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旅行・映画ライター前原利行の徒然日記

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子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その5 湾岸交易の衰退とエジプト中王国の滅亡

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(写真)中王国時代の都があったテーベ(現ルクソール)のカルナック神殿。
これはのちの新王国時代のもの。ナイルデルタ地帯は、中王国の終盤になると次第にアジアからのヒクソスが力を伸ばし、独自の王朝を作っていく。


バーレーンのバールバール文化(前2200〜前1600年頃)

メソポタミアではインダス文明の地は「メルッハ」と呼ばれ、インダス文字を刻した印章が多く出土している。
インダス産の紅玉髄(カーネリアン)を始めとする各種貴石製のビーズ類はウルなどから出土しており、またインドのロータル遺跡などではビーズ工房が発掘されている。

メソポタミアとインダス文明の中継貿易や銅の採掘などで栄えたオマーン半島のウンム・アン=ナール文化は、なぜか前2200年頃になると拠点をよりメソポタミアに近い現在のバーレーンに移した。
そのためこれ以降をバールバール文化(文明)
(前2200〜前1600年頃)と呼ぶ。
メソポタミアでは「ディムルン」と呼ばれた国だ。
時代的には、メソポタミアが統一されてアッカド王国やウル第3王朝ができていたころ。
そして当時のチグス・ユーフラテス川の河口は、現在よりもずっと内陸にあった(港の位置が違う)。
エジプトではちょうど中王国時代だ。

バーレーンでは銅は産出しないので、おそらく中継貿易のための都市だった(銅はオマーン半島で相変わらず採掘された)。
インダスの交易品は、初期のころは直接メソポタミアに運ばれることもあったが、この頃にはこのディムルンがペルシャ湾の交易を独占するようになった。
物流の流れを整理すると、メソポタミアからは穀物、毛織物、工芸品、オリーブオイルなどが、
インダスからは紅玉髄、ビーズ細工、木材、金
そしてアラビア半島からは銅、真珠、貝の象嵌細工などが輸出されていた。
バールバール文化は前1600年ごろから衰退に向かう。
はっきりとした理由はわからないが、おそらくインダス文明の滅亡、バビロン第一王朝の衰退により、交易が停滞したことが大きいのだろう。

まあ、世界史の教科書だと「メソポミア文明とインダス文明が交流があった」ぐらいの記述しかなく、この湾岸文明についてはほぼ触れていない。同時期の陸路の道を支配していた「トランス・エラム文明」は、10年ぐらい前の教科書には一瞬掲載されたが、その後、消えたみたいだ。まあ、そこまでは覚えなくてもいいってことだと思う。しかし知っておいても面白いと思って、ここでは紹介した。


ヒクソスによるエジプト中王国の終焉

前2000年ごろからアーリア人をはじめとする民族大移動が
西アジア全域で起きていた。
もっともそれは、何百年をかけてのゆったりしたものだった。異民族のあるグループは、地中海東岸からエジプトとフェニキアの交易路を通り、エジプトのデルタ地帯に侵入してきた。
エジプト人は彼らを「ヒクソス」と呼んだ。
彼らが何系の民族だったのかははっきりとわかっていない。
諸説あるが、現在では「シリア・パレスチナ系」という説が有力だ。
エジプト側からの資料しかないので、
長らくヒクソスは「蛮族」としてのイメージが強かったが、
エジプトを何世紀にもわたって支配して王朝を打ち立てていたほどなので、統率の取れた集団であったことはまちがいない。

とにかくヒクソスが軍事力でエジプトを圧倒したことは間違いない。
まずはウマの使用だ。エジプト人が移動に使う家畜は、
それまでロバを荷運び用に使うぐらいだった。
また車輪の使用も知らなかった。
歩兵中心だったエジプト軍を、ヒクソスはウマに引かせた戦車という機動力、複合弓、青銅の刀や鎧といった当時最新の技術や装備で打ち負かした。
こうして前1700年ごろヒクソスは下エジプトに政権を打ち立てる。
ヒクソスの侵入は、よく世界史の試験には出る。
というか、高校の世界史では、中王国時代はヒクソスの侵入しか教えていない。

次回からは、紀元前2000年ごろからの民族大移動とその影響、エーゲ海文明などについての話になると思う。



by mahaera | 2018-12-31 11:12 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]統一へ向かうオリエント(前2300〜前1600年)その4 エジプト中王国時代

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(写真)テーベ(現ルクソール)のカルナック神殿跡。

前2000年ごろのテーベの人口は4万人で下エジプトのメンフィスの6万人よりも少なかったが、中王国〜新王国時代に大きく発展し、のちにエジプト最大の都市に発展する。


メソポタミアではアッカド王国、ウル第3王朝、そして古バビロニア王国など、都市国家から領域国家への再編が進み、東ではインダス文明、西ではクレタ島のミノア文明が栄え、北ではアーリア人の民族移動が行われていた頃、エジプトではどうなっていたか。

エジプト古王国時代の末期は中央集権体制が混乱し、短い治世の王や、上下エジプトで別々の王朝が現れるなどの第一中間期へと続いていた。
前2040年頃にようやくメンチュヘテプ2世が全国を再統一し、ようやく混乱が収まる。
こうして前1790年まで中王国時代が始まる。
この時代、都は第11王朝では上下エジプトの境界にある
メンフィスではなく、もっと上流のテーベに移された。
しかし次の第12王朝ではそれよりもやや下流のアル=リシュトに移された。
中王国のことは、教科書ではほとんど触れられず、「そんなものがあった」と覚えておけば、受験にはとくに問題はない。

この時代には、エジプトは再び国力を回復し、
各地への遠征を行った。
また、デルタ地帯の大規模な灌漑や干拓事業が行われ、
地中海東岸のレバント地方、
ギリシアのミノアやクレタ島などとの交易も盛ん
になった。
周辺地域では、フェニキア人やクレタ人の活動により
海上交易が盛んになっていた。
前2000年ごろに始まったアーリア人の民族移動により、
アーリア人の王国が西アジア各地で生まれていた。
メソポタミアでは、古バビロニア王国が栄えていた。

この時代、エジプトの生産力は増し、穀物、亜麻、パピルス、宝飾品、芸術品、ヌビアからの象牙や金などを輸出
フェニキア商人の手によって地中海各地へ運ばれ、
代わりにスペイン産の錫やレバノンの杉
ギリシアからのワインやオリープオイルが輸入された。

王だけでなく他の王族や貴族も富を蓄え、別荘を持ち、
装飾品を揃え、宴会を開くようになった。
エジプト語や文字も完成し、古王国時代よりも
細かい表現ができようになった。
書記養成学校が作られ、文字を学んだ者達から、
やがてエジプト文学が生まれていった。
ただし、一番の読者は王だったので、内容は教訓的、あるいは王の力を正当化するプロパガンダの要素を含んだものだった。

「アメンエムハト1世の教訓」は、暗殺された王が後の王に、「人を信用するな」と述べたもの。
物語文学ではエジプト文学の古典と言われる『シヌの物語』が生まれた。
アメンエムハト1世の暗殺を知って遠征から戻る途中、
高官のシヌは身の危険を感じて亡命する。
シヌはベドウィン族の娘と結婚して高い地位につくが、
望郷の念が強くなり、エジプトへ戻るという話だ。
宗教的には、テーベが都になった時、
町の主神だったアメン神の地位が高くなり、太陽神ラーと結合してアメン・ラー神としてエジプトの国家神となっていく。


by mahaera | 2018-12-30 09:32 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

「子供のための世界史」関連本紹介7(古代オリエント)その4「古代エジプト文明 」「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」

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■古代エジプト文明―歴代王国3000年を旅する (VISUAL BOOK)  

PHPエディターズグループ 1999年 レンツォ ロッシ 著
豊富なイラストによるビジュアルブックで、古代エジプトの人々の生活を解説している。
王朝史やピラミッド建設などはともかく、文字だけだとわかりにくい一般人の生活ぶりや農作業の様子などは、こうしたビジュアルで見せてくれるとわかりやすい。
一方、それに添えられた文の方は、翻訳のせいか流れがわかりにくく、頭に入ってこないのが難。
ただし、通史本を補完するという意味で、良書だと思う。

★★★★


■エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫) 文庫 –

 1996年 プルタルコス 著 岩波書店
有名なイシスとオシリスの神話についてまとめた本かと思って読んだら、あてが外れる。
筆者のプルタコスは、エジプトの神々はギリシャの神々と同じという先入観をもっており、その上で書いているのでしっくり来ない。
プルタコスがエジプト神話を聞いて、これはギリシャの〇〇のこと、というように書いているのだ。
そのため、エジプト神話の神々の関係や流れがわかりにくいし、また翻訳の注釈もどうしたいのか目的を見失っているようにも見える。
ということで、エジプト神話をざっくりと知りたかったら、本書よりB級映画の『キング・オブ・エジプト』を観た方が2時間で理解できるかも。


by mahaera | 2018-12-03 19:01 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その10・最終回)

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(写真)時代が下った新王国時代のコムオンボの浮彫だが、人物の造形は古王国時代から変わらない。
どの人物や神も決まった比率で描かれている。


ミイラ作り
エジプト人は死後の世界を信じ、
死んだ後も生前と同じような生活をすると考えていた。
そのため王などは副葬品を墓に入れ、魂が戻ってこられるように、死体に防腐処理を施しミイラにした。
ミイラ作りが始まったのは、前3000年頃の初期王朝時代。
当初はミイラを作るのは王や王族だけだったが、
時代が下り、王権が弱体化していくと経済力のあるものも
ミイラや墓を作っていくようになる。


文字と言語
最初の方にも書いたが、古代エジプトでは王朝時代より前のナカダ文化の時代にすでに初期のヒエログリフが生まれていた。
最初は漢字のような表意文字から生まれたが、
単純に音を表す表音文字としても使われるようになった。
短い文が土器などに書き添えられる程度だったが
次第に複雑化し、前3000年頃の初期王朝時代から
古王国時代にかけて文書レベルに発展していく。
第3王朝以降は建物に石材が使われるようになり、
そこに文字が書き込まれるようになる。
土器に比べれば広いスペースが与えられ、
長い文章が書けるようになったのだ。
文字の数は1000を超えた。
パピルスに文字が書かれるようになったのも、この頃ではないかと言われている。
ピラミッド時代には官僚も増えて、
文字が読み書きできる人も増えた。
とはいえ、人口の1パーセントにも満たなかったようだ。


古代エジプトの美術
世界の考古学博物館で、エジプト美術が大きなセクションを占めるところは少なくない。
一目見て古代エジプトだとすぐにわかる様式美は、古王国時代に確立して以来3000年間ほぼ変わることがなかった。
この時代のエジプトでは、今でいう美術は「美」を追求ものではなかったからだ。
神や人間の描き方は決まっており、そこから逸脱することはなかった。
絵は観賞されるために描かれるのではなく、そこに「存在させる」ために描かれた実用的なものだったからだ。
神や人物の顔は横向きだが目は正面、肩は正面だが腰から下は足を開いた横向きで、グリッド(方眼)に沿って同じ方で描かれた。
絵を描く前にグリッドが描かれ、足元から頭の高さまでを18等分し、頭や肩、手の長さなどのフォルムをどこに描くかはほぼ決められていた。
誰が描いても同じプロポーションだが、
出来不出来の差があまり生まれないという利点もあった。
工芸品は古王国時代の王族の副葬品などから発掘されている。


以上、初期王朝時代(前3100年頃〜前2180年頃)から古王国時代(前2686頃〜前2181年)までの古代エジプト第1王朝から第6王朝までを見てきた。
以降の古代エジプトの王朝期の基本はすべてここでできている。宗教観や生活スタイルは3000年、ほぼ変わらなかったのだ。息子的には、勇ましい戦争の話が出てこなかったので退屈だったかもしれない。
次回からは前3500〜2300年ごろのメソポタミアとエジプトの周辺地域をざっくり見ていく予定だ。


by mahaera | 2018-11-28 10:39 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その9)

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古代エジプトの社会構造

古代の他の王国の王が神職と統治が分離していったのに対し、古代エジプト王朝では2500年に渡り最後まで王を頂点とする神権政治が行われた
王は地上の統治者であり、唯一、神と同等な“生ける神”だった。
とはいえ、人間ではあるので、生まれて老いて死ぬことには変わりなく、また裏切られて殺されたり、廃位させられたりすることもあった。
ざっくり言うと、昔の日本の“天皇”に近いイメージだろうか。
違うのは重要視されるのが、“血統”ではないことだろう。
古代エジプトには30の王朝あり、血筋に関係なく続いている。
そのあたりは王朝が変われば人々は気にしなかったのだろう。
基本的な統治システムは、王を頂点に宗教的な祭儀を行う神官たち、実際の統治を行う宰相と高官、その配下の官僚機構に分かれていた。
成文法はまだないが官僚社会であり、官僚の主な仕事は王国の財政を維持する「徴税」だった。
そのためには、帳簿をつける多くの「書記」が必要で、
それには文字の学習が必要だった。


古王国時代の都市と人口

官僚組織が整い始めたのは第3王朝以降のピラミッド時代だ。
官僚機構が整ったからこうした事業が達成できたのか、

それとも事業を通して官僚機構が整ったのかは両方だろう。
とにかく巨大ピラミッドを造るには国家システムが整っていなければ無理で、穀物の徴税と分配がすみやかに行われるようになった。
古代エジプトは「都市なき文明」と呼ばれるほど、都市人口が少ない古代文明だったと言われている。
古王国時代の人口は資料によれば120万人程度で、そのうちの95%は農村に住んでいた。
農村の人口は平均して450人ほどという。前3000年ごろの古王国時代には、都市と呼べるのは首都となったメンフィスと宗教的な都市アビドスぐらいしかなかった。
人口はメンフィスが2〜3万人、アビドスが2万人ぐらいと推定されている(ただし同時期、人口で対抗できる都市は世界でもウルクとスーサぐらいしかなかった)。
前2300〜前2000年ごろもメンフィスの人口は3万人程度、
その代わり宗教都市ヘリオポリス(カイロ近郊)と
上エジプトの中心テーベ(ルクソール)がそれぞれ人口2万人ずつになっていた。


古王国時代の対外交易
古王国時代の外国は、ナイル上流のヌビア、シナイ半島から先のパレスチナ、そして西の砂漠の向こうのリビアだった。
ヌビアからは金や水晶などの鉱物資源、象牙、香料、傭兵がもたらされていて、たまに遠征も行った。
パレスチナヘ向かう途中のシナイ半島には銅鉱山があり、またエジプトにはないレバノン杉や香木、オリーブやワインなどがもたらされ、さらに先の西アジアの国々との交易も行っていた。
もっとも遠くのものは、アフガニスタン産のラピスラズリが出土している。
ただし対外交易はほぼ王家によって行われ、一般の人々が交易をし、商人が生まれるのはエジプトではもっと後の時代になってからだ。(続く)


by mahaera | 2018-11-27 10:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その8)

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(写真)シーワオアシス。手前の丘上にある廃墟がかつての町。日干しレンガの壁は泥に還りつつある

狩猟から牧畜へ
前3000年ごろ、エジプトが王朝時代に入った頃はまだ人々の生活で狩猟は大きな非常を占めていたが、次第に乾燥化が進み、ナイル川領域にすんでいたゾウやライオン、カバなどの大型野生動物はその数を次第に減らしていった。
他にもアンテロープ、オリックス、カゼル、ウサギが狩猟の対象だった。
また、ナイル川沿いの湿地には多くの野鳥が訪れていたので、野鳥を捕らえてよく食べていたようだ。

漁労は古代を通じて盛んで、
狩猟よりも簡単に動物性タンパク源得ることができた。
骨角器でモリや釣り針を作り、
パピルスの舟に乗って漁網を使っての漁労が行われた。
収穫された魚は、ナイルパーチ、ティラピア、ナマズ、ウナギなどだ。

狩猟の代わりに牧畜はこの時代に広まった。
ウシは畑仕事に欠かせない家畜だったが、農民個人が所要するのは高価で難しかったかもしれない。
また、食用として一般人が牛肉を食べるのは稀だったろうが、その骨や皮や角などが工芸品に、
糞が肥料や燃料として使われた。
ヒツジやヤギは飼育しやすく繁殖も早いので、広く飼われた家畜だった。
肉やミルク以外にも、皮や毛が衣服の材料に使われた。
そのほかにもブタ、アヒル、ガチョウ、ニワトリ、ハトが肉用に飼育された。


住居と衣服
人々の住居は基本的には日干しレンガで造られ、壁には漆喰が塗られていた。
貴族や王族の住居の壁はさらに彩色されていたようだ。
門の枠や天井の梁など一部は木材も使われていたが、石材が使われるのは宗教的建造物や、建物の消耗する部分(敷居や軸受け)ぐらいだった。
王族や貴族の家には木製の家具があったようだ。

人々はこのころどんな服を着ていたのだろうか。
古代エジプト人がもっとも着ていたのは「亜麻」から織られた衣服だった。
まず、亜麻から作った繊維をより合わせて糸を作る。
繊維の太さは、亜麻の収穫時期をずらして調節していたようだ(早いほど細い繊維になる)。
前3000年頃の初期王朝時代には機織り機による平織りも行われていた。
他にも、さまざまな動物の皮を使った獣皮も服の材料として使われていた。

衣服のスタイルは、紀元前の約3000年間、古代エジプトではほとんど変わらなかった。
男は亜麻などの腰布を巻いて上半身は裸。
女性は長い筒状の布で胸元から膝下まで覆っていたが、農民など一般庶民の女性は腰巻だけという者も少なくなかったようだ。
王族や貴族は装飾的な服や装身具もつけていた。
腕輪や指輪、首飾り、ヘアバンドなどをつけ、アイシャドウなどのメイクも欠かさなかった。(続く)


by mahaera | 2018-11-24 10:18 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その7)

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古代エジプトの農民の生活

ここで古代エジプトの人々の生活を見てみたい。
2500年にわたる古代エジプトだが、その生活スタイルはその間、驚くほど変化していなかったようだ。
古代エジプト人の大半は農民だが、
漁業や職人と兼業するものもいた。
ナイルの増水期の7〜10月の間、人々は農作業を休むがその間、暇ではなかった。
ピラミッドに代表される大規模な公共事業もあったが、
たいていは地元の運河や堤防の補強やダム造り
農地を広げるための灌漑作業が共同作業で行われた。
ナイルの水は集水溝を通って耕地に耕地に運ばれるが、
その前に沈んだ土砂を取り除かねばならなかった。

耕地が完全に冠水してしまう前に、
農民たちは家畜を高地に移動させた。

この頃にはアシの茂みには多くの水鳥や小動物が集まってくるので、男たちはそれを狩ったり、漁業に精を出したりした。
鳥は罠や網、弓、投げ棒で獲っていたようだ。
網や釣り針を作る技術も発達した。
女性や老人は貯蔵用に肉を塩漬けにしたり、魚を干したりするほか、

布を織ったり、網の補修などもしていた。


11月中旬になり水が引いていくと、種まきの季節となる。
農民は耕地に家畜を走らせてその蹄で畑を耕したり、
柔らかくなった土の上を木製の鋤(すき)を2頭の牛に引かせたりした。

これは手早くやらないと、土が乾燥して耕すのに固くなってしまう。
それでも手に負えない時は、木製の鍬(くわ)で、
泥の塊を打ち砕いた。
穀類は、パンを作るための小麦と、ビール(当時はまだ粥状で食事としてとらえられていた)のための大麦がメインだった。
次にはタンパク質の供給源として豆類が栽培された。
レンズマメ、エンドウマメ、ソラマメが栽培されていたことが知られている。
野菜類は、レタスやネギ(リーク)、ニンニクや玉ねぎが、
果実類ではスイカやメロン(果肉ではなく種を食べていた)、イチジク、プラム、ザクロ、ナツメヤシなどが栽培された。
他にもゴマなどから油が取られていたようだ。
ブドウからワインも作られたが、庶民が飲むようなものではなく、王侯貴族の贅沢品だった


収穫は5 月半ばから7月半までの2ヶ月で、農民にとってこの時期がおそらく一番忙しい時期だったことだろう。
収穫時期は南の上エジプトから北の下エジプトとずれるので、一部の者たちは収穫をしながら北上していった。
刈り入れは、木に硬い石で作った刃を取り付けた鎌で行った。穀物は脱穀場へと運ばれ、家畜によって籾が踏み落とされ、空中に放り投げて殻を風の力で飛ばした。
穀物以外にも、この時期は亜麻やブドウが収穫された。
早く収穫しないと、ナイルの増水が始まってしまうので、
時間は限られていた。

収穫が終わると、国から派遣された書記官が収穫状況をチェックし、人々から税を徴収した。
若くて力のあるものは労働者として
運搬に徴用されたかもしれない。

税を国庫に入れるため、
ナイル川を毎日多くの船が行き来した。
村のほとんどはナイル川沿いにあり、
葦や木で作った船が行き来した。
基本的には風は南から北に吹いていたので、下る時は水の流れ任せ、上る時は帆を張って風の力で上流へと向かった。
それを補完するために10人ほどの漕ぎ手が乗船していた。(続く)


by mahaera | 2018-11-22 13:54 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その6)

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(写真)カフラー王のピラミッド。頂上部分に化粧岩が残っている。


ピラミッドは何のために造られた?

ピラミッドが何のために造られたかは、
実はいまだに正解が出ていない。
ヘロトドス(古代ギリシャの歴史家、BC5世紀)の時代から、

王墓だと言われていたが、内部空間はほとんどなく、
ほとんどが石でびっしり埋め尽くされている。
のちに「王の間」「女王の間」と名付けられたわずかな内部空間にも、王の遺体はなかった。三人の王の名が付いているが、

それも本当にそうなのかはあてにはならないのだ。
「ピラミッド」という名もギリシア人が2000年後にそう呼んでいただけであり(ギリシア語)、建てられた当時の本当の名前はわからない。

ピラミッドと並ぶギザの名物、スフィンクスもそうだ。
ヘロトドスはスフィンクスのことについて触れていないが、
当時は砂に埋もれていたのだろう。
「スフィンクス」は、謎かけをして答えられないものを食べてしまうギリシア神話に出てくる怪物だ。
ギリシア神話ではオイディプス王により謎を解かれて死んでしまうが、このギリシア神話のスフィンクスと、古代エジプトのスフィンクスは関係がなく、古代ギリシア人が
似ているからそう呼んだに過ぎない。
時代的には三大ピラミッドよりも少し前の時代に
作られたと言われる。
このスフィンクスは数百年ごとに砂に埋もれたり、
顔を出したりしていた。
新王国時代のトトメス4世が掘り出したり、ローマ皇帝が補修を行ったりしたのち、イスラム時代には忘れられた存在になる。

18世紀にナポレオンがエジプト遠征をした時は、
砂の上に顔だけ出した状態だった。

知らない人もいるだろうが、
ピラミッドの容姿は現在の姿とは異なる。
無骨な石積みの姿で馴染んでいるが、
建設当時はピラミッドの表面は石灰岩の化粧岩で覆われていた

なので、太陽の光を受けて遠くからわかるほど輝いていたと言われる。
当時のエジプトは太陽神信仰だったので、
太陽と関係あるのだろう。
しかしこの石灰岩は白ではなく、赤く塗られていたという説や、

表面に文字や描かれていたという説もある。
いずれにしても、数千年かけてそのほとんどが剥がされ、

カイロの町の建設に転用されてしまっている今では推測するしかない。
ただしカフラー王のピラミッドの上部には、
今も化粧岩が少し残っている。


エジプト古王国の終焉

三大ピラミッドを建設した第5王朝も後期になると政権が弱体化していく。
肥大化した官僚機構を縮小しようとする試みがなされるが、
たいてい失敗し出費が重なる。
前2322年の第6王朝のころになると、
その衰退には拍車がかかっていく。
ピラミッドの規模も小さくなり、技術も衰退していく。
この頃メソポタミアではアッカド王国が初めてシュメールとアッカドを統一し、はるか東方ではインダス文明が全盛期を迎えていた。

前2145年、第6王朝が終了し、第7王朝が始まるが、

この時代は地方分権で権力が乱立する混乱期だった。
エジプトは南北に分かれ、第一中間期に入る。
次に上下エジプトが再統一されるのは、前2040年。
第11王朝のメンチュヘテプ2世の時で、
ここから中王国時代が始まる。
メソポタミアではまもなくウル第三王朝が滅亡し、
東地中海ではクレタ島のミノア文明が栄えていく頃だ。
(続く)


by mahaera | 2018-11-20 11:35 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その5)

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(写真)ギザにあるクフ王のピラミッド。バスや馬から見ると、いかに大きいかわかる


ピラミッド建設黄金時代
前2600年頃に第3王朝から第4王朝へと変り、
ピラミッドは途中で角度が変わるスネフェル王の屈折ピラミッドなどが作られ、いよいよクフ王、カフラー王、メンカウラー王の三代の王によるギザの三大ピラミッドが建設される時代になる(前2550〜前2490年ごろ)。
なかでもクフ王のピラミッドは底辺約230m、高さ約140m(建設当時は146.5m)あり、当時の高い技術水準がわかる。

ギリシアの歴史家ヘロトドスは、
クフ王はこのピラミッドの建設のために強制労働を国民に強いて、奴隷を酷使したと述べており、
そうしたイメージが今にいたるまでついてしまっているが、
近年の研究ではそうではなく、「失業者対策」の意味も兼ねていたという説が有力になっている。

石材はアスワンで大きく切り出され船で運ばれ
ギザに近いナイル河畔の石切場でブロック
整えられて運ばれる。
ピラミッド建設の主要期間は、増水となる農閑期の4か月だ。
この時期はナイルも水量を増しているから、
川の流れも早かったろう。
建設現場近くには労働者村が築かれ、
そこで労働者は家族たちと暮らしていた。
食料はファラオの食料庫から提供されており、パンやビール、精がつくようにニンニクとタマネギが配られたという。
食うにも困る人々は、
ここで働けば少なくとも食は補償されたわけだ。
また、徴用されたとしても、当時のエジプトの人口からすると数年から10年に1度、それも4か月ぐらいの働きなので、古代中国の兵役に比べればさほど負担ではなかったろう。
しかもクフ王のピラミッドは建設に30年もかかった
というから、早く完成することが
そもそも目的でなかったのかもしれない。
ピラミッド建設のようなこうした大規模な公共事業は、
それ以外の効果ももたらした。

エジプト各地から人を集めるのには、各地域の正確な人口を知らなければならないから、人口調査が行われたことだろう。
また、様々な地方から来る人々の間に共通言語が生まれたり、同じ神を信じることから
エジプト人意識も進んだりしたことだろう。
大規模な土木工事には官僚制の整備も必要であり、またファラオにならない王族に役職を与えるのにも好都合だった。

(続く)


by mahaera | 2018-11-15 17:02 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)

子供に教える世界史[古代編]古代オリエント文明(前3500〜前2300年ごろ)2・エジプト古王国時代(その2)

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(写真)上エジプトの最南端となる第一急湍があるアスワン。そこにあるオールドカタラクトホテル。


古代エジプト文明以前
エジプトの農耕は前6000年頃には始まり、
穀物栽培や家畜の飼育が行われていた。
それらは多分、西アジアから伝わったと言われているが、
サハラ東部から始まった農耕の影響も捨てきれない。
下エジプトでは麦の栽培が盛んになり、

ヒツジ、ヤギ、ブタ、ウシなどの家畜が飼われ始めた。
また、この頃にはまだサハラの乾燥化は進んでおらず、
まだ湿潤だったことから、

狩猟や漁労による食料も大きな比重を占めていた。
この頃の遺跡は、ナイル川から離れた場所にあるものが多いということが、川沿いは農耕ができない湿地だったのだろう。
時代的には、旧石器時代から新石器時代への移行期だ。

前5000年から前4000年には、
下エジプトのファイユームで農耕が行われていた。
栽培穀物は大麦・小麦で、衣服のための亜麻も栽培され、

家畜ではヒツジやヤギ以外に、ロバなども飼われるようになった。

ただしこの頃でもナイルの増水にはなすがままだったようで、生活の中心は漁業や狩猟だったようだ。

前4000年から前3000年頃になると、

ようやく古代王朝に先行する文化が上エジプトに生まれてくる。
これが「ナカダ文化」だ。
このころに農耕がナイル川流域に定着したが、

狩猟や漁労も並行して行われていた。
この時期に多くの彩文土器が作られ、遠方との交易も行われるようになり、エジプト原産でないものも発掘されている。
このころになるとサハラの乾燥化が進み、人々がサハラに住めなくなったことも関係しているのかもしれない。
それでもナイル川沿いやデルタ地帯にはまだ、
ゾウやカバ、ライオンなども暮らしていた。

前3500年頃になると、ナイル川沿いには

多くの村落共同体が生まれていた。
やがてそうした村落が統合され、部族国家が生まれていく。
この頃、上エジプトと下エジプトに各20程度、

合計40近くの「ノモス」と呼ばれる小国家が生まれた。
ただし、城壁に囲まれたメソポタミアの都市国家とは異なり、

大きな町らしいものはまだなかったようだ。
陸上交通は限られ、交通は船でナイル川を行き来するのが中心だった。(続く)


by mahaera | 2018-11-05 11:02 | 子供に教える世界史・古代編 | Comments(0)