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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その5 湾岸交易の衰退とエジプト中王国の滅亡

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(写真)中王国時代の都があったテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿。
これはのちの新王国時代のもの。ナイルデルタ地帯は、中王国の終盤になると次第にアジアからのヒクソスが力を伸ばし、独自の王朝を作っていく。


バーレーンのバールバール文化(前2200〜前1600年頃)

メソポタミアではインダス文明の地は「メルッハ」と呼ばれ、インダス文字を刻した印章が多く出土している。
インダス産の紅玉髄(カーネリアン)を始めとする各種貴石製のビーズ類はウルなどから出土しており、またインドのロータル遺跡などではビーズ工房が発掘されている。

メソポタミアとインダス文明の中継貿易や銅の採掘などで栄えたオマーン半島のウンム・アン=ナール文化は、なぜか前2200年頃になると拠点をよりメソポタミアに近い現在のバーレーンに移した。
そのためこれ以降をバールバール文化(文明)
(前2200〜前1600年頃)と呼ぶ。
メソポタミアでは「ディムルン」と呼ばれた国だ。
時代的には、メソポタミアが統一されてアッカド王国やウル第3王朝ができていたころ。
そして当時のチグス・ユーフラテス川の河口は、現在よりもずっと内陸にあった(港の位置が違う)。
エジプトではちょうど中王国時代だ。

バーレーンでは銅は産出しないので、おそらく中継貿易のための都市だった(銅はオマーン半島で相変わらず採掘された)。
インダスの交易品は、初期のころは直接メソポタミアに運ばれることもあったが、この頃にはこのディムルンがペルシャ湾の交易を独占するようになった。
物流の流れを整理すると、メソポタミアからは穀物、毛織物、工芸品、オリーブオイルなどが、
インダスからは紅玉髄、ビーズ細工、木材、金
そしてアラビア半島からは銅、真珠、貝の象嵌細工などが輸出されていた。
バールバール文化は前1600年ごろから衰退に向かう。
はっきりとした理由はわからないが、おそらくインダス文明の滅亡、バビロン第一王朝の衰退により、交易が停滞したことが大きいのだろう。

まあ、世界史の教科書だと「メソポミア文明とインダス文明が交流があった」ぐらいの記述しかなく、この湾岸文明についてはほぼ触れていない。同時期の陸路の道を支配していた「トランス・エラム文明」は、10年ぐらい前の教科書には一瞬掲載されたが、その後、消えたみたいだ。まあ、そこまでは覚えなくてもいいってことだと思う。しかし知っておいても面白いと思って、ここでは紹介した。


ヒクソスによるエジプト中王国の終焉

前2000年ごろからアーリア人をはじめとする民族大移動が
西アジア全域で起きていた。
もっともそれは、何百年をかけてのゆったりしたものだった。異民族のあるグループは、地中海東岸からエジプトとフェニキアの交易路を通り、エジプトのデルタ地帯に侵入してきた。
エジプト人は彼らを「ヒクソス」と呼んだ。
彼らが何系の民族だったのかははっきりとわかっていない。
諸説あるが、現在では「シリア・パレスチナ系」という説が有力だ。
エジプト側からの資料しかないので、
長らくヒクソスは「蛮族」としてのイメージが強かったが、
エジプトを何世紀にもわたって支配して王朝を打ち立てていたほどなので、統率の取れた集団であったことはまちがいない。

とにかくヒクソスが軍事力でエジプトを圧倒したことは間違いない。
まずはウマの使用だ。エジプト人が移動に使う家畜は、
それまでロバを荷運び用に使うぐらいだった。
また車輪の使用も知らなかった。
歩兵中心だったエジプト軍を、ヒクソスはウマに引かせた戦車という機動力、複合弓、青銅の刀や鎧といった当時最新の技術や装備で打ち負かした。
こうして前1700年ごろヒクソスは下エジプトに政権を打ち立てる。
ヒクソスの侵入は、よく世界史の試験には出る。
というか、高校の世界史では、中王国時代はヒクソスの侵入しか教えていない。

次回からは、紀元前2000年ごろからの民族大移動とその影響、エーゲ海文明などについての話になると思う。



by mahaera | 2018-12-31 11:12 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その4 エジプト中王国時代

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(写真)テーベ(現ルクソール)のカルナック神殿跡。

前2000年ごろのテーベの人口は4万人で下エジプトのメンフィスの6万人よりも少なかったが、中王国〜新王国時代に大きく発展し、のちにエジプト最大の都市に発展する。


メソポタミアではアッカド王国、ウル第3王朝、そして古バビロニア王国など、都市国家から領域国家への再編が進み、東ではインダス文明、西ではクレタ島のミノア文明が栄え、北ではアーリア人の民族移動が行われていた頃、エジプトではどうなっていたか。

エジプト古王国時代の末期は中央集権体制が混乱し、短い治世の王や、上下エジプトで別々の王朝が現れるなどの第一中間期へと続いていた。
前2040年頃にようやくメンチュヘテプ2世が全国を再統一し、ようやく混乱が収まる。
こうして前1790年まで中王国時代が始まる。
この時代、都は第11王朝では上下エジプトの境界にある
メンフィスではなく、もっと上流のテーベに移された。
しかし次の第12王朝ではそれよりもやや下流のアル=リシュトに移された。
中王国のことは、教科書ではほとんど触れられず、「そんなものがあった」と覚えておけば、受験にはとくに問題はない。

この時代には、エジプトは再び国力を回復し、
各地への遠征を行った。
また、デルタ地帯の大規模な灌漑や干拓事業が行われ、
地中海東岸のレバント地方、
ギリシアのミノアやクレタ島などとの交易も盛ん
になった。
周辺地域では、フェニキア人やクレタ人の活動により
海上交易が盛んになっていた。
前2000年ごろに始まったアーリア人の民族移動により、
アーリア人の王国が西アジア各地で生まれていた。
メソポタミアでは、古バビロニア王国が栄えていた。

この時代、エジプトの生産力は増し、穀物、亜麻、パピルス、宝飾品、芸術品、ヌビアからの象牙や金などを輸出
フェニキア商人の手によって地中海各地へ運ばれ、
代わりにスペイン産の錫やレバノンの杉
ギリシアからのワインやオリープオイルが輸入された。

王だけでなく他の王族や貴族も富を蓄え、別荘を持ち、
装飾品を揃え、宴会を開くようになった。
エジプト語や文字も完成し、古王国時代よりも
細かい表現ができようになった。
書記養成学校が作られ、文字を学んだ者達から、
やがてエジプト文学が生まれていった。
ただし、一番の読者は王だったので、内容は教訓的、あるいは王の力を正当化するプロパガンダの要素を含んだものだった。

「アメンエムハト1世の教訓」は、暗殺された王が後の王に、「人を信用するな」と述べたもの。
物語文学ではエジプト文学の古典と言われる『シヌの物語』が生まれた。
アメンエムハト1世の暗殺を知って遠征から戻る途中、
高官のシヌは身の危険を感じて亡命する。
シヌはベドウィン族の娘と結婚して高い地位につくが、
望郷の念が強くなり、エジプトへ戻るという話だ。
宗教的には、テーベが都になった時、
町の主神だったアメン神の地位が高くなり、太陽神ラーと結合してアメン・ラー神としてエジプトの国家神となっていく。


by mahaera | 2018-12-30 09:32 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その3 ハンムラビ法典


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(写真)ハンムラビ法典の碑文。バビロンのマルドク神殿にあったものだが、前12世紀にエラム人に略奪されて、イランのスーサで発見された。ルーブル美術館の目玉のひとつ。浮き彫りの左側がハンムラビ王で、イスに座った神から法を授かっている。つまり法は神が決めたものという意味だ。


バビロン第一王朝とハンムラビ法典
さて強力だった古アッシリア王国のシャムシ・アダド1世
前1781年に死去すると、メソポタミアは戦国時代。
群雄割拠状態になっていく。
その中で頭角を現していくのが、
バビロン第一王朝の6代目の王ハンムラビだった。
ハンムラビはシャムシ・アダド1世が生きている間は
臣従していたが、その死後はアッシリアと協力して
前1764年にシュメール地方のラルサ王朝を征服。
その後アッシリアが没落していくと、これも征服した。
こうしてメソポタミアはアッカド王国以来、久々に再統一された。
ハンムラビ王は、運河や治水、灌漑など大規模な工事を行った。
当時、すでにシュメールの地は、
千年以上続いた灌漑による塩害に苦しめられていたからだ。
またハンムラビはシュメールの法に乗っとり、
「ハンムラビ法典」を編纂して、領内の多民族統治に務めた。

ハンムラビ法典は「目には目を、歯には歯を」の復讐法ばかり有名になってしまったが、これは残酷ではなく、「倍返し」などの際限ない復讐に歯止めをかけようとしたともいわれる。
本文は282条からなり、聖書にも引用されている
「目には目を」の文は、196と197条。
おそらく当時としてはかなり公平性を持った法律で、
女性の権利や奴隷の権利、犯罪被害者へ加害者による賠償
命じるなど、身分差別(3つの身分があった)はあるが人種や宗教の差別はなかったことが特徴だ。
ハンムラビ法典はもともとアッカド語で粘土板に書かれたが、のちに石柱に刻まれた。
楔形文字でハンムラビ法典が刻まれた有名な玄武岩の石棒は、イランのスーサで発見された。
これは紀元前12世紀にバビロンから奪われ、
スーサに運ばれたもの。現在はパリのルーブル美術館にある。
ハンムラビは前1750年ごろ死去する。バビロン第一王朝はその後、しばらく続くが、最終的には前1531年にヒッタイトによって滅ぼされた。
このころには、セム系の民族に変わり、インド=ヨーロッパ系の民族がメソポタミア地域に登場していたのだ。


[ハンムラビ法典]
ハンムラビ法典には、現代からすると意外なことが記されているが、私が注目したのはビールに関する記述。
シュメールやメソポタミアでは前3000年ぐらいから
ビールが飲まれていた。
今のビールと違い、パンを水につけて発酵させたようなもので、立派な食事の一部だった。
神殿に奉納するビールの量なども定められているが、
ハンムラビ法典では
108条「酒場の女が酒と麦(貨幣の代わり)の交換を拒んだり、値段をごまかしたりしたら、川に投げ込んで溺死させてもいい」というのがある。
まずは酒場があったこと、そこで働く女性がいたこと、値段のごまかしがあったことがここからわかる。

109条「もし酒場に謀議をしている犯罪人が集まっているのを知りながら、通報しなかったら、その酒場女は死刑」

14条では「幼児誘拐が死刑」となっているのは、奴隷に売り飛ばしたりすることがあったからだろうか。不動産や土地の売買、利息に関しての規定もある。

また、「妻が子を産ませるために女奴隷を夫にあてがったら、その女奴隷はもう売ることはできない」というのも面白い。

138条「もし男子を生まない理由で正妻と離婚するなら、彼女の持参金をすべて返し、銀500グラム相当の離婚金を払わねばならない」※当時の肉体労働者の日給は銀0.23グラム。だから結構大金。

24条「もし強盗が命を奪ったら、市と市長は遺族に銀500グラムを支払わねばならない」(強盗は死刑)

モラルも厳しい。近親相姦は死刑。
155条「息子の嫁とできたら水死」
156条「婚約中の息子の相手に手を出したなら、1マナの銀の罰金」
157条「母親と相姦した場合は、二人とも焼殺」
129条「妻が現行犯で不貞していた場合、男と一緒に水死させる。ただし亭主が助命すれば許される」
131条「妻が密通の嫌疑をかけられても、現行犯でないなら、神に宣誓して実家に帰れる」

あと、家畜を借りた場合はいくら払い、それに怪我をさせた場合や死なせた場合はいくら賠償、獣医が家畜を死なせた場合はなどと、具体的、かつそういう揉め事が多かったんだなあと、当時のメソポタミアの様子がよく分かる。



by mahaera | 2018-12-29 11:16 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その2 メソポタミアの諸王国

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(写真)シャムシ・アダド1世統治時代(前1800年前後)のメソポタミア。彼の治世はアッシリアが強国となったが、彼の死後、バビロニアのハムラビ王が頭角を現していき、メソポタミアを再統一する。(地図はwikiより引用)


[学校時代]
前2000年頃のアッカド人やシュメール人の生活ぶりを示す、
楔形文字で書かれた文学が『学校時代』だ。
子供の頃にNHKテレビで見た番組「未来からの遺産」でこの話が紹介され、印象的でずっと覚えていた。
主人公は学校でシュメール語を習っている生徒だ。
アッカド語やシュメール語を読み書きできる書記を養成する学校があった。
主人公の生徒は母親から弁当を受け取り、学校に行く。
先生は生徒の書いた粘土板の文字を読み、
間違っていると言って鞭で打った。
次に先生は文字が汚いと言って生徒を鞭で打った。
さらに生徒のシュメール語の発音が悪く、
まるでアッカド語のようだと鞭で打った。
また先生は生徒が許可なく喋っていると鞭で打った。

散々な目にあった生徒は、家に帰ると父親に先生を家でもてなして欲しいと頼む。
先生が家にやってきた。
父親は食事やナツメヤシ酒を出して先生をもてなし、
衣服を送った。
すると先生は手のひらを返したように生徒を褒めた‥。

この物語を読むと、
4000年前の古代人が身近に感じられるだろう。
やがてシュメール人は歴史の舞台から消えていくが、メソポタミアでは共通語、あるいは教養語として、この後の古バビロニア時代でもシュメール語はしばらく使われ続けていく。
また、アッカド語は古代オリエントの共通語として、各国間の文書のやり取りにも、その後数百年間使われ続けていく。


小国家が分立していた前1800年頃のメソポタミア

前2004年のウル第3王朝の滅亡後、メソポタミアはセム語系の遊牧民アムル(アモリ)人による小王国に分かれた。
北部のアッシリアは、アッカド王国、ウル第3王朝の時代は、その覇権下にある都市国家だったが、アッシュール神とその神殿がある都アッシュールを中心として徐々に栄え始める。
アッシリア商人たちが小アジアに進出して拠点を築いていったのもこのころだ。
最初の最盛期は、アムル人のシャムシ・アダド1世が前1813年にアッシリアを征服して王となり、訪れた。
新しく築いた都シュバト・エンリル(エンリル神の住まいの意味)の人口は、最盛期には2万人に及んだという。
シャムシ・アダド1世はさらに当時の強国マリを破り、北部メソポタミアを統一、「世界の王」の称号を名乗った。
シャムシ・アダド1世は多くの粘土板書簡を残したため、
当時の様子が知られている。

同じ頃、メソポタミア南部シュメールの地のラルサ王朝もこの時代、名君と言われたリム・シン王が60年にわたる安定した統治を行っていた。
しかし長年の灌漑農業による塩害には苦しめられ、インダス文明との交易も衰退していたようだ。

その2国に挟まれる形でチグリス・ユーフラテス中流域のアッカドの地に領域を広げていたのが、バビロン第一王朝(古バビロニア王国)だ。
この国家は、前1900年ごろにアムル人が、
バビロンを都として築いたもの。
しかし次第に版図を広げ、6代目の王ハムラビ(在前1792年-前1750年ごろ)の時に全メソポタミアを統一し、中央集権国家を確立する。しかし、アッシリアのシャムシ・アダド1世がまだ生きている時は、ハムラビ王もまだ彼に臣従し、機会を狙っていた。(続く)


by mahaera | 2018-12-28 10:33 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その1 アッカド王国とウル第3王朝

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(写真)アッカド王国の範囲。シュメールとアッカドだけでなく、上流のアッシリアまで支配した、メソポタミア初の領域国家だった。下流の色が変わっているエリアは、当時は海面が2m高かったので、ペルシャ湾だったかもしれない。このころは、インダス文明やペルシャ湾岸のマガン国などと、交易活動を行っていた。エジプトは古王国が崩壊し国家が解体していた、第一中間期。(画像はwikiより)


初めてメソポタミアを統一したアッカド王国
ここで再び、メソポタミアに目を向けよう。
1000年以上、都市国家に分かれていたメソポタミア南部の
シュメールとアッカドの地だが、それを初めて統一し、
メソポタミア初の領域国家を建設したのは、
シュメール人ではなくアッカド人だった。
アッカド人は前3000年ごろ、メソポタミアの地にやってきた
セム語系の民族。
もともとは遊牧系だったらしいが、次第に定着民となる。

前2330年、アッカドの地にある都市国家キシュの高官だった
サルゴンは、シュメールの諸都市を攻略し、
ペルシャ湾に達するアッカド王国を作った。
世界史の教科書に登場する、
最初の個人名がこのサルゴン1世だ。
彼の孫であるナラム・シンの時に領土は最大になり、
チグリス・ユーフラテスの上流から
レバノンに至る地中海沿岸まで達した。
しかし、以降、急速に王国は崩壊し、
前2230年頃には各都市国家が再び独立する状態に戻っていく。
このアッカド王国の都のアッカドは、いまだに未発見
またこの統一により、王国滅亡後もメソポタミアでは
アッカド語が公用語となる時期が続いた。


シュメール人によるウル第3王朝
アッカド王国の崩壊後、短期間だが再びシュメール人の勢力が復興する時期がある。
ウル第3王朝(前2112年〜前2004年)だ。
「第3」ということは、第1と第2があるらしいが、
とくに覚えなくていいらしい(笑)。

この第3王朝が世界史上で特筆されるのは、
「最初の官僚制国家」だったということ。
膨大な粘土板の記録が残っており、
そのほとんどが行政文書だ。
また、王朝創始者のウル・ナンム王は、
バビロンのハムラビ王の「法典」に先行して、
法集成を行った。
ウル第3王朝は、その名に反しウルだけでなく、南メソポタミア全域をほぼ支配し、周辺国も家畜などを納めていた。
しかし前2000年が近くなると、周辺から遊牧民のアムル人やエラム人がシュメール・アッカド地方に入り込んでくる。
シュメール人は壁を築いて対抗したが、前2004年にエラム人がウルを占領して王朝は滅亡してしまう。
ウル第3王朝の滅亡と共に、シュメール人は以降、歴史の表舞台から消えていった
イラン方面のザグロス山脈から来たエラム人はウル第3王朝を滅ぼしたが、メソポタミアには居座らなかった。
そのため以降のメソポタミアは、
セム語系のアムル人によって動かされていく。

このアッカド王国からウル第3王朝時代は、
東方のインダス文明の諸都市とも活発な交易が行われていた。
しかしその後、インダス文明は滅亡し、
メソポタミアも小さな王国が競う時代に入る。
インダス文明はなぜ滅亡したのか。それはまたのちに。(続く)


by mahaera | 2018-12-27 02:12 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

最新映画レビュー「家へ帰ろう」 老人が人生最後の旅で果たしたかったものは?



2017年/アルゼンチン、スペイン

監督:パブロ・ソラルス
出演:ミゲル・アンヘラ・ソラ、アンヘラ・モリーナ、オルガ・ポラズ、ユリア・ベアホルト
配給:彩プロ
公開:12月22日よりシネスイッチ銀座で公開中

最近、ホロコースト映画が多いなと思っていて、
この映画を見ていて腑に落ちた。
ホロコーストの生き残りの人たちの話が聞けるのも、
きっとあと10年が限界だ。
生き残りはほとんどが80代後半以上の高齢者で、
話を風化させないためにも、今作られているのではないか。

主人公はアルゼンチンに住む88歳の元仕立屋アブラハム。
住み慣れた家を離れ、老人ホームに入る前夜、
彼は突然家を抜け出して飛行機に乗り込む。
彼はもう70年以上会っていないという“友人”のために仕立てたスーツを届けに、ポーランドへ行きたいのだ。
乗り継ぎで一泊の予定だったスペインのマドリードだが、
その宿で泥棒に入られ、無一文になってしまう。
仕方なくお金を借りて陸路でポーランドを目指すのだが、、、

冒頭、明日は引き払うという家にアブラハムの二人の娘が
孫を連れてやってくる。
いろんなことを言うが、みな彼の遺産が目当てで、
老人ホームに入れて厄介払いしたいのがありありだ。
アブラハムもアブラハムで、常に皮肉を言い、
斜に構えたものいいの意地悪じいさんぶり。
そんな彼が、なぜ人生の終わりを感じて、旅に出たか。
第二次世界大戦まで、彼はポーランドの裕福な一家だった。
しかしユダヤ人だったため、強制収容所に送られてしまう。
戦争が終わって生き残ったのは、家族では彼だけだった。
家に戻るとそこはすでに、従業員だった一家に占拠されていて追い出されてしまう。
それを助けたのは、従業員一家の息子の
アブラハムの友人だった。
彼はそれを恩義に感じていたので、
その友人に死ぬ前に一目会いたかったのだ。
しかしそれから70年が過ぎ、彼の生死もわからなかった。
図々しく辛辣なアブラハムだが、その心の傷は大きい。
それは今でも「ポーランド」と「ドイツ」という言葉を口に出して言えないことからもわかる。
そしてドイツに一歩も足をつけたくないとこだわる。

お金を盗まれ、一文無しになったアブラハム。
しかしそんな時こそ人の優しさを知るものだ。
彼のことを一番愛していた末娘を、姉たちのようにおべっかを使えなかったためにアブラハムは追い出していた。
そんな末娘にお金を借りたり、宿屋の女主人に優しくれたり、パリでは嫌っているドイツ人の女性に助けられたりなどと、
行く先々でさまざまな人々に助けられる。
それがロードムービーの王道といえばそうなのだが、
丁寧な作りで安心して見られる。
彼の家は、ポーランド第二の都市ウッチ。
過去にとらわれていた老人がわだかまりを超えて、
人と人との絆を取りもどす様はストレートすぎるかもしれないが、嫌味はないので、素直に見られる。
心落ち着いて見られる大人の作品。
★★★☆


by mahaera | 2018-12-26 10:46 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]インダス文明とその周辺(前2600〜前1800年)その6 ペルシャ湾文明とは?

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(写真)ペルシャ湾は穏やかな海で、大した船舶技術がなくても航行できたという。

オマーン半島の付け根のウンム・アン=ナール文化(赤い点)は、

メソポタミアとインダスの中継貿易で栄えたと推測されている。


ペルシャ湾文明の萌芽(前6000〜前2800年)
1960年代以降、発掘が進み、注目されているのが
ペルシャ湾の南岸にあった古代文明だ。
現在の国でいうと、アラブ首長国連邦、カタール、
バーレーン
にかけてで、古代メソポタミアと活発に商取引きがあったことで知られている。
まだメソポタミアにシュメール文明が生まれる前のウバイド期(前6000年〜前4000年)にも船が行き来していたようで、
この地域の50か所からウルなどの南メソポタミアの土器が発見されている。
当時からホルムズ海峡に突き出たオマーン半島の山脈などには銅の鉱山があり、それが輸出されていた。

しかし交易ネットワークが確立するのは、
メソポミアにシュメール文明、ペルシャ湾北岸のイラン側に原エラム文明が成立した前3000年前後から。
アラブ首長国連邦の内陸の山地にある
ハフィート期(前3100〜前2800年)の遺跡からはメソポタミア産の土器が数多く発見されている。
また、地元産の土器の造り方がイランのケルマーン州のテペ・ヤヒヤのものと同じことから、現在ではテペ・ヤヒヤの人々が銅鉱山の開発のためにオマーン半島に入植したと見られている。つまりもともとメソポタミアと交易をしていた
原エラム文明の人々が、商品となる銅を求めてアラビア半島に渡ったというのだ。


ウンム・アン=ナール文化(前2800〜前2000年頃)

その後、中心都市はオマーン半島の付け根にある場所で、ウンム・アン=ナール文化(前2800〜前2000年頃)が栄える。
アブダビ近くにある小さなウンム・アン=ナール島で多くの円形墓が発見されたが、多くのメソポタミアの土器のほかに少数のインダスの土器や象牙も発見され、インダス文明とメソポタミアを結ぶ海上交易の中継都市として栄えていたと推測されている。
まずオマーン半島で採掘した銅をここで精錬し、
それをメソポタミアの農産物やインダスの紅玉髄(カーネリアン)、アフガニスタンからエラム(イラン)経由で伝わったラピスラズリなどを取引していたのだ。
メソポタミアの文献に「マガン」国として出てくる国が、
このウンム・アン=ナール文化という。
もともと交易は陸路から始まったが、
海上輸送のほうがずっと楽に多くのものを運べる。
当時の船の技術は大したことがないが、波が荒くないペルシャ湾の場合は陸を目視しながらの航行ですんだ。
このネットワークに伴い、インダス文明では当時、
港湾都市だったと推測されているグジャラート州のロータルが、貿易を行っていたと推測されている。
つまり、メソポタミアとインダスの両文明の間は
不毛の地ではなく、商業ルートが確立されていたのだ。(続く)


by mahaera | 2018-12-25 22:53 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]インダス文明とその周辺(前2600〜前1800年)その5インダス文明の都市の構造

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(写真)インダス文明の都市から発見された牛車の像。
2頭の牛にひかせるこうした牛車は、今も農村で使われている。ちなみにインダス文明では、まだ米は栽培されていなかった。


インダス文明の都市の構造

インダス文明の都市は、
碁盤目状に街路が整備されて計画的に作られていた。
トイレ、浴場、井戸などがあり、
建物は焼きレンガでできていた。
焼きレンガは、900度の熱で焼く過程で空気中の酸素と土の鉄分が結びついて酸化鉄に変化したもので赤く見える。
当時、メソポタミアやエジプトでも、頑丈な焼きレンガは一部しか使われず、ほとんどが干乾しレンガだった。
もちろんそれらの土地では雨が少なく、
焼きレンガを造るための木材も不足していたのだが。
現在は乾燥地帯となっているインダス川流域も、
かつては森がかなりあったのだろうか。

インダス文明の衰退の原因に、レンガを焼くために木々を伐採しすぎて環境破壊が進み、乾燥化が進んだという説もある。
もしくは当時のインダス川流域はいまほど乾燥しておらず、
雨に濡れて溶ける干乾しレンガでは、
家が建てられなかったのかもしれない(現在でもカラチの年間降水量はカイロの約7倍ある)。
モヘンジョダロの焼きレンガは「4:2:1」の比率で規格化されて造られていた。
なし崩し的に造られた都市ではなく、
かなりの計画性があって都市が造られたのだ。

都市にある「沐浴場」は、排水溝があることから
そういう風に名前がつけられているが立派すぎるので、
最近ではこれが神殿だったという説が有力だ。
つまり水を使った儀式を行っていたということ。
古代ローマのような公共浴場ではない。
現在もインドでは、本堂のシヴァリンガに注いだ液体が外に流れ出す排水溝を取り付けた寺院がある。
インダス文明の「沐浴場」では、膝ぐらいまでの水に浸かり祭儀を行ったとか、動物を犠牲に捧げて血を流したとか、諸説あるがこれもやはり決定打はない。

インダス文明で生活に使う水は井戸から汲み上げていたので、町に張り巡らされた溝は排水溝なのだが、
以前は下水溝と考えられていた。
現在では生活下水は流していなかったという説が有力らしい。
「穀物庫」はそう名前が付けられているだけで、
そこから穀物は出土していない。

街区は身分、あるいは職能集団ごとに分けられていたようだ。一般庶民が住んでいた家々よりも、
あきらかに間取りが広い家が並ぶ街区がある。
武器が発見されたことから軍人が住んでいた地区、
インク壺が発見されたから「学校」と推測されるものもある。


インダス文明の滅亡
インダス文明は紀元前2000〜前1900年ごろに、
突然崩壊した。
その理由は諸説あるが、やはり決定的なものはない。
昔はアーリア人の移動によって崩壊したという説があったが、今は否定されつつある。
滅亡期のインダス文明については、またあとで述べよう。
ともかく、前2600〜前1900年頃に、
ここに一大文明圏があったことは確かなのだ。(続く)



by mahaera | 2018-12-24 10:32 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

最新映画レビュー『宵闇真珠』 今では忘れてしまった空想の中の異国に連れて行ってくれる



キャッチコピーに「90年代香港映画の興奮よ、ふたたび」とあるが、けっこう当たっていると思う。
でも興奮かな。なんともいえない、やるせなさかな。
あのころ香港は、憧れの地だった。
もう10年も行っていないけど、ノスタルジアと熱気と気だるさと、独特の人くささが魅力だった。
この『宵闇真珠』のムードは、撮影、音楽、テンポは、そんな初めて接したアジア圏の映画のムードに包まれている。
もちろん撮影・監督がクリストファー・ドイルということもあるのだけれど。
『恋する惑星』や香港映画ではないが『非情城市』あたりのムードだ。

開発が進む香港に残る最後の漁村。
珠海村に住む16歳の少女(アンジェラ・ユン)は、太陽の光に当たると病気になると言われ、日中はサングラスに日傘をさし肌を隠して暮らし、村人からは「幽霊」と言われている。
ある日、死んだという母親の荷物からミスコンのオーディションのカセットテープが見つかる。
その歌を聴き、母に思いを募らせていく少女。
そのころ、村はずれの廃屋に、いつしか異邦人の男(オダギリジョー)が住み着くようになった。
少女は自分を見つめる男と出会い、
自分が変わっていくのを感じる。

常にどんよりと曇り、フィルターがかかったような画面。
時代を感じさせるものが少ない漁村のみで進むこの物語には、
携帯やパソコンは登場せず、
現在のようでもあり、20年前かもしれない。
少女にとってはこの村の中がすべてであり、
孤独が慣れっこになっている。
しかしすでに子供ではなく、大人になりかかっている少女の、
旅立ちの日はそこまで近づいている。

オダギリジョー扮する男は、何かに追われてきたように
この村の廃屋に身を隠している。
彼が大活躍するわけではなく、ただそこにいるだけなのだが、
少女は彼の存在で、村の外を意識する。

そのふたりの背景に、村の再開発問題と
村長の腹黒い計画がコミカルに語られる。
それはこの停滞したような村の生活が続くのも、
あと数年しかないという予感を感じさせるためだろう。
若い頃は自分の周りの生活が永久に変化しないと思っていても、そんなことはない。変わらないものなどないのだ。
同じ風景を見ても、5年もすれば同じに見えないことがある。
自分も知らないうちに変わっているのだ。

90年代香港映画に感じたノスタルジアは、
70年代の邦画に通じるものだった。
その雰囲気はこの映画に十分に感じるが、昔と違うのは、かなり意識して作り出していることを感じることだろうか。
なので本作にとっては、雰囲気は背景ではなく、
作品の中核になっている。
そのあたりが、きっと好き嫌いがわかれるかもしれない。
つまりストーリーはそれほど重要じゃないので、
骨太な映画見たい人は物足りないかな。

あと、アンビエント的な音楽いいです。けっこう耳に残るというか、『非情城市』のサントラ思い出した。
★★★

by mahaera | 2018-12-23 12:19 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]インダス文明とその周辺(前2600〜前1800年)その4 ハラッパーとモヘンジョダロ

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(写真)モヘンジョダロから出土した銅製の「踊り子」像。実物は小さく13cmほどしかない。(デリー国立博物館収蔵)


ハラッパー
インダス文明の都市は数多いが、受験の世界史で言えばハラッパーとモヘンジョダロを知っておけば十分だ。
ただし、定番といえるのが地図問題で、
インダス川の上流にあるのがハラッパー、
下流にあるのがモヘンジョダロ
と覚えておけばいい。
あとは引っ掛け問題で、インダス川沿いの遺跡は、
現在はインドではなくパキスタンにあるので注意だ。

もっとも初期に現れた都市はパンジャブ地方にあるハラッパーで、前3000年ごろの初期ハラッパー文化から次第に前2600年ごろには都市へと発展していった。
ハラッパーの発掘は1920年代から始まるが、遺跡を構成していたレンガの多くはその前に地元住民やイギリスの鉄道建設のために持ち去られていた。
しかし4000年近く前のレンガがまだ使えたとは、そちらのほうが驚きだ。
ハラッパーの最大人口は2万人程度だったようだ。

モヘンジョダロ
インダス文明最大の都市、モヘンジョダロがあるのはインダス下流のスィンド地方だ。
都市が栄えていたのは前2500〜前1800年の約700年間で、最大人口は3〜4万人。
当時、世界で同程度の規模の都市はメソポタミアのウルク、アッカド、ラガシュ、マリやエジプトのメンフィスぐらいしかなかった。
ちなみにモヘンジョダロとは「死の丘」という
後世につけられた名前で、当時の名前は知られていない。
この遺跡からは有名な「神官像」「踊り子像」などが
発掘されている。
現在の遺跡はインダス川から少し離れているが、
これは川の流れが変わったため。
古代史では定番だが、現在の川と数千年前の川とでは
流れている場所が違っていたり、
海岸線が変わっていたりすることはザラだ。
モヘンジョダロというと必ず使われるストゥーパの写真だが、これはインダス文明とは関係ない
ずっと後の紀元後の仏教遺跡。
その下を掘ったらインダス文明の遺跡が出てきたのだ。

インダス文明の人々の暮らし
ではインダス文明の人々はどんな生活をしていたのだろうか。
インダス文字は解読されていないので、
文献から読み解くことはできないのだが、
メソポタミアやエジプトとは異なり、
王宮や宮殿のようなものが町にはない。
しかし厳格な階級制度はあったようだ。
インダス文明の担い手は、従来は現在南インドに多く住むドラヴィタ系の人々だったといわれていたが、
これも現在は異議を唱える説も多く、決定打がない。
何しろ文字が解読されていないので、どんな言語だったのかもわからない。
インダス文明では「印章」が多く出土している。
モヘンジョダロだけでも約1200の印章が発掘され、
それは所有者を示すものだという。
印章にはインダス文字が刻まれているが、解読されていない。土器は彩文土器、青銅器も発掘されている。
各都市間の関係は密で、メソポタミアと異なり敵対や競合はしていなかったとみられている(都市間の戦争が確認されていない)。
(続く)


by mahaera | 2018-12-22 11:21 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)