸入の8割が止まれば、日本はおしまいだ。
しかし、「いや、これは戦争じゃなくて事変なんですよ」という言い訳が、国際社会で効くわけがない。
それに日中戦争の拡大は、中国におけるアメリカの貿易や商業活動を阻害することにもなり、アメリカの日本に対する態度はどんどん冷え切っていく。
もはや日本と商売しなくてもいいとね。

1938年 ヨーロッパではヒトラーが再び動き出した。
3月 ナチスドイツはオーストリアを併合する。
オーストリアでは親ムッソリーニのファシズム政権があったが、ヒトラーはそこにナチス党員を入れろと強要。
拒否されたので進軍すると、オーストリア国民は熱狂的な支持でこれを受け入れた。のちの国民投票では97%の支持。
19世紀以来念願の「大ドイツ主義」がここで成就したと思った国民も多かったという。
当時はオーストリア国民としてより、ドイツ人としての意識が高かったからだ。
しかしその期待は第二次世界大戦が始まると、オーストリア人は「二級市民」として扱われるようになり裏切られる。
ともあれ、オーストリアは戦後は国民に「ナチスドイツの被害者」教育を施したが、実は熱狂の中で積極的に加害者に加わっていた。

オーストリア併合を果たしたヒトラーは、次に目標をチェコに向ける。
3月、ヒトラーはドイツ系住民が多いズデーデン地方の併合を「民族自決」を盾にとってチェコに要求する。
そしてチェコスロバキアの独立によって、「北部ハンガリー」であるスロバキアを奪われたとするハンガリーも領土を主張。
もちろん以前からヒトラーの野望を感じていたチェコは、フランス、ついでソ連と相互援助条約を結んでいて拒否。
戦争の脅威が欧州を襲う。

一方、日本は3月、南京に傀儡政権を打ち立て、4月には国家総動員法を公布。
戦時体制に入る。
5月廈門攻略、6月に中国軍は日本軍の進撃を食い止めるために黄河を決壊させるが、その影響で餓死者も含め数十万人の民間人が亡くなる。
10月には武漢と広東を攻略。戦域は中国の南方にまで及んだ。

イギリスのチェンバレン首相はチェコを犠牲にして戦争を避けようしたが、チェコの反対に遭い、交渉は決裂。
しかしムッソリーニの仲介で9月にイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳でミュンヘン会談が行われ、ズデーデン地方の割譲が決定した。
会議には、チェコの代表も、ソ連も呼ばれなかった。
ヒトラーは「もうこれ以上、ドイツは領土を要求しない」と言い、イギリスのチェンバレン首相はそれを信じた。
チェンバレンは会議を終えて英国へ帰国すると民衆に歓喜の声で迎えられた。
「宥和政策」により、戦争への道を回避したと称えられたのだ。

しかしヒトラーは、約束を守る気などさらさらなかった。
逆にヒトラーはこの一件で、「英仏は戦争に訴えることはない」と信じ、翌年のポーランド侵攻を決意する。

ソ連はそれまで、ドイツに対抗するために英仏に接近する政策を取ってきた。
国際連盟に加入し、仏ソ相互援助条約も結んだ。
しかし1935年からイギリスは宥和政策を取り出し、
ヒトラーのナチスドイツと親密になり出した。
スターリンは、イギリスがヒトラーを手なづけてソ連に当てようとしていると思うようになる。
それにミュンヘン協定では、ソ連はチェコスロバキアと国境を接している隣国なのに呼ばれもしなかった。
ここでソ連は英仏を見限り、
この後はヒトラーと結ぶ方法を探っていく。

10月、ポーランド政府はドイツに在住しているポーランド国籍のユダヤ人の旅券をほぼ無効とした。
つまり、この時はポーランドもまた反ユダヤ政権だった。
ドイツも反ユダヤだったので、ポーランド系ユダヤ人を強制収用し、ポーランド国境に送りつけたが、ポーランドは入国を拒否。どこにも行けなくなったユダヤ人の中には、餓死者も出た。
これがきっかけで、パリでポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館職員の暗殺事件が起きる。
この事件を受けて、11月9日、ドイツ全土でユダヤ人が襲われる
「水晶の夜(クリスタルナハト)」事件が起きる。

12月 中国では国民党の蒋介石のライバルである汪兆銘が単独で日本と和平交渉に入ろうとし、重慶を脱出。
1939年に入ると日本軍は1月に重慶爆撃、2月海南島占領、3月に南昌攻略と軍を進めるが、大規模な戦いはなく、ただ、占領した点と線が広がっていくだけだった。
もう戦争を終わらせるきっかけを失っていたのだ。

翌1939年3月、ヒトラーは約束を破り西部のチェコを完全に占領。
工業化が進んでいたチェコを手に入れることにより、
そこを軍需産業の中心地とする。
1935年からようやく再軍備化が進んでいたドイツは、
このころ、まだ英仏と渡り合えるほど軍備が進んでいなかった。
なので結果的だが、ミュンヘン会談の譲歩により、イギリスはドイツの再軍備を手助けしたことになる。
東部のスロバキアは独立させるが、
独立と同時にハンガリーが侵攻してくる。
スロバキアは仕方なくドイツに調停を頼み、その保護国になるがカルパト・ウクライナ部分はハンガリーが併合する。
こうしてチェコスロバキアは“解体”してしまう。
この月、ドイツ人居住地域であるリトアニアのメーメル地方もひっそりと併合している。

第二次世界大戦まで、あと半年。。。。
歴史に「もしも」はないが、この時点で、もはや戦争は避けられなかったのか。。
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by mahaera | 2016-10-18 10:38 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー 『ジェイソン・ボーン』、『Yesterday イエスタデイ』、『アイ・ソー・ザ・ライト』。

すでに10月公開中の映画で書きそびれたものを3本を簡単に。

『アイ・ソー・ザ・ライト』
タイトルからしてトッド・ラングレンの曲かと最初は思ったが、
アメリカでは29歳の若さで亡くなった伝説のカントリー歌手ハンク・ウィリアムズのヒット曲がまず浮かぶらしい。
もちろん元の意味は、聖書の引用。
映画はそのハンク・ウィリアムズがプロになってから亡くなるまでを描く伝記映画。
生まれつきの背中の痛みを紛らわすために、アルコールや薬物依存になり、優れた曲を作りながらも仕事を干されていくハンクには、『マイティ・ソー』のロキ様役で日本でも人気が高いトム・ヒドルストン。
その妻には『アベンジャーズ』のスカーレット・ウィッチ役のエリザベス・オルセン。
主人公の葛藤が伝わらず、だらだらとパッとしない作品でちょっとガッカリ。

『Yesterday イエスタデイ』

1960年代半ばのオスロを舞台に、高校生たちの青春を描くノルウェー映画。
自分をポール似だと思っている奥手の少年が主人公で、
バンドを結成して、好きな彼女にアピールしようとする。
劇中で紹介される新しいアルバムがSGTなので、
ちょうど時代が変わろうとしているころ。ビートルズ旋風が吹き荒れる中、
このころ世界中でこんな青春があったのだろう。
映画の終盤では、ブルースブームがやってきて、主人公が作る自作曲が、
ビートルズタイプではなく、ブルースなのが時代を感じる。
悪くもなく良くもなくといった、平均的な出来栄えか。
退屈はしなかったけれど。

『ジェイソン・ボーン』
ジェイソン・ボーン、ほぼ10年ぶりの復帰だが、復帰に特に必然性を感じない出来栄え。
監督のポール・グリーングラスと主演のマット・デイモンは続投だが、話に新鮮味が欠けるのと、ボーンが超人的に強いのもなんとなく飽きてきた。
CIA内にボーンの敵と味方がいて、それぞれと駆け引きするというのも、前と同じだしね。
CIAの殺し屋のヴァンサン・カッセルはいいが、あんなに派手に暴れて民間人も殺したら、世間に隠せないでしょう。
個々のアクションは悪くなくても、全体としてはどうしても“劣化”を感じるシリーズ最新作。
イマイチ。
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by mahaera | 2016-10-17 21:52 | 映画のはなし | Comments(0)

最新映画レビュー 『とうもろこしの島』 とうもろこしを植えて収穫を待つ老人とその孫娘

とうもろこしの島
Simindis Kundzli
2014年

監督:ギオルギ・オヴァシュヴィリ
出演:イリアス・サルマン、マリアム・ブトゥリシュヴィリ
配給:ハーク
公開:9月17日より11月11日まで岩波ホールにて公開中

●ストーリー
ジョージア(グルジア)西部のアブハジアで、独立を目指すアブハズ人と、それを阻止するジョージア人との間で紛争が起きていた。一方、戦争から遠く離れた山間の川では、毎年春先になると雪解け水によって川の中洲に島が生まれていた。今年もどこからかアブハズ人の老人が新しくできた島にやってきた。この土地では、そんな肥沃な土地でとうもろこしを作流のが習慣だからだ。老人は小屋を作り、土を耕して種をまく。戦争で両親を失った孫娘も一緒だ。ときおり、両軍の兵士たちが川をボートで行き来し、両岸でにらみ合うこともあるが、老人たちには関心を示さない。とうもろこしは成長していくが、老人たちはその畑の中で傷を負ったジョージア兵を発見する。


●レヴュー
1992年にジョージア(グルジア)で起きたアブハジア紛争を描く映画の連続上映の1本。
もう1本は『みかんの丘』で、これも同時公開中だ。
そちらでも解説したが、アブハジア紛争はソ連邦が解体してジョージアが
ソ連から離れていくと、ジョージア内の自治共和国が
さらに分離していくという、独立の入れ子構造のような戦争だった。
『みかんの丘』でも触れたが、
この戦争は元は同じ国民が殺し合う救われない戦いだった。

しかしこの映画はそうした戦争の背景の説明を一切排し、登場人物にも主張をさせない。
中洲にできた島にまず老人がやってきて黙々と小屋を建て始め、そこに孫娘が加わる。
二人とも寡黙で、特に前半は会話もほとんどない(少女は話せないのかと思ってしまったほどだ)。
そのため、この映画は時代背景もわからない、どこか現実離れした寓話の趣さえ見せるが、ときおり通り過ぎる兵士たちが外の世界と戦争の影を落としていく。

季節は進み、とうもろこしは成長して収穫の時期を待つ。
その生命の力強さと対照的に、常に“死”の影を背負う兵士たち。
しかし傷ついた兵士を目の前にすれば、老人はただ命を助けるだけだ。
戦争は老人と子供しかいない世界を生む。
孫娘が心動かされる相手は、もはや世界には傷ついた兵士しか残っていない。

両岸で睨みあう兵士たちがいる。
とすればこの川の中州の島は、どちらにも属さない平和な世界だが、そこには老人と子供しかいない。
そしてその存在すら許されないかのように、そんな平和さえも川の濁流が奪っていく。
この世界に、もはや平和な場所は残っていないのか。
しかし、翌年になればまた、新たな島が生まれ、そこにとうもろこしを植える男がやってくる。
世界はまた同じことを繰り返していくのだろうか。

美しい自然の中で、生命を育むことと奪うことを描くこの寓話は
、きっと多くのことを考えさせてくれるはずだ。
(★★★☆)

■関連情報
・2015年ゴールデングローブ賞外国語映画賞ノミネート
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by mahaera | 2016-10-15 09:38 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史・ スペイン内戦と日中戦争の開始(1936〜1937年)

1936年、もはや戦争への足音が世界に聞こえ始めていた。
1936年2月、日本で2.26事件が起きた月、スペインでは社会党や共産党を中心とした人民戦線内閣が発足した。
しかしそれに対して地主や資本家、教会らが反発していくことに。
3月、ナチスドイツのラインラント進駐に、イギリスとフランスは何も手を打てず、ヒトラーの強気の勝利になった。
こうして第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制も崩壊。
前年から続いていたイタリアのエチオピアの侵略に対しても、
英仏はどうもできず、5月7日にエチオピアは併合される。
この段階ではヒトラーはまだイタリア支持ではなく、
エチオピア側に武器を輸出していた。

7月 スペインで反乱勃発。
当初、フランコ将軍はリーダーではなかったが、
内戦中に忽ち頭角を現し、やがて反乱軍の国家元首に。
フランコの反乱軍はファシズム政権で、ドイツ、イタリア、そしてポルトガルが軍事支援(ポルトガルもファシズム政権だった)。
一方共和国側を国として応援していたのは、
ソ連とメキシコだけだった。
イギリスは「宥和政策」を取り続けていたし、フランスは中立。
共和国を応援したのは、あとは義勇兵による国際旅団だった。
この内戦は、ヘミングウェイ、オーウェル、マルロー、写真家のキャパらが報道し、世界に知られることになった。
ヒトラーは、次に来る大戦争のために新型兵器を次々と導入した。
スペイン内戦はその実験の場となり、特に戦争には爆撃が効果的なことが証明された。
1937年4月26日のゲルニカ爆撃は有名だろう。
ピカソは新聞でニュースを知り、5月1日には習作を書き始めている。
完成は6月4日ごろというから、ほぼ一ヶ月で仕上げたのだろう。

8月1日、こんな国際情勢の中でベルリンオリンピックは開幕した。
まあ、このころがヒトラーのピークかも知れない。

さて、この頃まで、ドイツ、イタリア、日本は特に仲がいいわけでもなかった。
4月の段階では、ドイツは蒋介石の中華民国に借款を行い、
軍事顧問団も送っている。
ドイツとしてはゆくゆくは起きるソ連との戦争に備えて、
極東アジアでソ連軍を引きつけておく、同盟国が欲しかった。
この時点では、日本ではなく共産党と実際に戦っている中華民国の方が軍事的にもいいと考えていたのだ。
ドイツは満州国を承認していなかったし、この時点では宥和政策を取り続けるイギリスとはうまくやって行きたかった。
それに第一次世界大戦では、日本は特に敵対関係になかったドイツに対して宣戦布告していた。
しかし日本の方にとってソ連は満州国の脅威となる存在だった。
もしソ連がドイツと協定を結ぶと、背後に危険がなくなったソ連は中国東北部に軍を送る余裕ができてしまう。
なので、ぜひともドイツに接近したかった(アメリカ派もいたが)。
ようやくドイツと1936年11月26日に「日独防共協定」を結ぶ。
これは軍事同盟ではなかったが、その後のドイツとの強い同盟のきっかけになる。
日本はこの「反ソ連盟」にイギリスも参加させようと打診をしたが、拒否されている。

一方、中国ではそれまでの情勢を転換させる大きな事件が起きる。
12月12日、共産党軍討伐の監督のために西安にやってきた蒋介石を、張学良、楊虎城らが監禁する「西安事件」が起きる。
張学良は蒋介石に「抗日」を迫るが、蒋は拒否。
拉致したものの蒋介石奪還の動きもあり、張学良は窮地に陥った。
そこへ周恩来ら共産党幹部が西安入りし、蒋との会談が持たれる。
共産党内では蒋介石の処刑も検討されたが、
スターリンが強く反対する。
この段階では共産党軍はまだまだ国民党軍の敵ではなく、もし蒋を殺したら国民党軍の反撃に遭い、壊滅していたかもしれない。
どんな話し合いがされたかわからないが、この時点で蒋介石の息子の蒋経国はソ連共産党のもとにおり、人質のようなものだった。
蒋は釈放されたが、共産党への攻撃はやめなかった。
「第二次公共合作」が成立するのは、
翌年に日中戦争が始まってからだ。

反乱を企てた張学良、楊虎城には過酷な運命が待っていた。
張学良は50年に及ぶ軟禁生活の上、台湾で死去。
楊虎城は蒋により家族と監禁され、1949年の重慶陥落前に獄中で生まれた幼い娘ともども殺害された。

翌年の1937年7月7日盧溝橋事件が起き、
日中に戦端が開かれるが、一旦停戦。
これが歴史上では、日中戦争の開始とされる。
停戦はしたが、もはや中国各地で、
中華民国軍と日本軍は一触触発の状態だった。
すでに日本では政府、いや軍の上部でさえ、
コントロールが効かない状態になっていた。
8月13日には第二次上海事変が起きる。
上海租界を囲む民国軍が攻撃を開始し、爆撃も行われた。
これにより日本軍が応戦し、11月に中国軍は退却。
それを追って日本軍は南京へと進んでいく。
ある意味、盧溝橋事件よりも、こちらの方が実質的な日中戦争の始まりだろう。
こうして宣戦布告なき戦争が始まった。
日本側の死傷者は約4万人、中国側はその数倍というから、第二次上海事変はもはや戦争の規模だった。

8月21日、第二次上海事変の最中、
中華民国とソ連が中ソ不可侵条約を結ぶ。
これは前年の日独防共協定に対抗し、西安事件の流れをくんでのことで、蒋介石とスターリンの結びつきを示したものだった。
9月には日本軍に対抗するために、「第二次国共合作」が成立。
ここでようやく国民党と共産党は手打ちをし、
日本に対抗することに。
11月イタリアが日独防共協定に加盟し、三国防共協定に。
そして12月にはイタリアは国際連盟を脱退。

11月、中華民国軍は上海から退却し、
日本軍はそれを追って首都南京に迫った。
日本の参謀本部は、当初、南京を攻略しないように命じたが、
現地の軍はそれを守る気はまるでなかった。
日本軍には、ドイツのヒトラーのような絶対的な統率者は不在だった。
そして12月4日、南京戦が始まる。
明治以来、初めて日本の軍が他国の首都に迫ることになる。
そしてそれは、大混乱をもたらした。

続く
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by mahaera | 2016-10-14 16:06 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー  『聖なる呼吸』『ジャニス:リトルガール・ブルー』 『スーサイド・スクワット』

9月公開の映画で書きそびれたのを3本。
場所によってはまだ公開中かもしれない。

『聖なる呼吸:ヨガのルーツに出会う旅』
南インドで現代ヨガを始めた指導者とその後継者たちをドキュメンタリー。
インドといえばヨガというぐらいイメージが強いが、皆さんがしている近代ヨガは20世紀に入ってからのものらしい。
僕はヨガをしないので、詳しくはわからないが、ここで描かれるのもヨガをやる人にとっては、ヨガ大陸の一部らしい。
つまり欧米人が好きなヨガのグループということで、かなりハード。
まあ、勉強にはなったが。


『ジャニス:リトルガール・ブルー』

これまで何本もジャニスのドキュメンタリーが作られてきたが、たいていがシンガーのとしての彼女を追うもので、ライブシーンが見ものだったと思う。
本作はそことは少し視点を変え、家族に出した手紙やデビュー前の様子、彼氏の証言を入れ、オフの時のジャスの姿を浮き彫りにしていく側面が強い。
保守的な南部に生まれたジャニスは、高校の時はいじめに遭い、大学でも“ブス”と悪口を言われ、自由な気風のサンフランシスコに来て、ようやく自分を解放することができた。
たちまちスターになるが、そこはまだ20代なかばの女性。
状況をコントロールすることができずに、破滅への道を歩んでしまう。
少し前に公開され『エイミー』と被る。

『スーサイド・スクワット』
DCコミックスの悪役を集めた囚人軍団を、減刑を与える代わりに生還不可能なミッションを与えるという、「特攻大作戦」的な話。
大勢のキャラを揃えたが、その説明に終始してしまう前半。
そして肝心のミッションや敵キャラがしょぼい。
あと、悪人という接待だが、みんないい人たちで、その設定が生きていないと、期待はずれ。
脚本も緩く、もっともっと練ってから作ればよかったのに。
ウィル・スミスのデッド・ショットなんて、娘思いのいい人にしか見えない。
「ハーレイ・クインだけが良かった」という、大方の意見に賛成。
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by mahaera | 2016-10-13 14:04 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史・上海事変から2.26事件まで(1932〜1936年)

1931年、満州事変勃発。
日本はあっという間に満洲全域を占領し、張学良軍を追い出す。
中国民国政府は国際連盟に提訴したが、
「宥和政策」をとる欧米の反応は鈍かった。
そこで中国人は大きな日本商品ボイコット運動を起こした。
そんな1932年1月28日、上海の共同租界周辺で
日本軍と中国軍が衝突する事件が勃発する。
「第一次上海事変」だ。

中国側が挑発して手を出したと日本では報道され、
日本のマスコミは煽ったが、戦後になって、
日本が満州から世界の注意をそらすために中国人を買収して日本人を襲わせ、きっかけを作ったことが明らかになっている。
また、陸軍(関東軍)が満州で成功したため、
今度は海軍が主導して空母も出動した。
外国人が多い上海で起きた事件なので、確かに世界的な注目を浴びたが、日本軍の無理やり感と日本の民間自警団による中国人虐殺なども報告されて、「悪い国民党軍から、上海市民を守った正義の日本軍」という目論見は、全く逆になってしまった。
結果、欧米の強い抗議により、日本軍は上海から兵を引き上げざるえないという、ショボイ結果に。

上海事変の最中の3月1日に「満州国建国宣言」。
首都を長春とし、執政(のちに皇帝)として清朝最後の皇帝、
宣統帝溥儀が就く。映画「ラストエンペラー」で描かれた世界だ。
「五族協和」をモットーにしたが、
動かしているのはもちろん関東軍。
満州国は1934年には「満州帝国」に名前を変える。

日本では1932年5月15日 5.15事件が起き、犬養毅首相暗殺
せっかく根付きそうだった日本の政党政治がここに終了し、
この後は軍人が首相を務める挙国一致内閣へ歩み出す。
国民の支持を得た、軍部によるポピュリズム独裁の開始だ。

10月、満州事変に関するリットン調査団の報告が発表された。
これは中国側の言い分を認めながらも、日本にも配慮する内容で、要は「満州国は認めないが日本の権益は認めざるをえない」的なものだった。つまり、満州国を捨てれば日本の権益は温存されるということだが、メンツにこだわる日本としてはそれは呑めなかった。

1933年2月の国際連盟総会では、「満州国を承認しない」に賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)。
タイが棄権したのは、前年の1932年に立憲革命が起き、
国内の華僑勢力を抑えるために日本の働きかけに応じたともいう。
ともあれ、これを受けて3月に日本は国際連盟を脱退。
日本世論は拍手喝采を送った。
こうして1920年以来続いていた、アジア・太平洋地域の戦後秩序である「ワシントン体制」は完全に崩壊する。。

同じ月、関東軍は満州国の一部と主張していた熱河地方を占領。
国際的に微妙な時期なので、日本政府は拡大を望んでいなかったが、この頃になると日本は軍事、内政、外交は連携もないバラバラ状態だった。
1933年には信号無視をした軍人を警官が逮捕したことにより、
「軍人を逮捕できるのは憲兵だけ」という軍の主張と、
「勤務中以外は日本の法律に従うべき」という警察が全面対決するという「ゴーストップ事件」が日本を騒がす。
元はアホらしい事件だが、軍はメンツにこだわった。
このころには「軍部は法律に優先する」という空気が生まれていたということだ。

一方、蒋介石は日本に対して何をやっていたかというと、
ほとんど何もしてなかった。
むしろ5月には関東軍と停戦協定を結び、
中華民国は満州国を黙認する。
というのも蒋介石が考える当面の敵は、
毛沢東率いる共産党だった。
共産党は一貫として「抗日」を唱えていたから、国民党内で「抗日」を掲げれば、裏切り者としてみなしていた。
関東軍が勢力を拡大できたのも、こうした中国側の事情が大きい。
また、東北や華北地方の国民党軍は、蒋介石の直系ではない諸勢力の寄り集まりだった(雑軍)。
そのため、彼らを日本と戦わせて勢力を削ぎ、
逃げてきたところを武装解除して自分の中央軍に組み入れていこうという方針もあった。せこい。

日本と手打ちした蒋介石は、安心して共産党軍に攻撃を集中。
1934年10月、国民党軍の攻撃を受けた共産党軍は拠点だった瑞金を捨て、延安までの「長征」を行う。
1万2000kmを行くうち、10万人いた兵士は数千人に。
これは1934年から1935年10月まで続く。
この間、共産党では毛沢東の主導権が確立し、1935年8月には「八・一宣言」を行う。
これは「内戦はやめて、協力して日本と戦おう」というもの。
しかし、蒋介石は耳を貸さなかった。
確かにあと一歩で共産党は壊滅できたのかもしれない。
だが、蒋介石は、民心は「抗日」に大きく動いていたことに気づかなかったのか。

この間、世界ではどんなことが起きていたか。

ドイツでは1932年にナチスが第1党になり、ヒトラーが首相に。1933年には国会議事堂放火事件を契機に共産党、やがてすべての政党を廃止して独裁体制を作りあげる。そして日本の脱退の半年後の1933年10月に国際連盟脱退。1935年には再軍備宣言を行う。
イタリアは1935年にエチオピアに侵攻し、これを併合。

ソ連はスターリンの独裁体制の中、1934年から大粛清が進行する一方で、国際連盟に加入。

中東では1932年にイブン・サウードがサウジ・アラビアを建国。追い出されたファイサルは、イラク王国を建国。また、このころから欧州で迫害を受けたユダヤ人がパレスチナに移住を始める。

1932年6月にはタイで立憲革命。
革命とはいえ、実際は軍部のクーデターのようなもの。

インドでは再び独立運動が高まる。大恐慌の影響で、イギリスのブロック経済の中に組み込まれたインドでは、再び英国の圧力が高まっていた。1930年には有名なガンディーの「塩の行進」が行われ、第二次非暴力・不服従運動が。イギリスはなだめようと「英印円卓会議」を行うがいまいちで、1935年に「新インド統治法」が制定。これは州単位の自治をインド人に認めるというものだったが、国政や外交・軍事はまだイギリスが握っていた。この時、ビルマがインド帝国から分離される。

1935年日本は満州国に隣接する華北5省を分離させ、
日本の勢力下の傀儡政権の冀東防共政府を作る。
日本の欲望は、もはや満州では収まらなかった。
1936年、日本の東京で2.26事件が起きる。
これは軍部の中の皇道派と統制派の二大派閥の対立から生まれたもので、皇道派によるクーデターだったが、天皇が鎮圧を命じ、成功しなかった。
どちらも軍部拡張派なので、クーデターが成功したとしても、その後の流れは変わらなかったかもしれない。
ともあれ、皇道派と見なされた人は除隊や左遷にあい、以降、統制派の中心人物である東條英機が軍部で力を伸ばしていく。
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by mahaera | 2016-10-11 11:06 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・昭和恐慌と満州事変、5.15事件(1932年まで)

前回までは大恐慌の影響で、ドイツでナチスが躍進したことや、
どんな経済政策をとったかを述べた。
今回は、同時期の日本はどうだったか。
軍部が独走する初期段階となった、
1929年から1932年までの3〜4年を見てみる。
その後の日本を見ると、とても重要な時期だ。
つまり、ナチスドイツ同様、国の状況なんてたった3〜4年で変わってしまうのだ。

1929年の世界恐慌の前から、日本経済は不況だった。
1927年には昭和金融恐慌も起き、多くの銀行が倒産した。
大恐慌により世界中の国々は経済危機に直面し、議会政治はそれに上手く対応できなかった。
そんな社会不安が続く中、日本もドイツ同様、共産党と右翼の両極端が力を伸ばしていた。

1929年の世界大恐慌の影響は日本にも押し寄せ、
失業者は250万人に及んだ。
当時の日本は生糸や繊維産業が主な輸出産業だったが、
その輸出先であるアメリカやアジア諸国が恐慌のダメージで日本のものを買わなくなる。
たった2年で、日本の綿糸や生糸価格は半額になり、
輸出入量も半分になった。
運悪く、日本が金本位制を導入した矢先に、大恐慌は起きたのだ。
輸出は振るわないが、日本円は高いまま維持し、
金が国外に流出した。
日本の経済規模はまだ小さく、1930年時点では、「日本の一人当たりの国民所得はアメリカの9分の1」というほどだった。

1930年4月、濱口内閣はロンドン海軍軍縮協定に調印する。
当時、どの国も経済が混乱し、軍備に金をかけたくなかった。
日本は恐慌、軍事費の増大、日露戦争のさいに発行した国債の借り換え時期も近づいたと、金がなかったので国際協調して、この危機に乗り切ろうとしていた。
しかし軍も既得権は維持したかった(あと軍需産業も)。
ここで、「軍令(=統帥)に関わる兵力量の決定は、
天皇が決めるべきことであって、内閣の言うことを聞かなくていい」という「統帥権論争」が起きる。

もともと大日本帝国憲法では、
「陸海軍は天皇が統帥する」と記されている。
とはいえ、明治の初期の政府の要人はみな士族出身(=軍民の両方)であり、憲法ができた時はあまり問題になることはなかった。
日清・日露戦争のときは、明治維新を経験した政治家もまだ政府にいたし、閣議決定(陸軍大臣や海軍大事も内閣にいた)を天皇に上奏して、それが認められないということもない。
基本的には天皇は、閣議決定を認めて開戦するだけだった。

ところが、昭和もこの時代になると、軍人は軍人学校がスタート地点、また文民も軍事経験なしが主流になってくる。
明治生まれの軍人や文民が要職を務めるようになっていたのだ。
誰が軍部に命令を下すのかが曖昧なまま、憲法改正をするわけでなく、軍部が大きな独立機関として成長していく。
そうなると先の統帥権を拡大解釈する軍人も出てくる。
つまり軍人は、内閣(政治家)の決定に左右される必要はない。
我々に命令できるのは天皇だけだと。
ところが、天皇が軍部に直接命令を下すことはない。
そこで「天皇の意を汲んで」と、自分たちに都合よくやらかしてしまってから、天皇のせいにするという行為がリピートしていく。
昭和天皇も「そんなこと言ってないのに」と困ったことだろう。

1930年11月濱口首相は、東京駅で右翼のテロリストに銃撃を受けて重傷を負う。
「陛下の統帥権を犯した」と犯人は言うが、
「統帥権とは何か」の説明もできなかったという。鉄砲玉だ。
濱口首相はこの時の傷がもとで、翌年死亡する。
テロの時代が始まる。

中国では1930年から国共内戦が本格化していた。
そんな中、1931年9月18日、関東軍が柳条湖事件を起こす。
南満州鉄道が国民党軍によって爆破されたというものだが、例によって関東軍の自作自演で、関東軍は奉天の張学良軍を襲う。
張学良は無抵抗で引き上げることにしたので、日本政府は外交的解決をしようとしたが、関東軍は攻撃を続けた。
奉天での関東軍の死者2名、中国側の死者300名、、、、。
関東軍は満州全土に軍を進め、「満州事変」がここに始まる。
これは日本政府(陸海軍大臣含む)が出した命令ではない戦闘なので、政府は拡大しないように務めたが(そんな金もないし、失業者対策しなきゃならないし)、結局、関東軍に押し切られてしまう。
事件を立案して実行したのは関東軍の中級将校だから、軍で言えばこれは完全な命令違反だが、誰も軍規違反を問題にしなかった。

しかし日本国民は、関東軍を熱狂的に支持する。
マスコミは中国側が無抵抗だったことも報道しなかったし、
そもそも中国側が仕掛けたという関東軍の言い分を報道していた。
「シナなんかやっちまえ!」という、今のYahoo掲示板的な意見が国民の多数を占め、政府も無視できなくなった。
実はその数年前から、満州に進出した日本人に対する
中国側の「無謀な振る舞い」がマスコミ報道され、日本の世論は「シナ人に仕返しを」という風潮があったようだ。
ちなみに日本国民が、この事件が自作自演だったと知るのは、
敗戦後のことだ。
人は自分の望む真実しか知ろうとしないものだ。

1931年11月から満州全土に関東軍は展開。
当時の若槻内閣は事変の不拡大も抑えられず、
また経済政策もどうにもならず、1年も経たずに総辞職。
12月、犬養毅内閣が発足。
金本本位制を廃止して金の流出を止める。
これは功を奏し、日本円が一気に下落(それまでは金にリンクしていたので円高だった)。
つまり円安になったおかげで輸出が一気に増えた。
こうして日本は1933年には恐慌からなんとか立ち直った。
ただそれも結果的には一時的だったかもしれない。
経済がガタガタなのに、日本から安い製品が入ってくることに耐えかねた英米仏は、ブロック経済に移行していったからだ。

しかし犬養毅はその結果を見ることなく世を去る。
犬養は孫文とも親友であり、日本の進軍に反対だったという。
なので進出派には邪魔な存在だったのだろう。
1932年5月15日、海軍の青年将校たちが決起し、
首相官邸に押し入って犬養毅首相を銃殺する。
「話せばわかる」
「撃て!」
というのは有名なやり取りだ。
もはや日本は話し合いではなく、
暴力で統治するという象徴的な出来事だろう。
犯人らは逮捕されたが、意外にも国民からは青年将校たちへの助命嘆願運動が起きたという。
そのためか、誰も死刑にもならず、
首謀者でさえ禁固15年程度の量刑。
それもたいてい特赦で7、8年程度で出所している。
首謀者の人なんか、1997年に89歳の大往生をしている。
来日していたチャップリンを暗殺する計画もあった。
で、この時の処罰が甘かったことから、4年後の2.26事件の人たちも、「失敗しても死刑にはなるまい」とタカをくくっていたという説もある。

この後、事態を収拾するために軍人による挙国一致内閣ができて、日本では政党内閣は崩壊した。
こうして政党政治は日本に根付かなかった。
日本では国民の情に訴えるポピュリズムの方が、
合っていたといえよう。
まあ、それを支持したのは国民なんだが、
何とかならなかったのかねえ。
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by mahaera | 2016-10-10 11:54 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・ナチスドイツの経済と進出 1935年まで

前回はナチスドイツ政権が成立する1934年までのドイツ。
1933年、ヒトラーは首相に就任してたった一年で、
ナチス以外の全政党を非合法化し、国連を脱退。
1934年には党内の対立要素だった突撃隊を粛清し、
権力をヒトラーとその信奉者に集中させた。
その一方で、世界恐慌で失業者が600万人(失業率20%)もいたドイツ経済を立て直した。
国の規模は違うが、アメリカも1933年の時点で失業者は1200万人いた(失業率25%)。

で、皆さんは疑問に思うだろう。

ヒトラーの権力掌握術や軍事的才能はわかるにしても、
彼に経済的な才能もあったのか。
この辺りはかなり本も出ているので、興味ある方は是非ご一読を。
簡単に言うと、ヒトラー自身は経済音痴だったが、勘の鋭さと適材適所の配置、上からの一言で、通常の政府ならモタモタして何年もかかることを、すぐ実行できたことが大きい。
ヒトラーが抜擢したドイツ経済の立て直しの功労者は、
元ドイツ中央銀行総裁のシャハトだ。
もともとナチスの目標には社会主義的な部分が強く、
資本主義と反するものがあった。
しかし1934年に反財閥派だった突撃隊を粛清すると、重工業を主とするドイツの大手財閥との結びつきを強くするようになる。
中小企業は統合され、この後、財閥に組み込まれていく傾向が強くなった。
シャハトは、工業、特に自動車産業に力を入れ、
この時期、その生産額は毎年1.5から2倍の伸びを示した。
これはアウトバーン建設と一心同体だった。
いくら車を造ってもいい道がなければ走れないし、
道があっても車がなければ意味がない。
また造っても売れなければ仕方がないので、
自動車とオートバイの免税が進められた。
1935年の工業生産は恐慌前の94%まで回復していた。

失業者対策では、まず徴兵制を復活する。
ヴェルサイユ条約で10万人に制限されていた国防軍を50万、100万と増強し、1939年のポーランド侵攻までには318万人。
つまり600万人いた失業者の半分はここに吸収された。
アウトバーン建設には最大12万人が雇用された。
また、女性は家庭に入ることを奨励し、男性の就労枠を増やし、
その一方で家族を支える主人の就職を優先させる政策をとった。
つまり一家に一人の雇用優先だ。
これで、就職待機の人も若干減った。
そして短期雇用も導入し、なるべく多くの人を労働に就けるようにようになどの工夫もする。
こうして1935年には、失業者数は200万人余りに減っていたが、
完全雇用にはまだ時間がかかる。
ナチス政権によって、石炭、鉄鋼、機械工業は栄えたが、
世界的なブロック経済のあおりを受け、英米仏からの輸入に頼る繊維工業などは衰退した。
また農業生産はあまり延びず、これがポーランドなど東欧への侵攻の大きな動機となった。

さて、資金はどこから調達したか。
実際はブロック経済の影響で、常にナチスドイツは外貨不足で、
これはとうとう解消されなかったようだ。
米英仏との貿易が減っていく中、ドイツと経済的な結びつきが大きくなっていったのは、中南米諸国と北欧だ。
そのためスウェーデンには親ナチが多かったし、アルゼンチンやボリビアは戦後、戦犯の格好の隠れ場所になった。
また特殊な手形の発行によって資金を調達する一方、
国民に預金をすすめ、貯蓄銀行はその預金額で公債を買った。
これも政府の、とりわけ軍備の予算になった。

足りない資源と食料はどうするか。
ヒトラーは自給経済を命じ1936年から「4カ年計画」を始めさせたが、それは海外植民地を持たない国にとっては厳しかった。
そこで「生存権」をもとめて、ポーランドやウクライナなど東欧の穀倉地帯への進出を考える。
ここを植民地のようにしてしまおうと。

内政を固めたヒトラーは、1935年3月1日にザール地方を編入する。
ここは有数の炭田と工業地帯、製鉄所があり、フランスも狙っていたが、ヴェルサイユ条約により、国連の管理下に置かれていた。
これは住民投票の結果なので、合法的で特に文句は出なかった。
これにより、ドイツの石炭収入は飛躍的に伸びたようだ。
その2週間後の3月16日には、ヴェルサイユ条約を一方的に破棄した「再軍備宣言」を行う。
10万人に限定されていた国軍を一気に50万人に。仕事が早い。

これに驚いたイギリス、フランス、イタリア(第一次世界大戦では連合国だった)は4月11日にイタリアのストレーザに集まり、
「ストレーザ戦線」を作って対抗する。
それでも安心できないフランスは、
翌5月に「仏ソ相互援助協約」という準軍事同盟を結ぶ。
こうしてドイツ包囲の輪ができたと思ったが、
それはイギリスの裏切りによって破綻する。
6月、ヴェルサイユ条約を無視する
「英独海軍協定」が2国間で結ばれた。
ドイツに制限付きで再軍備を認める条約だが、
イギリスのボールドウィン内閣はこれでヒトラーが満足するだろうと譲歩したのだ。フランスに内緒で交渉を進めて。
この後、イギリスはしばらくはドイツに譲歩を重ねる「宥和政策」を行い、その結果、ヒトラーはつけあがっていく。

なんでイギリスはこんなことをしたのか。
それはフランスがソ連と勝手に手を握ったことが
気に食わなかったから。
前の世紀から、イギリスとロシアは南下政策で世界各地で対立しており、ソ連になった後も、イギリスはソ連の脅威を感じていた。
そこでドイツに力をつけさせてソ連と対決させ、できれば双方で自滅してくれればいいぐらいに思っていた節がある。

年が明けた1936年3月7日、ドイツはフランスとの国境線のドイツ側の地域であるラインラントへ進駐する。
ここは第一次世界大戦後のロカルノ条約で「非武装化」されていたところ。
これは大きなヒトラーの賭けだった。
この時点では、ドイツ軍は英仏に比べると兵力も大したことがなく、フランスが軍事行動を起こしたら、直ちに軍を引き上げるつもりだった。
もし敗北したら、ヒトラーは失脚する。
不安な48時間が過ぎ、フランスとイギリスは動かなかった。
これがヒトラーの大きな自信になったことは言うまでもない。
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by mahaera | 2016-10-08 15:24 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・ナチスドイツの台頭 1934年まで

子供に教えている世界史・ナチスドイツの台頭 1934年まで

ヒトラーはもうキャラが立ちすぎて、最初から「悪の帝王」という先入観になりがちだが、実は戦争が始まるまでは、
彼を大好きな人たちが世界に多かったという事実を忘れがちだ。

ここのところを子供にも教えるのだが、「ヒトラーは選挙で選ばれ、国民の多くは彼が独裁者になることに反対しなかった」。
そして今は口を閉ざしているが、戦争前にはイギリスだってアメリカだって、連合国にもヒトラーのシンパはかなりいたのだ。なかったことになっているだろうけれど。

大恐慌が起きるまで、ドイツにおけるナチスの勢力は大したことがなかった。
1923年のミュンヘン一揆は失敗し、ヒトラーは獄中に入る。
このとき執筆したのが有名な「わが闘争」だ。
ナチスの正式な名前は、「国民社会主義ドイツ労働者党」。
って誰も覚えてないけど。
早々と彼は大衆を組織とした暴力、つまりファシズムを始める。
世の中が安定しているときは、ナチス的な過激な政党は支持を得ない。
ところが1929年の大恐慌で、ドイツには失業者が増大する。
その数600万人。
当時のドイツの就業人口が3000万人だから、およそ20%だ。
社会福祉が整っているヴァイマル憲法下なので、
失業保険は政府の財政を圧迫する。
失業保険の削減をしようとすると、今度は信任を得られなくなり、内閣は崩壊。イギリスの内閣と同じパターンだ。
政権が作れない混乱の中、緊急事態ということで、大統領のヒンデンブルグが彼の個人的判断で首相を任命することに。
ここで議会の多数派によらない内閣ができてしまい、
民主議会制が崩れる。
つまり選挙の結果に関係ない人が首相で、
内閣を作るようになっていくのだ。
首相は次々と変わったが、その4人目がヒトラーだった。

大恐慌が起きる前の1928年の選挙では、総議席数600のうち、ナチスはたったの12、一番多い社会民主党が153、共産党が54だった。
ところが大恐慌の後、4年後にはナチスは233、社会民主党が133、共産党が80。
ナチスは議会の第1党になってしまう。
当時、経済の危機は国民の二局分解を起こしていた。
「革命」でなんとかしたい労働者たちは共産党、
資本主義体制を守りたい資本家や中産階級はナチスを支持。
で、最初支持があった社会民主党は、議会制民主主義を維持しつつ社会主義をという政党。
ところがこれを共産党が敵視した。
当時のドイツの共産党は、ソ連というよりスターリン率いるコミンテルンのもとにあったから、スターリンによる「社会民主主義はファシズムよりたちが悪いので、それと戦え」という指示を実行していた。
なので、ナチスに一丸となって対抗することもなかった。

首相になったヒトラーは仕事が早かった。
いや、彼はかなり前からこの機会を狙っていたのかもしれない。
1933年
1月30日 首相に任命される。第三帝国の成立。
2月27日 国会議事堂放火事件。真相は定かではないが、これは共産党員の仕業とし、共産党を非合法化。党員を逮捕し、共産党壊滅。第一のライバルを消す
3月5日 すごくタイミングよく総選挙。ナチス288議席(43.9%)獲得し、単独内閣結成。
3月23日 全権委任法成立。これは、「立法権を内閣に委ねる」というもので、立法できない議会って、、、と三権分立崩壊
4月1日 ユダヤ人迫害始まる
5月2日 労働組合を解散させ、ナチス管理下の労働戦線に再編
5月10日 反ナチ的な本を焚書。トーマスマン、レマルク、フロイト、ケストナーなど
6月22日 社会民主党の禁止
7月14日 新党の結成禁止。現実的にはナチス以外の政党禁止。

ここまでわずか半年、早すぎる。誰も反対できないほどの勢いだったのか。

10月 国連脱退
11月 総選挙。661人当選で92.2%。ほとんどの政党が禁止か解散させられていたので、投票できる党はほぼナチスしかなかった。
国会議員は以降ナチス党員のみ。

1934年になると、ヒトラーとタメ口をきける仲だった隊長レーム以下の突撃隊幹部を粛清(長いナイフの夜)。
当時、突撃隊の隊員は300万人もいて、ドイツ国防軍に取って代わることを考えていたが、ヒトラーは国軍を取り込みたかった。
資本家とナチスの提携にも、レームはまた反対していた。
また突撃隊は親衛隊とも敵対傾向にあった。
これでナチス内でのヒトラーの独裁は確立する。
一方、大統領のヒンデンブルクがいいタイミングで死んでくれたので、首相と大統領を兼ねた「総統」に就任。

ヒトラーはただし失業者対策にも手腕を発揮した。
ヴェルサイユ体制を無視して軍需産業の拡大。
住宅建設、アウトバーンなどの大土木工事。
公共事業はニューディール政策と似ているかもしれない。
第二次世界大戦が始まる1939年には、
ドイツの失業者はわずか30万人に減っていた。
ナチスの支持基盤である中産階級の福祉にも力を入れた。
マイノリティは切り捨ててて。
こうして国内を固めたヒトラーは、1935年から対外政策を始める。

ああ、時代は悪い方へ悪い方へと進んで行く。
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by mahaera | 2016-10-07 13:09 | 世界史 | Comments(0)