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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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最新映画レビュー 『AMY エイミー』 音楽は素晴らしいが、ダメになっていく友達を見ているようで辛い

このレビューは、別サイト「前原利行の映画レビュー」に引っ越しました。
以下リンク先です。内容は少しリライトしてあります。2020.9.19



# by mahaera | 2016-07-28 16:34 | 映画のはなし | Comments(0)

子供に教えている世界史・日露戦争から始まる、第一次世界大戦への道

子供に教えている世界史もいつのまにか20世紀に突入していた。
あと100年か。もうすぐだ。
「現代史が面白い」と感じて欲しいのだが、どうだろう。

さて、1904年2月、日本は仁川や旅順のロシア艦隊を奇襲し、
日露戦争が始まったことは、前回書いた。
戦争の経緯などは省くが、イギリスとアメリカから金融支援を受けた日本は緒戦で何とか勝ち進む。
帝政ロシアにとっては極東の局地戦のはずだったが、
相次ぐ敗北に国民の不満が高まっていた。
1905年1月には、首都サンクトペテルブルグで広場に集まった民衆2000〜3000人が殺されるという「血の日曜日事件」が起き、それをきっかけに反政府運動が高まる。
「ロシア第一次革命」だ。
皇帝は極東で日本軍と戦っていた軍の一部を、
シベリア鉄道で戻さざるをえなかった。
戦争を終わらせたかったロシアは、アメリカの仲介で
日本と講和条約を結ぶことにする。
この交渉中には、黒海で戦艦ポチョムキンの反乱も起きている。

日露の講和条約であるポーツマス条約では、
日本はロシアが持っていた中国東北地方の権益
朝鮮半島の優越権、樺太の南半分などを得たが、
賠償金を得ることはできなかった
それにより一方的に勝ったと思っていた日本国民は大きな不満を持ち、政府は非難を浴びた。
しかしロシアは傷が拡大しないうちに手打ちにしたのでまだ余裕はあったが、実は日本はもう戦争をするお金が底をついていた
日本政府はアメリカやイギリスからお金を援助してもらって勝ったとは言えないから、手打ちに政府はほっとしていたろう。

さてさて、日露戦争の結果、世界に2つの変化が起きる。
ひとつは「第一次世界大戦につながる新たな国際関係」、ひとつは「民族主義の高揚」だ。まず後者から。

アジアの国が欧米の大国ロシアを破ったという
ニュースは、白人の不敗神話を打ち砕いた。
これは植民地支配にあえぐ、アジア、アフリカの人々に大きな勇気を与えたという。
民族主義が高揚し、なぜ日本は支配を受けずに独立を維持し、
ロシアを負かすほどの強国になったのかという研究も行われた。
トルコ(1908)、イラン(1907)では「立憲革命」が起き、
インドでは「ベンガル分割令(1905)」への反対運動が高まり、
ベトナムではファン・ボイ・チャウらがトンズー運動(1904)を、
孫文は中国同盟会を結成し(1905)「三民主義」を唱えた。

日本の勝利は、国際関係も変えた。
ロシアは極東から手を引き、以降バルカン半島に進出していく。
そうなると、同じくバルカン半島に進出しようとしている、
ドイツ&オーストリア・チームと対立を深めていく。
ドイツはトルコと手を結び、イスタンブール、
バクダードまで伸びる鉄道を敷こうとしていたのだ。

イギリスは半世紀以上に渡り、ロシアの南下政策と対立していた。
しかしロシアが日本に負けたので「ロシア、大したことないじゃん。戦っても勝てるな。それよりも危ないのは新興国ドイツだ」と考え、1907年英露協商を結んでロシアと手を組むことに。
これにより、ロシアとイギリスの間で、チベット、アフガニスタン、カージャール朝での勢力範囲が決められる。

すでにロシアはフランスと露仏協商が結んでいたので、
結果的に英露仏の三国協商だ。
一方、日英同盟を継続した日本もこのチームに加わり、
1907年に日露協約、日仏協約を結んで、アジアにおける勢力圏の確定を行った。
これは、中国の東北地方はロシアと仲良く山分けに、
フランスにはインドシナ進出を認めるというもの。
アメリカとは桂=タフト協定で、アメリカのフィリピンの領有
認める代わりに、日本の朝鮮進出を承認という取り決めをした。

こうして、この段階で、のちに第一次世界大戦につながる国同士のチーム形成ができていく。
日本は、欧米の「帝国主義クラブ」に加入できたのだ。

日露戦争後、日本は朝鮮(韓国)支配を推し進め、
民衆による激しい武力闘争が、1908年だけでも1451回も起きた。
1909年、伊藤博文がハルピンで暗殺
その翌年の1910年に日本は韓国を併合する。
以降、日本人資本家は土地を取り上げ、韓国の民族資本の芽を摘み、大量の朝鮮人低賃金労働者を日本の資本主義を支えるために日本に送り込むようになる。

日本は、アジアの人々が期待したような
「欧米の帝国主義に対抗するアジアのヒーロー」ではなかった。
日本に対する失望感は、やがてアジア諸国に広まっていく。
子供には「スネオがジャイアンを倒してクラスのヒーローになったが、今度はスネオがジャイアンになった。
そもそもスネオは、最初からジャイアンになるつもりだった」と話す。

まもなく、第一次世界大戦だ。
# by mahaera | 2016-07-28 10:57 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・日露戦争までの中国をめぐる状況

自分でも日清・日露戦争のあたりってけっこう忘れているあたり。
日本史上では、太平洋戦争、日中戦争に次ぐ大戦争のはずなんだけれど、
世界史的に見たら「クリミア戦争」ぐらいの感じなのかな。
たとえばwikiを見ると、日清戦争の日本の死者は1400人
病死が1万2000人と病死のほうが多い。日露戦争は日本の
死者約8万8000人
のうち病死が2万7000人。規模でいうと
日露戦争のほうが大きな戦いだったことがわかるが、
太平洋戦争なんかと比べると2桁は違う。

さて、日清戦争後の三国干渉で日本が返還した遼東半島には、
ロシアが代わりに進出し大連と旅順に拠点を築いた(おいおい)。
その向かいの膠州湾にはドイツが進出し、青島を建設(おいおい)。
イギリスも山東半島の威海衛
フランスも広州湾をそれぞれ租借し、
列強の中国進出が一段と活発化する。
スペインと戦争して出遅れたアメリカは焦って、1899年に
「門戸開放宣言」をする。
これは、各国がテリトリーを決めるのではなく、
「機会均等に利権をむさぼろう」というもの(笑)。
そんな中、1900年に義和団事件が起きた。
これは山東半島に進出したドイツが強引にキリスト教を布教し、
キリスト教排斥運動を呼んだのが始まり。その中心の義和団は、
やがて清を助けて外国排除運動を始め、それが中国北部に拡大。
最初は、義和団が事件を起こすたび、
諸外国に怒られて困っていた清だが、西太后はそれを利用して
1900年、諸外国に宣戦布告(ダメだ)。
これを「北清事変」あるいは「義和団の乱」という。
映画にもなったね。『北京の55日』

あの映画では日本の出番がほとんどないが、
実際には8か国(日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、
オーストリア、イタリア、アメリカ)出兵し、
その主力は日本とロシアだった。
義和団は「刀槍不入」といって、修練によって神様を
自分に乗り移らせ、刀も槍も刺さらない、鉄砲の玉もはじくと、
10代の少年少女に教えて対抗したが近代兵器の前に軽く粉砕。
この時、イギリスは南アフリカ戦争でいっぱいいっぱい、
アメリカはフィリピンで民衆運動を抑えなくてはならず、
すぐに軍隊を動員できたのは日本とロシアのみ。
さて、あっという間に終わったこの乱の後、
列強は「北京議定書」を清に認めさせる。
これは軍隊の駐留権を認めるというもの。
映画『砲艦サンパブロ』で米軍の軍艦がなぜ揚子江にいたかは、
これが理由。1860年の北京条約では「北京に外交使節を置く」
だったが、もう1901年のこの条約では軍隊を北京に
置いてもよくなったのだ。

さて、義和団事件で大軍を送ったロシアは、その後、軍隊をそのまま中国の東北地方に置いたままにして帰らない。
これは日本を警戒させ、
またロシアの南下政策を恐れるイギリスも警戒させた。
イギリスは極東では力が回りきらないことを実感し、
1902年に日本と「日英同盟」を結ぶ。
それまで他国と軍事同盟を結んでいなかったイギリスだが、
「光栄ある孤立」を捨てたのだ。ということは、
日本の朝鮮半島の進出をイギリスが認めたことでもある。
そして、やはりロシアの東北地方進出を快く思っていなかった
アメリカも(このエリアに興味を持っていたから)、
日本のバックにつくことに。ドイツとオーストリアは逆に、
ロシアが極東に進出してくれたらバルカン半島に来なくなるので、
ロシアを後押し。フランスはロシアの友好国だけれど、
日露の対立には巻き込まれたくないし、
イギリスとせっかく仲良くなってきたのに、というところで、
この戦いではロシア側で参戦しないことに決めた。
こうして、日露間の緊張が高まり、それぞれ軍備を増強。
他の国は参戦しないシングルマッチの方向に進む。

戦争にはお金が必要。
日本では戦争の見積額は当時のお金で4億5000万円だったが、
日清戦争で失った分があるので、1億円を外貨で調達しなくては
ならなかった。ところが、投資家は日本がロシアに負けると
思っているのでなかなか外債を買わない。結構苦労したらしいが、
イギリス、ついでアメリカの後押しで調達でき、
日本が緒戦でロシアに勝つと、さらに外債は売れて戦争終結までに
10億円余りの外債を発行。
ちなみに日露戦争の費用は、結果的に18億2000万円かかった。
イギリスとアメリカの経済支援がなかったら負けてたし、
そうなると返済が大変だったろうなあ。

こうして1904年2月8日、日本の奇襲攻撃で開戦(またか)。
宣戦布告はそのあとの2月10日(またか)。
日本の大義名分は「大韓民国」の保全だが、
韓国はあとで日本が併合するので(おいおい)、まあ名目だけ。
この時、ロシア側で参戦した国がただひとつ。
それがモンテネグロ(笑)。戦闘には参加しなかったが、
戦後、双方で休戦協定を結ぶのを忘れ、
2006年になって正式に終戦になったと話題になった。

息子には、「戦争にはお金がかかるので、戦費調達が大事」。
「戦争には常に投資家がいる」。と教える。
あ、あと、ちゃんと休戦協定も忘れずにしよう。
小さな国だからといって、忘れちゃいけない。
# by mahaera | 2016-07-22 03:52 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・日本の登場と日清戦争

世界史を教え始めて1年以上になるが、ようやく帝国主義時代に
なって日本が積極的に“世界史”に顔を出してくるようになる。
それまでも大航海時代とか、日宋貿易とか、ちょこちょことは出てきたが、あくまで周辺のトピックス扱いだ。
しかしここから、日本が積極的に大陸進出してくるので、諸外国とも関わってくる。
息子はすでに中学で日本史を習っているから、
アウトラインはわかっているはずだが、世界史の中でのこの頃の
日本はあまり誇らしいことはしていないので、
しょぼい感じを受けているようだ。

1868年、明治政府が成立
当時は列強が武力でアジア諸国に権益を広げようとしている時代だから、新政府も急いで富国強兵しなければならなかった。
西洋式の軍隊を作り工業を発展させ、初頭教育も行わなければと。
まあ、その時のお手本はイギリスなどの西欧諸国だから、
当然その帝国主義的なシステムも研究していた。
紡績工業や鉄鋼業を発展させ、どこか海外に売って外貨を稼ぐ。
そのお金で軍備を増強。
あとは資源を他国から奪い、また製品を他国へ売りつける。
その方法は日本よりは遅れている国にしか通用しないから、
隣の朝鮮が手っ取り早いと思うのも当時としては当然だろう。

当時の朝鮮は江戸期の日本同様に鎖国していた(清は別)ので、開国には応じない。
それならペリー方式でと思ったのか、軍艦を朝鮮近海に派遣して挑発。江戸幕府と違うのは、そこで衝突が起きてしまったこと。
これが1875年の「江華島事件」
それを受けて翌年1876年、日本にしては初の不平等条約を他国に結ばせることに成功する。
これが「日朝修好条規」
日本にしてみれば、「やったー、これでオレより下ができたぞ」って感じなのかな。

工業国に転身しようとしていた日本は、朝鮮から米などの穀類を積極的に輸入し始める。
その後、日本の進出を警戒する清と、朝鮮をめぐってさまざまな勢力争いが起きるが、ここでは省略。
ただ朝鮮の宮廷も、日本につくか清につくかで内部分裂していた。
日本もその間、西南戦争から自由民権運動、国会の開設なんだかんだで忙しい。

ともあれ、1890年に帝国議会もでできて、近代国家らしくなった日本は1894年に、新国家としては初めての対外戦争を起こす。
これが日清戦争だ。
きっかけは朝鮮で起きた農民反乱。
それを抑えるために朝鮮政府は清に助けを求めるが、
日本も勝手に出兵してしまう。
日本と清が進出してきたことを恐れた政府と反乱軍は停戦するが、
日本は「徹底的に反乱軍を鎮圧しよう」と清に持ちかける。
朝鮮のいっそうの混乱を望んでいたのだ。
それを清が「手打ちになったんだからいいんでしょう」と拒否。
じゃあ、俺が事件を起こしてやるとばかりに、
日本軍が清を奇襲し、日清戦争を始めてしまう。
いちおう日本は開戦の理由として、「朝鮮の独立を守るため」と明言しているのだが、その後の歴史を見ればウソなのはサルか小学生でもわかる。

「日清戦争」だが、戦争の舞台になったのはほぼ朝鮮半島のみ。
日本や清本国は戦争の舞台になっていないのがミソ。
だから、このネーミングには子供の頃は違和感があったよ。
開戦してから8ヶ月で勝負は決まり、日本の勝利。
この朝鮮の進出と日清戦争、いまの「日本えらかった!派」の人たちは、
「南下してくるロシアから日本を守るために必要だった」とネットで主張するが、そうかもしれないが違和感ある。
だって、その結果、よりロシアと一触触発の危機になり、
日露戦争の原因になったわけだし、その言い訳が征服された朝鮮の人々に通用するわけない。
日本を舞台にアメリカとロシアが戦ったとして、
アメリカに「防波堤となるので犠牲になって」と言われて納得する日本人はいないだろ(いるか)。

で、その結果、日本はまたも不平等条約の締結に成功。
「清と不平等条約を結べば先進国」ということだ。
清は朝鮮の宗主国ではなくなり、台湾や遼東半島の割譲、
莫大な賠償金、開港や経済的特権を手に入れた。
日本は何年もかけて軍事力を高めていて(1892年には予算の31%を軍事費に投入していた)準備しており、議会も開設していたから戦争が起きた場合の予算案も通しやすかった。
国民は勇ましいのが好きだし、戦争になればいつもは政府を叩くマスコミも、政府に協力する。
日本に限っていえば、「新国家初めての対外戦争で、大国に勝つ」ということで、国民国家としての意識が高まった。
また、官民一体となっての経済政策もすすめられる。
賠償金を軍備にまわし、日露戦争にそなえることができた。

清が日本に敗北したことは、列強による中国分割を促進する。
なんたって、新興国の日本に負けるぐらいなんだからと。
日本が得た「遼東半島の割譲」は、
1895年のロシア、フランス、ドイツの三国干渉によって阻止され、
清に返還されたが、それは清のことを思ってしたわけじゃなくて、
彼らがもともとそこを欲しかったから。

そこからの話は、また次回。
# by mahaera | 2016-07-19 10:51 | 世界史 | Comments(0)

子供に教えている世界史・アフリカの分割

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副読本として中央公論社から出ている「世界の歴史」シリーズを読んでいるが、この24巻の「アフリカ」を読むのは結構しんどかった。
なにしろ日頃、あまり知らない地名や民族、そして歴史が語られ、
しかもその歴史もよくわからない部分も多いからだ。
その一方、地域によっては、意外な行為が“文化(習慣)”になっているのも、驚きだった。

たとえば、現在も内戦内乱が絶えない南スーダンでは、
ある牧畜部族社会ではほとんどの成人男子が通過儀礼として
他部族への殺人
を行っているという記述だ。
1980年代に現地調査をしていた筆者の聞き取りだが、
殺害する相手は戦いの相手ではなく、決まった農耕民だったら畑で農作業している老人や道を歩いている女性など何でもいいらしい。
婦女子が殺害の対象外、という概念はない。
政府軍もまた、司令官が私的制裁に軍を動員して、村で虐殺を行うことも珍しくない。
それも他部族が相手だったりするのだが、その部族単位が隣同士だったり、さらに混在して住んでいたりするのだ。
また、「民族」も、国によっては植民地時代に西欧が作り出した概念で、それまでは表面的には対立がなかったところもある。
「国」というものは、統治する制度も大事だが「同じ国民」という概念を共有しないと、なかなか成り立たない(概念なので同じ民族でなくていい)。
そんなところに、現在のアフリカの国々の難しさがある。
なにしろ、人工的に引かれた線の中で、「国」ができたのだから。

1871年にスタンリーが、タンガニーカで消息不明だったリヴィングストンを発見し、アフリカの内陸部が世(欧米)に知られる。
それまで、欧米が知っているアフリカは、北アフリカをのぞけばほとんどが沿岸部だった
ポルトガルが喜望峰を就航してから400年近くが経っていたが、欧州の目はアジアへ向けられ、アフリカは寄港地であり、奴隷や象牙の供給地ぐらいの関心しか払われなかったのだ。
サハラ以南のブラックアフリカでは、現南アフリカの地域はヨーロッパ人にとっても住みやすい環境だったので、オランダ人、ついでイギリス人が植民地を築いた。
イギリスに追い出されたオランダ系のブール人は、北部にオレンジ自由国、トランスヴァール共和国を築く。
もちろん、元から住んでいたズールー族などを追い出してのこと。
1879年には、本国の意向に背いて、植民地政府がズールー族と「ズールー戦争」を起こした。
初戦ではズールー族が英軍を破るが、結局は負けてイギリスの支配下に入る。

 さて、ベルギーの国王レオポルド2世が1883年に、
「コンゴ領有」を宣言すると、列強はあせる。
つまり、それまで広大な「空き地」だった内陸アフリカに旗を立てて、「自分のもの」と宣言したのだから。
そこで当時の実力者ビスマルクは、1884年にベルリン=コンゴ会議を開いて、アフリカ領有の“ルール”を決めようと提唱する。これで決まったことは2つ。
1.先占権(早い者勝ち)、
2.実効支配(口だけじゃなくてきちんと統治しているか)。


まるで子供のルールだが、もちろんそこに住んでいるアフリカの人は、こんなルールができたことは知る由もない。
この会議により、1885年、コンゴ自由国(自由ってなんだ?)、ポルトガル領アンゴラ、ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)南西アフリカ(ナミビア)それにトーゴカメルーンフランス領コンゴマダガスカルと、ほぼアフリカの南半分ぐらいを切り分けてしまった。
当然、反乱が起きた地域もあるが、鎮圧されてしまう。

さて、アフリカの北側では、フランスが西アフリカに勢力を伸ばし、イギリスが北はエジプト、南はケープ植民地から勢力を伸ばしていた。それぞれ「アフリカ横断政策」、「縦断政策」として習ったと思うが、
1898年にスーダンのナイル河畔のファショダで、
両者の軍隊が直面してしまう(ファショダ事件)。
当時は、イギリスとフランスとは仲が悪かったので、
戦争一歩手前となるが、これはフランス側の譲歩によって回避される。
逆にこれがきっかけで、以降、イギリスとフランスはドイツに対抗するために接近していくのだ。

その少し前、遅れてアフリカに進出したイタリアが、
イギリスの援助でエチオピアに侵攻し、1896年にフランスの支援を受けたエチオピアに撃退されるという、アドワの戦いというのもあった。
1898年にはイギリスはスーダンのマフディーの乱を鎮圧。
ケープ植民地では、世界のダイヤモンドの9割を独占する
企業家セシル・ローズが1990年に首相になり、鉱山、警察、統帥権を得て、現ジンバブエに侵攻し自分の名前をつけた「ローデシア」を建設。
「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。ローズの有名なセリフが、
当時の列強のアフリカ侵略(帝国主義)を表しているだろう。
「私はできることなら、惑星をも併合したい」。
ローズは、アングロサクソンが地球を支配することを夢見た、
人種差別主義者
だった。

この時期、なんで急速にアフリカが分割されたか。
もちろん1870年代から始まった、第二次産業革命に必要な資源を求めて、そして製品の市場を求めての帝国主義によるものだ。

息子よ、ちゃんと覚えているか。
# by mahaera | 2016-07-17 15:59 | 世界史 | Comments(0)