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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教えている世界史・1920年代後半/中国の統一と奉天事件

「革命いまだ成らず」の言葉を残し、
孫文が1925年3月12日に亡くなった。
孫文は遺言の中では、国民党と共産党が協力することを訴えていたが、それはまもなく破られることになる。
翌1926年、蒋介石を総司令官として北伐が始まる。
国民党政府があったのは南部の広州。
そして北部最大の軍閥は、東北地方から北京にまで力を延ばしていた張作霖。
国民党軍は二手に分かれ、武漢に入った汪兆銘は
国民政府の樹立を宣言。
ところが上海に入った蒋介石は、ここでクーデターを起こし、
共闘していた共産党員を虐殺する事件を起こした。

この頃上海は中国でもっとも発展した都市で、民族資本、外国資本、そして労働運動も盛んな場所だった。
仕切っていた浙江財閥は、共産党が力をつけることを恐れ、蒋介石をバックアップする代わりに共産党と手を切るように申し出る。
また、上海に入っている外国資本の中心である米英日も
共産党が力を伸ばすことを望まなかった。
そこで蒋介石はその流れを読み、共産党と共産党に協力的な国民党左派を排除することにする。
1927年4月、蒋介石は労働者たちに武装解除を命じ、
反抗するとこれを鎮圧。同時に各地で共産党の粛清が始まった。
数千人が虐殺されたという。

当初、国民党左派の武漢政府は、蒋介石が打ち立てた南京国民政府と対立したが、蒋介石の軍事的優位の前に「反共」をのむしかなかった。
こうして中国の南半分を抑えた蒋介石は、
翌1928年4月、北伐を再開する。

この頃になると、米英はもう軍閥政治はおしまいで、
時代の流れは国民党と読み、蒋介石の政府を承認する方向へ。
ところが、日本は蒋介石にストップをかけるために、
日本人居留民の保護を目的として、山東に出兵。
5月に北伐軍と武力衝突して「済南事件」を起こす。
この時、兵士だけでなく、一般の済南市民を巻き添えに。

日本軍の死者26、一般人16に対し、
国民党軍と中国の一般市民の死者が3600人以上というところからも、一方的な虐殺だったのだろう。
ところが、日本の新聞は「日本人の死者数百人」的に書き立てた。
これは日本軍が中国で最初に行った虐殺事件かもしれない。
この事件は世界に大きく報道され、国際的な非難も浴びる。
一方、蒋介石はこの日本軍の挑発に乗らずに、
軍を迂回させ、北京を目指す。

このころの日本はどうだったのか。
世界大恐慌は1929年だが、実は日本はそれよりも2年早く、
1927年3月に昭和金融恐慌が起きていた。
第一次世界大戦中に日本は空前の戦時景気を迎えていたが、
もちろん戦争が終われば戦後不況となり、
1920年には銀行は不良債権を抱えていた。
それに追い打ちをかけたのが1923年の関東大震災。
この震災手形も不良債権となる。
戦後に世界五大国になった日本だが、
日本の経済規模は世界的にはまだ小さく、「円」も弱かった。
輸出が振るわなくなっていたので、本来なら円の切り下げをして輸出を伸ばすべきだったのだが、
「せっかく世界の五大国になったのに、切り下げをするのは国辱的行為である」
と素人の意見が通る。
1926年に時代は昭和に変わり、円高・物価下落は続いていた。
そんな折、1927年3月、蔵相の失言から取り付け騒ぎが起き、
次々と銀行が休業。
それがさらに人々を銀行に殺到させ、大混乱になった。
政府はなんとかしてこれを鎮めようと、現金を急増。
緊急事態だったので、お札は片面しか印刷されていなかった。
この騒ぎの後、中小の銀行は没落し、財閥系の銀行に預金が集中。
財閥は強大化し、軍隊と結びつくようになる。

済南事件から1か月後の1928年6月4日、北京を支配していた張作霖は、蒋介石との戦いを避け、特別列車で奉天へ逃亡することに。
しかし奉天駅に入る前に、関東軍に爆殺されてしまう。
もともと関東軍は張作霖を応援していた。
それをなぜ殺したか。
もともと日本は、軍閥の張作霖を通して
満州に利権を伸ばそうとしていた。
蒋介石軍が迫る中、それを止めようと済南事件を起こしたが、蒋介石は戦いをスルーしてしまう。
「もうこうなったら直接支配」となり、
「お前は用済みよ」とばかりに、張作霖を始末したのだ。
そして国民党のせいにしようと、買収していたアヘン患者3名を現場に連れ出し、刺殺してゲリラだとの偽装工作を行う。
しかし、そのうちの一人が死んだふりをしていて、
息子の張学良に事情を話してしまう。
って、マンガか。
当時の田中首相は出兵を許可しなかったので、全くの軍の独断だったが、調査の結果、それは日本政府にもすぐにバレる。

田中首相は昭和天皇に、軍の独断だったことを告げるが、
陸軍は軍法会議を拒否して行政処分に落ち着く。
そこで田中首相は昭和天皇に
「軍は関係ありませんでしたが、手落ちがあったので行政処分にします」と報告すると、
天皇は「それでは前と話が違うではないか」と叱責。
そりゃねえよな、田中。
田中は責任を取って内閣総辞職。
しかし軍は一部の人間を軽い処分にしただけだった。
その処分された首謀者も、数年後に満州炭坑の理事長に就任する。

ただしこの事件は、関東軍の思惑と裏目の結果になった。
まず張作霖の息子の張学良は、真相を知って復讐に燃え、
蒋介石と和解して日本と戦うことを決意。
日本は満州への影響力を失ってしまう。
また、一発の弾丸も撃たずに満州を統合できた蒋介石は、
日本の自滅作戦に大喜び。
米英も南京の国民政府を承認し、
長年の懸念だった中国の関税自主権も認める。
こうして、関東軍の失策(しかもトップではなく中級クラスの独断)によって1928年、地方に逃れた共産党をのぞいて、
久しぶりに中国が統一される。
日本では、終戦までこの事件の真実は公表されなかった。

この事件を見ると、もうこの頃から、
日本の指揮系統はグタグタになっていたことがわかる。
国の国防政策を無視して、現地の独断で進めて何の処罰もされなかったわけで、これじゃ政治のプロは必要ないなあ。

ここまで勉強したら、うちの息子ひと言。
「日本、しょぼいねえ」
by mahaera | 2016-10-06 09:19 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・ニューディール、そしてブロック経済

1929年10月24日の「暗黒の木曜日」から世界大恐慌が始まった。
その影響については前回書いたが、
今回は主にそれに各国がどう対処したか。

アメリカは無策な共和党に代わって、1932年の選挙では民主党が勝ち、1933年からフランクリン・ロースヴェルトが就任すると、次々と新しい経済政策を打ち出す。
これが有名な「ニューディール政策」だ。
この政策の基本方針は、それまでの「自由放任」をやめて、
政府が積極的に経済活動に介入するということ。
自由放任で経済が暴走したのだから当たり前といえば当たり前だ。

1.まず、作り過ぎが原因の一つなので「生産調整」を行う

2. 物が売れないなら売れるように「市場拡大」をはかる

1はともかく2は、現実的には失業者は貧乏で物が買えない。
ならば国家が国民に仕事を与えて給料を払い、物が買えるようにする。対外的には欧州以外の市場を探すという方針を打ち出す。

それに沿った法律をと、最初に打ち出したのが「全国産業復興法(NIRA)」だ。
この中で生産調整を企業に要求し、また労働者一人当たりの労働時間を減らしその分を多くの人に雇用の機会を与え、また労働者の権利を拡張することが盛り込まれていたが、、、、、、

なんと最高裁が違憲判決を出してしまう。

「アメリカ本来の自由競争を阻害するもの」だと。

で、仕方なくこの中の労働者の権利(団体交渉権など)の問題だけ取り出して、1935年に法案が成立。
これが提案者の名にちなんで「ワグナー法」。

次に打ち出したのが「農業調整法(AAA)」。

これも作付面積の制限をする一方、農産物の価格引き上げで農民の生活を保護しようとしたが、、、、、

これも最高裁が違憲判決。

アメリカは日本に比べると、ずっと司法が独立しているので(いや日本もそうあるべきなのだが)、厳しい。

政府が国民の自由意思に関与するのは違憲なのだ。

成功した中で有名なのは「テネシー川流域開発公社(TVA)」。
これは大規模な公共事業で雇用を増やし、
失業者を吸収するのが目的。
分かりやすいが、でもどのくらいの効果があったのだろうか。
しかし、国民は希望を持った。なんとかなりそうだと。

これらはイギリスの経済学者ケインズの理論に沿ったものだった。

「お金がないから物が買えない」となると、経済は回らない。
しかしお金があれば(雇用があり賃金をもらえれば)、
物を買うので経済が回るというもの。
それまでは、「売れるものを作る」という発想だったのを、
「売れる状態を作る」という逆発想にしたのだ。
お金を持った人は、何か買いたくなるという発想だ。
ボーナス入ったら、きっと我慢して買わなかったものを買いたくなるでしょ。なので理解できる人も多いはずだ。

つまり、アメリカ政府は国民にどんどん賃金を払えばいい。
しかし、その財源はどこに? 
不況で貧乏で、税金も取れないんだから。
方法は簡単。「紙幣の増刷」だ。
ただしこれは米ドルの通貨の価値が暴落するというリスクもある。

当時、アメリカは金本位制で、
基本的には金の保有量に応じた紙幣しか発行できなかった。
この法律を改定して、金本位制をやめてしまった。
まあ、これは恐慌後も世界の大国だったアメリカだったからできたワザかもしれない。
紙幣が紙くずにならかったしね。
次にソ連と貿易をしようと1933年に外交関係を樹立。
当時、ソ連は世界の経済システムに組み込まれていなかったので、大恐慌のあおりは少なかったのだ。また、ラテンアメリカ諸国とも、結びつきをいっそう深めていった。

一方、他の国はどうしたか。

当時、世界の1/4近くを植民地や自治領として維持していたイギリスは、マクドナルド挙国一致内閣が経済改革を行った。

マクドナルドは1929年に労働党で単独内閣を組閣するが、
恐慌で失業者が増大し、社会保障費が国家財政を圧迫してしまう。
仕方なく失業保険を削減しようとするが、
なにせ労働党なんで支持者から猛反対。
で首相なのに、労働党から除名されてしまう(おいおい)。
しかしライバルの保守党・自由党が支持してくれて、
マクドナルド挙国一致内閣が成立。
国家の危機のためには、結束するしかないと。
日本じゃありえないねえ。

マクドナルドも、まずは金本位制の停止。
その理由は、その国の通貨がいつでも金に交換できることが保証されているのが金本位制だが、この時、恐慌の影響でドイツからの賠償金がストップ。
ポンドの価値が下がることを見越した外国人が、次々とポンドを金と交換し、金がイギリスから流出する事態になった。
で、それを阻止するために停止したのだ。

でも有名なのは次の「ブロック経済」だ。

これは、自国と自治領、植民地などを高関税の壁で取り囲んで他国を締め出すが、逆に域内は経済交流を活発化させるというもの。
「排他的経済圏」てやつ。これで不況を乗り切ろうとした。

そのためには、自治領、植民地が、
勝手に域外の国と低関税で貿易されちゃ困る。
そのため1931年には本国と自治領の関係を対等とし、
「イギリス連邦」が成立。
1932年にはインドやローデシアも参加したオタワ会議があり、
ここで上記のブロック経済が決定される。

そこから締め出された国はどうするか。
植民地のあるフランスもそれに習って「フラン=ブロック」、アメリカも資源のあるラテンアメリカを巻き込んで「ドル=ブロック」を形成して、なんとかして自国の通貨を守ろうとした。

しかしこれ、植民地(=原料供給地)があって
自分で資源を調達できる国はいいけれど、
植民地を持っていない国はどうすりゃいいの。
で、持っていない国の代表が、ドイツ、イタリア、日本だった。

これらの国は、ブロック経済でしのいでいる国に対して、
不満を募らせていった。
石油や鉄など、資源を売ってくれよ。
そして製品を買ってくれよと。
これが、第二次世界大戦の原因の一つにつながっていく。
by mahaera | 2016-10-04 17:21 | 世界史 | Comments(0)

最新映画レビュー 『ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK』  ファンなら劇場で見ないと後悔!

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一ヶ月以上続いた、ドロドロ仕事がようやく終了。最後の一本を書き上げ、メールで送ったので、打ち上げ。ただし一人だけれど。

で、選んだのはこの映画「エイトデイズ・ア・ウィーク」。
ビートルズのドキュメンタリーなんて、今更目新しさはないとノーマークだったのだが、ビートルズはいつ見ても目新しい。
映画館の中は、もうオーバー・フォーティーズ・ワールド。
そして映画ファンというより、もう見るからに
ビートルズファンらしき風体のおじさん、おばさん。
僕のひとり打ち上げ会場には、ピッタリだ。

ビートルズの結成から解散を時系列に追うのは、もうアンソロジーでやっているので、監督のロン・ハワードはどうするのかなと思っていたら、1964年から1966年にかけてのツアー、
特にアメリカに絞って、彼らがいかにハードデイズナイトの生活だったかを綴っていた。
そして、アメリカ視点でビートルズを語るのも、初めての視点もあり新鮮だった。

ビートルズがアメリカに上陸した1964年は、
アメリカでは激動の時期だった。
その前年には、キング牧師のスピーチで有名なワシントン大行進があり、11月22日にはケネディ大統領が暗殺される。
そんな陰鬱な空気を、1964年1月14日にアメリカで発売された
「抱きしめたい」が吹き飛ばす。4週間で250万枚が売れ、
人気の最高潮の2月7日にビートルズはNYへ。
翌々日の2月9日に出演したエド・サリバン・ショーでは視聴率72%、全米の人の半分が見たという。
6月に「ヤアヤア」も公開され、8月からアメリカツアーが始まる。
その頃、トンキン湾では北ベトナム軍と米軍が交戦を始めていた。
この年はキング牧師がノーベル平和賞を受賞し、ソ連が中国を非難し、PLOが設立され、韓国では戒厳令が施行、日本では東海道新幹線が開通した。

1965年、二度目のアメリカツアーが行われる。
初めて知ったのは、ビートルズは黒人のティーネージャーにも人気があったことだ。
当時のアメリカでは、白人と黒人の聴く音楽は分かれ、それぞれ専門のラジオ局でしか放送されなかった。
しかしビートルズの音楽は巷にあふれ、黒人の若者にも届いた。
少女だったウーピー・ゴールドバーグが、シェイスタジアムに行った話を語るが、初耳だったのはビートルズが南部を回った時、当時のスタジアムは白人と黒人の席が分離されていたこと。
記者会見でビートルズのメンバーがそれに対して抗議して、初めて会場で人種の壁が取り払われた。
会場では、白人も黒人も一緒になって声援を送ったが、ある黒人女性はそれで初めて「白人も自分たちと変わらない」と思ったと語っていた。

そうした時代の空気感を、「ビートルズの時代」に入れる試みをするのは、監督のロン・ハワード自身、多感な時期がそこだったからかもしれない。
ビートルズの全米上陸のときは、彼は10歳ぐらい。
赤ん坊の頃から子役としてテレビに出ていたハワードなので、
きっとエドサリバンショーも見ていたことだろう。

このドキュメンタリーでは、エピローグとしてアップルの屋上でのライブを映し出す。
そこにはすっかり成長して、大人になった彼らの姿が映し出されていた。

劇場用のおまけで、本編終了後に、「シェイスタジアム」のライブ映像が30分あるので、これも必見。
まるで昨日撮ってきたかのようにリストアされている。
最後の「アイム・ダウン」はサイコーだ!
by mahaera | 2016-10-02 23:48 | 映画のはなし | Comments(0)