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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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タグ:エジプト ( 16 ) タグの人気記事

子供に教える世界史[古代編]前1200年のカタストロフとオリエントの混乱/その2 ヘブライ人の登場

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(写真)トルコ東南部にあるシャンルウルファは、トルコではアブラハムの生誕地と信じられている(イラクは自国のウルと主張)。古代ローマ時代にはエデッサと呼ばれていた。これはそこにある「聖なる魚の池」。モスクの中庭にある。

ユダヤ人の先祖・アブラハム
旧約聖書によれば、ヘブライ人(自称はイスラエル)は、もともとチグリス・ユーフラテス川上流地域で遊牧生活を送っていた。
最初の預言者となる族長アブラハム(イスラーム教ではイブラーヒーム)がその祖先という。
「創世記」では、天地創造、アダムとイブ、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔と神話的な話が続き(1章から11章まで)、その後に歴史も混じったようなアブラハムの話(12章から25章まで)が続く。

カルデアのウル(イスラーム教ではトルコのシャンルウルファとされている)出身のアブラハムは一族を連れてカナン(現在のパレスチナ)を目指すが、途中のハランの地(現在のトルコのシャンルウルファの郊外)に住み着く。
アブラハム75歳の時にようやくカナンの地への移住を果たすが、その後、飢饉に襲われてエジプトの地へ移り住んだ。
やがてアブラハムの一族はエジプトで財産を築くことができ、カナンの地へ戻った。
その時、ヨルダン川西岸に住んだアブラハムに対し、弟のロトの家族はヨルダン川東岸(ソドムやゴモラがある地)に移り住む。
アブラハムと妻サラとの間には当初、子供ができず、アブラハムは奴隷のハガルを妾としてイシュマエルが誕生する。
しかし正妻サラとの間にイサクが生まれると、ハガルとイシュマエルは砂漠に追いやられ、アラブ人の祖先となった。
これは「創世記」の記述だが、それをそのまま実際の歴史に当てはめることはできない。
ただし、当時(旧約聖書が編纂された頃)のヘブライ人が信じた「歴史」であることは確かだ。

「出エジプト記」前編
ヘブライ人はやがて集団でカナンから南下して、エジプトに移り住んだ。
これが歴史上のいつのことかというと、彼らに“好意的な王朝”ということで、地中海東岸からやってきてエジプトを支配したヒクソス王朝時代(前18〜16世紀)と言われている。
ヘブライ人はおそらく、ヒクソスと共にエジプトへやってきたのだろう。
やがてエジプトはヒクソスを追い出して新王国を築いたが、その後もヘブライ人はエジプトにとどまった。
この時、エジプト人に「ヘブライ人」と言われるようになったらしい。
旧約聖書によれば、奴隷として迫害されたヘブライ人は、指導者モーゼに率いられてエジプトを脱出し、シナイ半島を経てカナンの地へと移り住んだ。
ただし、旧約聖書にはエジプトの史実上の王名がないこと、エジプト側にヘブライ人の脱出の記録がないことから、それがいつか、本当にあったことなのは今も特定できていない。(続く)


by mahaera | 2019-04-19 12:26 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国とヒッタイト/その6 ラムセス2世とカデシュの戦い

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(写真)ハットゥシャシュ遺跡近くにあるヤズルヤカ神殿跡のレリーフ。ヒッタイトの神々が浮き彫りされている


ヒッタイト王国/ムルシリ2世の治世
前1320年ごろ、ヒッタイトではムルシリ2世が王に即位する。前回でも書いたが、篠原千絵のヒット漫画『天は赤い河のほとり』の王子、カイル・ムルシリは彼のことだ。
ムルシリ2世の時代は、彼自身の年代記が粘土板文書として発見されているので、ヒッタイトの歴史の中ではかなり多くのことがわかっている。
彼は遠征をして多くの住民を連れ帰っているが、それはヒッタイト王国の人口が疫病(天然痘など)で激減した事とも関係している。
そのころ、シリアにはエジプトとの緩衝国としてアムル王国があったが、これを徐々に従属国化。
西のエーゲ海地域では、アスワ(トロイ)、さらに西にはミケーネ王国が栄えていたのもこの頃だ。


エジプトでは第19王朝が始まる
ムルシリ2世が亡くなる頃(前1295年ごろ)、エジプトでは第19王朝初代の王ラムセス1世によるわずか3年の短い治世を経て、息子のセティ1世が跡を継いだ。
エジプトでは久しぶりの父子継承だった。
セティ1世は、アメンヘテプ4世以来、半世紀に及ぶエジプトの混乱で失われていたシリアでのエジプトの宗主権を取り戻そうと、北シリアへ遠征。
ただし戦いには勝利したが、エジプトが引き上げるとまた元の状態に戻ってしまった。
セティ1世の後を継いだのは、エジプト王の中でも特に名高いラムセス2世(在前1279〜前1212年)だ。
ラムセス2世は、シリアでヒッタイトに従属しているアムル王国が、ヒッタイトの支配を快く思っていないのを知り、北シリアへ進軍してこれを属国化する。
一方、ヒッタイトではムルシリ2世の息子であるムワタリ2世が王位についていた。
ムワタリ2世はエジプトに対抗するため、アレッポやアナトリアの諸都市の同盟軍を引き連れ、シリアのカデシュに向かう。
兵力はそれぞれ2万人前後。こうして前1274年ごろ、世界史に名を残す「カデシュの戦い」が始まった。

カデシュの戦い(前1274年ごろ)
カデシュの戦いは、戦闘の経過が分かる「世界でも古い戦い」と言われている。
ヒッタイトは偽情報でエジプト軍をうまくおびき出し、エジプト軍を襲った。
強行軍で4軍団がバラバラになってしまったエジプト軍は個別に撃破されそうになり、もはや壊滅とみられたが、援軍が到着。
なんとか戦いを引き分けに持ち込んだ。こうして北シリアでのエジプトの覇権はまたも打ち砕かれる。
エジプトのルクソールの神殿にある浮き彫りには、ラムセス2世の大勝利が描かれているが、実際はこの戦いの後、アムル王国はヒッタイトの傘下に戻っているので、結果を出せなかったのはエジプトの方だろう。(続く)


by mahaera | 2019-04-12 10:21 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国 その4 ツタンカーメンの時代

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(写真)エジプトのファラオといえばツタンカーメンのこの姿が浮かぶのでは。

エジプト新王国が栄えていた紀元前14世紀ごろの、世界の状況をおさらいしてみよう。
エジプトと活発な貿易を行っていたクレタ島のミノア文明が滅び、ミケーネ人が地中海に進出
西アジアではヒッタイトが再び力を取り戻し、北メソポタミアのミタンニを破る。その影響でミタンニからアッシリアが独立。
別項で述べるが、中国では初の王朝・が誕生していた。


ツタンカーメンの即位
さて、アメンホテプ4世の死後は、アメンホテプ4世の共同統治者だったスメンクカーラー(王命表からも削り取られ謎が多い。在位も短く、墓も作られず女性説もある)の短い統治の後、その息子で幼少のトゥトアンクアムン(前1333年〜前1324年)が王位を継承する。
彼が有名な「ツタンカーメン」だ。
彼は当初はアテン信仰の時代に生まれたので「トゥトアンクアテン」と名乗っていたが、父王の死後、アメン・ラー信仰が復活。
神官団の力が増して名前を改名し、さらに都もアマルナからテーベに戻した。
即位した時はまだ少年だったため、周囲の意向が強かったのだろう。

ツタンカーメンの治世は短かったが(死亡推定19歳、身長165cmで華奢だった)、ヌビアの氾濫やヒッタイトとの戦いをこなしてはいた(この時期アッシリアがミタンニから独立)。
ただ、病弱だった可能性は高いとされている。
また墓に130本の杖が副葬され、しかも使用されていた跡があること、死の原因が骨折からの他の病気だったため、生前から足が悪かったという説もある。
ツタンカーメンについては、多くの本が出ているので詳しくはそちらを参考にされたい。
歴史上では大した業績は残してはいないが、ほぼ未盗掘の状態で発見された唯一の王の墓なので、エジプト学には大きな貢献を果たしたことは間違ない。


ツタンカーメンの死後
ツタンカーメンは若くして子を残さずに死んだため、王族の1人で先代のアメンホテプ4世の代から支えていた高官のアイが王位を継ぐ。
彼はまたアメン大神官の地位にあった。
王としての正式名称は「ケペルケペルウラー」だが「アイ」と呼ばれることが多いのは即位期間が2〜4年と短く、かつツタンカーメン暗殺説があったことから歴史学者からも軽く見られているから。
もっとも彼には子がなく。即位時も高齢と見られているので最初から“つなぎ”のファラオだったのかもしれない。
また、ツタンカーメンの王妃だったアンケセナーメンは、ツタンカーメンの死後、アイと結婚して王位の正当性を保証したが、その前にヒッタイトのシュッピリウルマ1世に手紙を送り、「王子を婿としてほしい」と要請していた。
しかし王子ザンナンザはエジプトへ向かう途中に暗殺されてしまう。
犯人は、王になろうとしたアイだったという説がある。

前1323年、アイが死ぬとアイが指名していた将軍を倒して軍人のホルエムヘプが第18王朝最後のファラオとして即位した。
ホルエムヘプは自身をアメンホテプ3世の後継者として位置付け、アマルナ時代のアメンホテプ4世、スメンクカーラー、ツタンカーメン、アイの4代の王の存在を消して、この期間の業績を全て自分のものにしている。
しかしその前の時代が不人気だったため、厳格なホルエムヘプの統治は歓迎されたようだ。
彼もまた高齢で子はおらず、遺言により腹心で軍司令官のパ・ラメスがラムセス1世として次のファラオになる(前1295年)。ここから第19王朝が始まる。

(続く)


by mahaera | 2019-04-03 10:26 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国(前1400年〜前1200年)その3 アマルナ時代

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(写真)ネフェルティティの胸像(ベルリン国立博物館収蔵)。映画『フランケンシュタインの花嫁』の“花嫁”の髪型はこの像がモデル。ヒトラーもこの胸像が好きだったとか、エジプトの返還要求が1世紀近くも続けられているとか、エピソードはつきない。


エジプト新王国時代初期、シリアには何度目かの最盛期を迎えつつあるヒッタイト(新王国)が力を延ばし始めていた。
衰退したヒッタイトを盛り返し、新王国時代を築いたトゥドハリヤ1世は、アレッポとミタンニを破り、北部シリアに侵入(前1430年ごろ)。
これを機に長年戦いを続けていたエジプトとミタンニの間に同盟が結ばれることになる。
ミタンニの王の娘が、トトメス4世、アメンヘテプ3世に嫁ぐという、婚姻外交が始まるのだ(前1400年ごろから)。
同様にカッシートやアルサワ(キプロス)の王の娘がエジプトに嫁いだが、エジプト王の娘が外国に嫁ぐことはなかった
。つまりエジプトは、自国を“格上”としていたのだ。
その代りに、大量の金が送られたという。

アマルナ時代〜アメンヘテプ4世の時代

どの世界史の教科書にも記載されているのが、「アマルナ時代」だ。
アメンヘテプ3世の後を継いだアメンヘテプ4世(在位前1362年ごろ〜前1333年ごろ)は、強力なアメン神官団に対抗することもあったのか、アメン信仰を廃して唯一神アテンを信仰し、王命も「アクエンアテン」と改名。
そして首都をルクソールの北402km、カイロの南312kmにあるアケトアテン(アマルナ)に移した。
これが史上初めての「一神教」の誕生と言われている。
とはいえ、のちのヘブライ人による一神教とは異なり、アテンを信仰するのはファラオのみで、他のすべての人は自分(アクエンアテン)を神として信仰しろという内容だ。

この時代、数千年にわたって類型化していたエジプト美術とは異なる、写実的な「アマルナ美術」が生まれた。
そこでは例えば王族が子供達と遊んでいるといった図象や、それまでの王と違い、面長でアゴが尖り、指が長いといった王の像が作られた。
かつてはこの容姿から「マルファン症候群」という病気で「病弱説」もあったが、現在ではそう容姿を描くのは美術の様式で、また統治期間の長さからも病弱は否定されている。
しかし、彼の宗教改革は彼の死後は頓挫する。
アメンホテプ4世の浮き彫りに削られているものがあることから、反対勢力があったようだ。

アメンホテプ4世を知らなくても、彼の妻で王妃のネフェルティティの名は聞いたことがあるかもしれない(僕はマイルス・デイビスのアルバムで知った)。
彼女の記録は歴史から意図的に消された形跡があり、多くは知られてはいないが、現在ベルリンの国立博物館に残る未完の胸像の存在により、容姿は知られている。
そのため「古代エジプト三大美女(他はクレオパトラとラムセス2世の妻ネフェルタリ)のひとりと言われている。
アメンホテプ4世の在位14年から彼女の記録がなくなることから、その頃に亡くなったと推測されている。
わかるのは6人の子がいたということだ。(続く)



by mahaera | 2019-03-22 16:05 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国(前1400年ごろ〜前1200年ごろ)その2ハトシェプスト女王とトトメス3世の時代

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ハトシェプスト女王時代のエジプトは平和外交が主で、戦争も少なかった。
しかしその一方、先王であったトトメス1世が抑えたシリアでのミタンニ勢力が力を伸ばしていた。
あと記録では南方のソマリア付近にあったブント国との貿易が残っている。
ブントからは金や香料、象牙、奴隷、ヒヒなどが輸入された。

50歳でハトシェプストが亡くなり、トトメス3世(在前1490〜前1436年)の単独統治時代が来る。
彼はまず彼女の彫像や墓などを破壊し、記念建造物から名前が削り取られ、ハトシェプストの記録を抹消した
エジプトの王に女性がいた痕跡を消したかったか、単に彼女が嫌いだったか。
トトメス3世は単独統治に入ってすぐ、シリア遠征を行った。
これはミタンニ王国が、シリア北部のカデシュ王を盟主としてシリアの諸都市に「反エジプト同盟」を組ませて対抗したからだ。
トトメス3世はシリアの反エジプト同盟軍を撃破し、以降、監察官を置いて支配を固める。
しかしその後もシリアの反抗は続き、トトメス3世は都合17回のシリア遠征を行っている。
8度目にはアレッポ近郊でミタンニ軍と戦い、敗走するミタンニ軍を追いユーフラテス川にまで達した。
この勝利により、エジプトは国際的にもヒッタイトやカッシート、アッシリアといった国に、シリアでの主権がエジプトにあると認めさせた。
南では現在のスーダンにあったクシュ王国を屈服させた。
こうしてエジプト新王国の版図を過去最大にしたため、「エジプトのナポレオン」とのちに呼ばれるようになった。

国王と神官団
トトメス3世の死後も有能なアメンヘテプ2世、トトメス4世といった王が後を継ぎ、何度か起きたシリアの反乱を手早く鎮圧した。
しかし一方で、この時代にはテーベの神官たちが強力な力を持ち、王と緊張関係を持つようになって行った。
国家神であるアメン・ラーを祀るカルナック神殿には、エジプトが戦争で勝利するたびに膨大な戦利品が寄付され、経済的にも国家予算の半分を手にしていた。
記録によると、神殿領はエジプトの全耕地の1/3を所有し、その神殿領の全財産の3/4をテーベの神殿が保有していた。
そのため国王を誰にするかでも、神官たちの力が働いていた。
戦争に勝つたびに、神官たちの力は強くなっていったのだ。

トトメス4世はその力を削ごうと、他の神への寄進も行った。
次のアメンヘテプ3世(在位前1386年〜前1349年)は40年にわたる統治の間、アメン神官団をうまく抑え、多くの建造物が造られた。
今もルクソールに残る「メムノンの巨像」は、アメンヘテプ3世の座像で、彼の巨大な葬祭殿の一部だった。
ただし葬祭殿自体は現在ではほとんど残されていない。
また、ルクソール神殿もこの時代に建設された。(続く)
(写真)ルクソールにある「メムノンの巨像」は、アメンヘテプ3世葬祭殿の一部だった


by mahaera | 2019-03-21 11:04 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]エジプト新王国(前1570〜前1200年)その1 エジプト新王国の誕生

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(写真)現在もハトシェプスト女王の葬祭殿は、ルクソールの人気観光地だ。

久しぶりに舞台はエジプトへ。
前2000年から前1500年にかけておきたインド=ヨーロッパ語族の民族移動は、馬と戦車という最新兵器と共にオリエント、イラン、インドに大きな変動をもたらした。
しかし当初はやられっぱなしだった国や地域の中には、その最新軍事技術を取り入れて再興した国がある。
それがエジプトだ。

インド=ヨーロッパ語族の移動に押し出されるように、「ヒクソス」と呼ばれるレバント(地中海東岸)地方のさまざまな民族の混成軍がエジプトを征服したが、彼らが軍事的に優位だったのは、その「馬と戦車による戦術」を取り入れていたからだった。
当時のエジプトはロバに戦車を引かせていたから機動力では太刀打ちできなかった。
しかし、そんなヒクソスの王による統治も100年も続けば、エジプト人も技術を学び馬と戦車を利用するようになる。
こうしてヒクソスを追い出してエジプト人による王国を再び興す。これが「新王国」時代だ。

新王国は古代エジプトの中でももっとも繁栄した時代で、傑出したファラオが次々に現れた。

教科書に名が載るだけでも、エジプト史上初の女性ファラオのハトシェプスト女王、遠征を繰り返し「エジプトのナポレオン」と呼ばれたトトメス3世、世界初の一神教を生んだアメンホテプ4世、黄金のマスクで知られるトゥトアンクアメン(ツタンカーメン)の4人がいる。
この時代、対外的にはシリアなどのレバント地方に進出し、またオリエントの国際政治に深く関わっていた。

ヒクソスの駆逐とエジプト再統一
ナイル下流域の下エジプトに都を置いたヒクソスの王朝に反旗を翻したのは、ナイル中流域のテーベ(現ルクソール)拠点としていた第17王朝だった。
3代の王による対ヒクソス戦争が行われ、前1570年ごろ下エジプトのヒクソス勢力をエジプトから駆逐。
イアフメス1世はさらにヒクソスの残存勢力をパレスチナに追い詰めて滅亡させる。
以降シリア南部にエジプトの統治が及ぶことになる。
また彼は南のヌビア(現スーダン)にも遠征し、それを支配下に置いた。実際はその前のヒクソスと並立していた17王朝と連続しているが、古代エジプトの歴史区分的には、この功績からイアフメス1世を第18王朝の創始者とし、「新王国時代」となっている。
続くアメンテヘプ1世は内政に力を、次のトトメス1世は外征に力を注ぎ、当時力延ばし始めていたミタンニ王国に圧力を加えた。
その後を継いだトトメス2世は病弱ということもあり、姉のハトシェプストと結婚して王位継承の正当性を強化。
側室との間の子トトメス3世を後継者に指名して死去する。
しかしトトメス3世はまだ幼かったので、ハトシェプストが共同統治者として摂政となり、エジプトでは女性として初めて女性が最高権力を持った(前1493年〜前1483年)。
ハトシェプストは公式な場では男装し、あごひげをつけていたという。


by mahaera | 2019-03-17 11:27 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その5 湾岸交易の衰退とエジプト中王国の滅亡

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(写真)中王国時代の都があったテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿。
これはのちの新王国時代のもの。ナイルデルタ地帯は、中王国の終盤になると次第にアジアからのヒクソスが力を伸ばし、独自の王朝を作っていく。


バーレーンのバールバール文化(前2200〜前1600年頃)

メソポタミアではインダス文明の地は「メルッハ」と呼ばれ、インダス文字を刻した印章が多く出土している。
インダス産の紅玉髄(カーネリアン)を始めとする各種貴石製のビーズ類はウルなどから出土しており、またインドのロータル遺跡などではビーズ工房が発掘されている。

メソポタミアとインダス文明の中継貿易や銅の採掘などで栄えたオマーン半島のウンム・アン=ナール文化は、なぜか前2200年頃になると拠点をよりメソポタミアに近い現在のバーレーンに移した。
そのためこれ以降をバールバール文化(文明)
(前2200〜前1600年頃)と呼ぶ。
メソポタミアでは「ディムルン」と呼ばれた国だ。
時代的には、メソポタミアが統一されてアッカド王国やウル第3王朝ができていたころ。
そして当時のチグス・ユーフラテス川の河口は、現在よりもずっと内陸にあった(港の位置が違う)。
エジプトではちょうど中王国時代だ。

バーレーンでは銅は産出しないので、おそらく中継貿易のための都市だった(銅はオマーン半島で相変わらず採掘された)。
インダスの交易品は、初期のころは直接メソポタミアに運ばれることもあったが、この頃にはこのディムルンがペルシャ湾の交易を独占するようになった。
物流の流れを整理すると、メソポタミアからは穀物、毛織物、工芸品、オリーブオイルなどが、
インダスからは紅玉髄、ビーズ細工、木材、金
そしてアラビア半島からは銅、真珠、貝の象嵌細工などが輸出されていた。
バールバール文化は前1600年ごろから衰退に向かう。
はっきりとした理由はわからないが、おそらくインダス文明の滅亡、バビロン第一王朝の衰退により、交易が停滞したことが大きいのだろう。

まあ、世界史の教科書だと「メソポミア文明とインダス文明が交流があった」ぐらいの記述しかなく、この湾岸文明についてはほぼ触れていない。同時期の陸路の道を支配していた「トランス・エラム文明」は、10年ぐらい前の教科書には一瞬掲載されたが、その後、消えたみたいだ。まあ、そこまでは覚えなくてもいいってことだと思う。しかし知っておいても面白いと思って、ここでは紹介した。


ヒクソスによるエジプト中王国の終焉

前2000年ごろからアーリア人をはじめとする民族大移動が
西アジア全域で起きていた。
もっともそれは、何百年をかけてのゆったりしたものだった。異民族のあるグループは、地中海東岸からエジプトとフェニキアの交易路を通り、エジプトのデルタ地帯に侵入してきた。
エジプト人は彼らを「ヒクソス」と呼んだ。
彼らが何系の民族だったのかははっきりとわかっていない。
諸説あるが、現在では「シリア・パレスチナ系」という説が有力だ。
エジプト側からの資料しかないので、
長らくヒクソスは「蛮族」としてのイメージが強かったが、
エジプトを何世紀にもわたって支配して王朝を打ち立てていたほどなので、統率の取れた集団であったことはまちがいない。

とにかくヒクソスが軍事力でエジプトを圧倒したことは間違いない。
まずはウマの使用だ。エジプト人が移動に使う家畜は、
それまでロバを荷運び用に使うぐらいだった。
また車輪の使用も知らなかった。
歩兵中心だったエジプト軍を、ヒクソスはウマに引かせた戦車という機動力、複合弓、青銅の刀や鎧といった当時最新の技術や装備で打ち負かした。
こうして前1700年ごろヒクソスは下エジプトに政権を打ち立てる。
ヒクソスの侵入は、よく世界史の試験には出る。
というか、高校の世界史では、中王国時代はヒクソスの侵入しか教えていない。

次回からは、紀元前2000年ごろからの民族大移動とその影響、エーゲ海文明などについての話になると思う。



by mahaera | 2018-12-31 11:12 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その4 エジプト中王国時代

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(写真)テーベ(現ルクソール)のカルナック神殿跡。

前2000年ごろのテーベの人口は4万人で下エジプトのメンフィスの6万人よりも少なかったが、中王国〜新王国時代に大きく発展し、のちにエジプト最大の都市に発展する。


メソポタミアではアッカド王国、ウル第3王朝、そして古バビロニア王国など、都市国家から領域国家への再編が進み、東ではインダス文明、西ではクレタ島のミノア文明が栄え、北ではアーリア人の民族移動が行われていた頃、エジプトではどうなっていたか。

エジプト古王国時代の末期は中央集権体制が混乱し、短い治世の王や、上下エジプトで別々の王朝が現れるなどの第一中間期へと続いていた。
前2040年頃にようやくメンチュヘテプ2世が全国を再統一し、ようやく混乱が収まる。
こうして前1790年まで中王国時代が始まる。
この時代、都は第11王朝では上下エジプトの境界にある
メンフィスではなく、もっと上流のテーベに移された。
しかし次の第12王朝ではそれよりもやや下流のアル=リシュトに移された。
中王国のことは、教科書ではほとんど触れられず、「そんなものがあった」と覚えておけば、受験にはとくに問題はない。

この時代には、エジプトは再び国力を回復し、
各地への遠征を行った。
また、デルタ地帯の大規模な灌漑や干拓事業が行われ、
地中海東岸のレバント地方、
ギリシアのミノアやクレタ島などとの交易も盛ん
になった。
周辺地域では、フェニキア人やクレタ人の活動により
海上交易が盛んになっていた。
前2000年ごろに始まったアーリア人の民族移動により、
アーリア人の王国が西アジア各地で生まれていた。
メソポタミアでは、古バビロニア王国が栄えていた。

この時代、エジプトの生産力は増し、穀物、亜麻、パピルス、宝飾品、芸術品、ヌビアからの象牙や金などを輸出
フェニキア商人の手によって地中海各地へ運ばれ、
代わりにスペイン産の錫やレバノンの杉
ギリシアからのワインやオリープオイルが輸入された。

王だけでなく他の王族や貴族も富を蓄え、別荘を持ち、
装飾品を揃え、宴会を開くようになった。
エジプト語や文字も完成し、古王国時代よりも
細かい表現ができようになった。
書記養成学校が作られ、文字を学んだ者達から、
やがてエジプト文学が生まれていった。
ただし、一番の読者は王だったので、内容は教訓的、あるいは王の力を正当化するプロパガンダの要素を含んだものだった。

「アメンエムハト1世の教訓」は、暗殺された王が後の王に、「人を信用するな」と述べたもの。
物語文学ではエジプト文学の古典と言われる『シヌの物語』が生まれた。
アメンエムハト1世の暗殺を知って遠征から戻る途中、
高官のシヌは身の危険を感じて亡命する。
シヌはベドウィン族の娘と結婚して高い地位につくが、
望郷の念が強くなり、エジプトへ戻るという話だ。
宗教的には、テーベが都になった時、
町の主神だったアメン神の地位が高くなり、太陽神ラーと結合してアメン・ラー神としてエジプトの国家神となっていく。


by mahaera | 2018-12-30 09:32 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

「子供のための世界史」関連本紹介7(古代オリエント)その4「古代エジプト文明 」「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」

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■古代エジプト文明―歴代王国3000年を旅する (VISUAL BOOK)  

PHPエディターズグループ 1999年 レンツォ ロッシ 著
豊富なイラストによるビジュアルブックで、古代エジプトの人々の生活を解説している。
王朝史やピラミッド建設などはともかく、文字だけだとわかりにくい一般人の生活ぶりや農作業の様子などは、こうしたビジュアルで見せてくれるとわかりやすい。
一方、それに添えられた文の方は、翻訳のせいか流れがわかりにくく、頭に入ってこないのが難。
ただし、通史本を補完するという意味で、良書だと思う。

★★★★


■エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫) 文庫 –

 1996年 プルタルコス 著 岩波書店
有名なイシスとオシリスの神話についてまとめた本かと思って読んだら、あてが外れる。
筆者のプルタコスは、エジプトの神々はギリシャの神々と同じという先入観をもっており、その上で書いているのでしっくり来ない。
プルタコスがエジプト神話を聞いて、これはギリシャの〇〇のこと、というように書いているのだ。
そのため、エジプト神話の神々の関係や流れがわかりにくいし、また翻訳の注釈もどうしたいのか目的を見失っているようにも見える。
ということで、エジプト神話をざっくりと知りたかったら、本書よりB級映画の『キング・オブ・エジプト』を観た方が2時間で理解できるかも。


by mahaera | 2018-12-03 19:01 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その10・最終回)

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(写真)時代が下った新王国時代のコムオンボの浮彫だが、人物の造形は古王国時代から変わらない。
どの人物や神も決まった比率で描かれている。


ミイラ作り
エジプト人は死後の世界を信じ、
死んだ後も生前と同じような生活をすると考えていた。
そのため王などは副葬品を墓に入れ、魂が戻ってこられるように、死体に防腐処理を施しミイラにした。
ミイラ作りが始まったのは、前3000年頃の初期王朝時代。
当初はミイラを作るのは王や王族だけだったが、
時代が下り、王権が弱体化していくと経済力のあるものも
ミイラや墓を作っていくようになる。


文字と言語
最初の方にも書いたが、古代エジプトでは王朝時代より前のナカダ文化の時代にすでに初期のヒエログリフが生まれていた。
最初は漢字のような表意文字から生まれたが、
単純に音を表す表音文字としても使われるようになった。
短い文が土器などに書き添えられる程度だったが
次第に複雑化し、前3000年頃の初期王朝時代から
古王国時代にかけて文書レベルに発展していく。
第3王朝以降は建物に石材が使われるようになり、
そこに文字が書き込まれるようになる。
土器に比べれば広いスペースが与えられ、
長い文章が書けるようになったのだ。
文字の数は1000を超えた。
パピルスに文字が書かれるようになったのも、この頃ではないかと言われている。
ピラミッド時代には官僚も増えて、
文字が読み書きできる人も増えた。
とはいえ、人口の1パーセントにも満たなかったようだ。


古代エジプトの美術
世界の考古学博物館で、エジプト美術が大きなセクションを占めるところは少なくない。
一目見て古代エジプトだとすぐにわかる様式美は、古王国時代に確立して以来3000年間ほぼ変わることがなかった。
この時代のエジプトでは、今でいう美術は「美」を追求ものではなかったからだ。
神や人間の描き方は決まっており、そこから逸脱することはなかった。
絵は観賞されるために描かれるのではなく、そこに「存在させる」ために描かれた実用的なものだったからだ。
神や人物の顔は横向きだが目は正面、肩は正面だが腰から下は足を開いた横向きで、グリッド(方眼)に沿って同じ方で描かれた。
絵を描く前にグリッドが描かれ、足元から頭の高さまでを18等分し、頭や肩、手の長さなどのフォルムをどこに描くかはほぼ決められていた。
誰が描いても同じプロポーションだが、
出来不出来の差があまり生まれないという利点もあった。
工芸品は古王国時代の王族の副葬品などから発掘されている。


以上、初期王朝時代(前3100年頃〜前2180年頃)から古王国時代(前2686頃〜前2181年)までの古代エジプト第1王朝から第6王朝までを見てきた。
以降の古代エジプトの王朝期の基本はすべてここでできている。宗教観や生活スタイルは3000年、ほぼ変わらなかったのだ。息子的には、勇ましい戦争の話が出てこなかったので退屈だったかもしれない。
次回からは前3500〜2300年ごろのメソポタミアとエジプトの周辺地域をざっくり見ていく予定だ。


by mahaera | 2018-11-28 10:39 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)